GOOから、一年前の記事が送られてきたので、再録させてください。
癒しの問題は、私たち「病む可能性がある者」にとって、人生の大きな課題です。
何故、人は病気になるのか。もっといえば、なぜ老い、死んでいくのか。
生まれ、成長する祝福と同じように、生き物のサイクルとしてセットされているこの「運命」を
ただ、うろたえて嘆く限り、癒しという言葉に飛びつくのではないでしょうか。
一年前の記事
心霊術で病気を治すといって、糖尿病の子どもの治療を引き受け
インスリンの投与をやめさせ、医師からも遠ざけたので、結果的に子供は亡くなったという
痛ましい話がニュースになりました。
このような、呪術師?、心霊術師? 祈祷師?ともつかない人がいるのは、
私も知らないわけではありません。
しかし、このような人たちの手を借りなくても、
奇蹟のようないやしは、誰でも(普通の人でも)、一度や二度経験することがあるかもしれません。
私自身について告白しますと、何度か、はっきりとした「癒し」を体験しています。
それは実に、一瞬で、変化が確かで、自分でも「信じられないほどの」奇蹟でしたが、
それについてこういうブログで具体的に書くのは、信仰について誤解を招くので割愛します。
ただ、自分が祈って、癒しが起こったからと言って、自分にいやしの力があるなどとは、
夢にも思いません。いやしてくださったのは神です。
もちろん、祈っても聞いてもらえないこともあって、インフルエンザで寝込むこともあり、
食中毒で「参った」こともあります。
何故、祈りが聞き届けられるときと、そうでないときがあるのかはわかりません。
私たちはただ、神のなさることに対して謙遜にならなければならないと、学ぶのです。
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重い病状が奇跡のように引いたときは、
神さまが、憐れんで下さって聞いてくださったのだと思い、そういう時は、いつにもまして
神様をほめたたえます。
自分の祈りが聞いていただけたからと言って、他の人に
「癒してあげよう」などと申し出ることは、ありません。
健全なキリスト者であれば、
牧師であっても、ベテランの信徒であっても、「私が癒してあげましょう」などとは、
絶対に言わないはずです。
医術を使わず癒すことができるのは神さまだけであって、
人間にはできないと「知って」いるからです。
もちろん、頼まれれば、例えば
教会の中で、また友人や知人に対して「祈って差し上げる」ことはありますが、
それは、「とりなしの祈り」といって、願い求めている人とともに祈ることなのです。
「自分には、いやす力がある」となどという人は、まずインチキではないでしょうか。
新約聖書には、イエス・キリストによるいやしの話が目白押しです。
けれども、聖書的には、これは、ふしぎではありません。
「イエスは神」だからです。
イエスの弟子たちが、イエスから権能を授けられて、「癒しを行う」場面がありますが、
それに対して、イエスは、
「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と命じておられます。
神がなさったことで、「儲ける」のは、禁じられているわけです。
まして、教祖(人間)を、神であるかのように見上げるのは、神の御心に反することです。
オ●ム事件などもそうでしたが、いかがわしい宗教にひっかかるのは、
本物の宗教を知らないことも、大きいと思います。
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★ ★ ★★ ★
私自身は、もちろん、
病気や体についても、神さまが一番よくご存じだと信じています。
私のからだを、CTやMRIよりも、見通しておられるのが、神様です。
私たちは、どんなにがんばっても、
神様がごらんになるようには、物を見ることはできないのです。
じっさいには、資格のある誠実で熱心なお医者様が、一番私たちのからだを熟知して下さるのです。
治療を依頼できるのも、お医者様です。
ただ、どれほどすばらしいお医者様でも、全能でないのは、
お医者様ご自身が,一番よく知っておられるのと思うのです。
人としての最善を尽くしながら、
人の力の超えたところを、神に願い、
祈るのが、人としての正しい在り方だと考えるのです。
何事も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝と願いをもってささげる
祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(新約聖書・ピリピ人への手紙4章6節7節)