『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
9 草原の英雄
5 覇権をかけて
ジャムカもまた、すぐれた戦略家である。テムジンを打倒するために、ケレイトの国との同盟をはかった。
まず流言をはなって、テムジンとワンカン(ケレイトのカン)との間を裂いた。
ケレイトの国では、ジャムカの言葉に乗せられて、テムジンを奇襲する計画を立てた。
すでに猪(い)の年(一二〇三)の春であった。
奇襲のことは、これを通報する者があって、いち早く知った。
しかしテムジンには、戦闘の準備がととのっていない。
ケレイトの大軍をむかえて、テムジンは苦戦した。
ようやく敵をしりぞけたものの、のこった兵数は、わずかに二千六百。
テムジンは軍をまとめて、東方にしりぞいた。こうしてその年の夏になった。
テムジンが東方にあって、戦力をたくわえつつあるとき、白いラクダ一頭と、千頭の羊を追いながら旅する隊商に出会った。
はるかに西の国(中央アジア)から来た商人で、貂(てん)や青鼠(りす)を買いもとめるために、東へむかう途中であった。
草原では戦争のたえまもないのに、戦場をぬって西方の商人たちは、交易の利を迫うことにつとめている。
そのたくましさを、テムジンは認めた。
そうして、これら商人たちの力を利用することを、やがて考えるに至るのである。
そうして秋になった。馬は肥えた。兵力もととのった。
おりからケレイトのワンカンは、さきの勝利におごって、黄金の帳幕(柱に黄金をぬったもの)をつくり、酒盛りをひらいていた。これを知ったテムジンは、その不用意につけこんで急襲する策を立てた。
オノン川のほとりから、モンゴルの軍は、夜な夜な、夜どおし進んで、ワンカンの陣をかこんだ。
不意をうたれたケレイトの軍は、それでも三夜三日、けんめいに防いだ。
ついに力つき、ワンカンは夜にまぎれて脱走した。
のこりの部衆は投降した。これがケレイトの国の最後であった。
なおワンカンは、西へのがれてナイマンの領内にはいったが、そこで捕えられ、殺されてしまった。
ケレイトの国はほろび、その人民はテムジンおよび部下たちに分配された。
いまやモンゴルの国も、東はタタールの旧領から、西はケレイトにまでひろがり、いわゆるモンゴリア高原の大半を占めるに至った。
しかし、西方には、なお強大なナイマンの国がある。
ナイマンは、卜ルコ系の国であった。
アルタイ山脈をへだててウイグルやカラ・キタイ(西遼)の国と接し、はやくからウイグル文化の影響をうけて、モンゴリア高原の遊牧国家のなかでは、もっとも高度の文化をもっていた。
ネストリウス派のキリスト教(景教)も伝えられ、カンの一族をはじめ、これに帰依(きえ)している者も多い。
西方から来るイスラムの商人も、このナイマンの国をへて、モンゴリアの東部へむかったのであった。
ナイマンの国王をダヤン(太陽)カンという。ケレイトの滅亡を知ると、言った。
「この爪に、すこしのモンゴルがいるということだ。
その民は、老いたる大きな、むかしのワンカンをおどして、逃げ出させて死なせた。
いまや、カンになろうとしている。
天の上には、日と月と、ふたつ輝く光となるとて、日と月のふたつはあるのだ。
地の上には、どうしてふたりのカンはありえよう。
われらは行って、そのモンゴルを取ってこようぞ。」
そうして、陰山のほとりの長城ちかくに住んでいたオングートの国に使者をつかねし、東西からモンゴルをはさみ討とう、と申しいれた。
オングートもまた、トルコ系の国である。
しかしオングートの人々は、モンゴルの実力を知っていた。
ナイマンの申しいれを拒否し、かえってテムジンに、そのことを通報した。
ときに鼠の年(一二〇四)の春であった。
モンゴルの全軍がいさみたった。しかしナイマンは大敵である。
テムジンは軍の再編成をおこなった。
古来のしきたりによって、軍制は、十人・百人・千人という集団に分けられている。
これを編制しなおして、百戸長(百人の長)・千戸長(千人の長)に、それぞれ腹心の勇士たちを任命したのであった。
親衛隊の組織も、いっそう強固にととのえられた。
ナイマンの陣営には、ジャムカも参じていた。
ジャムカがひきいる部衆の大部分は、もとよりモンゴルの出身である。
いまやモンゴルとナイマンとの決戦にあたって、モンゴルのすくなからぬ部衆が、ナイマンの側に立ったのであった。
さて、テムジンのモンゴル軍は、ナイマン軍を前にすると、草原いっぱいに陣をしく。
夜をむかえて、ひとりひとりが、それぞれ五ヵ所に火をたいた。
これを見たナイマンの斥候(せっこう)は、「モンゴルは、数すくないということであったが、星より多い火が見える」と報告した。
テムジンは、みすがら先鋒となって進んだ。そして全軍に下令した。
「草むらのように広がって進め。湖(うみ)のように広い陣を立て、鑿(のみ)のように鋭く戦いゆけ。」
ナイマン軍は圧倒された。
ダヤンカンは、おそれて退いて、山頂に陣をしいた。もはや戦意を失っていた。
モンゴル軍は山をかこんで陣を立てた。そして夜となった。
ナイマン軍は、攻撃をのがれて移勤しようとするときに、山の上からころげ落ち、上へ上へと重なりあって、骨や髪をくだくほどに倒れあって、朽ち木のようになるまで圧しあって、ことごとく死んだ。
あくる朝には、ダヤンカンも捕えられた。
ナイマンの国はほろび、その部民はテムジンの手に収められた。
ジャムカにしたがっていた部衆も、すべて投降した。
しかし、ダヤンの子のクチュルクは、たくみに落ちのびた。
西へのがれて、カラ・キタイの国へ身を寄せた。
ジャムカもまた、逃げた。
ところでナイマンは、文化の高い国である。
文字も用いていた。ウイグル人から伝えられた文字である。
それを、この後はモンゴルも使用することになった。
ローマ字と同じく音標文字であり、上から下へ縦書きにする。
そして漢文とは反対に、左から右へと行(ぎょう)を進める。
このウイグル文字が、やや改良されてモンゴル文字となった。
同じ年(一二〇四)の秋、テムジンはメルキトの国へ軍を進めた。
あくる牛の年(一二〇五)の春までにかけて、メルキトの国もことごとく平定された。
抵抗した者は、みなごろしにされ、投降した者は、しもべとして分配された。もはやモンゴリアの高原に、テムジンの敵はなくなった。
いったん逃げのびたジャムカも、その部下にそむかれ、捕えられて、テムジンのもとにつき出された。
しかしテムジンは、かっての盟友の非運に、ふかい同情をよせ、「ふたたび、友となろう」と、うながした。
むかしの友情とその勲功とを、わすれることができなかったのであった。しかしジャムカも、ほこり高き英雄である。
ひとたびアンダ(義兄弟)の誓いをやぶって、友たるべきときに、友とならなかった。そのむくいが、わが身におよんだことを知っていた。
「アンダよ。いま、アンダは、まどかな国を平らげた。
よそなる地をも、すべて合わせた。カンの位は、汝のものとなった。
いまや天下の定まったときに、友となっても、われは何の助けとなろう。
むしろ、アンダの黒い夜の夢にはいろう。あかるい日には、汝の心を苦しめるだろう。
アンダよ。めぐみを垂れて、われをあの世に行かせるならば、血を流さずに殺させよ。
わがしかばねは高いところで、とこしえに汝の子孫を守ってゆこうぞ。」
うつたえられて、テムジンは、友の命を惜しみっつも、その言葉にしたがい、袋に入れて、血を流さずに殺させた。
これは、貴人に対する習わしでもあった。
9 草原の英雄
5 覇権をかけて
ジャムカもまた、すぐれた戦略家である。テムジンを打倒するために、ケレイトの国との同盟をはかった。
まず流言をはなって、テムジンとワンカン(ケレイトのカン)との間を裂いた。
ケレイトの国では、ジャムカの言葉に乗せられて、テムジンを奇襲する計画を立てた。
すでに猪(い)の年(一二〇三)の春であった。
奇襲のことは、これを通報する者があって、いち早く知った。
しかしテムジンには、戦闘の準備がととのっていない。
ケレイトの大軍をむかえて、テムジンは苦戦した。
ようやく敵をしりぞけたものの、のこった兵数は、わずかに二千六百。
テムジンは軍をまとめて、東方にしりぞいた。こうしてその年の夏になった。
テムジンが東方にあって、戦力をたくわえつつあるとき、白いラクダ一頭と、千頭の羊を追いながら旅する隊商に出会った。
はるかに西の国(中央アジア)から来た商人で、貂(てん)や青鼠(りす)を買いもとめるために、東へむかう途中であった。
草原では戦争のたえまもないのに、戦場をぬって西方の商人たちは、交易の利を迫うことにつとめている。
そのたくましさを、テムジンは認めた。
そうして、これら商人たちの力を利用することを、やがて考えるに至るのである。
そうして秋になった。馬は肥えた。兵力もととのった。
おりからケレイトのワンカンは、さきの勝利におごって、黄金の帳幕(柱に黄金をぬったもの)をつくり、酒盛りをひらいていた。これを知ったテムジンは、その不用意につけこんで急襲する策を立てた。
オノン川のほとりから、モンゴルの軍は、夜な夜な、夜どおし進んで、ワンカンの陣をかこんだ。
不意をうたれたケレイトの軍は、それでも三夜三日、けんめいに防いだ。
ついに力つき、ワンカンは夜にまぎれて脱走した。
のこりの部衆は投降した。これがケレイトの国の最後であった。
なおワンカンは、西へのがれてナイマンの領内にはいったが、そこで捕えられ、殺されてしまった。
ケレイトの国はほろび、その人民はテムジンおよび部下たちに分配された。
いまやモンゴルの国も、東はタタールの旧領から、西はケレイトにまでひろがり、いわゆるモンゴリア高原の大半を占めるに至った。
しかし、西方には、なお強大なナイマンの国がある。
ナイマンは、卜ルコ系の国であった。
アルタイ山脈をへだててウイグルやカラ・キタイ(西遼)の国と接し、はやくからウイグル文化の影響をうけて、モンゴリア高原の遊牧国家のなかでは、もっとも高度の文化をもっていた。
ネストリウス派のキリスト教(景教)も伝えられ、カンの一族をはじめ、これに帰依(きえ)している者も多い。
西方から来るイスラムの商人も、このナイマンの国をへて、モンゴリアの東部へむかったのであった。
ナイマンの国王をダヤン(太陽)カンという。ケレイトの滅亡を知ると、言った。
「この爪に、すこしのモンゴルがいるということだ。
その民は、老いたる大きな、むかしのワンカンをおどして、逃げ出させて死なせた。
いまや、カンになろうとしている。
天の上には、日と月と、ふたつ輝く光となるとて、日と月のふたつはあるのだ。
地の上には、どうしてふたりのカンはありえよう。
われらは行って、そのモンゴルを取ってこようぞ。」
そうして、陰山のほとりの長城ちかくに住んでいたオングートの国に使者をつかねし、東西からモンゴルをはさみ討とう、と申しいれた。
オングートもまた、トルコ系の国である。
しかしオングートの人々は、モンゴルの実力を知っていた。
ナイマンの申しいれを拒否し、かえってテムジンに、そのことを通報した。
ときに鼠の年(一二〇四)の春であった。
モンゴルの全軍がいさみたった。しかしナイマンは大敵である。
テムジンは軍の再編成をおこなった。
古来のしきたりによって、軍制は、十人・百人・千人という集団に分けられている。
これを編制しなおして、百戸長(百人の長)・千戸長(千人の長)に、それぞれ腹心の勇士たちを任命したのであった。
親衛隊の組織も、いっそう強固にととのえられた。
ナイマンの陣営には、ジャムカも参じていた。
ジャムカがひきいる部衆の大部分は、もとよりモンゴルの出身である。
いまやモンゴルとナイマンとの決戦にあたって、モンゴルのすくなからぬ部衆が、ナイマンの側に立ったのであった。
さて、テムジンのモンゴル軍は、ナイマン軍を前にすると、草原いっぱいに陣をしく。
夜をむかえて、ひとりひとりが、それぞれ五ヵ所に火をたいた。
これを見たナイマンの斥候(せっこう)は、「モンゴルは、数すくないということであったが、星より多い火が見える」と報告した。
テムジンは、みすがら先鋒となって進んだ。そして全軍に下令した。
「草むらのように広がって進め。湖(うみ)のように広い陣を立て、鑿(のみ)のように鋭く戦いゆけ。」
ナイマン軍は圧倒された。
ダヤンカンは、おそれて退いて、山頂に陣をしいた。もはや戦意を失っていた。
モンゴル軍は山をかこんで陣を立てた。そして夜となった。
ナイマン軍は、攻撃をのがれて移勤しようとするときに、山の上からころげ落ち、上へ上へと重なりあって、骨や髪をくだくほどに倒れあって、朽ち木のようになるまで圧しあって、ことごとく死んだ。
あくる朝には、ダヤンカンも捕えられた。
ナイマンの国はほろび、その部民はテムジンの手に収められた。
ジャムカにしたがっていた部衆も、すべて投降した。
しかし、ダヤンの子のクチュルクは、たくみに落ちのびた。
西へのがれて、カラ・キタイの国へ身を寄せた。
ジャムカもまた、逃げた。
ところでナイマンは、文化の高い国である。
文字も用いていた。ウイグル人から伝えられた文字である。
それを、この後はモンゴルも使用することになった。
ローマ字と同じく音標文字であり、上から下へ縦書きにする。
そして漢文とは反対に、左から右へと行(ぎょう)を進める。
このウイグル文字が、やや改良されてモンゴル文字となった。
同じ年(一二〇四)の秋、テムジンはメルキトの国へ軍を進めた。
あくる牛の年(一二〇五)の春までにかけて、メルキトの国もことごとく平定された。
抵抗した者は、みなごろしにされ、投降した者は、しもべとして分配された。もはやモンゴリアの高原に、テムジンの敵はなくなった。
いったん逃げのびたジャムカも、その部下にそむかれ、捕えられて、テムジンのもとにつき出された。
しかしテムジンは、かっての盟友の非運に、ふかい同情をよせ、「ふたたび、友となろう」と、うながした。
むかしの友情とその勲功とを、わすれることができなかったのであった。しかしジャムカも、ほこり高き英雄である。
ひとたびアンダ(義兄弟)の誓いをやぶって、友たるべきときに、友とならなかった。そのむくいが、わが身におよんだことを知っていた。
「アンダよ。いま、アンダは、まどかな国を平らげた。
よそなる地をも、すべて合わせた。カンの位は、汝のものとなった。
いまや天下の定まったときに、友となっても、われは何の助けとなろう。
むしろ、アンダの黒い夜の夢にはいろう。あかるい日には、汝の心を苦しめるだろう。
アンダよ。めぐみを垂れて、われをあの世に行かせるならば、血を流さずに殺させよ。
わがしかばねは高いところで、とこしえに汝の子孫を守ってゆこうぞ。」
うつたえられて、テムジンは、友の命を惜しみっつも、その言葉にしたがい、袋に入れて、血を流さずに殺させた。
これは、貴人に対する習わしでもあった。