『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
2 アンカラの決戦
両雄は、一四〇二年七月の末、アンカラの北部であい戦うことになった。
戦闘はオスマン軍の優勢のうちにはじまったが、数時開ののち、戦況は逆転した。
というのは、イル汗国の軍隊とともに小アジアにきていたモンゴル兵が、オスマン軍の左翼の一部を構成していたが、かれらがチムールの煽動によって寝返ったからである。
モンゴル兵たちは、チムール軍の右翼を包囲していたオスマン軍に、背後からおそいかかった。
腹背に敵をうけたオスマン軍の左翼は逃げあしだった。左翼だけではない。右翼でも同じことがおこった。
オスマン軍にのこされたのは、いまや両翼をもがれて孤立したバヤジット自身のひきいる中央軍だけとなった。
その本営は悲しみにとざされた。
将軍たちはバヤジットに、ひとたび軍を引いて後方でたてなおし、捲土(けんど)重来すべきことを説いた。
しかしスルタンは、これにも耳をかさず、わずかの将士とともに戦いつづけた。
ついに衆寡敵せず、乗馬はたおれ、剣は折れた。
かれが、十重二十重(とえふたえ)にとりまく敵軍の包囲をやぶって退却することに意を決したのは、その夕方ちかくになってからであった。
バヤジッ卜はじめオスマン軍は、宵闇にまぎれて敵陣の突破に成功した。
これを知ったチムールは、ただちに追撃にうつった。
もう日はとっぷりと暮れていた。
その暗闇におおわれたアンカラ平原で、追うものと追われるものとは、三時間にわたって戦いつづけた。
不幸、バヤジットの馬が石につまずいてたおれた。
乗りかえようとしたが、ときすでにおそかった。
勢いに乗じたチムール軍がどっとおしよせ、スルタンは、二子や将士ともども、チムールの本営に拉致(らち)され、捕虜となった。
チムールの小アジア侵入に端を発したイスラム世界両巨頭の決闘は、このアンカラの決戦を幕切れとして終りをつげた。
そして、これはオスマン軍が、その建国以来、十六世紀末までの間にうけた、ただ一つの敗戦であった。
そののちチムールは、八ヵ月にわたって小アジアの主要都市を掠奪したが、その間、バヤジットを格子のついた輿(こし)に乗せてつれまわったという。
また別の説では、鉄の檻(おり)に入れて護送したともいわれる。
しかし輿にせよ、檻にせよ、虜囚というそのことだけで、その護送がバヤジットにとっては、しのびがたい屈辱の日日だったことはたしかである。
そうした精神的な苦痛からであろう、バヤジットは、小アジア中央部のアクシェヒルで病床に臥し、一四〇三年三月、その波瀾にとんだ一生をとじた。
トルコ人学者のなかには、高い矜持(きょうじ)の持ち主たったバヤジットは虜囚の辱しめにたえきれず、かねて指輪の宝石の下にかくし持っていた毒薬で、われとわが命を絶ったのだ、というものもある。
輝かしい勝利の絶頂から、電光一閃(いっせん)、突如として悲惨な軍命につき落とされたバヤジットの一生こそ、まことに皮肉ながら、その異名「稲妻王」にふさわしかったといえるかもしれぬ。
台風一過、チムールはサマルカンドに引き返したが、この戦いは、ただスルタン個人の死をもたらしたにとどまらなかった。
この敗北によって、オスマン国家の発展は一頓挫(とんざ)し、小アジアにはふたたびいくつかの君侯国が割拠するにいたった。
いや、分裂したのは小アジアだけではない。
オスマン国自身もまた、バヤジットの五子のあいだにおこったスルタン位継承の争いのため、おなじく分裂し、およそ十年にわたる空位時代がつづいたのである。