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7-7-3 ライプチヒ論争

2023-10-05 08:46:00 | 世界史
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
7 マルティン・ルターの場合
3 ライプチヒ論争

 一五一九年皇帝マクシミリアンが死んだ。
 ザクセン公が臨時代理となり、皇帝立候補を辞退したので、皇帝の地位は、マクシミリアンの子でスペイン王になっていたカルロス一世と、フランス王フランソワ一世のあいたで争われた。
 アウクスブルクのフッガー家がカルロス一世のために莫大な買収費を用立て、皇帝カール五世が実現した。
 新皇帝カール五世はフッガーに返金するため、スペイン人に重税をかけた。
 スペインでは貴族から職人にいたるまで、大いに不満であった。
 不満は一五二〇年の反乱(コムネーロスの乱)となって爆発し、新皇帝はスペインを離れることができなかった。
 マジェランが世界周航の許可をとったのは、このときのことである。
 反乱を武力と買収で、どうにか押えつけたカール五世は、一五ニー年はじめようやくドイツに赴任する。
 ふしぎなことにカール五世の当選にも、九十五ヵ条が影響しているらしい。反ローマ的心情がドイツにみなぎり、ローマ教皇が希望するフランソワ一世でなく、マクシミリアンの子に帝位を……という気持ちが働いたという。
 じつはカール五世はドイツ語がわからないベルギー育ちのスペイン人で、ドイツの皇帝というより、「日の沈まない」大帝国の皇帝でありたいと願っている人物であった。
 彼が「貴族にはスペイン語で、男にはフランス語で、女にはイタリア語で、馬にはドイツ語で話す」といった南欧的人間であることを、あらかじめドイツ人が聞いていたとしたら、フッガーの金がいくらばらまかれても、そう簡単にはカール五世も実現しなかったかもしれない。
 まだカール五世がスペインにいた一五二〇年の七月、ルターの警戒していた本格的な討論があった。
 これが「ライプチヒ論争」である。
 論争の相手は、インゴルスタット大学のヨハン・エックという教授であった。七月四日から十四日までの毎日の論争であった。
 双方とも農民の子であり、苦学力行の末、現在の地位を得た立身出世型で、実力十分である。
 聖書をはじめとして重要な宗教書を、ほとんど暗記している。
 それぞれが自分に都合のよい個所を引用して議論したら、闘志と体力だけの争いだが、その点ではヨハン・エックのほうが強そうだった。
 エックはルターに、「ローマ教皇が誤っている」といわせるように議論を誘導した。
 おそらくは疲労のために、ルターは「ボヘミアのフス派の考えにも正しいところがある」と発言した。
 エックは勝ったと思い、ルターは覚悟をきめて、新しい勇気をふるいおこした。
 この論争は、ルターの「九十五ヵ条」の問題の正式の取り扱いが放棄されていたあいだの出来事で、純粋な宗教論争の形と内容を保っていたが、ドイツ人のルターに対する人気を、飛躍的に高めたものである。
 ライプチヒ大学は、フス派に追い出されたプラハ大学の教授たちがつくった大学で、エックがルターをフス派弁護に誘いこんだ腕まえは見事なものであった。
 しかしエックも、ライプチヒ大学も、ドイツでは孤立するという逆の結果が出てしまったのである。
 この論争から生じた新しい勇気によってルターは、はっきりと、ローマ教会への反逆を決意し、ドイツ教会の建設に一身を賭けた。
 翌年春カール五世がドイツにきたとき、ルターの心の準備はほとんどできていたといってよい。


スペイン王から新ドイツ皇帝になったカール五世


「ライプチヒ論争」でルターの論争相手となった
ヨハン・エック教授

 それをいちばん具体的に示すのは、ライプチヒ以後突然といってよいほど旺盛になった、ルターのいわばパンフレット活動である。
 『ドイツ国民中の貴族に与うる書』(一二五〇)は、なかでも数千部を売った明快なもので、
 「教皇や僧侶が神に近く、諸侯や手工業者や農民がそうではないというのはかってな解釈だ。
 すべてのキリスト教徒は神に近い。ちがうのは職務だけだ。」
 「ローマの無学な教皇だけが、聖書の教師でありうる、ということは、悪魔的な誤りだ。」
 「なぜわれわれドイツ人は、教皇からこんなに多くの税を奪われなくてはならないのか。
 フランス王国が防ぎえたことを、なぜドイツ人ができないでこんなにバカにされるのか。」
 「ドイツの領地をローマにやってはいけない。」
 「ドイツの教会をつくれ。」
 「ローマ巡礼は浪費だ。」
 「修道院を廃止せよ。」
 「僧侶は結婚してよい。」
 「日曜日以外の祭日を廃止せよ。」
 「乞食坊主よりも働く貧民の世話をせよ。」

 といった内容をふくみ、言葉は激しいが、慎重にドイツの貴族たちの自尊心と愛国心に訴え、ドイツ教会に対する援助をえようとしたものであった。



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