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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
9 隋朝の二代
2 隋の文帝
北周は建徳六年(五七七)、北斉をほろぼした。
このとき楊堅は、水軍三万の将として、たたかいにのぞんでいる。
そののち楊堅は、北周の外戚(皇后の父)として、ちゃくちゃく政治の実権をにぎってゆく。
つぎつぎに政敵をたおし、皇族をころし、ついに北周の天下を乗っとった。
かくて、みずから帝位につき、年号を開皇とさだめて、隋朝をひらく(五八一)。
あたらしい王朝の首都は、前代にひきつづいて長安におかれ、名を大興城とあらためた。
楊堅は、ふつう隋の文帝とよばれる。
開皇八年(五八八)、文帝は次子の晋王広(のちの煬帝)に五十二万の兵をひきいさせて、南朝の陳(ちん)の平定にのりだした。
首都の建康(南京)が陥落したのは、その翌年(五八九)であった。
陳の最後の皇帝は後主(こうしゅ)とよばれ、亡国の君主の典型として、その遊楽ぶりが伝えられている。
「玉樹後庭花」という後主の詩は、後世まで遊女屋で唱(うた)いつがれ、それは唐末の杜牧(とぼく、八〇三~五三)の詩にもうたわれた。
商女不知亡国恨
隔江猶唱後庭花 商女(しょうじょ)は知らず亡国の恨(うら)み
江を隔(へだ)ててなお後庭花(こうていか)を唱う
後主は、舟で助けだそうといった臣下のことばを信じ、待っていた。
その臣下は、さきに隋に降伏してしまったのである。
隋軍がせまるや、井戸のなかにかくれた。
ところが夜になって見つけられ、隋の都につれてゆかれる。
のち後主は十五年も生きながらえ、その第六女は膏王広、すなわち煬帝(ようだい)の妃となった。
文帝は、性格に疑いぶかい欠点はあったが、生活は質素で、朝、政務をききはじめると、昼がすぎてもあくことをわすれるという勤勉ぶりであった。
ながいあいだ分裂していた中国に、平和をとりもどそうと努力し、民間で武器をもつことを禁止した。
また人民ひとりひとりの首実験をして、戸口(ここう)の点検をおこない、正確に申告しないものは、戸主を遠方に流刑した。
これは人民が国家の労役をまぬがれることをふせいだのである。
さらに文帝は、法令を整備した。のち唐代に完成した律令(りつりょう)制の骨格は、文帝のときにできあがっていたものと考えられる。
官制の面でも、北周の周礼(しゅらい)にもとづいた制度はとりいれず、漢代以来の伝統的な官制を模範にした。
官吏の任用法も、家柄による採用(九品官人法=きゅうひんかんじんほう)をやめ、実力試験による科挙(かきょ)の制度の基礎をひらいた。
隋末に各地でおこった反乱軍は、二代皇帝たる煬帝の政治に反抗してたちあがったものであった。
その目標は隋をほろぼすのではなく、隋の文帝の政治に復旧することを旗じるしとしてかかげたものが相当にあった。
隋の文帝の政治に見るべきものがあった証左といえよう。
9 隋朝の二代
2 隋の文帝
北周は建徳六年(五七七)、北斉をほろぼした。
このとき楊堅は、水軍三万の将として、たたかいにのぞんでいる。
そののち楊堅は、北周の外戚(皇后の父)として、ちゃくちゃく政治の実権をにぎってゆく。
つぎつぎに政敵をたおし、皇族をころし、ついに北周の天下を乗っとった。
かくて、みずから帝位につき、年号を開皇とさだめて、隋朝をひらく(五八一)。
あたらしい王朝の首都は、前代にひきつづいて長安におかれ、名を大興城とあらためた。
楊堅は、ふつう隋の文帝とよばれる。
開皇八年(五八八)、文帝は次子の晋王広(のちの煬帝)に五十二万の兵をひきいさせて、南朝の陳(ちん)の平定にのりだした。
首都の建康(南京)が陥落したのは、その翌年(五八九)であった。
陳の最後の皇帝は後主(こうしゅ)とよばれ、亡国の君主の典型として、その遊楽ぶりが伝えられている。
「玉樹後庭花」という後主の詩は、後世まで遊女屋で唱(うた)いつがれ、それは唐末の杜牧(とぼく、八〇三~五三)の詩にもうたわれた。
商女不知亡国恨
隔江猶唱後庭花 商女(しょうじょ)は知らず亡国の恨(うら)み
江を隔(へだ)ててなお後庭花(こうていか)を唱う
後主は、舟で助けだそうといった臣下のことばを信じ、待っていた。
その臣下は、さきに隋に降伏してしまったのである。
隋軍がせまるや、井戸のなかにかくれた。
ところが夜になって見つけられ、隋の都につれてゆかれる。
のち後主は十五年も生きながらえ、その第六女は膏王広、すなわち煬帝(ようだい)の妃となった。
文帝は、性格に疑いぶかい欠点はあったが、生活は質素で、朝、政務をききはじめると、昼がすぎてもあくことをわすれるという勤勉ぶりであった。
ながいあいだ分裂していた中国に、平和をとりもどそうと努力し、民間で武器をもつことを禁止した。
また人民ひとりひとりの首実験をして、戸口(ここう)の点検をおこない、正確に申告しないものは、戸主を遠方に流刑した。
これは人民が国家の労役をまぬがれることをふせいだのである。
さらに文帝は、法令を整備した。のち唐代に完成した律令(りつりょう)制の骨格は、文帝のときにできあがっていたものと考えられる。
官制の面でも、北周の周礼(しゅらい)にもとづいた制度はとりいれず、漢代以来の伝統的な官制を模範にした。
官吏の任用法も、家柄による採用(九品官人法=きゅうひんかんじんほう)をやめ、実力試験による科挙(かきょ)の制度の基礎をひらいた。
隋末に各地でおこった反乱軍は、二代皇帝たる煬帝の政治に反抗してたちあがったものであった。
その目標は隋をほろぼすのではなく、隋の文帝の政治に復旧することを旗じるしとしてかかげたものが相当にあった。
隋の文帝の政治に見るべきものがあった証左といえよう。