○人間の絆について考える
サマセット・モームの作品世界は、読者に言い知れぬほどの力で迫りくるものがある。それを生きる意味、あるいは生きる価値と呼んで差し支えないだろう。勿論、今日のお勧めの書はモームの「人間の絆」だが、表現者のはしくれとしては、やはりどこまでも僕の裡なる人間の絆というものについて考えることにする。絆とは読んで字のごとく、人と人との、深き心の底から湧き出るような感情の発露が共振し合い、個としての人間には到底気づき得なかった、複数の人間どうしの精神が絡み合う心の活動そのものである。無論、友人の数の多い、少ない、などという視点だけで人間の絆の質を云々すること自体が、そもそも誤った人間観である。人間観に歪みがあれば、若き時期の表層的な友人関係がそのままに、人間の絆のあり得るべき姿だ、と感じるだろう。あるいは社会人になって、仕事場で出会う同僚や、上司、あるいは部下たちとの関係性に、人間的な繋がりを過剰に求め過ぎると、後年手ひどいシッペ返しを食らう。青年期の友情など、歳を食らうごとに磨滅していくような宿命的な存在なのではなかろうか。長きに渡る宮仕えにも、事なきを得て定年を迎え、さて自分の周縁を見まわすと、本当は誰一人として、人間的な次元における絆で繋がっていた人間などいなかった、という現実は決して笑い話などではすまされない酷薄なる事実であろう。しかしこのようなことは、果たしてごく特殊なことなのだろうか?
これは物事の本質を深く見ようと見まいと、次元の違いはあるにせよ、誰にでもどこかの年齢で遭遇するはずの精神の空漠感、欠落感、虚無感などといった観念のドラマが創り出す、終焉に対する気づきの訪れは確実にあるだろう。若さという純粋さを介して、自己の思念は間違いなく若き覚醒者の限界点にまで一足飛びに到達することになる。その結果としての彼らの自死はかなり鋭角的な角度で起こり得る現実的な問題となる。天才的な才能に恵まれ過ぎると、その才能たるや、濾過された後に救い取れるような澄み渡った清水のごときものであり、世の中のケガレ(敢えて穢れとは表記せずに、このように書きおきたい。ケガレという言葉を使ったのは、所謂世間で通用している、かなり大雑把な清澄さと猥雑さの区別から離れたいという秘かな僕なりの願いがあるからだ)が混じると、清水の清らかさなどは一瞬にして汚濁の憂き目に遭う。これこそが天才的才能の挫折の意味するものである。
多くの人々とともに、僕も凡庸なる精神の持ち主として、この世界に、この年齢まで憚ってきたのである。凡才とはいえ、凡才なりの生に対する限界性が広がり、逆に未来への希望はますます縮小し、やはり己の死とは全ての終焉を意味するもの、と感じざるを得ない。惨めな最期を迎えるであろう自分のかなり具体的なイメージが想起される。そしてさらに付言するなら、死に至るプロセスは、孤独そのものであり、全ての人間的な絆を断ち切った末に現れ出るそれである。
どのような意味合いにおいても才能に恵まれずに生きてきた男。才能のないままに、自我意識の肥大をある種の才能である、と錯誤してきた哀れな男の末路。それが僕のこの世界との離別の姿であるなら、厳粛に受け止めることでしか自己存在の意味はなかろう。それにしても、凡庸なる知性の僕の唯一の錯誤の一つとして、ここに書き留めるような言葉が、たとえ人々の頭上を掠めて通り過ぎるものであったとしても、通り過ぎた空気の流動なりとも感じてくださる人がいれば幸いなのである。かなり寂しい規定ではあるが、僕の言葉が他者の頭上を掠めて通り過ぎるときに生じる僅かな空気の流動と振動を、僕なりの、人間の絆のあり方、と規定しようと思う。切ないが致し方のない現実である。今日の観想である。
○推薦図書「人間の絆」(Ⅰ)~(Ⅳ)サマセット・モーム著。新潮文庫。この書は心と体を<からだ>と称するならば、そのような人間の精神の繋がりを、精神と肉体を兼ね備えた濃密な関係性としての絡み合いとして、小説世界という舞台で描き切っている名作です。あまりによく読まれた作品ですので、プロットなどの紹介は割愛しますし、かつて読破された方々にも再読していただきたい作品として、ここに紹介します。僕のようなやせ細り、尖った精神の受容力では、他者を包み込むことなど出来ません。僕と似通った観想をお持ちの方々にはぜひとものお勧めの書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
サマセット・モームの作品世界は、読者に言い知れぬほどの力で迫りくるものがある。それを生きる意味、あるいは生きる価値と呼んで差し支えないだろう。勿論、今日のお勧めの書はモームの「人間の絆」だが、表現者のはしくれとしては、やはりどこまでも僕の裡なる人間の絆というものについて考えることにする。絆とは読んで字のごとく、人と人との、深き心の底から湧き出るような感情の発露が共振し合い、個としての人間には到底気づき得なかった、複数の人間どうしの精神が絡み合う心の活動そのものである。無論、友人の数の多い、少ない、などという視点だけで人間の絆の質を云々すること自体が、そもそも誤った人間観である。人間観に歪みがあれば、若き時期の表層的な友人関係がそのままに、人間の絆のあり得るべき姿だ、と感じるだろう。あるいは社会人になって、仕事場で出会う同僚や、上司、あるいは部下たちとの関係性に、人間的な繋がりを過剰に求め過ぎると、後年手ひどいシッペ返しを食らう。青年期の友情など、歳を食らうごとに磨滅していくような宿命的な存在なのではなかろうか。長きに渡る宮仕えにも、事なきを得て定年を迎え、さて自分の周縁を見まわすと、本当は誰一人として、人間的な次元における絆で繋がっていた人間などいなかった、という現実は決して笑い話などではすまされない酷薄なる事実であろう。しかしこのようなことは、果たしてごく特殊なことなのだろうか?
これは物事の本質を深く見ようと見まいと、次元の違いはあるにせよ、誰にでもどこかの年齢で遭遇するはずの精神の空漠感、欠落感、虚無感などといった観念のドラマが創り出す、終焉に対する気づきの訪れは確実にあるだろう。若さという純粋さを介して、自己の思念は間違いなく若き覚醒者の限界点にまで一足飛びに到達することになる。その結果としての彼らの自死はかなり鋭角的な角度で起こり得る現実的な問題となる。天才的な才能に恵まれ過ぎると、その才能たるや、濾過された後に救い取れるような澄み渡った清水のごときものであり、世の中のケガレ(敢えて穢れとは表記せずに、このように書きおきたい。ケガレという言葉を使ったのは、所謂世間で通用している、かなり大雑把な清澄さと猥雑さの区別から離れたいという秘かな僕なりの願いがあるからだ)が混じると、清水の清らかさなどは一瞬にして汚濁の憂き目に遭う。これこそが天才的才能の挫折の意味するものである。
多くの人々とともに、僕も凡庸なる精神の持ち主として、この世界に、この年齢まで憚ってきたのである。凡才とはいえ、凡才なりの生に対する限界性が広がり、逆に未来への希望はますます縮小し、やはり己の死とは全ての終焉を意味するもの、と感じざるを得ない。惨めな最期を迎えるであろう自分のかなり具体的なイメージが想起される。そしてさらに付言するなら、死に至るプロセスは、孤独そのものであり、全ての人間的な絆を断ち切った末に現れ出るそれである。
どのような意味合いにおいても才能に恵まれずに生きてきた男。才能のないままに、自我意識の肥大をある種の才能である、と錯誤してきた哀れな男の末路。それが僕のこの世界との離別の姿であるなら、厳粛に受け止めることでしか自己存在の意味はなかろう。それにしても、凡庸なる知性の僕の唯一の錯誤の一つとして、ここに書き留めるような言葉が、たとえ人々の頭上を掠めて通り過ぎるものであったとしても、通り過ぎた空気の流動なりとも感じてくださる人がいれば幸いなのである。かなり寂しい規定ではあるが、僕の言葉が他者の頭上を掠めて通り過ぎるときに生じる僅かな空気の流動と振動を、僕なりの、人間の絆のあり方、と規定しようと思う。切ないが致し方のない現実である。今日の観想である。
○推薦図書「人間の絆」(Ⅰ)~(Ⅳ)サマセット・モーム著。新潮文庫。この書は心と体を<からだ>と称するならば、そのような人間の精神の繋がりを、精神と肉体を兼ね備えた濃密な関係性としての絡み合いとして、小説世界という舞台で描き切っている名作です。あまりによく読まれた作品ですので、プロットなどの紹介は割愛しますし、かつて読破された方々にも再読していただきたい作品として、ここに紹介します。僕のようなやせ細り、尖った精神の受容力では、他者を包み込むことなど出来ません。僕と似通った観想をお持ちの方々にはぜひとものお勧めの書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃