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浦川和三郎司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

2024-11-15 21:27:41 | 浦川司教


(7)-終まで続いて望まねばならぬ ー 二三日の間、三四年の間、善を行っても、天国には昇れない、死ぬまでも続いて行わなければならぬ。「終りまで堪え忍ぶ人は救われるべし」(マティオ十ノ二二)と御主はいいました。ユダの如きも、始は善良な弟子でした、しかし終りまで続かなかったから滅んだのであります。

 「手を犂に着けて尚、後ろを顧みる人は神の国に適せざる者なり」(ルカ九ノ六二)とありましょう。実に今日は立派な決心をして天主に堅く堅く約束しているが、明日はもう何もかも忘れたかの如く、元の罪に逆戻りをするようでは到底天国に入るに適しないものであります。聖人などは皆終まで続いて行った方々である。今日は熱心にミサを拝聴する、明日はすっかり止めてしまう。今日は告白もし、聖体も拝領すべしと決心しているが、明日になると、その心は更に一つも残らないというようでなく、僅かな善業でも、根気強く続けて行われたから、天の限りなき御褒美をかたじけなうすることとなったのであります。

 しかるば天に昇るためには、心から、しかも今の中に、根気強くその福楽を望まなければならぬ。「主は我々なしに我々をお造り下さいましたが、しかし我々なしにお救い下さらぬ」と聖アウグスチヌスはいいました。すなわち我々の方から精を出して勤め、与えられた聖寵をよくよく利用して働かなければ、救霊を全うすることできない。それは辛い、到底やりきれないというような思いが起って来た時は、天国の福楽、その福楽の大なることを考えてみなさい。当てにもならぬこの世の幸福を得よう、夢のような快楽を求めよう、僅かばかりの目腐金を手に入れようとして、我々はどんなに精を出して働きますか。それに天の福楽を得るために、ちょっとやそっとの辛苦を恐れてなりましょうか。限りなき福楽じゃありませんか。終わりなき光栄、言うにも言われぬ快楽じゃありませんか。それを得るか失うかという大切な問題ですのに、等閑に放ったらかして置かれたものでしょうか。その上、いくら辛いといっても、聖寵の助けがあります。殉教者などは首を斬られ、火に焼かれ、鋸で引かれ等しても、天の福楽だけは失うまいと務められました。

 況して我々はそんなにえらい目を見せられるのではない、いくら辛いといっても、それは一時のことで、苦しみも悲しみも心配もいつしか終りを告げる。天の光栄や歓楽は限る所を知らないのであります・・・どうぞ皆さん、今からしばしば、天国を思いましょう。天国のために働きましょう。毎日毎日天国の倉に朽ちせぬ宝を貯えましょう。


(続く)




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