自我以外の自我。
いわゆる、超自我やエスと呼ばれるようなもの。
これを徹底操作して書き換えるのが、精神分析を学んだカウンセラーや精神科医の仕事である。
さて、実際問題、欲望を訓練したり。行動規範を書き換えるのは誰の仕事であろう?
言わずもがなで、それは幼い頃は親や教師の仕事である。
よほど依頼心の強い人でない限り、ある程度長じれば、それは本人の仕事なのであるが。
さて、いわゆるカウンセラーや精神科医は、肉親に対するインセスト要求の移行対象になりやすい。
そのインセスト要求の中に、陽性エディプス(エクストラ)、陰性エディプス(エクストラ)コンプレックスがあるのだから、この手の仕事に就いてる先生方は大変だ。
さて、精神分析という仕事。
それを気づきたくない患者に、「ああ、私は異性(同性)の身内に、こんなコンプレックスを持っていたのか!」と気づかせるのが仕事なのである。
本人が気づきたくないことを気づかせ、本人の欲動に反して、それを社会的に容認させる形に欲望を書き換え、それはタブーでないことを教えなければいけないのだから、根治療法を目指す分析医は大変だ。
もっとも、それは性愛転移に限らず、社会適応全般において、適応不全をもたらす患者を社会化させなければ行けないのだから、ικμτはいくら金を積まれてもやりたくはない。
そこに、患者の愚痴めいたものの中にある真実を患者に気づかせ、自分のエス要求を社会的に容認された形で充足させなければ、治療終結を向かえることの出来ないこの療法独特の難しさがあるのである。
治療時間中は、あなたは患者のエス内容の実況中継の聞き手であり、そのエス内容の実況中継の中にある真実を帰納して得た患者の心理的法則を、解釈という形で患者に伝える義務があるのである。
さて、ある程度患者歴が長くなると、自分のエス主題が一体なにか気づいてくるものである。
ただ患者自身の超自我がそれを許すか許さないか。
そこに患者の「人生観とか生き様とか」をかけた、それこそ死に物狂いの治療抵抗が現れる。
ここで足踏みしているのが、泥沼に陥った、分析医と患者との人間関係なのである。
医師と患者のトラブル。
形を変えれば、患者自身のエスと超自我との血みどろの闘争が、文楽人形のように、患者と病院スタッフとのトラブルという形で具現しているのである。
患者よ!
それを見るや見ざるや?
そんなわけである。
以上お休み前に、お目覚めにのικμτ。