ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人間の絆について考える

2008-12-19 20:23:56 | 文学
○人間の絆について考える

サマセット・モームの作品世界は、読者に言い知れぬほどの力で迫りくるものがある。それを生きる意味、あるいは生きる価値と呼んで差し支えないだろう。勿論、今日のお勧めの書はモームの「人間の絆」だが、表現者のはしくれとしては、やはりどこまでも僕の裡なる人間の絆というものについて考えることにする。絆とは読んで字のごとく、人と人との、深き心の底から湧き出るような感情の発露が共振し合い、個としての人間には到底気づき得なかった、複数の人間どうしの精神が絡み合う心の活動そのものである。無論、友人の数の多い、少ない、などという視点だけで人間の絆の質を云々すること自体が、そもそも誤った人間観である。人間観に歪みがあれば、若き時期の表層的な友人関係がそのままに、人間の絆のあり得るべき姿だ、と感じるだろう。あるいは社会人になって、仕事場で出会う同僚や、上司、あるいは部下たちとの関係性に、人間的な繋がりを過剰に求め過ぎると、後年手ひどいシッペ返しを食らう。青年期の友情など、歳を食らうごとに磨滅していくような宿命的な存在なのではなかろうか。長きに渡る宮仕えにも、事なきを得て定年を迎え、さて自分の周縁を見まわすと、本当は誰一人として、人間的な次元における絆で繋がっていた人間などいなかった、という現実は決して笑い話などではすまされない酷薄なる事実であろう。しかしこのようなことは、果たしてごく特殊なことなのだろうか?

これは物事の本質を深く見ようと見まいと、次元の違いはあるにせよ、誰にでもどこかの年齢で遭遇するはずの精神の空漠感、欠落感、虚無感などといった観念のドラマが創り出す、終焉に対する気づきの訪れは確実にあるだろう。若さという純粋さを介して、自己の思念は間違いなく若き覚醒者の限界点にまで一足飛びに到達することになる。その結果としての彼らの自死はかなり鋭角的な角度で起こり得る現実的な問題となる。天才的な才能に恵まれ過ぎると、その才能たるや、濾過された後に救い取れるような澄み渡った清水のごときものであり、世の中のケガレ(敢えて穢れとは表記せずに、このように書きおきたい。ケガレという言葉を使ったのは、所謂世間で通用している、かなり大雑把な清澄さと猥雑さの区別から離れたいという秘かな僕なりの願いがあるからだ)が混じると、清水の清らかさなどは一瞬にして汚濁の憂き目に遭う。これこそが天才的才能の挫折の意味するものである。

多くの人々とともに、僕も凡庸なる精神の持ち主として、この世界に、この年齢まで憚ってきたのである。凡才とはいえ、凡才なりの生に対する限界性が広がり、逆に未来への希望はますます縮小し、やはり己の死とは全ての終焉を意味するもの、と感じざるを得ない。惨めな最期を迎えるであろう自分のかなり具体的なイメージが想起される。そしてさらに付言するなら、死に至るプロセスは、孤独そのものであり、全ての人間的な絆を断ち切った末に現れ出るそれである。

どのような意味合いにおいても才能に恵まれずに生きてきた男。才能のないままに、自我意識の肥大をある種の才能である、と錯誤してきた哀れな男の末路。それが僕のこの世界との離別の姿であるなら、厳粛に受け止めることでしか自己存在の意味はなかろう。それにしても、凡庸なる知性の僕の唯一の錯誤の一つとして、ここに書き留めるような言葉が、たとえ人々の頭上を掠めて通り過ぎるものであったとしても、通り過ぎた空気の流動なりとも感じてくださる人がいれば幸いなのである。かなり寂しい規定ではあるが、僕の言葉が他者の頭上を掠めて通り過ぎるときに生じる僅かな空気の流動と振動を、僕なりの、人間の絆のあり方、と規定しようと思う。切ないが致し方のない現実である。今日の観想である。

○推薦図書「人間の絆」(Ⅰ)~(Ⅳ)サマセット・モーム著。新潮文庫。この書は心と体を<からだ>と称するならば、そのような人間の精神の繋がりを、精神と肉体を兼ね備えた濃密な関係性としての絡み合いとして、小説世界という舞台で描き切っている名作です。あまりによく読まれた作品ですので、プロットなどの紹介は割愛しますし、かつて読破された方々にも再読していただきたい作品として、ここに紹介します。僕のようなやせ細り、尖った精神の受容力では、他者を包み込むことなど出来ません。僕と似通った観想をお持ちの方々にはぜひとものお勧めの書です。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

偏狭な愛が支配している小説世界には、そろそろうんざりとしてきたかも・・・

2008-12-01 23:12:50 | 文学
○偏狭な愛が支配している小説世界には、そろそろうんざりとしてきたかも・・・

昨今、青春恋愛ものの小説がやたらと出版されていて、ブームに乗っていろんな作家が書きまくっているような感がある。新刊書の多くが、このジャンルではなかろうか?勿論、読者あっての小説であり、売れなければそれでお終いなのだからそれでよい、としても、携帯小説とやらも含めて、このジャンルによって慰められている、特に若者たちの精神のありように僕はしばし想いを馳せることになった。僕のようなおっさん読者は、ある意味、留保つきの読み方をしながら、狭苦しい世界観の中で繰り広げられる青年たちの恋愛を、物語というジャンルから、自らの過去への遡りのツールとして大いに活用させてもらっている。言葉を換えて言えば、ある種の過去への偏執のための、割り切り型の読み方である。その意味合いにおいて、僕はあくまで留保つきの、若き書き手たちに対する、理解ある読者であり得る。それは許されることと勝手に思うこととする。

だが、このような狭隘なる世界の中で閉じこもり、出口なき球体の中で愛を交わし、性を交わす現代の青年たちの恋愛とは、そのまま現代の青年たちの世界観を狭めてしまう負の役割を担っているように最近とみに感じるようになってきたのである。年寄の冷や水と言っていただいて何ら差し支えはない。年寄が冷や水を流すようになったきっかけなりとも書こう、と思う。それが年老いた人間の役割というものだろうから。

青春恋愛小説というジャンルに区分されるものが売れている背景には、青年たちが、自らをとりまく世界の、展望なき、拠り所なき不確かな原像を自らのイメージと重ねて生きているような、実に切ない想いがどうしても払拭できない。客観的に見ても、現代の若者たちの意識の中に、何がしかの確固とした生きる指針が育まれる要素というものがない。彼らにとって、仕事にもかつてのような、会社に奉じることで自己の身分を保障される土壌すらないのが現状である。いつもリストラの憂き目を覚悟しながらの、何らの身分の保障なく、税金の負担ばかりが重くのしかかる生活が彼らの日常ではなかろうか。さらにもっと重要なことは、勿論これはええ歳したおっさん、おばさんに、いかにも世界を観る目がなさすぎることが多分に影響しているとは思うが、青年たちの未来を創造する選択肢の中に、政治を媒介にした社会変革という要素が見事に抜け落ちていることである。未来を自分たちの力で選択し得ないと錯覚(しているだけだが)している、彼ら、青年たちの恋愛観の中に、人間の力ではどうにも及ばない大きな力によって、もしかすると愛する対象を失わしめることになりはしまいか、という危惧すら生起することはないように思う。あるいはその逆に、たとえば経済的理由や社会的身分がうまく築けないという目先の要素だけで、簡単に(少なくとも僕にはそう見える)愛する対象者を投げ出してしまう価値意識の中からは、どのように控えめに見ても刹那的な恋愛観しか醸成出来ないのではないかと、僕は思う。いや、もっと本質的なことは、彼らには、自らの未来を構築していく底力というものが喪失してしまっていることに対する、僕なりの危惧がどうしても拭えないことなのだ。人間が自らの未来への構築力を喪失したとき、それは、人間としての精神の死を意味することではないのか?

精神の死した、いやもっと正確に言うと、精神の死を強いられた青年たちの、青春の時代にはどこかしら暗い、可能性を喪失させられ、閉ざされた世界が見え隠れする。閉ざされた世界の中で紡ぎ出される愛の言葉には、未来を構築するだけのエナジーは勿論ない。だからこそ、恋愛青春小説には、一見して若者の恋愛が描かれているに見えて、そこには饐えた、熟して腐りつつあるごとき性の爛熟が必須の要素としてプロットの中に投げ込まれる。そうでなければ売れないのであれば、それらの書を、現代における文化の頽廃として受容しなければならないのだろう。

○推薦図書「人間の運命」ショーロホフ著。角川文庫。戦争によって、一人の人間の小さな愛に満ちた幸福など、一瞬にして吹っ飛びます。しかし、そのような過酷な状況の中からでも人は希望の光を見出していく力を秘めた存在です。そのような人間の潜在能力を思い起こさせてくれるお勧めの書です。ショーロホフはご存じのように「静かなドン」によって、あの悪名高いスターリン賞を受賞しましたが、その後ノーベル文学賞も受賞している押しも押されぬ名作家です。残念ながら「静かなドン」は現在は絶版になっており、古本でしか読めませんので、とりあえずは今日の推薦の書をどうぞ。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

グロテスクについて考える

2008-11-04 23:14:01 | 文学
○グロテスクについて考える

グロテスクという言葉を最初に聞いたのは、もう何十年も昔の、英米文学の有名どころの著者のアンソロジーをテキストにした、英米文学の入門期の講義を大学で受けた頃だったと記憶する。あの頃の、僕の通学していた大学の英文学科では、文芸評論で言えば「ニュークリティシズム」(新批評)という、東部イスタブリッシュメントに対抗するアメリカ南部の一大文芸批評運動の影響が、何年も遅れてまったりとしたスピードで、京都の二流どころの大学の英文学科の講義に反映された結果の出来事だった。僕の記憶に間違いがなければ、たぶんそういうことで、グロテスクという概念が僕のうちに入ってきたのであろう、と思う。

勿論、日常語で一般的に使うグロテスクという言葉は、視覚的な醜悪さを表現するための言葉であろう。しかし、文学におけるグロテスクという概念は、日常性の中で、何気なく、何の疑問もなく、とりおこなわれる日常生活者の言動の中に潜む非日常性、そしてその非日常性の持つ意味は、日常性の側からみると何の変哲もなく、見過ごされる性質のものである。しかし、その実、日常で生起する事柄の奥底にどんよりと横たわっている不可避かつ不可思議な、避けがたい存在なのである。つまりは、日常生活者たちが、普段通りに生活をしているという何の変哲もない出来事の中にこそ、人間存在にとって避けることのできない醜悪さが息を潜めており、それをグロテスクと呼んで差し支えないであろう。

小説作品の中に繰り広げられる世界像とは、日常生活に起こり得ることばかりであるが、人々がその日常性の中に埋もれていると、美的なものは多少なりとも、世間知の常識の範囲内で起こることがあるために、それを美的なものとは感じずとも、人の心を揺り動かすことも可能であろう。しかし、その一方で、人は日常生活の中に生起する醜悪なる現実には目を背けてのうのうと生きる傾向があるように思われる。たぶん、自己の思想のありように関する問い詰めを敢えてせずとも、飯を食らい、排泄し、飯のタネになる仕事をし、情緒的には善人を気どることで、危うい日常的平衡感覚を保っているのが、大多数の日常生活者たちの生活の本質ではなかろうか?このような本来はのっぺらぼうな人生に意味を持たせ、凡庸なる精神には想像もつかないほどの思想化を、小説空間の中で構築する一握りの才能ある人々がいる。自らが凡庸な日常生活の中に身を置きながらも、その只中で単なる日常を、非日常の世界たる芸術の次元にまで高める思索を絶えることなく表現し続ける人々こそ、創作者である。いまは創作者の中の小説家だけを素材にして語ろうと思う。

小説家が、日常生活の中から拾い出す人生の様々なエッセンスこそが、小説世界における芸術性の発露たる物語性である。日常性を物語という世界像の中で表現することによって、生活者たちが見逃しているさまざまなファクターが明確なカタチを持って描かれる大きな可能性が出てくるのである。日常生活者たちが、意識的か無意識的かは別にして、見逃してしまうものこそ、日常性の中に抗い難くついてまわる醜悪さ(グロテスク)である。人の自然な習性とは、醜いものを避けて、美しきもの、心地よきものだけを生活の現実の中からすくい取ろうとするごときものである。しかし、これでは人間の存在の片側しか捉えきれないことになる。美の次元の問題には、凡庸な人々にとっては、美的なものが心地よいがゆえに好んで反応する。が、その正反対に位置する、人間が存在する上で、避けることの出来ない、グロテスクな生の本質をすくいとって、日常生活者の眼前に突き付けることの出来ることが小説家の役割である。生における美と醜とをくみ取ってこその人生ではなかろうか?美よりは、醜の方が認識しづらいのであれば、醜を認識し、それを芸術の次元にまで高めることで、小説家こそが、生活者に醜を見極めさせる勇気を与えることが出来るのではないか?

このようなグロテスクを認識する文芸評論の一大運動が、得てして裕福なアメリカ東部イスタブリシュメントには真似出来なかった方法論を、文学運動としては当時異端だったはずのアメリカ南部の知識人たちが起こし得たのは、ある意味において、自然な流れであったようにも思う。遠い過去の出来事としてのグロテスクとの対面は、少なくとも僕に人生の意味の深淵さを教えてくれた感がある。そしてそれ以降、僕はたぶん自己の人生の中から、グロテスクという要素を隠蔽することなく生きてきたと思う。少し自己満足が混じってはいるが、今日の観想としたい。

○推薦図書「現代アメリカ小説」 マルカム・ブラッドベリ著。英米文化学会翻訳。彩流社。単なるアメリカ文学の鳥瞰的な解説書ではありません。意外にみなさんがアメリカ文学に馴染みがないのは、時代の流れとともに、たくさんの作家が優れた作品を書き遺していますが、残念ながらそれらが単なる文学史の枠内に閉じ込められているからです。この書は、優れた作品の解説に終わることなく、ヨーロッパの文学とはひと味違うアメリカの、少し粗野ではありますが、それだからこそ大胆に物事の本質を抉ることの出来るダイナミズムを持っていることを教えてくれる良書です。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

文学のおもしろさについて、いま再び敢えて語ろう、と思う

2008-06-03 21:17:05 | 文学
○文学のおもしろさについて、いま再び敢えて語ろう、と思う

素朴な観想だが、文学というものの本質的なおもしろさに水を差して、つまらなくさせているのは、日本の国語教育ではないか? と僕は思っている。大きな観点から見れば、文部科学省の教科書の検定制度に問題あり、だ。とりわけ日本人にとって、日本語は母語なのだから、母語としての表現の卓抜さであるとか、その可能性の大きさであるとか、母語による表現の最高形式の一つである小説の教材のスクリーニングシステムという選定と検定とで、何もかも台無しにしている、というのが僕の意見だ。自分の高校生時代を振り返ってもそれはよく証明されていて、その頃僕は表現力としては論理性に当たるジャンルを独学している最中だったので、国語の教師の、感性の鈍さというよりは、感性のなさ、教師なのに表現がまともに出来ない国語教師の授業などアホらしくて受けている暇はなかった。時代が本質を問わしめた、毎時間授業にやって来る教師たちに、何故君たちは、毎時間決まりきったカリキュラムをこなすためだけに、教室にやって来るのか、自己批判し、自己の生そのものを総括すべきである、と問い詰めたら、誰もが教室からすごすごと職員室という逃げ場へ、文字通り逃げ帰っていった。とりわけ国語の教師は、無様だった。表現力、論理力、読書量の決定的な不足は、隠しようのない形で、教壇の上で晒されることになったから。国語の教師は読書量と小説作品理解にはかなりな力を有していると、みなさんは思っていらっしゃるだろうが、日本の国語教師は、特殊な例外を除いて、その殆どに当てはまることと言えば、彼らにはまるで読書量が不足している、ということだ。当然文部省(現在の文部科学省)のスクリーニングした教科書マニュアルだけを拠り所にしている連中なのだ。おもろい授業など出来るはずがないではないか。おもしろい、とは、学ぶ側の人間の想像力をかき立て、その想像力の広がりが世界を捉える大いに有効な手段だ、と悟らせるという意味合いにおいてのおもしろさ、である。

学校批判になった感があるが、僕の書きたいことはこんなつまらないことではない。僕が書きたいことは、文学という人間の表現形体が何故優れているのか? ということなのである。かなりな読書家と思っておられる方々も、蔵書は増えるばかりだろうが、読了した小説世界から何ものも教訓化されていない人が結構いるものなのである。ある一つの作品世界は、それ自体で閉じている小説空間だ、と思っているような人は、読了したら、その小説の価値はほぼゼロに近くなるはずだ。小説に出てくる主人公や主人公を取り巻く人間関係を、その小説に独自なもの、としてしか読み取れないからである。つまりは、一つの作品は一つの価値しか持ち得ず自己完結している、という考え方だ。こういう読み方をしている人に対しては、想像力の欠如、と端的に僕なら指摘する。別に批判はしない。批判しても相互批判たり得ないので、時間の無駄だと思っているからである。

文学作品は人間にとっての最高の表現形式の一つだ、と僕は書いた。なぜなら、書いた側も読む側も、そこに繋がっているものは、両者の想像力以外のなにものでもないからである。そして想像力こそが世界のあり方を決定づけるものだからである。想像力という観点から見ると音楽もそうだろう。できるだけくだくだしい歌詞がない方がよろしい。ジャズやクラシックはかなり高度な表現形式である。僕の視点で言えばオペラや演劇はそれよりは落ちる。オペラは表現が過剰なのである。人間存在のすべてが、あまりに分かりやすく舞台の上で繰り広げられる。演劇もオペラに比べれば控えめだが、同属である。ミュージカルなどは、さらに一ランク下がる。あれはアミューズメントに属する単なる娯楽に過ぎない。日本の歌舞伎、しかり。これらは、人間の想像力を極端に甘えさせてくれる。歌舞伎を観ながら弁当を食う気持ちが分かる。それだけ余裕を持って見る側が感得しているからだ。まあ娯楽にとどまるならばそれもよい。(と書いたが、これを整理しているいまはかなり意見が変わっている。演劇・オペラ・ミュージカル・歌舞伎に対する評価は断然上がってしまった!)

それでは文学には何が在る? 言うまでもなく、全世界が作品世界に凝縮されている。またそういう作品でなければ、それらは駄作という汚名が被せられることになる。駄作とは、その作品自体で自己完結しているような、言わば読み切りの漫画のような小世界である。これは前記したアミューズメントとしての意味しかないから、読めばそれでお終いなのである。角度を変えて言えば、このような作品の読み方に慣れてしまった人は、たとえ、その作品が一人の主人公と主人公に関わる物語であれ、そこに、普遍性が備わっており、普遍性が備わっているからこそ、その小説作品には限りない広がりがあったにせよ、想像力の欠如している人々は、惜しげもなく普遍性を有した作品を漫画の読み切り作品のごとくに転化させて平気なのである。なんという勿体ないことをやっているのか? と唸るばかりである。それならテレビ番組で、連ドラかお笑い番組を観ている方がお気楽で楽しいのではなかろうか?

文学には全てが在る。人間の営みの根底にまで通じる世界が、作品世界に横たわっている。そこにあるのは、人間の日常生活であり、同時に人間社会そのものであり、経済の論理も潜んでいれば、政治の論理すら含蓄されている。たとえば、青春小説と呼ばれる恋愛物が、世界に通じていることだってある。すばらしき作品は人の想像力を無限に広げ、狭苦しい自我の狭量を、世界そのものと通底させてもくれるのである。これこそが読書の醍醐味ではなかろうか? みなさんはどのような読み方をされているのでしょうか? そんなことを考えた一日でした。

○推薦図書「終わらない旅」 小田 実著。新潮社刊。大著です。小田は小説を書くとき、いつも、人間の認識と歴史認識とをむすびつける努力を重ねた、日本には数少ない言わば全体小説と言われる小説世界を書くことを放棄しなかった作家です。小田は思想家・市民運動家として名を馳せましたが、僕は小田の小説家としての力量を高く買っています。2008年は小田が鬼籍に入った年ですが、この作品は2006年に発刊された、たぶん小田が最期に力を込めて書き込んだ作品ではなかろうか、と思います。お薦めの作品です。ぜひどうぞ。

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長野安晃

種田山頭火の孤独のスタイル

2008-05-23 20:07:37 | 文学
○種田山頭火の孤独のスタイル

種田山頭火という俳人を知らない人は殆どいないだろう。不思議なことに、忘れた頃に、山頭火のブームに火がつく。人間とはまことに勝手気儘なものだ、と思う。拝金主義に興じている最中に、拝金主義とは最も縁遠い俳人の存在を想い起こす。勝手気儘というよりは、人間には生活感覚の中に埋もれた平衡感覚らしきものが眠っているのだろう、と思う。

ご存じのように、山頭火は、家庭生活を捨て、日常性に関わる全ての附属物を身から力業で剥がすようにして、出奔した。たった一人きりの、何の見返りも期待しない己れの生に対する挑戦だった、と感じる。山頭火の創作した俳句の数は膨大だが、その一つ一つの作品は全てが俳句という形式を意図的に壊している。壊れの過程の創作である。壊れの中から、創造的なるものが屹立として姿をあらわにしてくれるのか? という疑問に対しては、躊躇なくイエスと僕には言える。山頭火は凡庸な人間になど絶対に真似の出来ない孤独の淵へわが身を惜しみなく晒す。生と死の境で、彼は自分の紡ぎだす言葉を書きとめる。山の中を駆けめぐる。食料の当てもなくただ駆けめぐる。どこで野垂れ死んでもおかしくはないのに、山頭火は作品を生み出すために自然の只中に身を浸す。そこから生の真実が生まれ出て来ないはずがないではないか。

人は、種田山頭火という俳人を破滅型の人間と称する。少しの嫉妬心を感じながら。現実には絶対に踏み込めない人生に対する抗い難い郷愁の念を感じてしまう。だからこそ、言葉に敏感な人の多くは、自分の日常性を大切に守りながらも、疑似的な「破滅」を山頭火の俳句によって間接的に体験する。僕は、このような人々を軽蔑などしないし、むしろ大いに認める。心の底に山頭火と同じ種の破滅への志向を内包しているという点において、極めてまともだ、と思うからである。

山頭火という男は、その人生における潔さとは裏腹に、形容しがたいほどの無様な生きかたをしている。日常性を捨て切るという潔さと、無様に生きるという、ある意味、相反する行為を事もなげにやってしまう。禅僧になろうとして修行しながら、絶対に続くことがない。何度も脱走している。山頭火の紡ぎだす言葉の価値を識る、片田舎の資産家に寄生しながらも、何度も色街に出かけては、色欲に溺れ、酒に溺れ、何日も泊まりつづける。当然使った大枚の金の請求は世話になっている金持ちのところにまわる。いたたまれず、その家の主に、頭を床に擦りつけて、自分がなんという馬鹿な人間であるか、を心の底から陳謝し、その家を後にする。山頭火の猛省にウソはないが、彼の猛省は何度も繰り返される。それが山頭火という個性である、と言えば言えなくもない。絶望の中における自己否定感の中でさえ、山頭火は、その絶望と自己否定すら、芸術の素材にしてしまう。このエネルギーはどこから出てくるのか? と疑問に思ったこともあったが、種田山頭火が、俳句を生と引き換えるようにして、現世的なあらゆる価値意識を捨て去り、それでも現世的な欲動の炎(ほむら)に身を焦がして憚らないところにこそ、山頭火の尽きることのない創作欲が湧き出て来る源泉だった、とも言えるのではなかろうか?

NHKという存在を本田勝一と同じ意味で、僕は認めないが、中には優れたプロデューサーや脚本家がいるのだろう。晩年のフランキー堺の演じる山頭火は、たぶん山頭火その人以上に山頭火という存在を演じきっていた、と思う。あの作品はぜひとも再放送すべきである。僕にはあたりまえのことだが、山頭火のごとき天才性もなければ、世界から完全に身を剥がした上での孤独の中で、何かを創り出すなどという勇気など持ち合わせてはいない。正直に告白しておく。あくまで凡庸な自分に時に喝を入れてくれる、言葉の芸術家、失敗の多かったが故に、生を必要以上に漂白しなかった、あくまで生き生きとした、生々しいまでの言葉の躍動を、思い出したように素直に鑑賞しようではないか。その度ごとに新たなことが裡に芽生えるはずだから。今日の観想である。

○推薦図書「種田山頭火の死生-ほろほろほろびゆく」 渡辺利夫著。文春新書。なぜ彼の句が現代人の心を揺さぶるのか。何が彼をして泥酔と流転に追いたてたのか。漂泊の俳人の生涯と苦悩を描く異色の山頭火像です。読みごたえのある書です。ぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

愛は収斂し、そして拡散していく可能性を秘めたものではないか?

2008-02-29 23:57:51 | 文学
○愛は収斂し、そして拡散していく可能性を秘めたものではないか?

愛という存在が実るのは、スタンダールが「恋愛論」の中で述べているように、それはまさに結晶作用のごとき、収斂され、凝縮され、殆どある一点に向かって動き続けるようなエネルギー体のような存在ではないか、と思われる。だからこそ、愛した人間が愛の対象になった相手を縛ろうとする心の動きは、愛の結晶作用の結果として、当然に起こり得る。いや、この段階を抜きにした愛のあり方はエセものである。だから愛はときとして、物わかりの悪い行為として人を縛りもする。それらは全て愛というものの収斂の力学がもたらした結果であり、これを人は一般に愛と呼びならわしているのである。人間の愛が極端な嫉妬の念や、愛が裏返って、憎悪を生み出してしまうような不幸は、愛が収斂の力学の範囲の中に留まる限りは、常に起こり得る現象である。

日本におけるこの種の、一方向へ一直線に収斂していく愛の形態を描いた代表的な作家は川端康成だろう、と思う。川端は、この凝縮していく愛のあり方を、箱庭のような狭隘な世界に封じ込めることによって、愛の美的な要素を深化させた。それは翻訳され海外で広く読まれたが、たぶん異文化の人々にとっては、かなり変質的な、だからこそ西欧には数少ない愛のあり方、それを偏愛と読んでも差し支えないが、偏愛の美学が評価された結果のノーベル文学賞だった、と僕は解釈しているのである。三島由紀夫も同じベクトルを持つ作家として何度かノーベル文学賞の候補になったが、同じ種の愛の評価としてのノーベル文学賞授与は不必要だった、と感じる。三島がノーベル文学賞を取りのがした最大の理由は、たぶんこのあたりにあるだろうが、もう一つ敢えて言うならば、三島の作品には美的な凝縮力と同時にそれが拡散していく広がりを感じさせる要素があったのではないか?

ある意味においては、三島は川端の狭隘な世界観からはみ出す大いなる可能性を持っていたが故に、日本的な美意識としての特殊な存在としては認められなかったのではないだろうか? 三島の才能の拡がりゆえに、三島は西欧の愛の概念と対等に位置づけられ、そうであれば、三島に優る愛の凝縮と拡散というエネルギーに満ち溢れた多くの作家たちが、三島にとっての強烈なライバルとして彼の前に立ちふさがったのではないか、と僕は推察する。三島は川端文学の小宇宙を凌駕する力を持っていたが故に、ノーベル賞の評価の戦列から逸脱していったのだ、と思う。三島においては、愛の拡散という課題を彼の作品世界で拡げる才能はすでに閉ざされていただろう。三島が疑似的な右翼的政治スタイルを「楯の会」という馬鹿げた、陳腐な小組織の中で、すでに日本人の精神性からは剥がれ落ちた、死と血の臭いに満ちた美的世界にのめり込んだのはうなずける行為である。この瞬間から日本的な古式にのっとった腹切りと介錯による死は、三島にとっては自己の美学を完結させるためには不可欠の要素だったのである。三島は死ぬべくしてこの世を去った、と僕は思う。川端康成がノーベル文学賞受賞後の、無様とも言える表層的な右翼回帰としての政治運動への参加と、その後のありふれたガス自殺という、およそ美的な要素のカケラもない死を選ばざるを得なかったのは、川端の中に三島のような拡散の思想がなかったからに他ならない。だからこそ川端は凡庸に過ぎる死を選択せざるを得なかったのだ、と思う。ある意味で川端の晩年の凡庸な政治参加と凡庸な死に様は、川端の弟子たる三島への密やかなる嫉妬故の行為ではなかったか?

川端康成と三島由紀夫の対局にあった大江健三郎の、ノーベル文学賞受賞は日本ではその存在が希薄になりつつあった最中の出来事だった。確かに大江の存在理由は、ノーベル賞受賞当時、日本においては殆どなかった、と言っても過言ではない。私見の極致の観点で物を言わせてもらえば、大江健三郎が、その才能を正しく評価された上でのノーベル文学賞受賞であるなら、大江は初期作品の評価だけで、ノーベル文学賞がとれていたはずである。大江はノーベル文学賞を授与された時点では既に過去の作家に過ぎなかったが、大江の作品世界が愛の拡散という意味合いとは違う、薄っぺらなヒューマニズムの世界にどっぷりと浸ったとき、それが普遍性をもったものとして、大いなる誤解をもって、世界が大江の世界観を受け入れた、と僕は解釈している。もし敢えて素直に大江のノーベル文学賞受賞の意味を述べるとすれば、それは、彼の人間存在に対する素朴な良心としての価値を代表する作家として評価されたのだろう、と思う。

大江に比べれば政治的メッセージ性という点では比較にならないが、同じような軌跡を辿っている作家が、村上春樹という存在である。村上がノーベル文学賞を露骨に意識しはじめたのは、地下鉄サリン事件を素材にした「アンダーグラウンド」というノンフィクション作品以降であろう、と思われる。村上は世界に向けて危険な発信をしはじめた。もともと村上春樹の作品の良質な要素は、大江と同じように、また大江とは対照的に愛の凝縮化と生活感を極度に表白した愛の可能性である。そこにこそ、村上春樹という作家の存在理由があったが、いま村上は一か八かの賭に出ているような気がする。たぶん村上春樹がノーベル文学賞をとることはなかろうが、もしそれを授与されたとしたら、それは村上の文学世界における政治的な変容による愛の拡散作用としての作品の存在が、村上の才能をはるかに超えた評価を受けて授与される可能性は残されてはいる。村上がカフカ賞受賞を歓びとして、村上の世界像を再構築してほしいものだ、と願って止まない。いま、村上は、己れの才能の発揮できないところにこつこつと、危うい斜塔を構築しているかのように感じられるからである。「1973年のピンボール」や「ノルウェィの森」における、愛の、ノン・メッセージ性の次元への回帰をし、そこから再出発してもらいたいものだ、と心底思う。

○推薦図書「海辺のカフカ(上)(下)」 村上春樹著。新潮文庫。村上春樹の愛が急速に拡大していく様がこの作品からよく見えます。世界と繋がり合う愛の姿の追求です。よく書けた作品ですが、当時に村上の限界性もよく見える作品でもあります。

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長野安晃

何故青春小説が流行るのか?

2007-12-11 20:27:34 | 文学
○何故青春小説が流行るのか?

いま小説世界で静かなブームを呼んでいるのは、青春小説の復活である。携帯小説という新たな媒体が、小説世界をより身近なものにはしたが、それらは一様に若い、いや若過ぎる書き手たちの自由奔放で、ある意味何でもありの世界像がウェブ上をまるで、踊り狂っているかのように、次から次へと作品を紡ぎだしてくる。アクセス数の多さが、人気の度合いを測る目安になっているのだろうが、この手の小説が、たまに本になって出版されたものを読んでみても、若者から世の中に溢れるように存在する汚辱に満ちた性にまつわる読物にしか僕には感じとれなかった。以前この場で紹介した内藤みかの小説も、携帯小説の中から踊り出てきた作品だが、携帯小説と言われるジャンルでは群を抜いているにせよ、内藤みかの世界観にもどこかにわざとらしいシラケたムードが漂っている。たくさん表現されるセクシャルな描写も幾通りかの決まりきった性の交わりのパターンの繰り返しである。だから一見すると性は大胆に描かれているように感じられるが、その実、彼女の性の描写には、性愛による男女の心の深化がまるで欠如している。登場人物たちの年齢もまちまちだが、やはりそこに登場する男女の性愛の営みには、隠しがたい空々しさが在る。携帯小説の限界がここに在る、と僕は思う。

それとは相反するように、若い作家も、中高年を迎えた作家も含めて、小説という、紙の世界に青春というものの実像を描こうとしている作家群が存在する。優れた作品の中の性的な世界は、性の営みだけで閉じているわけではない。性はあくまで、心の成長や深化や、あるいはときとして、精神の荒廃を描くための大切な表現の小道具としての役割りを見事に果している。だからこそ、生の切なさが否応なく抗いようもないほどの力で読者に迫って来るのである。たとえ読者の青春像が一人一人異なったものであるにせよ、読者は容易に感情移入することが出来る。それは、こうした青春小説における大切なテーマ、それはすでに大人として社会生活をおくりつつ、喪失してしまった、自分の中の宝石のように光り輝く精神の純潔さや、疲れ果てた大人としての時点から、己れの青春の頃に持ち合わせていた萌えたぎるような心のエネルギーの再認識の機会を、このような小説群が与えてくれるからである。しかし、僕が青春小説と呼ばれる作品群を単なるノスタルジックなものとして切り捨てないのは、こうした小説に描かれる主人公たちは、歳とともに失っていくものを過去に立ち返り、そこからなにほどかの価値を再発見し、だからと言って、いまの大人としての自分の世界を全否定するような単純な構図の中には決して置かれはしない、という理由があるからだ。

登場人物たちは、喪失感に打ちひしがれながらも、その哀しみを越えて、新たな価値観を取り込みつつ、彼らの、いまを生き抜いていく姿が見事に表出されているのである。たぶん、前記した内藤みかのような携帯小説家上がりの作家も含めて、このジャンルの小説の読者は増え続けていくだろう、と僕は思う。誰もが、この息苦しい世界で何を糧にして生きていくべきかを真剣に考えつつある時代でもあるからだ。

さて、こうして考えてみると僕の生きる楽しみは増えるばかりだ。少し強がってオレは幸福だ、と今日だけは言っておくことにする。

○推薦図書「アジアンタムブルー」 大崎善生著。角川文庫。主人公の山崎は、過去の様々な消しがたい体験に立ち返りながら、やはり、いまを生きるために生のエネルギーをふりしぼっているかのようです。大崎の青春小説の名作「パイロットフィッシュ」の続編と思って読んでいただける良書です。ぜひどうぞ。

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長野安晃

生とは逸脱の連続性の上にこそ成り立つものではないか?

2007-10-03 23:17:28 | 文学
○生とは逸脱の連続性の上にこそ成り立つものではないか?

人間とは逸脱する存在である。何から? たぶん、正常という論理から。あるいは正常という生活形態から。この世に生を受け、成長し、学習し、恋愛し、結婚し、子どもを産み育て、世の中に送り出し、そして老後と呼ばれる不可思議な世界に足を踏み入れ、己れの死を受容する、といった素描を正常な生活形態と仮に位置づけるなら、人間の生とは絶対に素描のままには終わらない存在である。つまりは生とは、逸脱の歴史と言っても過言ではない。それが人生さ、という居直りが、僕には白々しい言い訳などより、どちらかと言うと、よほどすがすがしい。何故なら逸脱こそが人生の真理の別の表現だからである。道徳や倫理観とは、生きる知恵のようなもので、逸脱し続けようとする生のあり方をいっとき正常な? 生の素描に近づけてくれる特効薬のようなものだ。脱線しながらも、何とか生の終焉を迎えることの出来る人たちは幸福である。自殺を試みた人間としての僕が言うのもおかしなことなのだが、やはり生を唐突に打ち切るような自死というのは、いかにも勿体ない、といまは思う。自死を選ぶ人たちは、原因は数え上げたらキリがないが、どのように言葉を繕ってみても、やはり根底には深い絶望感が横たわっているはずである。だからといって、僕は自死を選び取った人々が己れの絶望感に敗北したのだ、などと断罪するつもりは毛頭ない。むしろ、自殺を敗北だ、と言ってのけられる野放図な神経こそを軽蔑する。僕が自死が勿体ない、と言ったのは、絶望も生の、時折訪れる逃れがたい存在なのだから、それが深くともそれほどのものでなくても、やはり生きて、絶望の中に身を浸す価値がある、とは言いたい。苦しくて自らの身を掻きむしり、血を流しつつその場に身を伏せている、長い、長い、時間の経緯だ。投げ出した方がどれほど辻褄が合っているか、と思うだろう。

逸脱とは生の辻褄が合わぬ論理的思考といえば矛盾した言い方だが、たぶん敢えて定義すると、僕の裡では、こうなってしまう。その意味で自死は辻褄が合いすぎていて、潔癖過ぎる行為であり、思想である。途中から俄然おもしろくなってくるドラマを、投げ出して劇場を後にするようなものである。入場料が勿体ない。人生という劇場への入場料をドブに捨てるようなものである。
逸脱こそが人生だ。逸脱することに伴うあらゆる行為を僕は認める。ただし、他者に迷惑をかけぬことと、その究極の行為としての他殺は認めない。それ以外のことは生きていくからには大抵は認められる行為だ、と思う。苦悩も引き受けてこそのエピュキュリアンとしての生きざまだ。そう思う。

○推薦図書「滴り落ちる時計たちの波紋」 平野啓一郎著。文春文庫。文学こそが生の逸脱を表現する最も有利な方法でしょう。人間の暗黒の心の底の底まで描くことの出来る文学とはいいものです。その意味でこの平野の作品集をお勧めします。文学の底知れぬ可能性、生の底知れぬ可能性を表現している読みごたえのある作品です。お勧めです。いかがでしょう?

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長野安晃

甘糟りり子は酷薄なほどに女と男を描く・・・

2007-08-07 23:22:59 | 文学
○甘糟りり子は酷薄なほどに女と男を描く・・・

甘糟りり子という作家は育ちも良さそうだし、現在の生活の様子もいろいろなところから入ってくる情報からすると、僕のような一般的な生活者とは比べようもないほどの、貴族的な生活をおくっているらしい。格差社会というなら、甘糟りり子という女史は、確実に社会の上層で、上流階級の空気を吸って生きているような女性である。なるほど、彼女の作品の中には、僕が下戸であるせいもあるが、まるで聞いたこともない銘柄のシャンパンやワインやブランデーやウィスキーがさり気なく登場し、車好きな僕が名前とスタイルだけは知っている高級外車に主人公たちは、それがまるで当然であるかのように、自分の存在の一部として受け入れている。そんな環境にある作家から紡ぎだされる物語に、人間の真実があるのか? という疑問を持たれる方もいらっしゃるだろう、と思う。事実僕も甘糟りり子という作家の描く世界に入り込めるかどうか、迷いつつ彼女のラビリンスのような世界へ足を踏み入れたのだ。

「けれど、英子が黒いワンピースを脱ぐと、正博はとまどった。自分より十五歳も年上の女の肉体に触れるのは、はじめてだった。いろいろな部分がだらしなく垂れ下がっていて、肌に艶はなくすべてがくすんでいた。何人もの男の手垢がついているような感じだった。かすかにだが、実家(蒲鉾屋)と同じような匂いがした。まさしく使い古した後の女の身体だった。服を着ている時の落差に、正博は素直に驚いた。」甘糟は同じ女性に対する一片の思い入れもないように女性を描く。「みちたりた痛み」(講談社文庫)の短編の中の一節だ。勿論、女の目を通して、男の金や服装や社会的地位といったものを存分に描いてみせるが、底には抉るような異性への冷やかで、同時に深い哀れみの情を作品の中に繰り広げる。その意味で甘糟りり子という作家は酷薄な作家だ、と言えるだろう。人間の虚飾を思い切り作品の中に取り入れながら、その虚飾に満ちた世界から、裸の人間の、どうにも理性では押さえつけることの出来ない本質を取り出して読者の前にさらけ出してみせる。これが甘糟りり子という作家の魅力だ、と僕は思う。

現代の世の中こそ、拝金主義そのものだが、そのくせ金持ちを、どこかで馬鹿にしながら生きているのが庶民感覚というものであるとしたら、それは公平さに欠ける思想である。太宰 治も大地主の息子であったことを当時の文壇の中で、引け目に感じていたのが作品の中からもよくうかがえる。太宰にとっては金持ちである、ということは明らかなマイナスの要因であった、と思う。しかし、やはり世の中は拝金主義であることに変わりはないが、そんな位置など物ともしない知性が出現したのだ、と僕は納得せざるを得なくなった。しみったれた貧乏人の僕には羨ましい限りだが、甘糟りり子には、金にいとめをつけない生活の中から、生の真実を描き続けてほしいものだ。甘糟りり子とはそういう役割を背負った作家だ、と僕は思うから。

○推薦図書「モーテル0467 鎌倉物語」 甘糟りり子著 マガジンハウス刊。繊細なタッチで、男女の関係性を抉りだすように、それでいてあくまで優しく描きます。よい作品だ、と思います。ブログの中で一節を引用した短編集の「みちたりた痛み」(講談社文庫)もお薦めです。素敵な作家がこれでもか、という具合に僕の前に出現します。うれしい悲鳴です。

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長野安晃

英米文学、独断と偏見

2007-04-15 23:33:27 | 文学
○英米文学、独断と偏見

僕は一応大学では英米文学を専攻したことになっている。しかし、フランス文学やロシア文学が僕に与えた影響の大きさについて触れたようには、一度もこの場に書いたことがなかった、と思う。理由はごくありふれたことである。僕の大学時代の英米文学に関する講義について、興味を持ったものは殆どなかったからである。英米文学を読むなら、フランス文学やロシア文学や日本文学や東欧文学に僕の関心は確実に向かっていたからである。はっきり言って僕が英米文学を専攻したのは、大学の頃、もう食い詰めていたので、とにかくも食えるために自分にやれそうなことと言えば教師になることだけだろうな、という根拠のない妄想に似た感覚と、それなら、英語教師が一番需要がありそうだな、という、これも根拠のない世の中を舐めた若造の思いつきに過ぎなかった、と思う。ひと言で言うなら割り切りの選択であった。

こんなふうに入った学部で、真面目に勉強なんて出来なかったし、事実英書講読という専門課目はつまらないのひと言に尽きた。だいたい僕は英語が嫌いだったのである。高校の頃から、英語教師たちの教える「英語」はとてつもなくつまらなかったし、その頃から僕の興味の中心はフランス文学であり、フランス語の習得であった。だから僕は学校の英語授業そっちのけで、フランス・ネイティブのマダムからフランス語を会話学校で習っていた。僕の当時の生活は、学生運動に関する社会科学の勉強を中心にして、フランス語を習い、その合間に女の子とデートしていた。だから僕の生活の中に如何なる意味でも学校の教科の学習は入り込む余地はなかったのである。昨日書いたやけっぱちの行動力によって僕は何とか大学にはもぐり込めたのだが、講義は退屈そのものでつまらなかった。

トマス・ハーディの「テス」(岩波文庫:上・下)とか、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」(新潮文庫)なんていう作品群には、いまは素敵な作品だと理解できるし、確かに良書なのだが、当時は、スタンダールの妄想?が生み出したジュリアン・ソレル(「赤と黒」:新潮文庫)みたいな野望や年上の貴族女性を愛という言葉で包み込んで、誘惑してしまうような躍動感は感じることが出来なかった。それにいきなりネイティブが洋書をたくさん教科書にして、その洋書を読んだことを前提にして、文学理論を英語で喋りまくる講義も一方であるかと思えば、上記のような当時は退屈としか思えない作品を教科書にして講読の授業にしている日本人教授たちももう一方でいた、と記憶している。僕はこの両極端が嫌だった。だって英語を高校で習ったと言っても、当時の高校の英語教師たちの中でまともに英語を喋れる人なんてほぼ皆無だったし、そういう雰囲気を少しばかり高級にした?日本人教授たちの講義も僕の意欲を削ぐだけの効果しかなかったから。

だから、僕の英米文学の知識も殆ど独学だった。講義とはまるで関係のないところで僕はやはり孤独に学習することになった。そして、英語教師という職業を経て確信を持って言えることは、まず翻訳をたくさん読むことである。その中で興味を惹かれた作家に関しては、原書に当たってみて、実際の英語表現に触れてみる価値が分かる、ということである。いま英米文学を勉強されている若い学生の皆さんは、初めから原書というような無理な学習を避けて、いまは僕の時代と比べても良質の翻訳本が溢れている時代なのだから、たくさん翻訳を読んで、これは、と思う作家には原書で挑戦することをお勧めする。効果的な学習法だと思う。僕が最初に心惹かれたのは、ブラック・アメリカンの書いた告発文学というジャンルであった。リチャード・ライトの「ブラック・ボーイ:岩波文庫(上)(下)」、「アメリカの息子:ハヤカワ文庫(上)(下)」、「アウトサイダー:新潮社(上)(下)」から入って、それからボールドウィンに行き着いた。「もう一つの国:新潮社(上)(下)」は秀作だったし、「ジョバンニの部屋:白水社」になるとブラック・アメリカンの告発文学というよりさらに普遍的な人間の不条理性に対する批判が在った。それから僕はこのジャンルではラルフ・エリソンの「見えない人間:ハヤカワ文庫(上)(下)」に進んで、たぶんこれがブラック・アメリカンの最高峰だろうな、という確信を経て、次の段階に進むことになった。ラルフ・エリソンの書は日本では絶版になり、忘れられた存在でしかないが、先日ニューヨークの有名書店に行って、ラルフ・エリソンはいまだに現役ばりばりの人気作家ということになっていて驚いた。無論当人が生きているのか亡くなっているのかとは別問題として。

おおよそ、次の段階で僕が惹かれたのは、ユダヤ系作家というジャンルに分類されている人々だった。マラマッドの「アシスタント:新潮文庫」は良かったが、プロットの流れと文体のタッチが静か過ぎた。が、マラマッドはこのジャンルの意義深い作者であり、彼の思索は小説作品として意義あるもの、という認識は確かに在った、と思う。その次に僕の興味を惹いたのは、ソール・ベロー「その日をつかめ:新潮文庫」・「ソール・ベロー短編集:角川文庫」、それから何と言っても「オギー・マーチの冒険:早川書房(上)(下)」だった。このジャンルに入れる作家は書いたら、書き切れないが、もう一人だけ限定して書くとすれば、フィリップ・ロスである。彼は「さよなら、コロンバス」を書いて颯爽と登場した作家だが、僕はどちらかと言うとこの段階ではこの人の評価はあまり高くはなかった。その後「ポートノイの不満」になると、もうユダヤ系作家というジャンルでは見れない作家だな、と感じてはいた。その後永く忘れていた作家だったが、ごく最近になってフィリップ・ロスは老年になってよみがえった。こんなにしぶとい作家はなかなか発見し難い。「背信の日々」「いつわり」「ダイイング・アニマル」「ヒューマン・ステイン」の4作品はフィリップ・ロスがアメリカ文学という枠組みさえ凌駕した普遍性のある作家という認識を深く僕に刻みつけた。特にこの4作品はアメリカ文学はどうも? という感覚をお持ちの方にはお勧めである。世界観が変わるはずだ。

さて話が長くなったので後は急ぎ足で僕のお気に入りの作家をざっと紹介してこのブログを閉じる。何と言っても抜かせないのは、サマセット・モームである。この作家の魅力はストーリー・テラーとしての卓抜さにある。新潮文庫にたくさん出ているから、この人の作品は全部手に入るものは全て読むことを推奨する。同じ意味で、ヘミングウェイの作品群も新潮文庫からたくさん出ているので、「老人と海」で停まっていないで、他の作品も読み尽くしてほしい。読み尽くしてほしい作家にはフォークナーの作品群があるが、やはりその中でも特に抜かしてほしくないのは「響きと怒り:講談社文庫」である。アメリカ文学だけにこだわっていられない、とお思いの方も、ぜひ、フォークナーのこの作品だけは読んでもらいたいものである。後、最近の作家で必須だ、と思えるのは、ジョン・アービングである。「158ポンドの結婚」「ガープの世界(上)(下)」「ホテル・ニューハンプシャー(上)(下)」がすべて新潮文庫で読める。アービングの魅力は暴力的、いや実際の作品世界が人間の暴力で満ち溢れているが、それに停まらず、そこから、人間の真の姿が浮かび上がってくる作風である。いかにもアメリカ人作家という感じがする。この人の作品をもう一つ挙げるなら「熊を放つ:中公文庫(上)(下)」が村上春樹訳で読める。この作品自体もおもしろいが、村上春樹の訳者としての堅実さが伺えることに皆さんは驚くはずだ。また、ヘンリー・ミラーは忘れかけられた作家になっているが、新潮文庫で「南回帰線」は読めるので、この作品だけは読んでおくことをお願いしたい。

さて、もうお疲れでしょう。ざっと最後に羅列します。敢えて作品の評価は書きませんが、この世界がつまらないと感じたら、ぜひ次の作家たちの作品を抜粋しておきますから、読んでごらんになると世界観が変わります。自分でも信じられないくらいに。ジェームズ・ジョイス「若き日の芸術家の肖像:角川文庫」、テネシー・ウィリアムズ「ガラスの動物園:新潮文庫」、サリンジャー「倒錯の森:角川文庫」(あえて「ライ麦畑でつかまえて」を抜かしての推薦です)、マンスフィールド「マンスフィールド短編集:新潮文庫」、そして最後の一押しは、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」と「土曜の夜と日曜の朝」がどちらも新潮文庫で読めます。この人は抜かしては損です。世界の不条理性を、この作家は見事に作品の中で説き明かしてくれますから。ざっと紹介するとこれが僕の裡なる英米文学像です。孤独な読書の中から掴みとった作品ばかりです。専門家の方から見るとかなり偏向した読み方だろう、と推察しますが、僕の裡なる世界像に少なからず影響を与えた作品と作者を、稚拙な読み手として恥を偲んで紹介します。この機会に英米の作家たちに少しでもみなさんが近づければ幸いです。肝心な作家を忘れていました。僕が大学で間違って登録したゼミの講座で、当時は何の魅力も感じませんでした。担当教授も嫌いでした。しかし、いまは違います。この人を最初に掲げるべきでした。遅ればせながらシェイクスピアの全作品をお勧めします。文庫でもかなり読めますが、お金に余裕のある方は筑摩書房から出ている「シェイクスピア全集」で読んでほしい、と思います。この作家はあまりに有名でそのために案外読書リストから外されることがあるように思います。彼の作品の中に人間の全世界が在ります。それがシェイクスピアという天才作家の存在意義です。

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ムルソーのように死にたい、と想う

2007-03-27 22:04:55 | 文学
○ムルソーのように死にたい、と想う

最近の若者が読むのかどうか分からないが、執拗に? 出版されている文庫本の一つだから、読者は確実にいるからだろう。ムルソーは読んでいらっしゃる方々には説明の余地はないが、「異邦人」(アルベール・カミュ著。新潮文庫)の中の登場人物である。<今日ママン(母)が死んだ>というまるで感情移入のない乾いた文体ではじまるのが、この小説の出だしである。この小説の主人公がムルソーその人なのである。ムルソーは淡々と無意味な仕事をこなし、日常生活を送っているパリに住む青年である。恋人もいて彼女とはセックスをする関係性でもあるが、ある日、彼女が「私を愛しているか?」と問われて、ムルソーは「たぶん愛していない、と思う」と飄々と答える人物である。

亡くなった母親が入っていた老人保護施設に葬式をかねて、仕事を休むのにいい顔をしない上司に、ただ、休む、と言ってパリを後にする。その施設に着いたとき、母親の納められたお棺にクギを打ちつけていた老人が、息子か? という質問をする。そうだ、とムルソーは答える。じゃあ、お母さんの顔を見るか、と言いながら、クギを抜きかける。ムルソーは必要ない、と答え、その場にしばらく座って何気ない会話をその老人と交わす。母の埋葬が終わり、バリに帰って、愛していない恋人と海辺へ旅に出る。その時、何人かのアラブ人と出会う。ちょっとした口論がある。ムルソーはとって返し、何故か、自分が携帯していた銃を持って、アラブ人たちと出会った場所に引き返す。太陽が異様にギラギラとまぶしい。ムルソーは、彼らに向かってギラギラと照り輝く太陽に対峙するかのように、アラブ人に銃を発射する。一発で絶命するが、その後、何発もすでに息絶えたアラブ人に向かって発砲し続ける。

ムルソーは当然のように逮捕される。検察官から尋問を受けるが、ムルソーには、その尋問の意味が殆ど頭に入ってこない。だから、弁明もいい加減である。裁判が進むにつれて、ムルソーは、非現実的な自己の殺人について、どうでもよくなる。敢えて死のう、という意識すらない。判決はギロチンによる死刑であった。ムルソーはギロチンによって頭を切り落とされ、まるで無意味な死を迎えてこの物語は終わる。不条理という言葉が、何度も作者のアルベール・カミュによって、差し挟まれる。不条理な死。これこそが僕が望んでいる死でもある。

お断りしておくが、本棚には「異邦人」が頼りなげに並んでいる。しかし、僕は敢えて読み返さなかった。何故かと言うと、何度か読んだこの小説が、いま僕の頭の中でどのように整理されているのかが知りたかったからである。生真面目な読者の方々の中には、それは違うだろう、と指摘される諸点があるに違いない。しかし、いまの僕にとってはそれはどうでもよいことなのである。真面目な読者のみなさん、すみません。

いま僕は、まさに無意味な死を遂げられそうな雰囲気の中にいる。それは単なるファンタジーなのかも知れないし、リアルな現実であるのかも知れない。僕は後者であってほしい、と思う。殺人未遂者を母に持息子としては適当な死に方ではないか、と思う。もうこの体の中を流れる忌まわしい血を閉ざしたい、と心底思う。その閉ざし方だが、死に意味を与えるような死に方は僕には相応しくない。三島由紀夫みたいな死にざまは、僕にはかえって寒けが襲ってくる。無意味に徹すること。これが、僕のような思想を持ってしまった人間には相応しい。こんな歳になってまで、こんなことをいま考えている。かなり角度の高い現実にもなりそうなので、ワクワクもしているのである。同じ死を迎えるなら、こういう無意味な死か、以前書いたように、自ら選びとれるような安楽死を死にたい、と思う毎日なのである。

〇推薦図書「シーシュポスの神話」アルベール・カミュ著。新潮文庫。僕の思想の核になっているのは、このカミュの論考です。逆説的な言い方ですが、無意味に意味を添えた、というのが、この論考の素敵なところです。この本もしぶとく文庫本で生き残っていますので、アルベール・カミュに縁がなかった方々にはぜひ、「異邦人」とともにお勧めします。

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