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6-9-6 モンゴルの統一

2023-07-22 20:47:31 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
9 草原の英雄
6 モンゴルの統一


 いまや高原は、テムジンのもと、ひとつになった。
 毛氈(もうせん)の帳裙(ちょうくん=帳幕のすそ)ある国は、ことごとく平定された。
 小さなモンゴルの国が、高原をおおう大国となったのである。
 虎の年(一二〇六)あらゆる部族、氏族の代表が、オノン川の源にあつまった。クリルタイである。
 クリルタイとは「集会」のことであり、カンの推戴(すいたい)や、戦争の決定など、国家の部族の重大な行事のときに開かれる習わしであった。そのクリルタイが、これまでにない大きな規模をもって、盛大にいとなまれる。
 白い旗じるしが、九つの脚にささえられて、高くかかげられた。
 そのもとで、テムジンはふたたびカンに推戴された。
 さきには小さなモンゴルの国(それは全モンゴルではない)のカンであった。
 いまは、高原のあらゆる土地と人民とに君臨するカンである。
 チンギス・カンの袮を、たてまつった。チンギスという名の由来には、定説がない。
 あるいは“強大”を意味するといわれ、あるいは光の精霊の名にもとづく、と説明されている。
 しかもモンゴル語では“チンギス”と発音され、その通りに書き写されたが、のちに漢字では「成吉思汗」と書かれるようになる。
 これは“チンギス・カン”と読まれた。
 一般に「ジンギスカン」といっているのは、この後世の読みかたが普及した結果である。
 その民族をモンゴルと呼び、その土地をモンゴリアと呼ぶのも、チンギス汗による統一に由来する。

 そして、これを漢字に書いて「蒙古」という名称が、かれらの民族や土地をしめすものとして、用いられるようになったのであった。
 さてチンギス汗は、「国を共に立て、共におこなってきた者ども」、すなわち建国の功臣たち八十八人を、千戸長に任命した。なかには二ないし三の千戸をひきいた者もあったから、全体では九十五の千戸が編成され、これが国家の社会組織となった。
 千戸というのは、千人の戦士を提供することのできる部落の単位である。
 遊牧社会における軍隊の細織として、古くから存在していた。
 その下に百戸があり、さらに十戸がある。こうした軍隊の組織が、大モンゴル国においては、そのまま社会の組織となった。
 しかも、かつて千戸をひきいた者は、有力な氏族の長が、その一族であり、いわば草原の貴族たちであった。
 新しい国家における千戸長は、チンギス汗の配下の功臣たちである。
 それが、大モンゴル国における貴族となった。
 つまり社会の構成は、チンギス汗を頂点として、再編成されたわけであった。
 カンの権力は、絶大なるものとなる。
 それは、中国ふうの表現によって「大汗(たいかん)」と呼ばれるにふさわしい。
 まさしく、皇帝であった。
 チンギス汗は、全モンゴルの人民と土地の上に君臨した。
 しかも、その帝国は、もちろんモンゴルの民衆のものではない。
 貴族たちのものでもない。大汗たるチンギスのものである。
 そしてチンギス汗の親族が、大汗の恩賜によって共有すべきものである。
 すでにチンギス汗(テムジン)には、四人の男子があった。いずれも正妃ボルテの生んだものである。
 ただし長男は、ポルテがメルキトか連れ戻されたとき、すでに種をやどしていた。
 よって「よそ者」を意味する“ジュチ”と名づけられた。
 しかしチンギスは、この不幸な出生に対して、わけへだてをしようとはしなかった。
 あくまでもジュチは「わが子のうちの長兄」であった。
 また、チンギス汗には弟たちがいる。
 エスゲイの子らであった。
 チンギス汗の四人の子と、弟たち(およびその子)が「黄金の氏族」と見なされた。
 そしてキャン姓のボルジキン氏 すなわちキタト・ボルジギンと呼ばれたのである。
 帝国は、このボルジギン氏の人々に共有されるもの、と考えられた。そこで領民の分配も、まずこれらの一族に対して行われた。
 つまりチンギス汗にとってもっとも近い親族が、大モンゴル国の中枢に坐すべき栄光の地位をあたえられたのである。

 のちに全帝国の大汗のもとで“カン”を称し、いわゆる汗国を立てることがゆるされたものも、この「黄金の氏族」員にかぎられていた。
 チンギス汗の一代と、その祖先に関しては、くわしい歴史書がモンゴル人の手によって、作られている(十三世紀後半)。
 「モンゴルの秘密の歴史」という。
 モンゴル語の原本は失われてしまったが、のちに漢字を用いて音訳したものが『元朝秘史』という名で伝えられてきた。日本語の訳も出ていて『成吉思汗実録』という。
 これまで述べてきたことも、その大半は、いわばモンゴルの「古事記」ともいうべき「秘史」によったものであった。





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