僕を残して母がすぐ上の姉を連れて家を出たのは、僕が小学2年生の頃だったと思う。本当の理由はよくは分からないけれど、親父との性格的な相性、僕の厳しいおばあちゃんとの相性、そして、僕の家の赤貧がその理由だったと思う。

<Mother & Child>
お袋は親父と会う前に、親の決めたS氏と結婚したが、その人が若くして病気で亡くなったと聞く。二人の子供がいたが、彼らは旦那の実家にひき取られて、お袋は一人身だったようだ。お袋の親父は、長女のお袋をかわいがり、仕事の関係で当時住んでいた東京・駒込にお袋を引き取ったようだ。
僕の母方の家系は、林業で栄えた土佐の奈半利という町で商売をやっていた郷士だ。お袋の父は、熊本の旧制第五高等学校から東京帝国大学を卒業し、今のJT、大蔵省管轄下の専売局の局長(トップ)というお偉方だった。
そんな中、若い画学生の親父は、今でいうバイト的に浅草のタバコ屋で働いていたころ、その彼と知り合ったらしい。親父もお袋も、もちろん今は亡くなっているから、その経緯を明らかにすることは不可能だ。親父は独身の洋画家で結婚できる身。お袋は父親の命令で、僕の親父と二度目の結婚をしたわけだ。そこで、僕たち三人の子供が生まれた。
太平洋戦争の前は、親父は結構な生活をしていたようだ。「教会の徳山」というあだ名がついたくらいキリスト教会の風景画は人気だったようだ。経済的にも恵まれて、親父は谷中の借家住まいから、同じ谷中にアトリエを建てるまでになっていた。平和な家庭が出来ていたようだ。

<親父の描いた教会>
僕ん家の生活が急に苦しくなったのは、アメリカ軍の東京大空襲で、谷中のアトリエが焼け落ちたことが発端だ。夫婦と子供三人、そして女中代りにしていた祖母の六人は、途方に暮れた。こうして、僕の家も太平洋戦争の被害者となった。
親父は、東京には住むところもなく、B29の爆弾から逃れるため、親父の祖父の出身地、岡山県の山奥、旭川の水源地の上徳山に縁戚、知り合いを頼って疎開した。まさに着のみ着のままで、生活のあてもなく逃げ込んだ。

<岡山県真庭市蒜山上徳山 徳山神社:Google>
こんな山の中で、油絵を買ってくれる物好きがいるはずもなく、伝手を頼って村役場で臨時職員をやったり、頼まれ仕事で華奢な身を使って肉体労働をやったり、不安定な生活をしていたようだ。僕は4歳前のチビだったから、覚えてはいない。
親父は姉を上の学校に入れようと、すこし開けたK町に一家で移り住んだ。そこで、姉は女学校、のちに高校になる学校生活を始めた。親父に定職はなかった。K高校で臨時の美術教師をやって、わずかな金を稼いでいた。油絵は、ほとんど売れなかった。
その頃、僕の家は本当に貧しくて、食べるものも代用食の連続だった。僕が小学校に入った頃、昼の弁当を持っていくことが出来ず、昼休み時間に走って家まで帰り、お粥のような流動食を飲み込んで学校に走って戻っていた。
まさに、赤貧。母は、豊かな土佐の郷氏の娘。経済的に困ったことはない環境で育ったから、とてつもない貧乏生活には、心がついていけなくなったようだ。そして、僕のすぐ上の姉を連れて土佐に帰り、実家の援助を受けて高知城の近くに家を借りて生活を始めた。それが、僕の母との別れだった。

<お袋>
上の姉が女学校を卒業して、代用教員として岡山の山奥の小さな小学校に勤め始めた。すると家は、何時も怒っている親父と、おばあちゃんと、僕の三人家族になってしまった。結局、僕の少年時代は、お袋の温かさとか、やさしさを感じることのない環境で過ごしたことになる。
このことは、その後の僕の成長と、その後の人生の歩みに、大きな影響を与えたと思う。いい意味では、独立心が強く何でも自分でやろうという性格になり、他方、他人を頼るという、ある意味では普通のことが出来なくなっていた。何でも自分で…という生活の仕方が、僕の性格となった。
つまり、人に対しての思いやりや、優しさの不足した性格に育っていった。しかし、心の奥底には寂しさを貯めていたのだが、それに気付いたのは、僕が35歳になってからだった。仕事の上では仕事はできるけれど、独断的で、皆とのチームプレーが出来なかった。その根本には、子供が成長するにあたって必要だった、温かい援助的な母親の存在が欠落していたことも影響していただろう。
幸い、TA心理学の故O先生のコーチングと、今、100歳になるアメリカのMおばあちゃん先生の指導で、やっとリアルな自分を見つけだすことが出来た。僕の心のどこかには、今でも、母という懐かしい温かい存在を欲している自分がいるのかもしれない。

<故O先生と、100歳のミュリエル博士>
お袋がK町に短期間戻っていたことがある。その時に一度だけ、母の肌の物理的なぬくもりを感じながら、母に抱かれて寝たことを覚えている。小学3年生だったから、なんだか恥ずかしい気持ちになったのを、覚えている。
その後、お袋は、親父の再婚を機に親父と離婚し、僕と暮らすことはなく、すぐ上の姉の子供たちの面倒を見てすごした。母が亡くなっとき、その姉はお袋の墓を建て、最後まで面倒を見た。
結果として、お袋との関わりの薄い僕の人生だった。

<唯一の兄弟の写真:右二人は異父兄弟(故人)、左三人が兄弟>
P.S. Mother & Childの写真は、Jan Smithさんの写真をお借りしまし。
ライセンス:クリエイティブ・コモンズ 表示 2.0 日本
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます