乙武さんの不倫騒動があちこちで火種になっていて、
ネットやマスコミをにぎわしています。
でも、なんだか釈然としない取り上げられ方ですよね。
乙武さんが、ベストセラーで話題になったときにも、
なんだか釈然としなかったのです。
「重い障害があるのに、こんなにも明るくて、なんでもできて、優秀!」みたいなイメージに、
「まあ、よかったね」というしかなかったのですが。
「こんなの、障害者の実像じゃない!」という障害者がいたとしても、
そうした声をかき消すような「喝采」があったような気がします。
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乙武さんは、世間に乗せられたのかもしれませんね。
本がベストセラーになったこと、それも破格のベストセラーだったことは事実です。
「五体不満足」かもしれないけれど、
イケメンで、明るくて、頭の良い青年の、健気な姿は、
多くの人に感動を与えたのですし、
あちこちから引っ張りだこになったとはいえ、
引っ張りだこにしたのは、世間だったのです。
自己イメージと、世間の見るイメージの乖離は、だれでもあるわけですが、
よいイメージがどんどんひとり歩きしていったら、「ノー」と言う機会を失うのは
自然かなとも思います。
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施設で障害者の方々と接していたこともありますし、友人、知人、血縁にも重い障害者がいるので、
多少はわかるのです。
障害者と一口に言っても、じつに千差万別です。
手足がなくても、手足がそろっている人より、はるかに能力が高い場合もあるでしょう。
反面、
どんなに教えてあげても、字が読めるようにならない人、簡単な単語さえ発することができない人、
車いすで姿勢を固定することさえ困難な人も、
身体障害、知的障害、重い難病と三重苦の障害を持つ人さえ少なくないのです。
やっと呼吸をしているだけのいのちでも、生きるために援助して上げるべきなのです。
とはいえ、
障害に手助けする側からすると、
自分は、少しも、人助けになっていないと無力感を覚えることもあるのです。
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乙武さんは、「かっこいい!」のです。
乙武さんを見ていると、いつのまにか、
障害者、健常者の垣根を超えて、拍手した人たちも多かったのではないでしょうか。
だって、健常者と言われる人たちも、いろいろ不自由をかこっていて、
自分の子どもや、自分の夫や、何よりも、なかなか思うようにならない自分自身にもがいていて、
でも、みんな、乙武さんみたいに、きっと変われる!
そんなわけで、乙武さんは、スーパーマンにさせられてしまったのかもしれません。
結果、たしかに「希望の星」であったのです。
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気がついたときから、出直せばいいと思うのです。
世間の思惑ではなく、ほんとに自分がなりたかった自分って、何だろうと、
自分と向き合って考える時間はあるのです。、
「健全パパ」か。自由奔放人生か、教育者タイプか、議員タイプか。
ほかにも無数の可能性があるはずです。
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私たちは、何度でも生まれ変われるのです。
そんな人はたくさんいます。
ぜひ、やり直していただきたいのです。
イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼について、イエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。」
(新約聖書・ヨハネの福音書9章1節~3節)
佐々木牧師と
ベン・バランさんと、そのご家族、(2014年3月22日の記事をごらんください)