昭和20年10月、戦後初の映画「そよかぜ」が封切られた。主題歌は並木路子が歌う「リンゴの唄」だった。翌年、この曲がラジオから流されると、平和な時代への予感とともに、国民の間に徐々に浸透していった。 一方、敗戦直後の食糧不足を反映してか、「リンゴ可愛や…」という歌詞を、「リンゴ高いや…」と歌った替え歌も流行ったという。 当時の食糧難がどのようなものだったかは、ヤミ米を食べずに栄養失調で亡くなった山口判事の一件が如実に物語っている。生活必需品は政府の統制のもとで配給制がとられていたが、物資は次第に不足していき、それだけではとても生きてはいけない状況に至る。そんな中で、人々の命をつないだのが「ヤミ市」だった。 敗戦から3ヶ月後の11月、野毛通りに「横浜マーケット」なるものができた。県・市と露天商組合が立ち上げたヤミ市である。関内やザキは米軍に接収されていたし、元町では遠すぎるということもあって野毛が選ばれたようだ。 この町では統制や禁制など関係なく何でも揃った。「ジャパニーズ・オンリー」の立て札が出て、毎日、大勢の市民で賑わった。櫻川沿いにはカストリ横丁と呼ばれる呑み屋街もでき、市民の胃袋を満たした。 昭和25年、朝鮮戦争が勃発。この時の戦争特需をバネに高度成長がスタート、それを支える先兵として櫻川埋立工事も始まった。昭和28年、立ち退きを余儀なくされた露店は、中区役所裏に完成した桜木町デパートに収容された。 歴史に名を残すこのデパートは、それからほぼ20年の間、呑兵衛たちに愛され続けてきた。残念なことに、私が野毛に入り浸るようになった頃には閉鎖されていて、一歩も足を踏み入れることができなかった。だが、建物だけはかろうじて残っていた。 そんな桜木町デパートの前に「ウナギ釣り」があった。路上に置かれた水槽の中で、口に何本もの釣り針をぶら下げたウナギが悠々と泳いでいた。それは、いかに多くの客が釣り損ねているかを証しする光景だった。 ある夏の夕方、私は酔った勢いでウナギ釣りに挑戦した。もう随分前のことなので、料金がいくらだったのか、餌は何だったのかほとんど覚えていない。しかし、食いついたときの感触は今でも手の中に残っている。 ウナギを釣り上げるにはコツがある。食いついたからといって一気に引き上げてはならないのだ。そんなことをすれば糸を切られてしまう。 針を掛けたまま体を半分くらい外に出し、ウナギを自由にさせることが大切だ。焦らずじっと待つ。そのうちウナギも疲れてきて動きが緩慢になってくる。それから釣り上げるのだ。 その日は十分ほどで釣果があった。しかし釣り上げたのはいいが、自分で割くだけの技術を持ち合わせていない。釣り屋のオジサンに聞くと、近くに熱帯魚屋があるので、そこへ持って行けという。 店の場所はほとんど覚えていないが、それは本町小学校の近くだったような気がする。声をかけると店主らしき中年のおっさんが出てきたので、釣ったばかりのウナギを渡し、食べやすいように開いてもらった。 これを家に持ち帰り、手作りのタレをつけて蒲焼きにしたのだが、非常にまずかった! タレは当然旨くないのは分かる。しかし、それ以上にウナギ本体がえぐかった。夜店で釣ったウナギなど、到底、食べられるシロモノではなかったのである。 さて、ウナギといえば蒲焼きと相場は決まっている。だが、世界には全く違う喰い方をする国があることを最近知った。 ギターを弾くためスペインへ行ったときのこと。私たちは毎日、バール(立ち呑み酒屋)を梯子して歩いていた。そんなとき、地元の人から勧められたのが「アンギラ」だった。 これを注文すると、ワカサギくらいの大きさの魚が数十匹出てきた。昔、ゴジラと戦った怪獣に「アンギラス」というのがいたけど、それとは関係ないようだ。聞けばウナギの稚魚をオリーブオイルで炒めたものだという。 「なんと、もったいないことを!」 「日本なら大きく育てて、絶対、蒲焼きにするのに!」 みんな口々に叫びながらも、フォークは器と口の間を頻繁に往復していた。数分で食い尽くしてしまったが、かといって、もう一度食べたいと思うような料理ではなかった。 ■鯉鰻菜館(中華街市場通り)【閉店】 前身が鮮魚屋だったことから、こんな名前がついている。この店に行ったら、やはり鰻を食わなければならない。とはいえ、昼食に一人で「鰻と栗の煮込み(2700円)」を食べるのは、ちと重い。そこでお勧めするのが「中華風ウナギ丼(1200円)」だ。牛バラ飯の鰻バージョンと考えればいいだろう。注文してから出てくるまで20分はかかるのでご注意を。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
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