たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

父方の系譜1 五輪の墓

2012年04月25日 | 日記

父の系譜 開祖の墓 五輪搭

昔、平民は名字帯刀をゆるされませんでした。ファースト・ネームの名だけで、名字の付く人は身分の高い人、武士などです。
私の名字、姓の由来が、郷土の町史に載っています。

久々野町史(全)昭和32年11月刊 928ページ 宗教編 寺院
『柳島の伝説』
柳島の開祖 ○○與藤次は現今の○○○○の先祖と云われるもので今より凡そ470年前北条早雲の末族某、飛騨の国今の上宝村に入り程えて当地柳島に三人兄弟移り住んでいたが、兄はこの地に一宇を建立し弟は朝日村小谷に長円寺を建立した。
なお末弟は高山に出たと云うが詳でない。当時飛騨は姉小路の勢力下で與藤次は、尹綱(まさつなに仕へ盡忠の心厚くその功によって○○の姓を賜った、後出生地である駿河に趣き祖先の守護神富士浅間大明神の御分霊を奉戴して柳島に社を作り氏神とした、幾年か経て山崩れの為寺は埋もれたので柳島の中程に改めて設けたと云うが、中央の森林中の墓地には今も古びた五重の墓がある。
明治の末期に川を隔てた道路ばたに出て店をひこうとしたその時、宅地のあとを掘りかえしはずみに石臼などと共に五輪の墓も出て寺のあったことを物語っている、更に之を裏付する古文書もあったと云うが百年前古物商が買取ったと云う。 
(原文は「彌藤次」宗教編は「與藤次」)

これが私の系譜・開祖の歴史です。見出し写真はその五輪の墓です。わが在所の家の裏、田んぼ1枚の指呼の距離にこの墓があります。

この開祖の家は現存し、代々の当主のお名前も当代、先代、先々代とも、系譜を正しく継ぐという意味の1字を当てたお名前です。氏素性に誇りをもち名前に表わされているのですね。 現在もこの開祖の家は現存し道端でご商売をやっておられます。

60数戸の集落中14~5軒が○○姓を名乗ります。在所の家の裏地に○○一族が始祖の五輪搭を中心に、一箇所にかたまって墓地となっています。他の名字の墓も2~3基あります。

十数年前道路拡張により墓地が改装、区画整理し門扉が新設され、門扉には鋳鉄製で「○○家重代すいぎのした墓地」と「紋章」が左右に掲げられました。
また五輪搭は開祖家の墓の横にあったのを、墓地の中央一番奥に配置換えし、両脇に燈篭が建てられま、本家の個人墓から一族の共有墓、共同管理に移管されました。この五輪搭を中心に分家墓は二列に並べて区画整理されました。

「すいぎのした」とは杉の下の訛りで、子供の頃は杉や一位(あららぎ)の古木の森で、蝉取り場所でした。改装して森は無くなりました。

紋章は「丸に三鱗」(丸に みつうろこ)です。これは北条紋といいます。菩提寺の紋章にも関係があります(別稿)。私が入る墓も当然北条紋の丸に三つ鱗です。

私の倶会一処(くえいっしょ) (阿弥陀経)

付録)興味のある方に
・尹綱とは⇒ 姉小路尹綱 あねがこうじ まさつな  生年不詳~応永18.8(1411) 飛騨国司 「応永飛騨の乱」で討死して600年、2010年にこれを記念する特別展示が、飛騨市古川町で行われた。
・一般には尹綱(ただつな)とも読むが、まさつな。古川にいた。京都の国司家である姉小路家から国司として派遣されていた。南北朝の頃で守護は北朝から京極氏、国司は南朝から姉小路氏が派遣され二重支配
・尹綱の首塚は高山市国府町にある。


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