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『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
13 清朝の権力と富の行方
5 王宮の襲撃
白蓮の動乱は、十年にしてようやく鎮定をみた。
しかし嘉慶帝の親政による弊政の克服は、もはや至難の業(わざ)であった。
克服とはいえ、官僚国家の体制が持続されるかぎり、抜本的ではありえたかった。
「和珅が弾劾されて、嘉慶は満腹する」との巷間の言は、これを裏書きする。
中間地帯から西辺にかけての教乱とはいえ、治政の間隙におこった白蓮の動乱は、中国本土における動乱である。
その鎮定に十手を要したことは、社会に不安と動揺をたかめた。
くわえて弊政の克服も、短い年月では不可能に近い。
動乱の気運は各地におこり、また爆発した。
五省にわたった白蓮教軍の動乱は、平定された。
しかし、それはあくまでも起乱に参加した者の武力反抗が、ひとまず終結しただけのことである。
白蓮教と総称される宗教的諸結社が消滅したことを意味するものではない。
迷信や習俗の根絶は不可能に近かった。
科学の発達した現代の人間社会においてすら、無数に存在する事実を考えれば、容易に理解できるであろう。
白蓮の動乱が終結したのちも、中間地帯から華北にかけて宗教結社の浸透はやまなかった。
結社の名は多様でも、その根底に流れるものは大同小異である。
やがて、そのなかから八卦(はっけ)教とよばれる結社が、各地で教勢をひろげはじめた。
その名は栄華会とか、天理会とかいろいろに呼ばれるが、その関係はかならずしも明確ではない。
ただ当時のつねとして、白蓮の一派と記されるにすぎない。
いわば白蓮教は、弥勒下生を多様にあらわした民間信仰の一つの総称のようなものであり、民衆道教とでもいえるような民間の宗教である。
劉之協が混元教を三陽教と改名したといわれるのに対し、天理会も本名は三陽教で、青・紅・白の三色にわかれ、別名を竜華会、また八卦にわけたので八卦教、のちには改名して天理会といったなどと記すのは、この間の事情をしめす。
また弥勒仏には青羊・紅羊・白羊の三教あり、いまは白羊のときなどというのも、この当時の宗教結社の多様性を反映しているようである。
要するに、白蓮教の名で総称しているが、実際の動きにあらわれる結社の名には、白蓮教・白蓮会の名はあらわれないのである。
八卦教には、『三仏応劫(ごう)書』二巻があって、天地人の三つを三盤となしたと伝える。
この三盤に対置された者に、北京近郊の南に位置する大興県黄村の林清、河南省滑県の馮克善、おなじく李文成の三人があり、それぞれ天皇・地皇・人皇とされ、それぞれ八卦のなかでは坎卦(かんけ)・離卦(りけ)・震卦(しんけ)教の首とされたという。
また震卦は、七卦の首とされたと伝える。
また三盤に対置された三皇は、直隷を林清、河南を李文成、山東を馮克善とし、それぞれを地皇・天皇・人皇に配し、その起事にあたっては、三省六十四地方がいっせいにあたるなどという記載もあり、書によって相違がみられるし、三皇の一人たる馮羂克善については、ほとんど明らかでない。
起事の経過からみれば、河南の李文成と直隷の林清か主体であり、林清は李文成に利用された面がある。
林清は、はじめ店員や書吏をしていたが、罪をえ、やがて八卦教に入会し、坎卦(かんけ)の主の郭朝俊に人望がないところから、郭にかわって主になったという。
かれは「真空家郷無生父母」の八宗を入教者にとなえさせ、また種福銭とか根基銭とよばれる金銭をおさめさせた。
そして事が成就した暁(あかつき)には、十倍にしてかえすなどといって入教者をまし、他方では貧者に貸しあたえる策をもちい、教勢の拡張と巨額の財をあつめるのに成功していた。
河南の李文成は、はじめ雇い大工をしていたが、人から李四木匠などと呼ばれるのを恥じて大工をやめ、塾で読み書きを習って、天文暦数を身につけ、八卦教のなかの震卦教にはいったといわれる。
入教後のかれは、天文占星の知識をもって一頭角をあらわし、ついに七卦の首になったという。
林清と李文成の会盟は、李文成の軍師ともなった牛亮臣を通じて実現した。かれは滑県の書吏出身である。
提携なった両者は、起事を準備した。たまたま嘉慶十六年(一八一一)秋に彗星(すいせい)が西北方にあらわれた。
このため天文台長は、十八年八月におく予定であった閏月を、十九年春二月にあらためるよう上奏した。
彗星の出現を不吉とみなす迷信をうかがえよう。
「われらの教えには、『八月中秋に黄花地に落ちる』ということがある。
まさに皇帝没落の機といえよう。
起事は、酉(とり)の年、戌(いぬ)の月、寅(とら)の日、午(うま)の時をえらぼう。」
こうして起事の日時は、嘉慶十八年九月十五日の正午ときめられた。
林清は、京師を襲い、李文成はそのとき、三千の援兵をおくることを約した。
文成の部下のなかには、林清をうたがう者がすくなくない。
かれらは援軍に反対したが、文成は、林清を利用する手段としたようである。
起事の計画は、事前にもれた。九月五日、李文成と牛亮臣は、滑県の知県にとらわれた。
河南での予定はかわり、七日、教徒は滑県城を急襲して、占領し、李文成を救出して、城中に師府を開設した。
文成は「大明天順李真主」としるす旗幟(きし)をかかげた。
明末の李自成になぞらえたものである。
河南の起事は四ヵ月にして鎮定されたが、平定には郷勇の活躍がめざましかった。
林清は河南の変事を知らず、予定にしたかって起事した。
その計画はすでに探知されていながら、放置されていたのである。
しかも嘉慶帝は、熱河の承徳に、恒例の避暑におもむいていた。
北京城に潜入した二百人の教徒の一部は、宦官の手引きで王宮に乱入した。
林清は城外で河南の援軍を待った。もとより援軍のくるはずはない。
王宮に乱入した教徒は、ただちにおさえられ、林清もとらわれて、北京の起事は二日にして終結した。
王宮への乱入は、明末三案の一つを思いおこさせる。
ただ明末のそれは、内廷の紛争にからまるものであったのに対し、嘉慶のそれは、民間結社の乱入である。
しかも導きいれたものは、内廷の宦官である。
そのあたえる影響を過小評価することはできないといえよう。
はたして「民反」は、あいついで激しさをましていった。
大清の行方(ゆくえ)をきめるように。
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