『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
9 カルバンとフランス・ルネサンス
7 テレームの僧院
ここでラブレーは自分が書いている物語の筋さえも忘れはてて、ひたすら明けそめた時代にかけた希望と理想とあこがれとの夢、すなわちルネサンスの夢にふけるかのようである。
まずこの僧院の建築の描写が、ルネサンス期王侯貴族のはなやかな城館を総合して考えられており、しかもそれらのどれよりも見事だと、作者自身が信じている。
ほとんど貪欲ともいうべき好奇心と新鮮なよろこびをもって、ラブレーはテレームの僧院を構想する。
それは世のいっさいの僧院とは、まったく正反対のものである。
ふつうでは僧院と尼僧院とはまったく別の土地にあるが、テレームでは、男がいないときは女もいてはならず、女がいないときは男もいてはならないことになっている。
またほかの僧院はいかめしい塀でかこまれ、それは不平、嫉妬、陰謀が生まれるもとになるが、テレームにはまったく塀がない。
ほかでは生まれそこないや一家の荷厄介になっているものが僧院にはいり、一生涯、僧か尼でとおさねばならぬが、ここでは美しく気だてのよい男女がはいり、いつでもすきなときに還俗(げんぞく)ができる。
またほかでは結婚しない、清貧、服従という三つの誓いがあるが、ここでは結婚、財宝をたくわえる、自由な生活という三つの権利がある……といったようなぐあいである。
そしてテレームの僧院では規則といえば、ただひとつあるだけであった。
「おまえのしたいことをせよ。」
テレミート、すなわち、この僧院に住む人びとの生活はすべて、いっさいの規則によって束縛されず、全員の希望と自由意志によっていとなまれた。
起きたいときに起きだし、欲するときに飲み、食い、働き、学び、眠った。
だれかに、なにかに、強制されるということはない。
こういうわけであるから、ジャンにとって監督のめんどうがなかったわかりに、この僧院にはいるものは、家柄も教養も心がけもすぐれた男女でなくてはならないとされた。
またこの僧院そのものがものすごい金持ちであり、テレミートの身のまわりの世話をし、建物、図書館、庭園、果樹園、プール、遊び場、馬、猟犬、鷹(たか)などを管理するために、たくさんの使用人がいた。
たとえば、婦人の寮の出口には香水の係りがおり、はいってくる男子に香水をふりかけるというありさまである。
衣裳については数ページにわたって、ルネサンス時代最高のぜいたくが語られている。
僧院の部屋は九千三百三十二もあり、この僧院が消費するいっさいのものを用意するために、テレームの森の周囲に長く大きな倉庫兼仕事場がある。
その仕事場に原料を供給するため、毎年七隻の大船がアメリカ方面からやってくるというのである……。
こうした話を、子供じみたバカバカしい空想だといってしまえば、それきりだが、当時の僧院が不潔だったうえ、くだらない苛酷な規則で青少年をいためつけていたのに対して、ラブレーはとびきり大げさな反対の夢をくりひろげ、そのころの読者をびっくりさせ、楽しませるとともに、ここでもカトリック教会を皮肉ったものであろう。
ラブレーは大きな夢をひろげすぎたあまりか、テレームの僧院長ジャンのために、当然つくってやるべき酒倉、台所、宴会の間などが忘れられているというのも、おもしろいではないか。
『パンタグリュエル物語』も、この主人公がその家来で、いたずらずきのパニュルジュとともに、世の中のバカげたことを手当りしだいにからかうケタはずれのものである。
パリ大学の教授や当時の裁判官の調子をまねた、おそろしくわけのわからない議論やへりくつがとびだす。
やがて物語はパニュルジュの女性関係に脱線したり、巨人族との戦争になったりしてゆく。
なおこの快活な風来坊パニュルジュ(ギリシア語で切り抜けの名人の意)は、必要に応じていつでも金をととのえる方法を六十三手知っており、そのなかでもいちばんふつうの方法としては、こっそりくすねる手を用いるというような人物である。
ちょっとだけおもしろい話を書いておく。
パンタグリュエルも戦争をする。
戦死したエピステモンという家来を、パニュルジュが生きかえらせる。
そこでエピステモンが、見てきたばかりの地獄の話をするが、この世で有名だった人物がみなそこではみじめな生活をしている。
ペルシアのクセルクセス大王は芥子(からし)売り、ダレイオス王は便所掃除、ハンニバルは卵売り、クレオパトラは玉ねぎ売り、シーザーは船のペンキ屋、暴君ネロは琵琶法師、ローマ教皇アレクサンデル六世は鼠(ねずみ)取り屋というありさま。
そして、あの樽を住処(すみか)としていた乞食哲学者のディオゲネスはすばらしい生活をしており、アレクサンダー大王が修理したズボンが気にくわず、代金だといって大王を棒でひっぱたいていた……。
こういう話は、えらくない民衆にとって、文句なしに痛快なことであるわけだ。
ラブレーは何人かのローマ教皇についても遠慮せずに、居候、紙屋、膏薬(こうやく)ぬりといった職業を与え、ギリシア、ローマの哲学者や、この世でめぐまれなかった人びとに高い地位を与えた。
つまりパリ大学ににらまれそうなことを、ふざけたついでに、ちらつかせているといえよう。
そこでラブレーの四冊の物語は、いずれもパリ大学から禁止された。
そのたびに彼は逃げまわり、有力者の保護をうけたり、スイスに行ったりした。
一五五二年、『パンタグリュエル物語』(第四の書)を出してからの彼の消息は、ほとんどわかっていない。
そして翌年死んだものと推定されている。
カトリック側から迫害されたラブレーも、カルバンからみれば、改革派信仰にふみきれない優柔不断なすがたにみえた。
ルターには同情的であったラブレーも、カルバンからの非難に対しては、「ジュネーブのぺてん師、悪魔つきのカルバンの徒」と応じたという。
同じように「中世」に批判的でありながら、「ルネサンス」と「宗教改革」には相入れないところもあったわけだ。