若いころは本当に無茶苦茶な生活をしていた。 毎晩、野毛や福富町で呑んだくれて散財し、その合間に麻雀、競馬で負けてスッテンテンになる、そんな無頼な青春時代を送っていた。 さすがにこういう生活が何年も続くと、「なんとかしなきゃ」という気持ちにもなってくる。 そこで同じボヘミアン仲間を誘って、定期的に座禅をしに行くようになった。 場所は中央本線の初鹿野(現甲斐大和)駅から延々と歩いて山奥に入ったところにある禅寺だった。 そこで過ごした毎日の生活はというと… 起床は午前3時。 大きな木の板を木槌で叩くその音が目覚まし時計である。 カ~ン! 真っ暗で静まり返った境内に響く。 深い眠りについていた我々修行者は、皆、この一発で飛び起きる。 そして布団をたたみ、洗面所に向かう。 この禅寺に行くのはいつも秋から冬にかけての時期だったので、とにかく寒かった。 裸足のまま冷たい廊下を歩いていくと、足裏から冷気がジンジンと伝わってくる。 洗面所は屋外にあり、水は山から湧き出る清水だから、とても冷たい。 いや、冷たいなんてもんじゃない。 まるで氷水! 洗面、トイレを済ませると3時半からの座禅修業が待っている。 座禅堂はちょっと離れたところにあり、本堂から吹きっさらしの渡り廊下でつながっていた。 その間、約50メートル。そこをゆっくりと歩いて行くことも修業の一つだった。 一呼吸半歩。 息を吸って吐く間に進むのは半歩だけ。歩いているようで歩いていない、歩いていないようで歩いている、それが禅の極意だそうだ。 我々はまるで氷の上に立っているような状態なので一刻も早く座禅堂に入りたいのだが、あくまで「無」の状態で、足を滑らせながら半歩ずつ静かに移動する。 もちろん前後の人と話をしたりしてはいけない。 やっとの思いで座禅堂に入る。そには暖房器具などあるわけもない。それでも屋内ということで、山の冷気が入ってこない分、少しはしのぎやすかった。 堂内には壁に向かって細長い座禅スペースが作られていた。 高さ約50センチで、奥行きは90センチくらいの、いわば“こあがり”のような畳敷きだ。一人分の専有面積は半畳。 そこで1時間ほど座禅をするのが早朝のお勤めだった。 修業者は寝ぼけまなこを半眼にして、真っ白な壁と向き合う。半眼というのは仏像などでよく見かけるでしょ、瞼を半開きにした状態だ。 半分は外界を眺め、半分は自己の内面を眺めるという意味があるらしいが、こっちは眠たくて眠たくて、すぐに上下の瞼がくっついてしまう。 そんなときは、巡回してくる直堂(じきどう)という当番のお坊さんの前で頭を垂れ、警策を打ってもらう。これで一気に目が覚めるのだ。 そうすると今度は不思議なことに、目の前の白壁がグッと広がってきて、まるで冬山のホワイトアウトのような状態になってくる。 いま自分がどこにいるのか、上下左右も分からないほど“無”の中に漂い出すのである。 こうして1時間の修業を済ませ、再び渡り廊下を超スローペースで歩いて本堂に戻る。 座禅は早朝のほかには、昼間と夜間にもあり、その合間に我々が行う作業も、すべて禅の修行の一環であった。 トイレ掃除はゴム手袋を付けてはいるものの、タワシで便器をゴシゴシ磨くのだからきつかった。 玄米の粒を一つずつ検査し、食べられないものを捨てる作業は、まさに座禅に通じるもので、何も考えずに没頭することができた。 それ以外の時間は読書だ。書庫には仏教関係の書籍が大量に格納されていたので、その中から比較的易しそうで、厚みのないものを選び、窓際に置かれた文机でそれを読んで過ごした。 厳しい修行生活のなかで、いちばんの楽しみは食事だった。 禅寺の食事というと、ボリュームが少なく粗末なメニュー、そんなイメージがあると思われがちだが、肉こそ出てこないものの、野菜やキノコなどを使った料理は品数が多く、お代わりも自由。 なにより美味しいのがいい。 ご飯は当番のお坊さんがよそってくれる。もちろん白米ではなく、昼間、我々がこまめに選別した玄米だ。 それを箸ですくって口に入れたら、両手の親指で輪っかを作り、目は半眼にして500回ほど噛み続ける。 続いてオカズに手を伸ばし、同じく500回の咀嚼。 ……。 全員、無言。 そのうちアゴが疲れてくるので噛む回数は減ってくるが、それでも100までは数えていた。 使った食器はすべて木製で、ご飯用、味噌汁用に小碗。それにオカズを入れる中小皿が2つだった。 当然、食べ残しはご法度である。ご飯茶碗には米粒一つ残してはならない。味噌汁も同様。 食べ終えた後の作業が、これまた禅寺らしいやり方だった。 まず、ご飯茶椀、味噌汁椀、小椀、中皿、小皿と、大きさ順に並べる。お坊さんがお湯を持って回って来るので、ご飯茶椀に六分ほど注いでもらい、内側を「せつ」という名の棒で洗う。 これは割り箸ほどの長さと太さで、先端に布がくくり付けられており、その部分を使ってお椀の汚れを落とすのだ。 内壁を拭いているうちに、透明だったお湯は少し濁ってくる。そして、それを次の味噌汁椀に移す。 しかし、次のお椀の方が少し小さいので、食器を洗ったお湯を全部移し替えることはできない。ご飯茶椀に残った洗浄湯は、捨てるなんてことはあり得ない。 各自で呑まなければならないのだ! 気持ち悪いけど、自分の食べた食器だから一応、我慢して飲む。 同じ作業を味噌汁椀で行い、続いて小椀、中皿、小皿と進んでいくわけ。 だんだんと汚れが増幅していくので、最後のお湯はドロドロ! まるでドブ泥のようだ。 さすがにこれを飲み込むときには勇気がいる。 「せつ」で洗って汚れを落とした食器は、そのまま入れ子のようにして重ねて自分専用の箱に入れてから棚に仕舞う。 その「せつ」自体は、布の部分をチューチュー吸って水分を無くし、そのまま食器と一緒に片付ける。 なんとも不潔極まりないのだが、これが原因で病気になったという話は幸いにして聞いたことがないので、意外と清潔だったのかもしれない。 こうして、長い時は5泊程度の修業を終えて下山。 翌日からしばらくの間は清く正しい生活が続くのであった。 《参考》萬和楼で食べた素食(精進料理)の一例 肉を使っていない「前菜」。 牛肉を使っていない「牛肉とブロッコリーの炒め物」。 豚肉を使っていない「酢豚」。 ユリの花とシイタケのスープ。 肉なしの「春巻き」。 名前を聞いたけど忘れた物。 揚げ魚と野菜の鉄板焼き。 萬和楼はここ ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
精進料理の方は、高野山でよくいただきますよ (笑)
しかし、話には聞きますが、相当に厳しいモノなのですね (/--)/
素晴らしいです。
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厳しい修行でした。
でも、酒なしの日々もいいもんです。
たまには経験したらいいですよ。
帰ってきてしばらくは清浄な気分です。
お恥ずかしいんですが・・・
スッテンテンになった事、ありました!
今時の若者は麻雀なんてしないんでしょうね?
高校生の時は、徹マンが当たり前で
そのまま学校に行って、気持ち悪くなったり!
座禅しないと駄目ですね~(汗)
若い人はやらないのでしょうね。
競馬も同じかな。
肉を使わないでも、それらしいものを作って食べたいというのが、凄いですね。