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6-10-1 大モンゴル

2023-07-23 00:25:13 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
1 西方にむける目

 全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。
 それはモンゴルのものだけではなかった。
 はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。
 そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。
 ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。
 かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。
 それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。
 その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんであった。
 その一部は隊商となり、ラクダにのって、はるばる東方へおもむき、交易をおこなった。
 イスラムの隊商は、中央アジアをへて、西夏の国へはいり、それから中国やモンゴリアに達した。
 モンゴリアにおいて、まず西方の人に接したのは、ナイマンやケレイトの地である。
 かってナイマンやケレイトの国が栄えていたのも、西方の文物をいち早く取りいれていたからであった、
 チンギス汗は、自分のきずいた国をいっそう強力にするためには、こうしたイスラムの商人を利用することが必要だと考えた。
 ウイグル人をつうじて、高い文明と、ひろい知識と、そうして交易の利益とを、いっしょに得ようとしたのである。
 イスラムの商人にとっても、チンギス汗の武力にたよることは、交通の安全のために便利なことであった。
 軍隊の力と、商人の力とが結びついたとき、そこには政治のうえでも、経済のうえでも、大きな発展が約束されよう。まさしくモンゴルの国力は、これより大いに発展してゆく。
 さて西夏の国は、モンゴルの西南にある。
 チベット系のタングート人が、十世紀の末に建てた国である。
 またモンゴルの東南は、金の帝国である。
 チンギス汗は、これらの国のようすを、ウイグル人にたずねた。
 これらの国と往来していたウイグル人は、その国内の事情をこまごまと報告した。
 そもそもモンゴリアに興った国は、この高原だけをにぎっていても、たいした発展は望まれない。
 そこは遊牧の土地であって、生産にも限りがある。
 したがって国力をのばそうとするには、交易によって物資を取りこまねばならない。
 交易ができないときは、掠奪する。
 モンゴルから西をむけば、中央アジア、すなわち西域であって、むかしからの東西貿易のルートである。
 南をむけば、ゆたかな中国の地がひろがっている。どちらに進んでも、財宝は得られよう。ただし中国の王朝が強いときには、すぐ西域に力をのばして、そこをうばってしまう。
 したがってモンゴリアの国は、どうしても中国と争わねばならなかった。
 西夏や金の国情に通じたチンギス汗は、ただちに遠征の準備をはじめる。
 モンゴルの統一をなしとげてから三年の後、すなわち一二〇九年、大軍は西夏の国都(興慶)をかこんだ。





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