浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行
9-1-1 勉強の必要
労働は人の本分である。人はどのような身分境遇にあっても、ブラリブラリと遊び暮らしてはならぬ。ところで、学生の身に取っては、勉強こそその本分で、学生たるものは皆大いに勉強して、その身に必要なる学を修め識をみがき、他日世に立って事を為すときの用意をしておかねばなりません。
世間には学問の為に学問する人もあろう。飯の口にありつく為に勉強する人もあろう。身を立て、家を富まし、国家社会に貢献するために蛍雪の苦を惜しまぬ人もあろう。それらは固より賞賛に価すべきことではあるが、しかし、キリスト信者たる者は、なお、その上に天主様の御栄光を発揚し、己を救い、人をも救うべき重大な責務を負っている。
そして、
「知は志のもと」
だから、この重大な責務を満足に果たすには、まずこれを知らなければならぬ。その方から考えても、信者はより多く学ばねばならぬ必要があるのである。
「婦人なんかに学問させるのは無益なことだ」
という人もあるが、それはそういう人の思い違いで、婦人は他日、人の母となって、大切な子女の教育に当たらねばなならぬ。
そのために第一に必要なのは信心だけれども、しかし多少の学識も備えていて、子女の分からないところは自分で説明してくれる位でなければ、子女は自然あなどって、その戒めを用いなくなります。
いわんや、父親が不信仰で、子女に悪い御手本でも見せるようだったら、母たるものは自分の信心をもってそれを補ってゆかなければならぬに、無学文盲ではどうすることも出来るものではありますまい。
このような次第だから、男でも女でも、尋常六年の義務教育 (注釈:現在の義務教育はご存知のとおり9年 <小学校6年中学校3年> )だけは、是非とも授けてもらわねばならぬ。
それから上の教育は、家の財政、本人の学才にもよることで、何とも申されないが、幸いにして中等教育、なお進んで高等教育までも受けられる身の上だったら、それこそ一方ならぬ天主様の御恵だと思って、一心と勉強しなければなりません。
9-1-1 勉強の必要
労働は人の本分である。人はどのような身分境遇にあっても、ブラリブラリと遊び暮らしてはならぬ。ところで、学生の身に取っては、勉強こそその本分で、学生たるものは皆大いに勉強して、その身に必要なる学を修め識をみがき、他日世に立って事を為すときの用意をしておかねばなりません。
世間には学問の為に学問する人もあろう。飯の口にありつく為に勉強する人もあろう。身を立て、家を富まし、国家社会に貢献するために蛍雪の苦を惜しまぬ人もあろう。それらは固より賞賛に価すべきことではあるが、しかし、キリスト信者たる者は、なお、その上に天主様の御栄光を発揚し、己を救い、人をも救うべき重大な責務を負っている。
そして、
「知は志のもと」
だから、この重大な責務を満足に果たすには、まずこれを知らなければならぬ。その方から考えても、信者はより多く学ばねばならぬ必要があるのである。
「婦人なんかに学問させるのは無益なことだ」
という人もあるが、それはそういう人の思い違いで、婦人は他日、人の母となって、大切な子女の教育に当たらねばなならぬ。
そのために第一に必要なのは信心だけれども、しかし多少の学識も備えていて、子女の分からないところは自分で説明してくれる位でなければ、子女は自然あなどって、その戒めを用いなくなります。
いわんや、父親が不信仰で、子女に悪い御手本でも見せるようだったら、母たるものは自分の信心をもってそれを補ってゆかなければならぬに、無学文盲ではどうすることも出来るものではありますまい。
このような次第だから、男でも女でも、尋常六年の義務教育 (注釈:現在の義務教育はご存知のとおり9年 <小学校6年中学校3年> )だけは、是非とも授けてもらわねばならぬ。
それから上の教育は、家の財政、本人の学才にもよることで、何とも申されないが、幸いにして中等教育、なお進んで高等教育までも受けられる身の上だったら、それこそ一方ならぬ天主様の御恵だと思って、一心と勉強しなければなりません。