ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

生命力と運

2017年09月21日 | 思い出


    きのうのブログの続きです。

    100歳ほども長生きの方を
    食べ物だけで、その秘訣を見る、そのゆるゆるぶりを、ちょっと笑ってしまいました。
    食べ物はもちろん大切だけどね・・・。
    まあ、あの方たちが、私もしょっちゅう食べている「平凡な食材」だったと聞いて
    ホッとしている人は多いのではないでしょうか。

      

    でも、やっぱり生命力と運だよねえと、思うのです。

    食事など選んでいられなかった時代、身近にお医者さんがいなかった時代には、
    なんと言っても、「丈夫に生まれつくこと」が一番だったような。
    丈夫に生まれついても、戦争に取られるような時代だったし、戦場で、
    あたら若いいのちを失うことも多く、いのちを担保に働く男たちは、必然的に
    女性より短命だったかとも思うのです。

     

    遠縁のヨシさんを思い出しました。
    50年前に80歳半ばだったので、もちろん、もう生きてはおられないでしょう。


生命力と運の強い人と、みんなに言われていました。
    いつもうわさになっていたけれど、私が実際にお会いしたのは一度だけです。

    彼女は、9人の子持ちでした。3人の娘を連れ子して、3人の息子がいる人に嫁いだのです。
    なぜ再婚をしたのか。今のように、不倫、再婚ではなかったでしょう。
    男も女もつれあいを失くす確率は、今よりずっと大きかったのです。

    再婚して、3人の子どもが生まれたので、9人の子持ちとなったのです。

    彼女の住んでいたのは、小豆島です。
    雨の少ない、段々畑の地で、彼女は来る日も来る日も農作業をし、
    9人の子と夫と舅姑の世話をしていました。、
    どれくらいの規模の農家だったかはわかりませんが、彼女は大変な働き者で、

    子ども9人に汚れたものを着せていたことがない、本人も場面に応じて、
    マメに着替えをし、いつも身綺麗なお嫁さんだったとか。
(洗濯機のない時代です!)
    まだ、村うちでは、義務教育だけで学校をやめさせる家庭が多かった時、
    男の子にも、女の子にも、
    女学校、中学校(今の高校)へ行かせ、

    その働きぶりで、村(?)から表彰をされたこともあると聞きました。

       

    その日、私の母が、なぜか私をつれて、ヨシさんの娘の家を訪ねていたのです。ヨシさんの娘のひとりが
    私の叔父の奥さんだったのです。
    叔父の奥さんになった人はすでに亡くなっていましたが、親戚づきあいはあったのでしょう。

    母が用事を足している間、ヨシさんと私は二人だけになったのです。
    彼女は、骨格のしっかりした美人おばあちゃん(と、私には見えたのです)で、
    気さくな笑顔に、私は親しみを感じていました。

    私は、「大家族だったそうで、大変でしたね」とか何とか、申し上げました。

    「ええ。それはもう。で、私は、いろいろやりましたよ。」
    とヨシさんは答えました。
    「子供全員に仕事をあてて、やらせるの。それはそれは、仕事が多かったからね。
    学校に行く前にすること、家の手伝いですること、野良で手伝うこと、
    そりゃたくさんありましたからね。」


    「私はね、竹を9本、筒に切って、土間にかけておくの。それぞれに、子どもの名を書いて、
    担当の手伝いができていたら、一銭を入れてあげるの。」

    毎日、そうして、子どもたちにご褒美を上げたのよ」

    そっか~。と私は合理的思考のおばあ様を見つめました。

    「そうよね。そうしてくれれば、あたしだってもう少し家の手伝いをできるかも」
    と、思ったかどうかは覚えていないのですが、
    いわゆる「継子(ままこ)」のいる複雑な家族関係の中で、
    それをとても上手に、切り盛りしていたという彼女の秘密を聞いたと思いました。

       

    私は、丈夫で、たくましく働き者で、合理的思考の、ヨシさんのようなおばあちゃんに、
    なれそうもありませんが、

    50年後、のちの世代の人に、
    「そういえば、あのおばあさん・・・」と自分の語ったこと→生きざまを、
    だれかに思い出させる力も、
    はたして、私にはあるかしらと思うのです。

    ヨシさんのような人こそ、本当の長生きをしているのではないかしら。
    でも、それって、生命力がなくては無理!と
    言い訳しているのです。