紋章 菩提寺
久々野町史(全)昭和32年11月刊 806ページ 伝説編 伝説
『長円寺と與藤次』
小谷の長円寺はもと見座にあって日觀ヶ岳の武士が建てたので日觀山長円寺という、當時お庭にあったこぶしが今も残っていると云われ、後今の小谷に移されたのがこの寺の前の御堂は柳島の與藤次の養子權太郎が建てたと云われる、その頃長円寺は甚だ衰えていたのでこの人住職同様にして出入りしていた時建立したという。
與藤次は北條氏政の家来で主亡びて飛騨に入り一時柳島にかくれ、或時妻の病むところとなり浅間神社(富士神社のことか)に代参祈願した為全快してから柳島に永住したのである。與藤次の家は次第に衰え高山の天木屋某なる茶賣りと親しくなり、何時しか寶物を盗まれてしまったが、小谷のお寺に北條の定紋が残り唯一の證據とすべきものとして今に伝えている。
鱗(うろこ)紋の由来
家紋は、日本の伝統と風土の中で生まれた紋章であり、家族、同族の象徴(シンボル)である。
三つ鱗
魚の鱗という意味だけでなく、三角模様として用いられたものであるようだ。また北条時政が(鎌倉幕府の執権)が子孫繁盛を祈った満願の夜、大蛇が現れ、その後に鱗が3枚落ちていたということから三つ鱗を旗印に使ったという。(出典:日本家紋大全)
三つ鱗紋を用いて有名になったのは北条氏。鎌倉草創の初め北条四郎時政が江ノ島の弁財天に参籠して子孫の繁栄を祈った。
37-二十一の満願の夜、赤い袴をはいて柳裏の衣を着た端麗な女性が忽然と現れ、時政に伏したかと思ったら、30丈ばかりの大蛇となって再び伏し、やがて海中に姿を消した。その跡におおきな鱗が3枚残されていた。
時政は所願成就と喜んでその鱗を旗印とした。(出典:日本家紋総覧)
以上が菩提寺と我が一族との関係です。このお寺でお礼参り、母の「還骨回向」が焼き場の帰りすぐ行われました。
付録)
北条時政とは 伊豆の北条から起こって鎌倉幕府の執権となった人が北条時政、源頼朝の妻、北条政子の父。政子は頼朝亡き後、北の政所(まんどころ)といわれ政治に関与した。
北条早雲とは 駿河の名門今川家の今川義忠の妻が早雲の妹であった縁で(叔母との説もある)、今川家に仕えていた。出自ははっきりしない。伊勢の関氏の氏族との説が一般的、早雲ははじめ「伊勢新九郎長氏」(いせいしんくろう ながうじ)といった。この時代の武将は氏素性を重んじた。秀吉は世に存在しない豊臣なる氏を創始し、家康さえも名門の氏を欲しがり松平から徳川へと改姓した。
伊豆韮山城に北条という人がいた、主人が病没したので長氏は未亡人を側室にし、政略結婚し北条を名乗った。鎌倉執権、時政にならい「北条早雲庵宗瑞 (ほうじょうそううん あん そうずい)を名乗り、関東一円を制覇し小田原城主となり関東随一の覇者となる。時政と区別して「後北条」という。(出典:人物日本の歴史 巻9 戦国の群雄 北条早雲 早乙女貢 著 1975年刊 小学館)
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