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7 セルトリウスとスパルタクスの乱

2018-03-31 02:47:29 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

11 ローマ共和政の社会的変動

7 セルトリウスとスパルタクスの乱

 首都ローマで激しい政争が行なわれていたころ、属州のイスパニア(ヒスパニア)で風変わりな反乱が起こった。
 マリウス派の生き残りであったセルトリウスは、スラ派の支配するローマ政府に反抗して独立政府をつくった。
 彼はマリウス派の残党を元老院議員や政務官に任命する一方、原住民のケルト・イペリア人を手なずけて、その貴族の子弟にギリシア・ラテンの教育を授け、将来政治に参与させる準備をした。
 また原住民の部隊をつくり、その指揮官も彼らのなかから選んだ。
 さらにキリキアの海賊と結び、ミトリダテスとも同盟し、ローマ軍をうち負かした。
 しかしローマ政府は、当時はまだ若輩、無官のポンペイウスにセルトリウス討伐の大権を委ね、ポンペイウスはしだいに戦いの主動権を握った。
 セルトリウスは、彼が「蛮族」に好意的であることに不満を抱いていた部下のペルペルナに、紀元前七二年殺された。
 ポンペイウスはペルペルナを難なく破り、イスパニアを平定して、早くも「大物(マグヌス)」としての片鱗(へんりん)を示した。
 同じころ、ローマの支配層をいっそう強くおびやかしたのは、南イタリアで起こった奴隷の大反乱であった。
 奴隷の反乱は第一回につづいて、第二回目(紀元前一〇四~一〇一年)も数万の奴隷がシチリアでサルヴイウス(のちにトリフォンと改名)とアテュオンに率いられて決起したが、今度は前の二回を上まわる大規模なものであった。
 紀元前七三年カンパニアのカプアにあった剣闘士(グラデイアトル)の養成所から七十八人の奴隷が脱走し、トラキア生まれのスパルタクスにひきいられてヴェスヴィウス山にこもると、近隣の農場や牧場から逃亡した奴隷も加わって、たちまち七千人にふくれあがった。
 彼らは自分で武器を製造してローマ軍を破り、翌七二年には少数の貧農をも加えて、総数少なくとも六万人となった(十二万と数える史料もある)。
 南イタリアは一時ほとんど彼らの支配下におかれた。
 スパルタクスはケルト人、ゲルマン人、トラキア人などの雑多な民族出身の奴隷軍をよく統率し、剣闘士を中核として重装兵とそのほかの軽装兵に編成し、むやみな掠奪を禁じ、戦利品を平等に分配し、金銀の使用を禁じた。
 彼はイタリアで新しい国を建設することを考えず、奴隷たちを生まれ故郷に帰還させようと考え、北イタリアに進出した。ムティナの戦いでローマ軍を破ったので、この企ては成功するように思われた。
 ところがそのあとどういうわけかはっきりしないが、ふたたび南イタリアへ引き返した。

 奴隷たちがめいめいの郷里へ帰る意見よりも、イタリアに留まり、復讐掠奪し、ローマ進軍を望む声が勝つたらしい。
 しかしそのあいだに部隊が分裂し、主力からわかれた隊はローマ軍に敗れた。
 スパルタクスのローマ進軍は「ハンニバルの再来」として恐れられたが、実際は南イタリアから奴隷反乱の実績のあるシチリアへ渡ろうとした。
 だがこれを手引きするはずであったキリキアの海賊に裏切られたため、スパルタクスはローマ軍の封鎖を突破してアドリア海岸のブルンディシウムに行き、イリリフム・トラキアヘと脱出しようとした。
 ところがこのときまたイタリアに留まろうとする一派が分離して弱体化し、ついにスパルタクスはクラッススのひきいるローマ軍と勇敢に戦って戦死した。
 こうしてさしもの奴隷反乱軍も総くずれとなり、捕虜となった奴隷六千人は、アッピア街道の道ばたで十字架刑にされ、北方に逃れた五千人も、セルトリウスを討って帰国中のポンペイウスに討たれてしまった。
 しかしスパルタクスの英雄的な像は伝説化して長く残り、第一次世界大戦末期に結成されたスパルタクス団からドイツ共産党が成立した。
 スパルタクスの乱のあと、もはや大規模な奴隷反乱は起こらなかった。奴隷反乱を未然に抑える軍事的独裁が強化されるとともに、戦争奴隷を少なくして、自家で生育する奴隷をふやしたり、奴隸のとり扱いをよくしたり、解放して小作人にしたりすることがなされた。


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