『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
1 西方にむける目
全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。
それはモンゴルのものだけではなかった。
はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。
そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。
ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。
かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。
それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。
その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんであった。
その一部は隊商となり、ラクダにのって、はるばる東方へおもむき、交易をおこなった。
イスラムの隊商は、中央アジアをへて、西夏の国へはいり、それから中国やモンゴリアに達した。
モンゴリアにおいて、まず西方の人に接したのは、ナイマンやケレイトの地である。
かってナイマンやケレイトの国が栄えていたのも、西方の文物をいち早く取りいれていたからであった、
チンギス汗は、自分のきずいた国をいっそう強力にするためには、こうしたイスラムの商人を利用することが必要だと考えた。
ウイグル人をつうじて、高い文明と、ひろい知識と、そうして交易の利益とを、いっしょに得ようとしたのである。
イスラムの商人にとっても、チンギス汗の武力にたよることは、交通の安全のために便利なことであった。
軍隊の力と、商人の力とが結びついたとき、そこには政治のうえでも、経済のうえでも、大きな発展が約束されよう。まさしくモンゴルの国力は、これより大いに発展してゆく。
さて西夏の国は、モンゴルの西南にある。
チベット系のタングート人が、十世紀の末に建てた国である。
またモンゴルの東南は、金の帝国である。
チンギス汗は、これらの国のようすを、ウイグル人にたずねた。
これらの国と往来していたウイグル人は、その国内の事情をこまごまと報告した。
そもそもモンゴリアに興った国は、この高原だけをにぎっていても、たいした発展は望まれない。
そこは遊牧の土地であって、生産にも限りがある。
したがって国力をのばそうとするには、交易によって物資を取りこまねばならない。
交易ができないときは、掠奪する。
モンゴルから西をむけば、中央アジア、すなわち西域であって、むかしからの東西貿易のルートである。
南をむけば、ゆたかな中国の地がひろがっている。どちらに進んでも、財宝は得られよう。ただし中国の王朝が強いときには、すぐ西域に力をのばして、そこをうばってしまう。
したがってモンゴリアの国は、どうしても中国と争わねばならなかった。
西夏や金の国情に通じたチンギス汗は、ただちに遠征の準備をはじめる。
モンゴルの統一をなしとげてから三年の後、すなわち一二〇九年、大軍は西夏の国都(興慶)をかこんだ。
10 大モンゴル
1 西方にむける目
全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。
それはモンゴルのものだけではなかった。
はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。
そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。
ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。
かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。
それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。
その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんであった。
その一部は隊商となり、ラクダにのって、はるばる東方へおもむき、交易をおこなった。
イスラムの隊商は、中央アジアをへて、西夏の国へはいり、それから中国やモンゴリアに達した。
モンゴリアにおいて、まず西方の人に接したのは、ナイマンやケレイトの地である。
かってナイマンやケレイトの国が栄えていたのも、西方の文物をいち早く取りいれていたからであった、
チンギス汗は、自分のきずいた国をいっそう強力にするためには、こうしたイスラムの商人を利用することが必要だと考えた。
ウイグル人をつうじて、高い文明と、ひろい知識と、そうして交易の利益とを、いっしょに得ようとしたのである。
イスラムの商人にとっても、チンギス汗の武力にたよることは、交通の安全のために便利なことであった。
軍隊の力と、商人の力とが結びついたとき、そこには政治のうえでも、経済のうえでも、大きな発展が約束されよう。まさしくモンゴルの国力は、これより大いに発展してゆく。
さて西夏の国は、モンゴルの西南にある。
チベット系のタングート人が、十世紀の末に建てた国である。
またモンゴルの東南は、金の帝国である。
チンギス汗は、これらの国のようすを、ウイグル人にたずねた。
これらの国と往来していたウイグル人は、その国内の事情をこまごまと報告した。
そもそもモンゴリアに興った国は、この高原だけをにぎっていても、たいした発展は望まれない。
そこは遊牧の土地であって、生産にも限りがある。
したがって国力をのばそうとするには、交易によって物資を取りこまねばならない。
交易ができないときは、掠奪する。
モンゴルから西をむけば、中央アジア、すなわち西域であって、むかしからの東西貿易のルートである。
南をむけば、ゆたかな中国の地がひろがっている。どちらに進んでも、財宝は得られよう。ただし中国の王朝が強いときには、すぐ西域に力をのばして、そこをうばってしまう。
したがってモンゴリアの国は、どうしても中国と争わねばならなかった。
西夏や金の国情に通じたチンギス汗は、ただちに遠征の準備をはじめる。
モンゴルの統一をなしとげてから三年の後、すなわち一二〇九年、大軍は西夏の国都(興慶)をかこんだ。