善隣門のすぐ近くにある「楽園」は半世紀以上続く老舗。しかし、その間口の狭さから、観光客などは知らず知らずのうちに通り過ぎていってしまう。足の短い私ですら4歩で店舗前を渡り切れる。 ただ、間口のわりに奥行きはすごい。かなり細長い店なのである。 先日、久しぶりに訪問してみた。時間は2時過ぎだったろうか。間もなく休憩に入ってしまうから、前半戦の最後の客だったと思う。 すでにサービスランチは終わっているので、五目焼きそばを注文した。 王道の焼きそばである。麺の焼き加減がいい♪ 海老、イカ、肉、野菜などの火のとおりも絶妙で、なんといっても具材を絡めるアンの味が好ましい。 食べ終わって最後の『皿ひと舐め』をしたかったがやめておいた。 この店はいつからやっているのか、地図でちょっと調べてみた。こういうときに便利なのが明細地図だ。 「楽園」のことだけではなく、その周辺の店のこともよく分かる。 遡れる最も古い昭和31年、この場所には「南国行」というのがあった。 昭和34年。現在の「横浜大飯店」のところは「横浜華銀」があった。その隣が今回話題の「楽園」が建っている場所だ。 当時、そこには「バー・スポット」があった。「バー・キャッスル」、「レストラン・マルコポーロ」なんてのもあり、洋風の店が混じっていたことが分かる。 「萬珍楼」、「華勝楼」、「均元楼」は当時からあったのだが、そのうちの一つ「華勝楼」は残念ながら今年、廃業してしまったが…… 昭和37年。バーが2軒とも消えて、その跡が空き地になっている。おそらく、ここに「楽園」が建設されるのだろうね。 「北京楼」が「北京飯店」に変っているが、これって、現在「東門」下にあるあの「北京飯店」なのかな。 「華洋楼」に替わって「広新楼別館」ができている。 角にあった「横浜華銀」は「横浜大飯店」に。現在、「横浜大飯店」と「横浜華銀」が同じ建物に入っているが、このような形はこの時から始まったようだ。(その後立て直しているのだろうが) 昭和40年。「楽園」の名前が出てきた。昭和38年、39年の地図が手元にないのでよく分からないが、おそらく38年頃ここにできたのだろう。それ以前はどこか別の場所でやっていたのかなぁ。 「レストラン・マルコポーロ」のあとに「永安楼」ができていた。 その後の周辺の変遷はどうかというと…… 「保生堂山下薬局」と「北京飯店」を合わせた部分が「大胡飯店」となったが、現在、そこには「皇朝」が入っている。 「広新楼別館」の場所は「揚州飯店別館」になり、その後「龍州飯店」を経て、現在は「中国飯店」となる。 「永安楼」も数年前にやめてしまい、今は「龍盛飯店」に入れ替わっている。 最後に「楽園」の記事をいくつか載せておくので、今後の参考にしてね。 牛肉とトマトの炒め チャプスイ チャプスイ レバニラ炒め チャプスイ レバニラ炒め 鶏肉と野菜炒め・ラーメン・焼売 牛バラご飯 チャーシュー麺 スペアリブの煮込み 酢豚 呑み会 冷やし中華 ワンタンメン ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
中華街では自転車を停める場所がありませんが、
そんな中でも穴場があります。
なんと、駐輪禁止区域になっていない路地があるのです。
整備された駐輪場が数分のところにあれば、とはいつも思いますがあの立地を見ると「今さら駐輪場」という雰囲気も感じます。
以前は法事の折などに使わせていただきましたが、この記事を見て、次回からこのあたりに来る際は外さないようにします。