たしか、キヨばあさんと呼ばれていた。
痩せた小さなからだ、
引きつめた真っ白の髪、しろっぱい着物――冬場は消し炭色に見える――
風呂敷の荷物を腰に巻いて、ものすごい速さで歩く姿。
町から2キロほどの山裾に住んでいるということだった。
小学生の私から見ると、女の仙人さながら、
でも、今どきの、孤老とは違う。町とばあさんの家との中間に、娘一家が暮らしていて、
孫の男の子もいて、おばあさんは、80歳をすぎていたけど、
何か仕事をしているということだった。毎日、町と家を2度3度往復する。
彼女の変人ぶりは、いろいろとうわさされていた。
「あの人は、若いころ、娘を売ったんだって。たくさんいたらしいよ」
「あの人は、占いを商売にしていたらしい」
「イノシシを殺したことがある」
「いや、男を殺したんだよ」
テレビも、なかった。まして、ネットなどない時代、小さな町のうわさは、
どんどんふくらんで、子どもの耳にも時折、大人のおしゃべりが入ってくる。
★ ★ ★★★
「キヨばあさんが死んだんだって」
夕飯のとき、母が言った。
「誰も知らん間に死んでいて、警察が検視に来たって。
「死後、10日も経っていたんだって」
中学生になったばかりの兄が、めずらしく首を伸ばして話を引き取る。
「10日も見つからなかったなんて、娘もいて、なにしていたんかしら」と母。
「ぼく、3日ほど前に、会った気がするけどなあ。街道を飛ぶように山奥へ急いでいたで」
母の目がきらりと、兄を見返した。
いつもなら、「ええ加減なことを言いなさんな」と、たしなめる場面だ。
「そう。ほんま?」と念を押した。
「それがね。カワムラさんも、そういうのよ。一昨日ばあさんを見たって」
「ほかにも、アネサキさんが、3日前に、おばあさんにパンを上げたって」
アネサキさんは、私の友だちの家で、小さなパン屋さんだった。
「そういえば」
母は一番下の弟の口に、箸で小さくした大根の煮物を押し込んでいた。
「それがね。アネサキさんのところに来たのは、夜やったんやって」
「元気な人やったけど、夜に出歩くような人やなかったから、
幽霊やないかと、ヨシザキさんのご主人が言うてね。」
「思い出した。ぼくが見たのも、夜やった、ほら、柔道のけいこの帰り」
「いややね。なんか、ぞーっとしてきた」
母は、はやおびえている。
「そろそろ、お父さん帰ってきはるかな」
心細くて、私は妹と顔を見合わせた。
「ねえちゃん」
妹が、箸を持った手で窓を指した。
「だれかがいる」
「ヘンなこと言うな」
兄がちゃぶ台に茶碗と箸を置いて、怒鳴った。すっかりびびっている。
そのとき土間の先の勝手口がどんどんとノックされた。
「どちらさん?」
母の声も、とがっている。
「どちらさん?」
「早く開けなさい」
父の声に、私は立ち上がった。掛け金を外して戸を開けた。
「お客さんや。キヨばあさんが用があるそうや」
「何の用か聞いてきてください」
母があまりにつっけんどんな口調だったので、父は庭の方へまわった。
父はしばらくして戻ってきて、言った。
「ヘンやなあ。確か、門の内側に立ってはったんやが。玄関のかぎを開けてくれるか。
玄関がしまっていたからこっちへまわったんやから」
★★ ★★ ★
「脅かさんといてください」
父と向かい合って、お茶を飲みながら、母が言った。
「ほんまに、キヨばあさんやったんですか」
「さあ。」
珍しく飲んで帰ってきたらしい父は、機嫌が良かった。
「名前を名乗ったわけやないけど、だれかいたことは事実や」
「10日前に亡くなった人ですよ」
「ほんなら、別人でしょう」
「はっきりしてください」
「じゃあ、別人やろ」
父は煙草に火をつけて、つぶやいた。
「別人が嫌なら、キヨさんにしとこう」
私は自分の部屋から出て、手洗いに行く所だった。
足がすくんで、動かなくなった。
キヨさんのうわさは間もなく消えた。
暑い長い夏が始まっていた。
「キヨさん。どないしてるんやろ。こんな暑い時こそ、出番やのに」
カワムラさんと、アネサキさんが、立ち話していた。
テレビのない時代。
だれもが「話題の人」になった時代。