FANCLから毎月送られてくる、"ESPOIR"という小冊子のようなものがあるんですね。
今月から角田光代さんのエッセイ“恋する”時間が始まりました。
そのエッセイがとても共感できましたので、一部を抜粋してみたいと思います。
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>女性は何歳になっても恋をしているべきだと、おもに女性向け雑誌で見ることがある。こんなふうにいわれるようになったのは昨今のことで、私の母親世代が聞けばまったく意味不明であろう。三十代も半ばだったころは、そういう言葉を見るにつけ、そうだそうだ、恋をすべきだ、と私は思っていたけれど、四十代も半ばにさしかかってみると、疑問が浮かぶ。
はて、それなら私たちはいくつまで恋をしていけたらいいのだ?
年齢を重ねたからといって、苦しみだけ免除された恋、なんて都合のいいものができるはずもない。四十代になっても、五十代になっても、はたまた八十代になっても、だれかに恋しては悶々としなくてはならないのだろうか。
と、真剣に考えて、ようやく気づく。恋じゃなくてもいいのである。
何歳になっても恋をしているべきだというのはつまり、枯れるな、というようなことである。加齢していくとどんどん「まっ、いっか」が増える。それはそれで楽なのだが、気がつけば、化粧も「まっ。いっか」、お洒落も「まっ、いっか」、何かはじめようかと思っても「まっ、いっか」で終わらせてしまうこともある。かつては刺激された好奇心や、興味や、わくわくする感じが、どんどん枯れてゆく。そうするとどうなるかというと、たぶん、表情やたたずまいが、どんよりするのだと思う。どんよりしているよりは、生き生きしていたほうがだんぜんいいじゃないか、という意味合いでの、「いくつになっても」なのだろう。
たとえその終わり方が苦しくとも、かっこわるくとも、恋は確実に人を成長させる。でも、もはや恋による成長は私には不要だと思っている。必要なのは、恋に似た何かだ。
きれいであるということが、服装や髪型や顔立ちといった、外見ばかりを意味するのではないと、年齢を重ねてから知った。内面の美しさというものは、善意や無垢さではなくて、外に向かって開かれていることを意味するらしいことも、だんだんわかってきた。意識が外にむいていれば、人を思いやることができるし、自我を押し通すこともない。そうしたものを失わず保ち続けるには、自分にとって何が必要か、知ることが先決なのだろう。恋に変わって自分をよろこばせ、ときに苦しめ、つねに外を向かせてくれる何か。私はいくつになっても〇〇をしているべきだ、と自分に向かて言い放てる何か。
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素敵な文章だなぁ。。 私もそうありたいものです。