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浦川和三郎 司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

2024-11-25 23:29:27 | 浦川司教
十一 月 一 日

(二)諸聖人の祝日

(1)-聖会は毎日毎日聖人などを尊敬していながら、特に諸聖人の祝日なるものを定めたのは何のためでしょうか、それは総ての聖人を一つに集めてこれを尊敬するためであると共に、また我々の聖人などに対する尊敬が常に不足勝であるから、それを補わせるためでもあります。しかれば皆さん、今日は特に熱心をあらはして、この祝日を守り、一年中、聖人などに対して礼を欠き、十分の尊敬を尽さなかったところを償うように心掛けようではありませんか。

 しかし聖会の志はただこればかりに止りません。その重なる目的は聖人などの楽しんでいられるその大いなる天国の福楽を我々の目の前にくりひろげて、我々の眠りを醒まし、自分も是非あの天国に辿り着かねばならぬという心を起さしめるにあるのであります。で今日は天国の福楽について篤と考えて見ることに致します。

(2)-天国の福楽はいかなるものでしょうか ー 聖パウロにいわく、天国の福楽は人が目に見たこともない、耳に聞いたこともない、心に思い浮かべたこともないほどであるとか。聖カタリナは天の片隅を覗いたばかりで、「私は人間の口に言い顕わすことできないほどの珍しいものをみました」とい、同じく聖テレジアも「一目天国を見せて戴いてからは、この世の美しいものや、珍しいものや、そんな物はすべて厭になった」といっていります。

 それもその筈で、全能の天主、天地万物を無より造り出し給うた天主が、その愛する臣下に、その可愛い子供に充分の福楽を与えたいと思召しになって、備え置かれた天国ですもの、人間の小ぽけな頭で考えられるような、拙(つま)らない、平凡なところであろうはずがない。実に聖ベルナルドもいわれた如く、天国には厭なものというは一つもなく、欲しいと思うものは何でもあるのであります。


(3)-天国には厭なものというは一つもない ー 我々の足が一たび天国の閾(しきい)を跨いだものなら、凡ての禍は一時に拭うが如く消え失せる。しかり、天国には怖ろしい暗(やみ)もなければ、肌を劈(つんざ)くような冬の寒さ、石をも溶かしそうな夏の暑さもない、ただ晴れ渡った昼ばかり、ただ長閑(のどか)な楽しい春ばかりである。天国には人から無理をされる気遣いがない、妬(ねた)みを受ける心配もない。

 天国の聖人などは皆相愛し、相楽しみ人の福を見ては我が身の福の如く喜んでいられる。天国には病の苦しみもなければ、貧の辛さもない。

 天国の聖人などは皆聖寵に固まっているから罪を犯す気遣いもない、天主を取り失う恐れもない、悪魔の誘に悩まされる憂いすらないのであります。




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