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『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
13 清朝の権力と富の行方
4 白蓮の動乱
さて劉之協は、乾隆五十三年(一七八八)、甘粛におもむいて劉松と相会し、結社の体制をととのえて、三陽教の教勢拡張にのりだした。
その結果、劉之協をはじめ、宋之清らの活動によって、結社の勢力は湖北・四川・陜西・甘粛の各省に波及するにいたる。
しかし反乱の準備は、事前に発覚してしまった。
乾隆五十八年(一七九三)、官憲は先手をうって弾圧にのりだし、多くの者が縛についた。
劉之協の擁立した牛八こと王発生は、童児のゆえをもって新彊方面に流刑の身となった。
ことはふたたび挫折したかにみえた。
しかし劉之恊は一味にすくわれて、脱出に成功した。逃亡の途上で、布教はすすんだ。
「劉之協はいないか」、「劉之協はとこか。」官憲は血まなこになってさがしまわる。
しかし教徒の庇護(ひご)のもとに転転とする劉の消息は、いっこうに知れない。
家さがしは激しさをくわえ、無実の罪におちいる者は、かず知れぬありさまであった。
富民はわいろをもってこれをまぬがれ、財なき民は罪にとわれる。
収賄めあての「官逼」は「民反」への傾斜を強め、皮肉にも教徒の数は増大する。
起義への動きは日をおって激しさをました。
嘉慶元年(一七九六)三月十日を期して起義(きぎ=農民反乱)を決行するとの計がなった。
それより早く、湖北の西南部における教軍は、正月に蜂起した。たちまち西部や西北部の教軍が呼応し、湖北の動乱へと進展した。
官側の反撃が開始されると、教軍の拠点は各個撃破のうき目にあい、その年の後半にはいちじるしく勢力を弱めた。このとき四川(しせん)の教軍が呼応して蜂起し、強勢をふるいはじめる。
しかしその永続はむずかしく、あくる二年のなかばをすぎるころにはしだいに後退しはじめた。
大勢の挽回(ばんかい)は、湖北の教軍が陝西から四川に進出することによって成るかにみえた。
が、しかし全教軍の統一を欠いたことと、孤立分散的な拠点の防衛を脱却できなかったため、教軍は一進一退をくりかえしながら、やがては各個撃破によってくずされていった。
拠点をうしなった教軍は、流動作戦に転じた。
教軍の出没地域は広範となり、河南・湖北・陜西(いんせい)・甘粛(かんしゅく)・四川の五省十数県にわたった。
乱は長期化の様相をとりはじめたのである。
官側は、これに対応するため、作戦の変更をせまられるにいたった。
山中を北へ南へと縦横にかけめぐり、機を見て平地の村落や県城を襲い、糧食を補給する。
こうした神出鬼没の教軍を鎮圧するには、両面作戦をとるほかはない。
教軍への迫撃戦をすすめることと、村落を防衛するための拠点を構築することである。
それには多くの兵力を必要とする。
ときに八旗兵は太平になれて戦闘をわすれ、緑営(八旗とは別に、漢人のみでつくった軍隊)もまた頼りにならない。
吉林(きちりん)方面に駐留していた素朴な八旗兵、雲南や貴州の緑営がわずかに役だつ程度であった。
兵力の弱化と不足をいかにして補うか。官側は深刻な問題に当面した。
あたらしい局面に対処して、両面作戦をすすめる上で断行されたのが、既成の軍隊の粛正と郷民による自衛軍の強化である。
軍隊の粛正は、乾隆上皇が在世している間は和珅らの専権によって、決して容易ではなかった。
嘉慶はじめの二重構造は、乾隆末からの教軍対策を持続こそ、迅速な鎮定をさまたげて乱を長期化させた。
和珅を弾劾した罪状に、教軍の鎮圧を阻害したという条項があるのは、この間の事情をものがたる。
真の粛軍と本格的な教軍への対策は、嘉慶の親政期において、ようやくはじめられ、根ぶかい禍根をのこした。
郷民による自衛軍の編成は、教軍が蜂起したときに、軍隊が現地に到着するまでの対策として、すでに試みられていた。
それは兵力の不足を補い、住民が教軍に合流するのを防止する一手段であった。
しかし現地で急募した郷勇という軍隊は、良民と反社会分子とが混在し、玉石混淆(こんこう)の弊をまぬがれなかった。
ことに官より口糧を支給したことは、その弊をました。
初期の郷勇数は四川の三十数万を筆頭に、湖北や陜西をふくめて、五十万の多数にのぼる実状であった。
このため郷勇の再編も必要とされた。
既成の郷勇はいったん解散され、在地の郷民による自弁の団勇と、追撃戦に参加する随征の郷勇に区別して、あらたな編成がすすんだ。
団勇は、寨(とりで)を構築して自衛する軍であり、寨勇(さいゆう)ともよばれた。
寨勇には有事にのみ口糧が支給され、随征郷勇と区別された。そこには出費の軽減策がうかがえる。
流動化した教軍への対策は、こうして嘉慶帝の親政とともにととのえられ、教軍が村落を襲撃するのに対しては、堅壁清野の策があわせ用いられた。
城塞を堅固にかため、周辺の農耕地には一物も置かず、教軍の掠奪による糧食の補給を断つ方策である。
糧食は野になくして、城寨のなかにたくわえられるとなれば、教軍は城塞を攻撃するほかに道はない。
しかし堅固な城塞は容易におちない。攻略にてまどれば、自滅のほかはない。
長期戦の様相となった反乱は、官側の両面作戦によって、くずれていった。
しかし郷民が武器を手にして、自衛の経験をつんだことは、教軍が平定されたのちに、あらたな事態をうんだ。
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