聖書の学び会(注、今はZOOMで行っています)で、サムソンの箇所を担当することになったので、予習と復習を兼ねてかつて書いたブログ記事を読み返しています。これがなかなか面白いのです。元の聖書の記事が面白いからでしょう。荒唐無稽で型破りなサムソンの物語は、何度か映画になったようですが、アニメにも小説にもなりそうです。悲壮、壮絶な内容なのですが、わくわくとさせて魂をゆさぶってきます。連載は10回ほどあるのですが、そのひとつだけを紹介させてください。ちょうど賭け事の話になっていて、かつて、さとうがイギリスに行ったとき、ドッグレースに賭けて負けた話も告白しています。
Coffee Breakヨシュア記・士師記126 賭け事と聖書(士師記14章11節~17節)
成人したサムソンは、異教徒であるペリシテ人の女に恋をしてしまいます。
息子の恋にまゆをひそめる父に無理を言って結婚にこぎつけます。両親といっしょに、女のいる町に行き、結婚式を挙げるのです。
サムソンは、その結婚式の最中に、招待した花嫁側(ペリシテ人)の三十人の客に対して、謎なぞを出すのです。
サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを説いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着を上げましょう。(士師記14章12節)
もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせて下さい。」(13節)
そこで、サムソンは彼らに言った。
「食らう者から食べ物が出、
強い者から甘いものが出た。」
彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。(14節)
四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「あなたの夫をくどいて、あのなぞを私たちに明かしてください。さもないと、私たちは火であなたとあなたの父の家を焼き払ってしまう。あなたがたは私たちからはぎ取るために招待したのですか。そうではないでしょう。」(15節)
このような乱暴な説得方法は、今の私たちが聞くとアンフェアだと思います。女がサムソンにねだって答えを聞かなければ、仲間のペリシテ人が、女も女の父もその家も焼いてしまうと言うのです。殺すと言われた女は、サムソンを泣き落としにかかります。
「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」すると、サムソンは彼女に言った。「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしていない。あなたに、明かさなければならないのか。」(16章)
サムソンは、愛する女の泣き落しをも退けました。しかし、結局、負けてしまうのです。
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聖書はとくには、賭け事を禁止していない。サムソンは、少々ムリななぞを出したかもしれないけれど、宴会の余興として特別非難されることでもないと思われるでしょうか。
私自身は賭け事・勝負事は苦手です。うまく勝てないからというより、たんに体質に合わないということです。麻雀の台を囲むのを社交の場としている「品の良い豊かなご婦人」も知っていますし、囲碁・将棋は、たんに勝気や真剣さ、まして射幸心などでは到底できないものだとも思っています。トランプは、やり方によってはとてもスマートなゲームなのでしょうが、いつも負けてしまいます。パチンコやスロットなら、私にもできるでしょうが、単純すぎてすぐに飽きてしまいます。
宝くじを買ったこともありますが、当たったのは、十枚に一枚当たる仕組みになっている続き番号の一枚だけです。だれかに、「十枚も買うならお寿司でも食べた方がいいよ」と言われて、すぐに、「そうよね」と思うのです。
そんな私でも、賭け事の魅力に、ほんの一瞬取りつかれたことがあります。今から二十年以上も昔(2012年の時点です)、イギリスでドッグレースを見に行ったときです。せっかくイギリスまで来たのだから、一度は見たいと思っていたところ、英語学校の仲間が数人行くと言うのです。
犬をどうやって走らせるのかしらと、興味はその程度でしたが、行ってみると、郊外にあるレース場はとてもりっぱで、陸上競技大会でも開けそうなほどでした。夜でしたから、明かりが煌々とグランドやトラック、客席を照らし出しています。客席には、貴賓席もあり、また割増料金を払うと、レストランのような建物の中で、飲み食いしながらトラックが見渡せるようになっているのです。
お金のない私たちは吹きっさらしの階段状客席で見物したのですが、客席の前には、あちこちに、「予想屋」さん。後ろには、テレビ画面があり、天井からも大きな表示板が吊ってあって、つぎつぎと出走する犬や掛け率の紹介をしています。いたるところに、自販機のような券売機もあり、馬券ならぬ犬券を買うことができるのです。だいたい一枚一ポンド(当時、二百六十円くらい)です。私は、初めの数レースはただ見物していたのですが、せっかく来たのだから、やはり賭けてみないと面白さがわからないかもと思って一枚だけを、機械で買いました。
と、なんとこの一枚が当たって、一ポンド六十ペンスになりました。嬉しくなって、この一ポンドを賭けました。とりあえず、六十ペンスは儲けているという変な錯覚がありました。しかし、つぎは、もちろん外れました。その時、ふと、もう一回買ったら、当たるかもしれないと思ったのです。それも外れ、次も外れ、けっきょく、十ポンドほど損をしたところでやめたのですが、普通なら絶対ありえない自分の行動は、いまでもふしぎです。
ステイ先の奥さんにその話をすると、犬好きの奥さんは、「犬を走らせることそのものに反対だ」とにべもありません。私も、返す言葉がありませんでした。
確かに、模型のラビットを追わせて犬を走らせ、そこで人間が血眼になってお金を儲けるのは、あらゆる意味でばかげているかもしれません。
賭け事は、人をスポイルしてしまうと言うのが、私の小さな損失から得た大きな教訓です。神様がお許しになるはずはない?です、よね。
註、今も、ドッグレースが行われているかどうかは、わかりません。動物愛護に熱心なイギリス人には、当時でも賛否両論があったようですから。