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十一月二日(3)、浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

2024-10-26 01:22:28 | 浦川司教

(3) - 今日天国の聖人などは皆こういう楽しみをほしいままにしていられる。思えば思えば羨ましい次第ではございますが、しかし必ずしも聖人などの身の上を羨むにも及びません。

 我々も聖人などの踏み分けなさった道を進んで行きさえすれば、一度は必ず彼の楽しい天国へ辿り着くことができるのであります。「我が父の家に住むところ多し」(ヨハネ十四ノ二)と御主はのたまうた。随って誰でも、またいくらでも天国には昇れる、聖人などに与えられた福楽は、我々にも約束されてある。天主が我々に、罪を犯すな、善を励め、掟を守れ、熱心に務めよ、と命じ給う時は、もとより天地万物の御主、我々の造主にて在ますのですがら、御褒美なんか何一つ下さらずとも、我々は飛び立って御命令に従わなければならぬはずである。

 しかし天主様は決して善業のために善業を行えとは命じ給わぬ、我々が僅かな罪を避け、小さな善を行いましても、一寸した御誡めを守り、一寸した信心の務めを果たしましても、一々それに酬い、立派な御褒美を下さるのであります。で我々は始終この大なる天国の福楽を打眺めて、我と我が身を励まし、善の道に突進しなければなりません。

 しかるに今迄の我々を振り返って見なさい、天国の福楽の終なきことを信じているとはいながら、全くこれを知らない、信じない異教者見たように、誰だ誰だ浮世の財宝や快楽にばかり心を奪われていたことはありませんか。天主の御勧めにはなるべく従うまい、信心の務めならば、なるべく御免を蒙ろうとするが、浮世の事になると、一も二もなくこれに従い、飛び立って遣って退けます。浮世が瞬く間に過ぎ去る夢のような財宝なり、快楽なりを示してさし招きますと、何も彼も忘れてその方へ走り出し、骨身を砕いても厭いませんが、天主が窮りなき天の幸福を掲げて手招き下さっても、容易に腰を立てようとはしません。

 英国のヘンリー八世王が聖会に背きました時、大臣のトマス・ムーアは王に従わなかったので、ついに牢獄に打込まれました。ある日のこと奥方が見舞いに参りまして、トマスの足下に平伏し、「どうぞ王様の仰しやる通りにして、生命を保って下さいまし」と涙を流して連りに願いました。「王様に従ったら、幾年ぐらい活き伸びることできると思うかね」とトマスは尋ねました。「少なくも未だ二十年は大丈夫でございますよ」「そうか、たとえ百年も生き伸びることができても、俺はその百年くらいの生命と天国の窮りなき福楽とを代えっこはしないよ」といって潔く信仰の為に殺されました。

 我々も今からしばしば天国の幸福を思いまして、その窮りなき福楽をば、現世の短い夢のような財宝や快楽やと代えっこするようなことがないように務めたいものであります。



 


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