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8-15-1 イスラムとインド

2024-02-29 18:24:22 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
15 イスラムとインド
1 インドの征服者

 一九四七年八月のなかば、インドとパキスタンの両国が独立した。
 その結果、インド連邦をつくったのはヒンズー教徒で、インドのイスラム教徒は、ほとんどすべてパキスタンにいってしまったというふうに思っている人が多い。
 しかし、多年にわたるイギリス支配をぬけ出た二つの国家が、二つのことなった宗教のゆえに分裂して独立したとみるのは、かならずしも正しい見かたとはいえないのである。
 人口統計をみても、インドとパキスタンの両国ともに、十人に一人をやや上回まわるほどの割合で、それぞれイスラム教徒とヒンズー教徒たる国民がいる。
 インド連邦におけるイスラム教徒の数をみても、いまの日本の総人口のほぼ半分に近い、約五千万ちかい人たちが住んでいるのである。(一九七二年、パキスタンからバングラデシュ分立)
 インド半島の全域でみるとどうだろうか。大ざっぱにいうと、ほぼ四人に一人の割合で、イスラム教徒がいることになる。インドといえば、すぐ仏教とヒンズー教徒のことを思う。
 もともと西アジアにおこったイスラム教が、いったいどのようにして、この南アジアの地に入りこみ、民衆のあいたに根をおろすようになっていったのであろうか。
 それには、いろいろな歴史的な背景を考えてみなくてはならない。
 教科書には、まず八世紀のはじめに、イスラム教徒たるアラブ人の勢力が、インダス下流のデルタ地帯に侵入したことが記されている。
 この「インド征服」として知られたできごとは、ウマイヤ朝治下のイラク太守がおくった軍隊によるものであった。
 しかし、この征服もインドの他の地域には、ほとんど影響をおよぼさなかった。
 教科書は、その後のイスラム教徒によるインド征服の歴史を述べるにあたって、ガズニー朝のマフムードや、ゴール朝のムハンマッドという二人の武将の、たびかさなるインド侵入にふれ、そのあげく十三世紀のはじめに、デリーを首都として奴隷王朝が成立したと記している。
 このように、イスラム教徒たるトルコ人の勢力によって、北インドの支配が成立し、その後のインドは、権力のおもむくところ、イスラム化の道をたどらざるを得なかった、といっているかのようである。
 なるほど、そういうことも、ある程度はあたっている。
 しかし、うっかり読んでいると、私たちは、大切な点を見うしなってしまう。
 「片手に剣、片手にコーラン」、あるいは「イスラムか、しからずんば死か」とまでいわれたイスラム教徒の軍隊も、インドにおいては例外的な場合をのぞくと、このきまり文句から想像されるような、野蛮で強引な態度は、ほとんどとらなかったのである。
 ヨーロッパ中世の十字軍の狂熱ぶり、またティムールや後代のオスマン・トルコの勢力に圧倒されたヨーロッパ人が、相手のイスラム教徒の、「野蛮」で「非文化的な」「残虐」ぶりを、必要以上に強調せざるをえなかったという事情が、インドにおけるイスラムの侵入の歴史をも、ずいぷんとゆがめてしまっている。
 なるほど、ガズニーのマフムードのインド侵入は、インドの富を伝え聞いたトルコ人が、戦利品めあてに侵略をおこなったものにちがいない。
 だから、かれらは、インドへはいってきても、繁栄した町をねらいうちしている。
 おもてむきは、異教徒征討の「ジハード」(聖戦)をとなえながらも、じっさいは、金目のものや、貴金属を奪いとり、そのうえ奴隷として高く売れるような屈強な若者や、美少女たちを連れ去ったのである。
 西インドのソムナートというヒンズー寺院は、マフムードの侵入軍によって掠奪をうけた。
 これはインド人ならば、だれでも知っている有名なできごとである。
 こうした偶像破壊の「聖戦」の目的も、じつは金銀宝玉をちりばめた多くの神像や、宝物にあったことは、疑いをいれない。
 それは価格にすれば、二万ディナールにものぼったという。
 しかしゴール朝の征服となると、やや違ってくる。
 かれらのインド征服軍は、ヒンズー王の勢力を倒しても、そのあとでまた、もとの支配者やその一族に統治の実権をまかしている。
 デリーを首都として、最初のスルタン制を確立した「奴隷王朝」(一二〇六~九〇)の王たちの場合には、こうした姿勢が、いっそうはっきりとしてくる。
 かれらにとっては、インドの農民からとりたてる地税が、けっきょくは権力をささえる最大の経済的な基盤であった。
 だから、それまで支配者として、インドの農民のうえに君臨していたヒンズーの王たちをそのままにしておき、その行政制度をもフルに利用した。
 そうすることが、じぶんたち少数の、外国人たる征服者にとって便利で、しかも現実的なやりかただったからである。
 「憎むべき、いやしむべき偶像崇拝」の邪教たるヒンズー教の精神的指導者とけなしていた、あのバラモンたちに対しても、イスラム教徒のスルタンや貴族たちは、決してあらあらしい手だてはとらなかったのである。
 そればかりか、ヒンズー寺院やバラモンたちに対して、いろいろな税を免除するという特権をさえあたえている。
 いってみれば、北インドを侵入し、支配したトルコ人やアフガン人の征服者たちは、きわめて低姿勢であった。
 だから、剣をふりかざしての強制的改宗とか、改宗しなければ死か奴隷に、といったようなことは、実際にはおこなわれなかった。
 十三世紀から十六世紀にいたる「デリー諸王朝」の歴代の王たちの大部分は、ヒンズー教徒に対して、きわめて寛容な政策をとったのである。



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