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8-16-6 ハレムの美女

2024-03-16 21:44:44 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
6 ハレムの美女

 繁栄をほこったスレイマン一世治下のオスマン帝国にも、暗い影がさしていた。ハレム政治が、それである。
 ハレムとは、住居のなかで、婦人や子どもたちが住み、男性がはいるのを禁ぜられた区画のことである。
 ハレムは、どのイスラム教徒の家にもあったが、その規模の大きさや装飾のみごとさにおいて、とくに有名なのは、イスタンブールのトプカプ宮殿のハレムである。ハレムというと「後宮(こうきゅう)」(后妃や女官の住む宮殿)、しかもスルタンのものが考えられるのも、決して理由のないことではない。
 トプカプ宮殿にハレムを設けたのは、スレイマン一世である。
 かれのハレムにおける寵姫(ちょうき)は女奴隷から玉の與(こし)にのった、ロシア人ロクソランであった。
 スレイマンが、ハレムを別の宮殿からトプカプ宮殿にうつしたのも、このロクソランの願いによってであった。
 彼女は美貌である上に音楽に堪能(たんのう)で、スルタンの寵愛を一身にあつめ、しだいに政治に口出しするようになっていった。
 スレイマンは英邁(えいまい)な王子を後継者にきめていたが、この王子はロクソランの生んだものではなかった。
 そこでロクソランは、わが腹を痛めた王子セリムをスルタンに擁立しようとし、イェニチェリを買収して、ついに成功した。
 この王子が、のちにハレムの浴室で、女奴隷とたわむれていておぼれ死んだ、大酒飲みのセリム二世(一五六六~七四)である。
 またスレイマンが、その信任していた一大臣を失脚させたのも、農民を塗炭の苦しみにおとしいれた徴税請負制度をはじめたのも、みなロクソランの愛におぼれ、その言葉にしたがったためであった。
 しかし、スレイマンの時代はまだよかった。
 ロクソランが立てたセリム二世からあとのスルタンたちは、宮廷とハレムにとじこもって、みずからは戦闘に参加せず、また国政にも直接あずからなくなった。
 そこで内政にも外交にも、ハレムの影響がますます強く加わる。
 領内の各地に続発する反乱、イェニチェリの横暴、ヨーロッパ列強の干渉とあいまって、帝国の栄光は地はおちはじめた。
 ハレムにはいろいろな種族の寵姫や宮女や女奴隷が暮らし、黒人の宦官(かんがん)がこれをとりしまっていた。
 彼女らの頭にひらめく羽毛の飾り、胸にキラキラ光る宝石、腰に巻いた真珠の帯、肌(はだ)もあらわな薄ものなど、その美しさをいやが上にも引きたてていた。
 十六世紀から十九世紀の前半まで、スルタンたちのもよおす主要な遊宴は、ハレム内の「スルタンの広間」でひらかれた。
 その夜にはランプやロウソクがまばゆいまでに広間をてらし、色とりどりの紙片や布片が、大理石の円柱を飾りたてた。
 このあかるく色彩ゆたかな部屋に、踊りくるう美女のしなやかな肉体、天井にこだまする歌声、サズ(マンドリンのさおを長くしたような弦楽器)の音が、さらにいちだんと華やかさを加えたのである。
 セリム二世につづいて、即位したムラト三世(一五七四~九五)は、愚昧(ぐまい)で遊宴を好み、ハレムで美女にかこまれて、長夜の宴を張るのが常であった。
 ムラトの乱行は、主として宮殿の地階でおこなわれた。
 かれは、そこに大理石で大きい水槽をつくらせて、宮女や女奴隷たちを水浴させ、一糸まとわぬ美女たちの肉体と、ひかる水滴をいちだんと高い玉座からながめて楽しんだという。
 かれの寵姫サフィイエは、これをたびたび諌めたが聞きいれられず、ただ一隅でむせび泣くばかりであった。
 ムラトは、そのほかマルマラ海沿岸のシナン・パシャ離宮でもたびたび遊宴をもよおして、宮女や女奴隷たちの舞踊を楽しんだ。
 かれは一五九五年、病に臥したが、その床にあってもなお、シナン・パシャ離宮での遊宴を命じた。
 その夜、イスタンブール中の名の知れた歌い手や楽師たちが召しだされ、別室で歌い、演奏しはじめた。
 美女たちは舞踊によって、かつて寵愛をうけた病めるスルタンを、すこしでも慰めようとしていた。
 このとき、ムラトの脳裡をかすめたものがあったとすれば、それはハレムでの遊宴、地階でながめた美女たちの裸体、そして寵姫サフィイェの声涙(せいるい)と共にくだる諌言(かんげん)であったかもしれない。
 しかしそれも、いまとなっては槿花(きんか)一朝の夢にすぎなかった。
 病みほうけた耳目には、もはや楽師の奏(かな)でる物憂いサズの音も、歌い手のうたうゆるやかな歌声も、そして美女たちの踊る蛇のような舞踊も、何もかも聞こえず、見えなくなっていた。
 かれは突然「われ病めり。おお、死の天使よ。今宵きたりて、われを連れゆけ」の歌をうたうよう命じた。
 これが、一生を遊宴と乱行とのうちにおくったムラトの最期の言葉であった。
 かれは、この歌声を耳にしつつ、息をひきとったのである。
 スルタンたちは、美女とのたわむれや遊宴にあきると、しばしばハレムを出て侍従長や小人や唖(おし)の奴隷などをひきつれて、あちらこちらの離宮に出かけた。
 食事をとるときには、宮廷づきの楽隊が音楽を奏していた。
 金曜日ごとには、モスクに行って、スルタン専用の座席で祈祷(きとう)にふけった。
 また、ときには戦闘の訓練、弓術の演習のため、投げ槍や木製砲丸の投擲(とうてき)、鉄砲や大砲の発射をさせたり、壺や卵や柱の上にのせた的を射させたりして、勝ったものには黄金の褒美をあたえた。
 これらにもあきると、レスリングや軽業(かるわざ)を見物し、サズの演奏を聞いた。
 また年老いた侍従たちに雪合戦をさせて、はだしで雪のうえを走らせ、ふるえあがるのを見てよろこんだり、唖の奴隷たちを筏(いかだ)に乗せてゆすぶり、かれらが手をふって援(たす)けをこうさまに、笑いころげたりもした。
 さらには、小人たちを水槽で泳がせ、沈めっこをするのを見て楽しむこともあった。






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