(ローマ神話をイメージした仮装をしたルイ14世と后妃たち)
『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
4 誇り高き侯妃
宮廷がベルサイユに移るまえのことである。
前述のルイ十四世の愛人ルイーズ・ド・ラ・バリエールは口数も少なく、王を喜ばすようなウィットにとんだ言葉を、考えだすことは苦手であった。
そこでルイーズは友人たちを側近においておく必要があった。
なかでも機知縦横というべきは、モンテスパン侯妃アテナイスであろう。アテナイス・ド・モルトマール(一六四一~一七〇七)はフランスでも屈指の名門の出であり、それだけに遠慮がちなルイーズにくらべて誇り高く、威厳にみち、それらは情熱的な性格とあいまって、生来の美貌をさらに輝かせていた。
彼女はルイが王妃を迎えた一六六〇年宮廷に出仕し、三年後モンテスパン候と結婚し、やがて二児をもうける。夫は宮廷に不在がちだったので、言いよる貴族たちも少なくなかった。
彼女は、王がルイーズ・ド・ラ・バリエールを見そめたことについて、内心おだやかでなかったであろう。
しかし賢明なモンテスパン夫人はルイーズの友人となって、チャンスを待った。
はじめ彼女に関心をもたなかったルイ十四世も、いままで経験しなかったタイプの女性に、しだいに心をひかれるようになった。
それは一六六六年ごろからである。
翌年夏、王がネーデルラントの国境方面に出むいたとき、王妃とモンテスパン夫人たちは同行したが、宿舎におけるモンテスパン夫人の部屋は、王の近くであった。
まもなく王の部屋の衛兵はほかへうつされ、王は「すばらしく陽気に」みうけられた。
王妃マリー・テレーズは侍女の一人にいった。
「昨夜、陛下がベッドにはいられたのは四時で、もう夜が明けそめるころでした。
いったい何をなさっていたのかしら。」
もれきいた王は弁解した。
「いそぎの文書を読み、その返事を書いていたのです。」
一年後の一六六八年夏から、ルイとモンテスパン夫人との関係ははっきりしてきた。
それは王にとってルイーズに対する牧歌的な愛とはちがい、成熟した男の官能的なものであった。
娘が王に愛されていることを知った父モルトマール公は、「ありがたい、いよいよ福の神の到来だ」と喜んだが、夫のモンテスパン侯は宮廷に現われていやがらせをしたり、仲間の助力をえて妻をスペインにつれてゆくつもりだなどとうわさされた。
しかしけっきょく、妻が王の子をうんだときくと、侯は「妻は媚態(びたい)と野心がもとで死んだ」と称して、友人たちを模擬の葬儀に招き、うわべだけの喪に服した。
ルイーズの純愛に対して、モンテスパン夫人の愛は、王の権勢や財力がめあてであったともみられる。
彼女は王から金や宝石をえたり、父を要職につけたり、親戚に良縁をあてがったりすることに成功した。
彼女は宮廷でもっとも羨望(せんぼう)される女性となった。
しかしルイーズとともに生活し、六年間も王は両手に花をたのしんだのである。
あるとき国外に出かけた王の一行に、王妃のほかにこの二人の女性が加わったが、現地の人びとは、馬車に同乗する彼女たちを「三人の王妃」とよんだという。
当時、王は正妻、寵妾、嫡子、庶子とともに全部が一大家族のように住まっていたのだから、現代感覚からすれば妙なものである。
しかしルイーズはしだいにこうした生活に耐えられなくなり、信仰を深めて修道院にはいることを望み、一六七四年春、宮廷を去っていった。
彼女は最後に王妃の足もとにひざまずき、その心を長らく苦しめたことを詫びた。
あとはモンテスパン夫人の天下である。いまや王の心を独占しているこの気性はげしい女性に対して、その怒りにふれることを恐れる廷臣たちは、彼女の部屋の前を足音をしのぼせて通るありさまであった。
ところがこのモンテスパンも、ルイーズと同じような運命をたどるのである。