薬を飲まないで病の言い分を聞くと、そこに大切にされなかった怒りと悲しみがある。
ここで大切にされなかったとは、甘ったれた坊ちゃんやお嬢ちゃんが世間の厳しさにぶつかって挫折したときの怒りや悲しみではなく、有り体に言えば、虐待に対する怒りや悲しみなのである。
そしてそれは決して妄想や幻覚の産物ではなく、実体験としての虐待なのである。
そしてそれらの体験を忘れるための、本来人が持っている、相手を許す感情が働かない。
そしてそんな扱いをされて傷ついた自分に対する周囲の慰めが得られない。
彼らがほしいのは判事ではない。空想の産物ではなく、現実の肉体を持った慰め手である。
お寺に行ったところで、そんな因縁を過去に積んだから、そんな目に遭うなどという暴言に等しい坊主の説法や、キリスト教会に行ったところでありもしない自分の罪を許してもらうように、虐待した連中を許せとのこれまた許しがたい説教である。
問題は、相手の罪を許せない自分がいることと、自分が受けた虐待を慰める慰め手がいないことである。
それに、カウンセリングにいって、全然関係のないカウンセラーの謝罪や慰めをもらったところで意味はない。
とにかく、彼らは内心辛辣な怒りを抱き許せないし、虐待された自分を慰めてほしいのである。
そんな話は親友だって聞いてくれない。
それでネットの出会い系をうろつくわけであるが、出会う相手は、お金か体目当ての輩か、自分よりも倍もひどいメンヘラである。
そしてそこで、江戸の敵を長崎で討つような、全然関係のない相手への搾取や虐待が始まり、相手の反撃を受け、けんか別れするわけである。
最後の最後に頼るのは自分だけと気づいたときに、許しがたい相手を許すことができるかもしれないし、自分で自分の悲しみを、それこそトリートメントできるのかもしれないのである。
決してキュアやケアではなく、トリートメントと書いた意図をくみ取ってほしい。
傷ついた自分をトリートメントするのは、自分にしかできないのである。
以上、メンヘラの独り言であった。