たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

粗忽者の大失態

2021年12月16日 | 日記

二つ折皮財布を失くしてしまった。ショルダーバッグに入れ肩に引っかけている。
・14日(火)はゴルフ仲間との月例コンペでした。清算はプレー後フロントでクレジットカードで済ませ、2階パーティ会場へ移動しコンペ会費1,000円を払った。ここまでは財布はあった。
・成績発表等の行事とコーヒーを1杯飲み終わった。
・ショルダーバッグを片方の肩に掛け、下へ降り駐車場へ行った。ゴルフバッグや鞄置棚がある玄関付近へ、積荷するため車を移動した。
・帰宅の途につき、途中コンビニなどどこへも寄らず帰宅した。
・翌日、モーニング喫茶に行こうとして、ショルダーバッグのジッパーを開けたら財布がない。しばし茫然!
・落としたのはパーティ会場の2階から~駐車場までに決まっている。ゴルフ場へ電話で聞いたが「届けられていない」と。

・車庫や車のシートの下を2日間にわたり探しまくったが出てこなかった。夜、懐中電灯で照らして探した。寝ている間に空き巣が入ったか?
---さあどうする!
・先ずカード会社2社のへ紛失電話し利用停止と、再発行を依頼した。手数料は各社2,500円だった。カード落しの毎日新聞販売店と中部電力ミライズには、あなたからカードが無効になったと連絡してほしい。といわれた。
・銀行のATMカードもないので財布に入れていたのだろう。銀行へ電話しパスワードを知らない人が拾っても安全であることを確認し、カードの再発行を依頼した。翌日預金通帳と実印を持って窓口へ来るよう指示された。手数料は2,500円だった。ついでに前から言われていた貯蓄預金を普通預金に統合し、新しい通帳にするよう頼んで30分以上かかった。「パスワードは前の番号でもよいか」「結構です、ただし生年月日などは使わないように」と。

・困ったのは運転免許証です。早速市内の警察署へ行き、窓口で事情を話し、再発行を依頼した。
用件と失くした模様を告げると、相手の女性警官の横で聞いていた男性警官が割って入り「空き巣に盗まれたのではなく、紛失でしょう。向かいの別棟にある「遺失物届の窓口」で手続きすると、今日運転免許センターへ2時30分までに行けば即日再発行される。警察署では再発行できない。免許証など貴重な物が入った財布などはたいてい出てくることが多いのです」と言われた。
・落し物係の窓口では紛失内容を細かく聞かれ、調書に記入提出した。(見出し写真は貰った遺失物調書)

・運転免許証センターでの再交付手続きは、手続きに必要なものの持参不足もあり、2日間にわたりもっと複雑な手続きでした。手数料は2,250円だった。
・免許証の番号で一番最後の番号が1から2に変わった。免許証再発行の回数で過去に1回再交付を受けている意味だと言われた。「思い出せるか」聞かれたが、「昔のことで忘れた」と回答した。思い出すと昔、高校友人が奈良県桜の吉野に別荘を持っていて、誘われ遊びに行き、車のドアを開けた拍子にバッグが、転がり落ちたようで紛失し、現地の警察に届け出た。1年ほど経って地域の人の清掃活動で発見され、吉野署から電話があり貰いに行ったことがある。
・免許証の有効期限を示す日時の背景色が3月に一時停止違反で、反則金と違反点数が付き、数十年間「優良運転者のゴールド」が「一般運転者の青」に変わっていた。シートベルト未着用違反は軽微で点数が付かないとも言われた。

・警察署とか免許センターへの往復に、免許証不携帯運転は違反運転になるので孫の世話になった。警察の帰りは彼女の都合でタクシーで帰る羽目になり2,300円だった。

バッグは姉から貰ったもので古くなった。新しいのも買ったが大き過ぎ、重すぎたので使っていなかった。

2日間にわたり再発行免許証を貰って帰り一息入れていたら、ゴルフ場から電話があり、「お客さんが拾って今日届けてくれた」とのこと。「有難いことです。感謝します、明日貰いに行きます」「届けてくれた人にお礼をしたいが名前は分かるか」聞いたら「男性客だった」とだけ。
多くの人に迷惑をおかけしました。落として見つかった前の免許証は無効で、再発行された免許証が当然有効でしょう。警察署へ電話で聞きます。85歳は忘れ物が多くなり粗相が多くなった。寝付きも極端に悪い。


師走に近く寒い

2021年12月11日 | 日記

春に孫娘の一番上が同職の人と結婚入籍し、双方職場に近い賃貸しマンションに同居していましたが、12月に神前結婚し、双方家族が親族固めの杯を挙げました。驚いたのは婚家は土地持ちの20代続く旧家だったことです。彼らは教員同士で今は賃貸しマンション住まいですが、やがて21代に住み込むでしょう。
お宅は大学に近く学生相手の貸マンションを実家の前に兼業のようです。
今日はお祝いのお礼に豪華な革製座椅子を宅配し、大きな梱包を解いてくれました。ありがたいことです。横向きに回転します。メーカーは自宅に近い会社製だった。(座高が高くなりコタツでパソコンはやり辛い、字を書くのも辛い、横向きや仰角を自由にできテレビを見るのはいい)

夜二番の孫に貰ったベッドで寝るのに、床式布団や毛布では重くてダメだったが、これもニトリの発熱布団を勧められ重宝していましたが、今日は軽いニトリ毛布までプレゼントしてくれた。
結婚祝いも式後全員に、贈り先相手の「名入りリヴェレット・カフェオレ・マグカップ」(竹製天然素材・寄木細工・コーヒーカップ)を届けてくれていた。7千円余もする。


小野城跡・モネの池

2021年12月10日 | その他

岐阜県関市冨野・本城山小野城跡幟旗が立っていた。八神集落センター前に駐車場があり3台ほど登山客の車があった。

関市・板取・「名もなき池」の看板・誰言うとなく通称「モネの池」、透き通った水、鯉、スイレンで人気です。少し濁っていた。村人が池の落ち葉を竿で掬っておられた。何の収入ももたらさないので、募金箱が立ててあった。

板取川も渓谷美です。


日米開戦・今日80年

2021年12月08日 | 日記

8日の今日が真珠湾攻撃・開戦80年となるそうです。1945年の終戦までに日本の兵士、軍属、民間人だけで310万人の命が失われたとされる。

今日木曽川緑地公園へ行き、遠くまでドライブをし、信号待ちで止まった交差点が、太平洋戦争中、陸軍の弾丸などを造っていた「名古屋陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)鷹来製造所跡の碑がありました。
春日井市鷹木町・春日井市総合体育館の隅にあります。その手前に名城大学農学部があり。当時の造兵廠の旧司令塔が今でも使われているそうです。

私が5歳のときになるのか。まったく記憶にありません。終戦はそれから5年後の昭和20年8月15日です。
終戦記念日は当時国民学校3年生で、先生から「今日は正午に大事なラジオ放送があるので全員早引きし、聞くように」と言われ、貧乏家にはラジオがないので、村人達とラジオのある家に集まり玉音放送を聞きました。
村人達は「占領軍が来て岩に叩きつけられるかのしれない」等と言い恐れました。
その後、学校の前の道路をアメリカ兵がジープで通って、手を振ってくれました。
今日の新聞は各種開戦時の記事を報道しています。
安倍晋三氏や高市早苗自民党政調会長等は、右翼を気取り好きになれません。
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緑地公園のノラちゃん達は元気でした。車から降りるとお爺ちゃんが来たと4匹が藪から出てきました。
桜の老木が倒木の危機にあり最近伐採され、餌やりの藪入りを木の枝で閉鎖してあったが、もう枯れて愛猫家から給餌されていた。

髭ちょびこと小柄俳優ケイコちゃんの子供です。

3匹産まれ残った手毬トラちゃんも1匹寝ていた。

ベンチと近づくとトラちゃんが藪から早速出てきて出迎えた。

大口町の FRUIT・ FACTORY 何を加工しているのかしら。


国指定重要文化財・白山神社拝殿

2021年12月08日 | その他

岐阜県山県市の山奥にあった明智光秀のお墓に先ず驚きました。ドライブ中偶然幟旗と数キロ手前三差路の道路看板に「桔梗塚」と掲示されていたのが契機です。
また別方向の掲看板に「重要文化財白山神社」の矢印掲示があり、寄ってみました。
山県市東深瀬が所在地ですが、神社前のバス停は笹倉の表示でした。

国指定重要文化財は本殿ではなく石段下の拝殿でした。国宝は重要文化財の中でも特に顕著なものを「国宝」というとか。

立派な木材を使った重厚な拝殿です。

拝殿改修記念の石碑が2つ建っていました。

拝殿裏に末社が5社建っている。

本殿を正面から写真に収めようとしたが、石段の傾斜が強すぎて手摺から手を離すことも、合掌参拝することもできなかった。

本殿から下の拝殿を見る。石段は急傾斜で中央の手摺を掴んで登り降りしないと危険です。高所恐怖症がひどく下りは手摺を掴んで蟹歩きでした。

山県市は岐阜市の北、濃尾平野の行き止まり。旧高富町、美山町、伊自良村が合併し市制となったが、中世歴史ストーリーの詰まった魅力ある地でした。市観光課作成の各種パンフも豪華で内容豊か、理解を助けてくれました。


麒麟がくる 南泉寺・十五神社

2021年12月07日 | その他

大桑城の古城山のふもとに土岐氏の菩提寺・南泉寺(臨済宗)があります。土岐時頼(ときときより)が描いたと伝わる「鷹」(絹本着色)の絵、頼純の肖像画、仁和和尚の語録などを所有する。
土岐氏の歴代守護は、鷹をこよなく愛しました。鷹の勇猛さや凛々しさは武勇へのあこがれの象徴でした。
寺内には時頼の墓があります。(寺内墓地を散策しましたが見つからなかった)
天文20年(1551年)土岐一族の出身で「安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し」の辞世で知られる快川紹喜(かいかわしょうき)が住職となり栄えました。

大桑城近くの十五社神社に伝わる越前笏谷石(しゃくたにいし)製の一対の狛犬には「天文9庚子年」(1540年)「奉土岐氏神」と刻まれている。

 

「時は今雨がしたしる五月かな」明智光秀

大矢田神社の紅葉、伊自良湖などへドライブ散策の途中、幟旗や道路標識に釣られ随分珍しい見学をし、道草しました。

下、伊自良湖畔の甘南美寺(かんなみじ)です。三方が山に囲まれ夏でも寒いくらいです。

花ノ木

付近に珍しい高札所があった。


麒麟がくる 大桑城跡

2021年12月06日 | その他

岐阜県山県市は歴史に富んだ魅力ある田舎街です。
大桑城は大桑地区の標高407メートルの古城山山頂一帯に残っています。
明智光秀は、土岐元頼(基頼)(ときもとより)の嫡男として生まれ、土岐氏(土岐一族)の末裔とされる。可児・明智城の明智光綱に懇願され養子になり明智姓になった。

市の観光課が発行して名所に置いてくれているパンフは豪華で立派です。


NHK放映の「麒麟がくる」で整備されたのか、大桑城跡入口が公園化され観光バスを含む駐車場が広くきれいになっていました。

駐車場を降り少し歩くと大桑城跡入口です。

その手前に保存されている四国掘跡です。四国掘は尾張、伊勢、越前、近江の四つの国の加勢を得て築いたと伝えられる由来からです。

「六万墓」:六万という数は定かではありませんが、それほど多くの人々を巻き込む合戦がこの地で行われた供養碑です。
美濃国守護・土岐氏は清和源氏の流れをくむ武士の一族で、大桑城に入った土岐氏に、天文11年(1542年)斎藤道三が進入して激突し、多くの戦死者を出したと伝えられます。

碑の奥山に小さな祠がありました。

六万墓を少し入ったところに「千人墓」があります。

大桑城跡の登山口です。

現に未だ発掘調査しているようです。

私は脚力が落ちここで登山を諦めました。

カウンターボックスとパンフが置いてあります。


麒麟がくる 桔梗塚 その2

2021年12月05日 | その他

今日は明智光秀公のお墓・桔梗塚のお祭りの日でした。白山神社のお祭りです。
(詳しくは「その1」をご覧ください)
有縁の人達が集まり火を囲んで立ち飲みで一杯やっておられました。先日訪ねた際一番近いところにお住いのお婆ちゃんが祭りの日を教えてくださった。

そのお婆ちゃんも来ておられ、私がそう言うと近づいてきてハムサンドを一切れ下さった。
男性の一人に「阿弥陀堂はここですか?」と聞くと、焚火の前の白山神社隣の、互いにそれらしくない建物が阿弥陀堂だと教えてくださった。戸が開け放たれていて、位牌の案内をしてくださった。左が阿弥陀堂、右が白山神社(案内マップの絵と随分違う)(普段は閉めてある)


今日のお祭りは地区とか氏子の集まりではなく、荒深姓を名乗る子孫達の集まりだそうです。
昔はこの阿弥陀堂前に13軒、荒深姓の家があったが、皆、下の方へ移住してしまい、現在93歳のお婆ちゃんが来て「昔ここに住んでいた、懐かしい」と言われたと説明された。

(光秀公が本能寺の変後、生誕の地へ帰り、身代わりで死んだ影武者・荒木行信の忠誠に深く感銘し「荒」と「深」を取って自ら荒深小五郎を名乗りここに住んでいた。その後家康の要請で関ヶ原合戦に向かう途中、増水した藪川(根尾川)で馬共に押し流されて亡くなったと伝えられます。

阿弥陀堂の光秀公等の位牌と肖像。

「光秀公の位牌が一番左手前、真ん中が母親、その右が光秀公の母が建てたとされる仏光西洞寺庵の和尚さんの位牌だ」と教えてくださった。母が住んでいた庵の方を差し「山の中で今は石垣しか残っていない」と。(洞戸街道の上の方だった)和尚さんの名を聞き逃した。

新聞のコピーが置いてあった。

白山神社お社へは登っていなかったので、参道を教えていただきお参りした。急斜面があるので阿弥陀堂前にある木の枝の杖をついて登るよう言われた。

白山神社お社。

御神木はお社の左後ろに立つ

享禄3年(1530年)年に建てられた。覆いに囲われ保存状態はいい。

お社から下を見る。

光秀生誕の地は可児市・明智城も生誕の地と案内しています。男性は、可児の明智城へは兵法を学びに行った。生誕の地を名乗る場所は5ヶ所あり、お墓は全国に無数にあると説明してくれた。かって岐阜県知事と山県市長が訪れ、NHKが「麒麟がくる」を放映するので、この地を訪問するお客が増えるだろうから、お墓の参道などを整備してほしいと依頼を受け尽力したと。
坂はかなり急で健脚向きです。下りが危なく杖を支えに蟹歩きで降りてきて「この地は興趣が尽きず4回目の訪問です」と言うと缶ビール1本を頂いた。ありがとう。

光秀公の墓(五輪の墓)いくら直しても傾くと言われる。


今日は孫の結婚式

2021年12月04日 | 日記

今日は孫娘の結婚式でした。格式の高い岐阜市最古(景行14年:西暦84年創始)の神社・伊奈波神社で行われました。伊奈波神社は稲葉山の麓に鎮座する岐阜市付近第一のお宮さんです。(岐阜城のある金華山は後からの別名)
今日は土曜日で七五三詣りもあり、駐車場は満車で、駐車場案内の係が10人余の賑わい振りでした。

神社から市街地方面

祈祷所と受付

祈祷所受付

両家隣接の控室に入る前と、式後に婿殿のご家族に廊下で出会い、祖父であることを告げ、「この度は過ぎたるご縁があり、良縁に喜んでいます。どうかよろしくお願いします」と挨拶し、会食の不参加の非礼をお詫びしました。

中庭

下の孫2人と祖母。昨日、おばあちゃんは信州県境の街から汽車と電車を乗り継いで、式に参加してくださった。

一家が一人独立しました。

着付けの美容師は二人でした。お雇いスナップカメラマンも一人。

巫女さんお二人と神主お二人の結婚式は格調高く、厳かで感動しました。こんな立派な式は初めて経験しました。もちろん巫女の舞は素晴しかった。

「親族固めの盃」を記念にお持ち帰りくださいと言われ貰ってきました。「伊奈波さま世は✖に」一字が読めません。

上の孫は両親の職を継ぐ教員で、婿殿も同職です。学校は異なります。どう知り合ったかなど全く知りません。この春、貸貸マンションで同居し3月に入籍しています。この時期に神前式になった訳も知りません。
親族が顔合わせしないのは如何と、事後の式になったかも。
結婚式は10時半~11時半に終わり、近くの岐阜市の旧家通り・河原町の料理屋で両家の会食を持つとのこと。祖父の私も招待されましたが体調が万全でなく辞退しました。
婿殿の祖母様は私より2歳ご年長でした。

婿殿のご実家は岐阜市北部の田舎で、同族が多い20代も続く旧家のようで、ご二男らしい人が式に参列しておられた。どうか安らぎのある幸せな家庭を築いてください。
孫は、かあさん(亡妻)が育ての親です。この日を見ることができたらさぞ喜んだでしょう。明日は墓参し報告します。

門脇睦男

 祝い船