前回の訪問から数日経ったある日のこと。 お店の歴史のことをもっと聴きたかった…、ピザトーストを食べてみたかった…そんな思いが高まって再び「閑古鳥」を訪れてみました。 よくよく見ると、ここに小さな小さな表札があったのです。 たしかに民家なんですね。 他所のおうちのような玄関。 戸の左には呼び鈴があるので、押した方がいいのか、それともそれは無視して戸を開けたらいいのか… 行ってみようと思う方は、ベルを押さなくてもいいですよ。 ガラリと開けてみてください。 ガラリ~(戸を開ける音) 前回からそれほど日にちが経っていないこともあって、奥から顔を出した店主が 「あら~、いらっしゃ~い 」と。 今日は暑いので、玄関すぐ左側の一室に案内されました。 「暑いでしょ~、ここで涼んでくださいね」 私はダイニングルームに行きたかったのですが、その前にとりあえず汗を拭ってくださいということのようでした。 ヒンヤリした部屋で、すぐに冷たいお水とオシボリが運ばれてきました。 前回は気がつかなかったのですが、ここも客室なのですね。 書棚には、ここの家族が読んでいるのであろう書物がズラリと並んでいます。 その手前に置かれている小さな食器類は、スェーデン製の子ども用鍋など。蒸し器もあります。 いわゆるオママゴト用品ですね。 この部屋に私が入る前には、マダムがミニチュアのキッチンを組み立てるためマニュアルを読んでいたようです。 ここでひとしきり、日本と西洋における玩具の違いについての薀蓄をお聴きします。 日本のものはプラスチック製で、みるからにオモチャという感じですが、あちらのは本物をそのまま縮小しているらしい。 だから、ここに置かれている調理道具だって、一人分の料理を作ることができるようです。 「マニュアルでも読んでいてくださいね」と言ってマダムはキッチンに。 しばらく、書棚の本を読んでいたら、「こちらへどうぞ~」と声がかかります。 案内されたのは前回も座ったダイニングキッチンのテーブル席♪ そして注文したピザトーストセットの一部分が登場します。 まずはスープとサラダ。 食事をしながらカウンター内のマダムから昔話を聴きます。 この家はねぇ、30年前に建てたんです。 山手は洋風の建築が多いでしょ。 でも、うちは和風にしました。 それも、できるだけ木をいかしてね。 たしかに木部が目立つ造りです。 ほら、これ見てごらんなさい。 サッシも木製なのよね。 木の風合いが何とも言えないでしょ。 でも、金属じゃないから補修が大変なの… 30年前にこれを建てた時、最初から1階はカフェができるように設計したそうです。 そして6年前、とうとう念願のお店をオープンさせました。 それにしても傷んでいる部分、見苦しい部分がまったくありません。 頑丈に造られているんでしょうね、しかも手入れが行き届いている。 カボチャのスープです。 なんだろう、この美味しさは ♪ この家を建てる前は、ここには父の建物があったのね。 戦前から常盤町で洋食店をやっていたんですけど、 空襲がひどくなってくると、砂糖や小麦粉、油などをここに保存していたそうです。 実はこの場所の住所は山手ではなく妙香寺台なんですよ。 横の公園は山手町なんですけどね。 それで戦時中は被害がなかったし、戦後も接収されることなく無事に残ったのです。 戦争が終わって多くの市民が食べ物に困っている時、蓄えてあった材料を使って食べ物をつくり、皆さんに差し上げて喜ばれたとか。 それにしても気になるのは、戦前に常盤町でやっていたという洋食屋さん。 なんていう名前のお店だったんでしょうか? 「ランチカウンター」というお店だったんです。 横浜で2番目に古い洋食店だと聞いています。 一番? さぁ、どこって言ってましたっけ…忘れちゃいました… 常盤町の「ランチカウンター」? 初めて聞く名前ですが、当時、銀座に「ランチカウンター」という店があり、お父様の貴邑富士太郎さんがそこで修業をしたあと、昭和13年(1938)にその2号店として関内の常盤町で始めたそうです。 横浜の≪西洋料理店≫のことなら、いろいろな史料や新聞記事などがあって、どんな店がいつできたとか分かるのですがね。 たとえば… 1869年 「崎陽亭」(姿見町) 1871年 「開陽亭」(駒形町) 1871年 「味洋亭」(相生町) 1872年 「各集亭」(弁天通) などなど。 ≪洋食店≫となると、よく分かりません… 確かなところは不明ですが、たぶん一番古い洋食店は昭和6年創業の「相生」だったのではないでしょうか。 (数ヶ月前、惜しまれながら閉店 ) あとは「センターグリル」が昭和21年(1946)の創業。「ミツワグリル」は昭和28年(1953)です。 なので昭和13年創業の「ランチカウンター」が2番手なのでしょうかね。 その辺の詳しいことは分かりません。 まあとにかく、戦前からやっていたお店が横浜大空襲でやられちゃって…… 関内は主なビルだけ残して、こんな風に焼き尽くされてしまいました。そして、接収です。 サラダ。 塩・胡椒・オリーブオイルで和えているようです。 懐かしい味。。。 接収風景の写真で見たとおり、関内の中心地は米軍のモータープールになってしまいました。 当然、ここでお店を続けることはできません。 そこで野毛に新しい店を造り、昭和24年、店名も「洋食キムラ」と改めて再出発したのでした。 『野毛ストーリー』(大谷一郎著:サンケイ新聞社)という本があります。 そこに昭和24年に再開した「洋食キムラ」の話が出ていますので、少し引用しておきます。 昭和24年3月、街の復興に活を入れるべく、反町公園で日本貿易博覧会が開かれた。それに従事する市職員と議員用に、折り詰めの注文があった。すべてが統制の時代であり、材料の入手は不可能に近かった。 が、何とか工面するしかない。時代も落ち着く方向にあった。どこか便利なところに拠点を。昭和24年、借金をして野毛に「キムラ」を再開した。 しかし、主食は統制で、まだ売れない。戦後初めて売ったのは焼酎に砂糖、生姜汁を加えて炭酸で割ったサワーのような飲み物とツマミだった。 こうして再開したお店ですが、その後はどうなったのでしょうか。 コーヒーをいれながらマダムは語ります。 長男は料理の世界に入らず医者になったのですが、若くして亡くなってしまいました。 次男は独立して常盤町に「洋食イータリーキムラ」を始めたので、三男が「洋食キムラ」を継いだのです。 ここで懐かしい店名が出てきました。「イータリーキムラ」。 若い頃、私は週2,3回はここでランチを食べていました。そのランチに添えられて出てきたのが、上の写真のようなサラダでした。 あの店は混んでてねぇ、12時になるといつも走って行ったものです。 実は私、お店の名前をずっと「イタリーキムラ」だとばっかり思っていたのですが、今回、こちらのマダムとお話しをしていて初めて間違いに気づきました。 「イタリー」ではなく、「イータリー」なんですね。 Eat イート 食べる という意味も含まれているそうです。 スープを飲み、サラダを食べているうちにピザトーストとコーヒーが到着 素敵な皿とカップ♪ 英国王室御用達の「WEDGWOOD」です。 ピザトーストといったら、普通はケチャップ+玉ネギ+ベーコン+トマト+チーズ+ピーマンといった布陣なのですが、ここのは独特です。 ミートソース+チーズ! いいですねぇ。 このミートソースは「キムラ」直伝のレシピのようです。 ひとくちパクついてみると… 美味し~~い 「イータリーキムラ」のランチを思い出します。 合い間に飲むロイヤルブレンドコーヒー ♪ 尖ったところのない穏やかなコーヒー ♪ すべてが実に美味しい。 食後にマドレーヌを食べてみたかったのですが、今はもう止めてしまったとのこと。 いいバターが入手できにくくなってきたというのがその理由でした。 他所から仕入れたマドレーヌを出せばいいじゃないかという人もいるそうですが、それはご自身の気持ちが許さないのでしょう。 教養に裏打ちされた上品さと、本物を愛するこだわりに脱帽! 良いお店を見つけました。山手散策の際にはぜひ利用したものです。 そうそう、最近は野毛の「洋食キムラ」にはご無沙汰していますが、2年前に初めて新横浜のお店に入りました。 これはその時に食べた例のハンバーグ+サラダ+生ビールです。 このサラダ、塩・胡椒・オリーブオイルで和えていると思うのですが…。 我家で真似して作っても、なにかが違う…。 う~ん。 そして、初代店主が昭和30年ごろに開発したという、独自のレシピに基づいて作られたハンバーグ ♪ 美味しいよね~ これは真似できません。 ところで、「洋食キムラ」のマークは何が描かれているかご存知ですか。 これです。河童です。 どんな意味があるのでしょうか。これもやはり『野毛ストーリー』に出ているので、以下に引用しておきます。 昭和27年、夏――。野毛の「洋食キムラ」のカウンターで、初めて隣り合わせた二人の男が、なにやらブツブツと言いながら、けっこう意気投合していた。 一人はフラりと野毛に現れた作家、北林透馬。もう一人は、のちに日展に入選する彫金家、安井喜一。意気投合したのは、「確かに焼け跡は復興したけれど、このありさまはどうだい。…これでいいのか。庶民的けっこう、泥臭さけっこう。しかし、この泥の腐っているような現状は、何とかならないのか」と、いうこと。 北林は「世直しの河童が必要なんだよ」といった。安井は「おもしろいねぇ。それは。私もこのところ河童が作りたくて仕方なかったんだ」。二人はクスクスと笑い合っていた。 それがきっかけで、カッパを巡る輪がひとまわり大きくなって、集まったのは八十島数衛(産婦人科医)、山中登(民俗玩具研究家)、戸川幸夫(作家)、清水崑(漫画家)、青木四郎(画家)。 ==中略== 7、8ヶ月後、安井さんは河童像を創りあげた。素晴らしい姿だった。 そして初代店主は芥川龍之介の『河童』が好きだったそうです。 ということで、カッパがロゴマークとなったわけです。安井さんが創った像はお店のどこかに安置されているのでしょうか。 ひょんなことから山手公園横の「閑古鳥」に入り、そこでマダムとお話しをしていく中で突然現れた「洋食キムラ」。 なんだか懐かしくなって昔の場所を訪ねてみたくなりました。 野毛に作られた最初のお店、花咲町店あと。 左隣は「叶家」と「まるりゅう」。 串カツ屋さんは最近、「叶家」の一部を改築してできたようですね。 右隣は「石松」。 ここは、ぴおシティの地下でも立ち飲み屋をやっています。 昭和31年頃の住宅地図です。 「叶家」は今の4分の1の敷地だったようです。 パチンコ「モナコ」はこんな時代からあったんですねぇ。「百万石」もね。 面白いのは「駅前近道」という通り。現在は野毛小路といっています。 そういえば桜木町駅からぴおシティへ行く地下道がありますが、あれの名前が「野毛ちかみち」。 近道と地下道をかけてネーミングしたそうですが、ここにそのルーツがあったみたい… こちらは常盤町の「イータリーキムラ」。 何年か前に閉店しているようですが、4階建てのビルはそのまま残っています。 左隣の料亭「美登里」はかなり以前に火事で焼失したと記憶していますが、門構えだけは保存されていました。 不思議な光景ですね。 昭和43年の明細地図。「イータリーキムラ」はこの頃オープンしたのですかね。 よくみると関内にもトルコ風呂があったことが分かります。 そして懐かしい「グリルサクライ」も。 さて、昭和40年代初めの関内の地図を見たついでに、ここでもっと古いのを見てみましょうか。 これは昭和31年の明細地図。 市役所がまだ建っておらず予定地となっています。 そして、初めて知りましたが、ここに南高等学校を建設する計画だったんですね。 現在の市役所は黄色い線で囲ったエリアですので、建設にあたっては3ブロックを一つにまとめたことも、これで分かりました。 と、まあ、「閑古鳥」に入ってコーヒーを飲んだところから、戦前の常盤町に洋食店「ランチカウンター」があったこと、そのお店が「洋食キムラ」の前身であったことを知り、さらに市役所横に建設を計画されていた南高校まで、いろいろなことを学べました。 これ以上なにかを書いていくと、もう支離滅裂、滅茶苦茶になってしまうので、このへんでやめておきます。 時間のある方はこちらもどうぞ。 CITYLIGHTS キムラ1 CITYLIGHTS キムラ2 洋食キムラ facebook ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
前の記事の時点でグッと引かれるものがありましたが、探偵団らしい調査と推理、そして思い出話… 閑古鳥に行ってみたくなりますね♪
みどりの黒壁の前にハモニカ横町?が在ったと聞いていましたが地図で確認出来ました。
大雅の裏にコの字型の長屋、西田宅?に横浜竿を作る方がお住まいだったのを記憶しています。
懐かしい!
行きたいですね。
ランチタイムに、ゆっくりと。
閑古鳥からつながるいろいろ・・・
たまたま昨夜は「百万石」に行きました。
そして・・・野毛の夜を冬桃さんと歩きました。
昔、野毛で働いていた時のボスが「キムラ」によく連れていってくれまして、昨夜はそのボスと冬桃さんが初ご対面!
閑古鳥も行かないとと思いました。
横浜沿革史によると開陽亭を洋食割烹と表している記載を横浜開港史料館の資料で見つけています。
独特の味付けのビフテキが評判だったとか。
あれ?「いんごう屋」開化亭の醤油ステーキ?
なんて思い出してしまいました。
もしかすると横浜の洋食店の歴史はえらく早い時期に始まっているのかも?
なんて一人ほくそ笑んでいます。(笑
行ってみてください。
ビールは無いですけどね。
新山下のハーモニカ長屋は記憶していますが、
こっちのは飲み屋さんでしょうかね。
コの字長屋の横浜竿屋は記憶しています。
今は駐車場です。
……
ここは何処からアプローチしても坂の上なんですよね。
足、大丈夫かなぁ。