ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

大切な人

2016年03月17日 | 日記



      何日か前に、Tさんにお電話をした。
      留守録になっていたので、メッセージを残した。

      二日後もう一度、日中に、電話を掛けた。
      やはり、留守録になった。
      翌日、もう一度掛けたが、つながらなかった。
      
         

      Tさんは、自宅を開放して宣教師さんを招き、「聖書の学び会」を開いておられた。
      常時、10人ほどが集う学び会は、
      Tさんのふんわりと包み込むような人柄を反映して、
      じつにすばらしいサロンだった。
      暮らし向きの豊かな方だったので、ちょっと古風なそのお宅には
      もしや価値ある骨董品?と見える屏風やお軸やつぼ、絵画などが、
      ほの暗い家によくなじんでいた。

 
      月2回もたれる会の中心はもちろん、
      聖書で、聖書の学びを導いて下さるヤング先生で、それ以上に、
      そこに、臨在しておられる神さまだった。

      クリスチャンとノンクリスチャンの割合は、4:5くらいだっただろうか。
      私も、何年かはノンクリスチャンだった。
      
         

      電話が通じないので、そこに集っていたHさんにお電話をした。
      
      Hさんのご主人が出られて、
      「Tさんはお亡くなりになりましたよ」。
      「ええ! 私、去年の夏ごろにお電話を差し上げたんですが・・・」
      「去年の夏に亡くなりました。」
      「ええ、それはいつごろですか」

         

      振り返ってみて、長い人生にはいろいろな場面があり、たくさんの方々と行き会った。
      おおむね私は、人に恵まれていたと思う。
      我が強く、「マイペース」を貫くので、みずから足元を険しくしたようなところがあったけれど、
      多くの人の助けがあって、無事、ここまでたどり着いている。

      それにしても、感謝なのは、
      やはりTさん! 
      聖書は教養の一部(なんという傲慢!!)などと、
      思い込んでいた私を、Tさんは、毎回電話を掛けてきて学びに招いてくださった。
      先生に強い言葉で反論するようなときにも、
      ご自分は一言も話さず、穏やかな笑みを浮かべてやりとりを見守っておられた。

      「もちろん、入信して下さるとうれしいけど、それは神様のなさることだから」と、
       言われ、けっして決心を促されるようなことはなかった。

      
      ところが、
      ある夜、私は
      とつぜん、神様を「見た!」のです。

          

      いろんな良い方々とお会いした人生だったけれど、
      神様とお逢いできたことは、最高の出来事だった。
      最後に大当たりを引いた福引みたいなものだ。

      その日まで、忍耐強く、私を招き続けて、導いてくださったTさんは、命の恩人です。
      なんと言っても、「永遠のいのち」につなげて下さったのです。

      Tさんの死に、もちろん、喪失感はあります。しかし、
      悲しみや恨みはありません。

      私たちは、いつか必ず、天国でお会いできるのです。
      一度だけ、誰かがTさんに尋ねたことがあります。

      「(信じれば)ほんとうに平安がありますか」
      「ええ、もちろん、ありますよ」  
      Tさんは、穏やかに言われたのです。

      心臓に持病を抱えておられたTさんは、あの時も、
      永遠を思い浮かべておられたに
      違いありません。
      地上での最後の日にお会いできなかったけれど、
      いつもの笑みを浮かべて、天に旅立たれたことでしょう。

     
          

          天国でお会いしたら、「ありがとうございました」と申し上げなければなりません。
          でも、やっぱり、ふんわりと言われると思うのです。
          「なんのこと? 」
               
    
       たとえば、彫刻や映像のように姿かたちのあるものを見たのではなく、
                    そこで起こったみわざ(神さまの働き)のことです。