何日か前に、Tさんにお電話をした。
留守録になっていたので、メッセージを残した。
二日後もう一度、日中に、電話を掛けた。
やはり、留守録になった。
翌日、もう一度掛けたが、つながらなかった。
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Tさんは、自宅を開放して宣教師さんを招き、「聖書の学び会」を開いておられた。
常時、10人ほどが集う学び会は、
Tさんのふんわりと包み込むような人柄を反映して、
じつにすばらしいサロンだった。
暮らし向きの豊かな方だったので、ちょっと古風なそのお宅には
もしや価値ある骨董品?と見える屏風やお軸やつぼ、絵画などが、
ほの暗い家によくなじんでいた。
月2回もたれる会の中心はもちろん、
聖書で、聖書の学びを導いて下さるヤング先生で、それ以上に、
そこに、臨在しておられる神さまだった。
クリスチャンとノンクリスチャンの割合は、4:5くらいだっただろうか。
私も、何年かはノンクリスチャンだった。
★
電話が通じないので、そこに集っていたHさんにお電話をした。
Hさんのご主人が出られて、
「Tさんはお亡くなりになりましたよ」。
「ええ! 私、去年の夏ごろにお電話を差し上げたんですが・・・」
「去年の夏に亡くなりました。」
「ええ、それはいつごろですか」
★
振り返ってみて、長い人生にはいろいろな場面があり、たくさんの方々と行き会った。
おおむね私は、人に恵まれていたと思う。
我が強く、「マイペース」を貫くので、みずから足元を険しくしたようなところがあったけれど、
多くの人の助けがあって、無事、ここまでたどり着いている。
それにしても、感謝なのは、
やはりTさん!
聖書は教養の一部(なんという傲慢!!)などと、
思い込んでいた私を、Tさんは、毎回電話を掛けてきて学びに招いてくださった。
先生に強い言葉で反論するようなときにも、
ご自分は一言も話さず、穏やかな笑みを浮かべてやりとりを見守っておられた。
「もちろん、入信して下さるとうれしいけど、それは神様のなさることだから」と、
言われ、けっして決心を促されるようなことはなかった。
ところが、
ある夜、私は
とつぜん、神様を「見た!」のです。※
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いろんな良い方々とお会いした人生だったけれど、
神様とお逢いできたことは、最高の出来事だった。
最後に大当たりを引いた福引みたいなものだ。
その日まで、忍耐強く、私を招き続けて、導いてくださったTさんは、命の恩人です。
なんと言っても、「永遠のいのち」につなげて下さったのです。
Tさんの死に、もちろん、喪失感はあります。しかし、
悲しみや恨みはありません。
私たちは、いつか必ず、天国でお会いできるのです。
一度だけ、誰かがTさんに尋ねたことがあります。
「(信じれば)ほんとうに平安がありますか」
「ええ、もちろん、ありますよ」
Tさんは、穏やかに言われたのです。
心臓に持病を抱えておられたTさんは、あの時も、
永遠を思い浮かべておられたに
違いありません。
地上での最後の日にお会いできなかったけれど、
いつもの笑みを浮かべて、天に旅立たれたことでしょう。
★
天国でお会いしたら、「ありがとうございました」と申し上げなければなりません。
でも、やっぱり、ふんわりと言われると思うのです。
「なんのこと? 」
※ たとえば、彫刻や映像のように姿かたちのあるものを見たのではなく、
そこで起こったみわざ(神さまの働き)のことです。