阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

「きおんほ」と「しはんほ」

2018-11-06 09:44:07 | 日本語

 タイトルの「きおんほ」としたのは祇園坊、広島地方由来の渋柿の品種で、うちの庭にも一本植えてある。干し柿にして一週間、中心の渋がちょっと残ったぐらいのレアな状態で食するのが我が家の秋のごちそうだったけれど、温暖化で干し柿は年々難しくなり、最近は熟柿(ずくし)で食べることが多くなった。地元自慢を三つと言われたら私は、阿武山、祇園坊、広島菜、だろうか。安佐南区祇園の安神社が発祥の地と言われていて由来の説明板があったけれど、柿の木は平成になって植えられたものでまだ若い木だった。

 この説明にあるように、安芸国郡志には祇園坊とあるのに、江戸後期の芸藩通志には沼田郡の名産は正傳坊柿と名前が変わっていて、また今は祇園坊と呼ばれている。

 広島には魚の祇園坊もいたようで、小鷹狩元凱著「自慢白島年中行事」には、

「亦これ寸にも足らぬ小さき魚の、姿の沙魚(はぜ)に似たるもの、黒山なして泝る、方言之を祇園坊といふ、祇園祭りの気節の故なるか、」

とある。白島あたりの川を夏に遡上する小魚、私は魚に詳しくなくてこれが何なのかわからない。

話を祇園坊柿に戻そう。子規の歌に祇園坊が出てくるものがある。


 鄙にてはぎをんぼといふ都にて蜂屋ともいふ柿の王はこれ 



 あぢはひを何にたとへん形さへ濃き紅の玉の如き柿


蜂屋と祇園坊は別の品種だ。おそらく子規は地元の伊予で祇園坊を、東京で蜂屋を食べたのだろう。するとこの二首は蜂屋ということになる。子規の柿好きは相当なもので、


  世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る


ということは、法隆寺の句も、上品に楊枝で柿をカリッといただいていたのではなく、好物の柿をむしゃむしゃ一心不乱に食っていたらゴーンと鐘が鳴ってはっと我に帰ってやれやれ柿に夢中になってるうちに日が暮れてしまったわ、と解釈できないだろうか。話がそれた。柿好きの子規をもってしても蜂屋と祇園坊は同じ柿に見えた、ということは祇園坊は東京までは送られていなかったということだろうか。

さて、このあたりで後半の「しはんほ」に移ろう。前回「はんなり」でも引用した狂歌栗下草という狂歌集の中に、柿の歌があって、祇園坊のせいでちょっとつまずいてしまった。

 

     落葉                      華産

 はらりはらりまきちらしけりしはんほの柿の葉もまたわうようにつれ

 

「しはんほ」は「ぎおんぼ」のように柿の種類かなあと。しかし、調べてもそのような品種は出てこない。「わうよう」は黄葉だろうか、「しはんほ」に関係するような別の意味はないだろうか、思案しても進まず、しばらく停滞してしまった。そのうちに、貞柳の歌にこの両方が出ているのを見つけた。

 

     分限なる人のもとよりきおんほうをもらひて

 有あまる黄なる物をはくれすしてきおんほう社しはんほうなれ

 

私に言わせれば熟した祇園坊は「黄なる物」より値打ちがあると思うがそれは置いておいて、「祇園坊こそしはんほうなれ」とはいかなる意味か。やはり、しはんほうは柿の品種ではないようだ。しはん坊で検索すると、上方いろはの「しはん坊の柿のさね」が出てきた。これを知らなかったのが敗因だった。しはん坊は「吝ん坊(しわんぼう)」、けちん坊のことだった。けちん坊は柿の種も捨てずにとっておく、という意味だという。「い」と書いて「しわい」と読む、これを知っていればわかったかもしれない。わかってみると増々「祇園坊こそ吝ん坊なれ」は面白くないがこれは貞柳一流の読みっぷりだから仕方がない。大阪には祇園坊柿があったことの証拠であると共に貞柳の時代の大阪では芸藩通志の正傳坊ではなく祇園坊だったことがわかる。すると華産の歌は、けちん坊の家の柿の木も葉をまき散らしている、という意味なのだろうか。

これでかなりすっきりしたけれど、一つ気になることがある。柿の品種は千とも書いてあった。そしたら柿とセットになった歌も複数あるのだから、「吝ん坊」とつけた品種はないと言い切れるだろうか。そういう品種が上方に存在していたら、歌の意味も少し変わってくる。いやでも、そんな名前じゃ売れないか。間違いの上塗りにならないように、この辺でやめておこう。

 

【追記1】「狂歌かゝみやま」に蜂屋の歌があった。詞書には蜂谷柿とあり、作者は木端。


 味ひは蜜のやうなるはちや柿さし下されて痛みこそいれ


、蜂、刺し、痛み、という縁語になっている。木端の時代には上方に蜂屋柿があったことがわかる。


【追記2】明治36年「百物叢談」に、

「是れを釣柿(つるしがき)といふ特に美濃の蜂屋柿を上品とす芸州のぎをん坊是れに次ぐ西條柿も甚だ佳なり」

とあり、この頃には東京でも蜂屋と祇園坊は区別されていたようだ。


【追記3】 手柄岡持「我おもしろ」(寛政元年自序)に、西条柿と思われる歌がある。


    八十年以前の一枚絵を見せられけるに今の絵
    にくらふれはそのたかひたとふるにものなし

  八十とせをへたなる絵師の渋ぬけて今さいしやうのころかきにけり


へた、渋、西条、ころ柿と縁語が入っている。広島でよく食べられている西条柿と同じものかどうか、これだけではわからない。


【追記4】 寛文三年「芸備国郡志」にある西條柿と祇園坊の記述を引用しておこう。

「西條柿 賀茂郡に在り。秋初に之を取りて、皮を剥ぎ陰乾して白柿と為す。冬の初に到りて外皮霜浮、内肉味熟すときは、則ち佳菓の第一味と為す。大和の生柿、美濃の熟柿の及ぶ所に非ざるなり。」

「祇園坊が柿 佐東郡祇園の社僧柿枝を接ぎて以て繁栄に至る。其の実の大きさ恰も小瓜子の如し。其の味苦渋にして生にて用ゆべからず。秋初之を採り、其の皮を剥取り、糸を以て蔕を繋ぎ、高く屋櫓の内に懸け、陰乾す。其の熟するに及びて之を食ときは即ち蔗糖・蜂蜜と雖も及ぶ所に非ず。近世柿の名を称せず。直ちに呼びて祇園坊と曰う。其の柿形、社僧の円頂と偶合す。是に知りぬ其の名の妄誕ならざることを。聊か胡慮を発するに堪えたり。」

御所柿や蜂屋柿より西條柿が上だと持ち上げている。祇園坊の名前の由来については、坊さんの頭の形を持ち出さなくても祇園社発祥だけで良さそうな気もするのだが。


【追記5】 「狂歌軒の松」に気になる類歌があった。


      七夕供果   泉 加楽

  年ことに一夜をちきる七夕へしはん坊なる柿を手向ん


これはひょっとするとしはん坊という品種、いや単なる洒落だろうか。



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