浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行
8-3-1 労働は救霊を全うするために極めて肝要である。
それは、労働が罪を避け、善を行わさせるのに、益して大いに力あるものだからである。人は、働いている間は、想像も自由に飛びまわる暇が無いから、良からぬ思い、汚らわしい考えなどが起こってこない。心の門を堅くふさいでいるようなものだから、守護の天使を悲しませるようなつまらぬ、怠けかえった願望の入る隙もありません。悪魔は盗人と同じで、常に眠り込んでいる人を付け狙うので、セッセと働いている人には、容易に近づき得ないのです。
何一つせずに、ブラリブラリと遊んでいるより危険なことはない。昔から、閑人の道徳家、怠け者で品行の正しい人というのがあったためしがない。馬は、始終乗って乗り回さなければいけないもので、すこし遊ばせておくとすぐに暴れ出して仕方がない。
人も同じで、五官だの、想像だのいうものは、絶えず働かしておかないと、必ず暴れ出して終には取り押さえ難くなるものであります。
ダヴィドを見なさい。師を率いて、東を防ぎ、西に戦って居る間は、天主様のみこころにかなう大聖人でありました。でも、敵を征服して、静かに平和を楽しむようになると、たちまち言うも汚らわしい大罪を犯しました。
ソロモンもだ。聖堂建築の為に夜昼頭を悩まして、奔走して居る頃は、才智といい、徳行といい、世界を驚かすほどでありましたが、工事が終わって、労働が無くなると、馬鹿馬鹿しい罪に落ち込んで、国にも身にも取り返しのつかない禍を招くに至ったじゃありませんか。
労働は実に「徳の保護者」だ。邪欲をしずめ、心を紛らわせて悪事を思う余裕を与えない。退屈をさせず、日の長いのに困るという憂いを無くしてくれる。で、誰にしても父母から労働の趣味を覚えさせてもらったならば、百万の宝を譲っていただいたのよりも感謝すべきである。
その反対で、
「遊惰は、あらゆる悪事を人に教える」
ものである。
人には何か趣味がなくてはならぬ。労働に趣味をもたなければ、ぜひとも他に趣味を求めようとする。食べる、飲む、遊ぶ、家から家へとしゃべり回る。遊観見物にうつつを抜かす。心の中は全くお留守になってしまう。あげくの果ては、名あって実がない、異教者も同様な信者になり果てるならまだしも、まかり間違えば、新聞の三面欄をにぎわすような、厄介者になり終わらぬとも限らないのであります。
フローレンスの司教聖アントニノが、ある日町中を歩いていると、ある祖末な家の屋根の上に、天使が立って、それを守護しておいでになるのを見当たりました。不思議に思って中に入ってみると、一人の貧しいやもめが、三人の娘と住んでいるのでしたが、四人とも信心篤く、徳は優れて、しかも熱心に働いているのだけれども、どうも貧乏で貧乏で、外に出るにも靴さえ持たぬ、はだしで歩いているというくらいでありました。
かわいそうと思った司教様は、たんとお金を施してやりました。しばらく経って、またその町を通りましたから、今、そのやもめの家を眺めてみると、先の天使は影も形も見えないで、そのかわりに、悪魔がさも嬉しそうに小躍りしているのです。
あまりのかわりようなので、司教様も余程驚いて、よくよく探ってみると、3人の娘が、お布施をもらったのに安心して、怠けて来た為だとわかりましたから、彼らに自分の見たところを告げて、その不心得を戒め、早く精々と働いて悪魔を追い出すようにせよ、と御勧めなされたという話であります。
「怠け者よ、往きて蟻に学べ」(箴言6:6)
とソロモンは叫んでいる。
蟻は朝から穴を出て、終日餌を探して東に西に奔走します。道が遠かろうと、石塊が横たわっていようと、暑い日が照りつけようと、
少しも屈せず懸命に働きます。労働者の立派な模範じゃありませんか。
とにかく、労働は天主様の命令であり、罪の償いとなり、悪を避け、救霊を全うするためにも極めて肝要であるから、人は世に在る間は皆それぞれに働いて、天国の終わりなき休息を待たなければなりません。
8-3-1 労働は救霊を全うするために極めて肝要である。
それは、労働が罪を避け、善を行わさせるのに、益して大いに力あるものだからである。人は、働いている間は、想像も自由に飛びまわる暇が無いから、良からぬ思い、汚らわしい考えなどが起こってこない。心の門を堅くふさいでいるようなものだから、守護の天使を悲しませるようなつまらぬ、怠けかえった願望の入る隙もありません。悪魔は盗人と同じで、常に眠り込んでいる人を付け狙うので、セッセと働いている人には、容易に近づき得ないのです。
何一つせずに、ブラリブラリと遊んでいるより危険なことはない。昔から、閑人の道徳家、怠け者で品行の正しい人というのがあったためしがない。馬は、始終乗って乗り回さなければいけないもので、すこし遊ばせておくとすぐに暴れ出して仕方がない。
人も同じで、五官だの、想像だのいうものは、絶えず働かしておかないと、必ず暴れ出して終には取り押さえ難くなるものであります。
ダヴィドを見なさい。師を率いて、東を防ぎ、西に戦って居る間は、天主様のみこころにかなう大聖人でありました。でも、敵を征服して、静かに平和を楽しむようになると、たちまち言うも汚らわしい大罪を犯しました。
ソロモンもだ。聖堂建築の為に夜昼頭を悩まして、奔走して居る頃は、才智といい、徳行といい、世界を驚かすほどでありましたが、工事が終わって、労働が無くなると、馬鹿馬鹿しい罪に落ち込んで、国にも身にも取り返しのつかない禍を招くに至ったじゃありませんか。
労働は実に「徳の保護者」だ。邪欲をしずめ、心を紛らわせて悪事を思う余裕を与えない。退屈をさせず、日の長いのに困るという憂いを無くしてくれる。で、誰にしても父母から労働の趣味を覚えさせてもらったならば、百万の宝を譲っていただいたのよりも感謝すべきである。
その反対で、
「遊惰は、あらゆる悪事を人に教える」
ものである。
人には何か趣味がなくてはならぬ。労働に趣味をもたなければ、ぜひとも他に趣味を求めようとする。食べる、飲む、遊ぶ、家から家へとしゃべり回る。遊観見物にうつつを抜かす。心の中は全くお留守になってしまう。あげくの果ては、名あって実がない、異教者も同様な信者になり果てるならまだしも、まかり間違えば、新聞の三面欄をにぎわすような、厄介者になり終わらぬとも限らないのであります。
フローレンスの司教聖アントニノが、ある日町中を歩いていると、ある祖末な家の屋根の上に、天使が立って、それを守護しておいでになるのを見当たりました。不思議に思って中に入ってみると、一人の貧しいやもめが、三人の娘と住んでいるのでしたが、四人とも信心篤く、徳は優れて、しかも熱心に働いているのだけれども、どうも貧乏で貧乏で、外に出るにも靴さえ持たぬ、はだしで歩いているというくらいでありました。
かわいそうと思った司教様は、たんとお金を施してやりました。しばらく経って、またその町を通りましたから、今、そのやもめの家を眺めてみると、先の天使は影も形も見えないで、そのかわりに、悪魔がさも嬉しそうに小躍りしているのです。
あまりのかわりようなので、司教様も余程驚いて、よくよく探ってみると、3人の娘が、お布施をもらったのに安心して、怠けて来た為だとわかりましたから、彼らに自分の見たところを告げて、その不心得を戒め、早く精々と働いて悪魔を追い出すようにせよ、と御勧めなされたという話であります。
「怠け者よ、往きて蟻に学べ」(箴言6:6)
とソロモンは叫んでいる。
蟻は朝から穴を出て、終日餌を探して東に西に奔走します。道が遠かろうと、石塊が横たわっていようと、暑い日が照りつけようと、
少しも屈せず懸命に働きます。労働者の立派な模範じゃありませんか。
とにかく、労働は天主様の命令であり、罪の償いとなり、悪を避け、救霊を全うするためにも極めて肝要であるから、人は世に在る間は皆それぞれに働いて、天国の終わりなき休息を待たなければなりません。