ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

怪談2 キヨばあさん

2016年06月22日 | 季節

      
         たしか、キヨばあさんと呼ばれていた。
       痩せた小さなからだ、
       引きつめた真っ白の髪、しろっぱい着物――冬場は消し炭色に見える――
       風呂敷の荷物を腰に巻いて、ものすごい速さで歩く姿。
       町から2キロほどの山裾に住んでいるということだった。
       小学生の私から見ると、女の仙人さながら、
       でも、今どきの、孤老とは違う。町とばあさんの家との中間に、娘一家が暮らしていて、
       孫の男の子もいて、おばあさんは、80歳をすぎていたけど、
       何か仕事をしているということだった。毎日、町と家を2度3度往復する。
 
       彼女の変人ぶりは、いろいろとうわさされていた。
       「あの人は、若いころ、娘を売ったんだって。たくさんいたらしいよ」
       「あの人は、占いを商売にしていたらしい」
       「イノシシを殺したことがある」
       「いや、男を殺したんだよ」

       テレビも、なかった。まして、ネットなどない時代、小さな町のうわさは、
       どんどんふくらんで、子どもの耳にも時折、大人のおしゃべりが入ってくる。

              ★ ★★★

       「キヨばあさんが死んだんだって」
       夕飯のとき、母が言った。
       「誰も知らん間に死んでいて、警察が検視に来たって。
       「死後、10日も経っていたんだって」
       中学生になったばかりの兄が、めずらしく首を伸ばして話を引き取る。

       「10日も見つからなかったなんて、娘もいて、なにしていたんかしら」と母。
       「ぼく、3日ほど前に、会った気がするけどなあ。街道を飛ぶように山奥へ急いでいたで」

       母の目がきらりと、兄を見返した。
       いつもなら、「ええ加減なことを言いなさんな」と、たしなめる場面だ。
       「そう。ほんま?」と念を押した。
       「それがね。カワムラさんも、そういうのよ。一昨日ばあさんを見たって」
       「ほかにも、アネサキさんが、3日前に、おばあさんにパンを上げたって」
       アネサキさんは、私の友だちの家で、小さなパン屋さんだった。

       「そういえば」
        母は一番下の弟の口に、箸で小さくした大根の煮物を押し込んでいた。

       「それがね。アネサキさんのところに来たのは、夜やったんやって」
       「元気な人やったけど、夜に出歩くような人やなかったから、
       幽霊やないかと、ヨシザキさんのご主人が言うてね。」
       「思い出した。ぼくが見たのも、夜やった、ほら、柔道のけいこの帰り」

       「いややね。なんか、ぞーっとしてきた」
       母は、はやおびえている。
       「そろそろ、お父さん帰ってきはるかな」
       心細くて、私は妹と顔を見合わせた。

       「ねえちゃん」
        妹が、箸を持った手で窓を指した。
       「だれかがいる」
       「ヘンなこと言うな」
       兄がちゃぶ台に茶碗と箸を置いて、怒鳴った。すっかりびびっている。

       そのとき土間の先の勝手口がどんどんとノックされた。
       「どちらさん?」
       母の声も、とがっている。
       「どちらさん?」
       「早く開けなさい」
       父の声に、私は立ち上がった。掛け金を外して戸を開けた。
       「お客さんや。キヨばあさんが用があるそうや」

       「何の用か聞いてきてください」
       母があまりにつっけんどんな口調だったので、父は庭の方へまわった。
       父はしばらくして戻ってきて、言った。
       「ヘンやなあ。確か、門の内側に立ってはったんやが。玄関のかぎを開けてくれるか。
       玄関がしまっていたからこっちへまわったんやから」

            ★★ ★★ 

       「脅かさんといてください」
       父と向かい合って、お茶を飲みながら、母が言った。
       「ほんまに、キヨばあさんやったんですか」
       「さあ。」
       珍しく飲んで帰ってきたらしい父は、機嫌が良かった。
       「名前を名乗ったわけやないけど、だれかいたことは事実や」
       「10日前に亡くなった人ですよ」
       「ほんなら、別人でしょう」
       「はっきりしてください」
       「じゃあ、別人やろ」

       父は煙草に火をつけて、つぶやいた。
       「別人が嫌なら、キヨさんにしとこう」

       私は自分の部屋から出て、手洗いに行く所だった。
       足がすくんで、動かなくなった。
       キヨさんのうわさは間もなく消えた。
       暑い長い夏が始まっていた。

       「キヨさん。どないしてるんやろ。こんな暑い時こそ、出番やのに」
       カワムラさんと、アネサキさんが、立ち話していた。

       テレビのない時代。
       だれもが「話題の人」になった時代。