○コミュニケーション能力あれこれ。
昨今、他者とのコミュニケーションがうまくいくとか、いかないとか、何かと喧しいわけで、僕はこのような現象に対して、なにほどかの違和感を抱いているのである。
そもそもコミュニケーション能力などということが話題になりはじめたのは、英語をペラ、ペーラと喋れるのが英語の実力であるという、かなり偏狭した思想、あるいは表層的なものの考え方が、本質に在ると思うのである。英語のコミュニケーション能力云々という風潮が当然のように、ある種の常識のごとくに流布する以前に、果たして、日本語を介した会話、そこから紡ぎ出される人間関係に対して、それがうまくいかない場合の原因を僕たちはコミュニケーション能力の欠如などに見出そうとしていたのだろうか?
コミュニケーションさえうまくこなせればすべてがうまくいく、というのは、アメリカ流の楽天主義的コミュニケーション論そのものだろうに。
人には、自分だけが見ている、あるいは自分にだけ見えている世界像というものがあるのである。個としての人間が、この世界のありとあらゆる情報と真実を、洗いざらい他者に明かすことが出来るという幻想を抱かせるのが、アメリカのコミュニケーション論の根底にある思想である。僕から言わせると、これを幻想と定義することもかなり控えめな表現なのである。もっと突っ込んで言えば、それは共同幻想。いや、さらに正確に言えば、国家規模の組織的虚偽と云う方が妥当かも知れない。だって、アメリカほど世界中の、秘匿に値する情報を極秘裏に拾い集めている国はないだろうからである。広大な敷地の中に、広大な建物と、ありとあらゆる情報を盗み取るデバイスを設置し、数万人がそこで24時間体制で働き、集めた情報を独り占めにするために、職員同士の恋愛、結婚を奨励するなんて、尋常な精神では考えられない。でも、実際にそういう組織がアメリカにはある。たとえば、日本のアメリカ駐留軍がいる軍事基地内には、高精度の盗聴設備があり、日本の機密などはダダ漏れだと聞く。世界中で、アメリカは同じことをやっている。
アメリカ式のコミュニケーション能力の実体とは、あらゆる意味で、人の、尊厳に関わることだって平気で暴露しようとする意図に満ち溢れているものである。こんなものに大きな価値を感じる必要性など、いったいどこにあるというのだろうか?情報が世界を制するなんていうスローガンも、政治・経済・そしてそれらが行き着く最低のどん詰まりとしての戦争には欠かせないものだろうけれど、人間の存在理由という観点から見れば、こういうものほど無駄な能力を人間に割かせるものはない。そもそも人の精神が豊かにならないし、精神性としては、下司・下劣になっていくばかりだから。
二つのことを書いて、今日の締め括りにしたいと思う。一つは、人のコミュニケーションとは、他者に語り得ないことを持ちつつ、しかし、それでも、か細い言語回路を開いていこうとする努力の結果の姿であるということ。この努力の過程をコミュニケーション能力と云うのだ、ということ。また、ここで僕たちが認識しておかねばならないことがある。人には、他者に対して秘密にしておきたい、という欲動がある。そして、ときとして、ウソもつく。それでよいのである。さて、もう一つ。他者との付き合い方について。無論、根底には、コミュニケーション能力の裏面に隠された人の本性というものを理解しつつ、さて、他者との関わりを持つとする。僕たちには二つの相反する気分を矛盾するものとは考えず、互いが影響し合って、結果的には、価値意識として、より高みへと止揚していくものである、という認識をもつべきことが肝要だ。相反する二つの傾向性とは、一旦創った他者との関係性は、よほどの不都合が起きない限り、居心地のよいものゆえに、出来あがった関係性を閉じようとする力学が働くのは必然であるということ。が、その一方で、別の他者との関係性を築くのでなければ、おもしろくない、という想いも同時に働く。この二つの逆向きのモーメントが相伴って、僕たちのコミュニケーションを成り立たせている、と考える方がより真実に近いのではなかろうか?ともかくも、誰それにとって都合よきコミュニケーション能力なんて、底が浅い。特にそこに権力なんていう代物が介在する場合、タチが悪い。個性を開くこと。自由闊達であること。これが、僕たちが目指すべきコミュニケーション能力の原型として据わっていなければならないだろう、と思う。今日の観想として、書き遺す。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
昨今、他者とのコミュニケーションがうまくいくとか、いかないとか、何かと喧しいわけで、僕はこのような現象に対して、なにほどかの違和感を抱いているのである。
そもそもコミュニケーション能力などということが話題になりはじめたのは、英語をペラ、ペーラと喋れるのが英語の実力であるという、かなり偏狭した思想、あるいは表層的なものの考え方が、本質に在ると思うのである。英語のコミュニケーション能力云々という風潮が当然のように、ある種の常識のごとくに流布する以前に、果たして、日本語を介した会話、そこから紡ぎ出される人間関係に対して、それがうまくいかない場合の原因を僕たちはコミュニケーション能力の欠如などに見出そうとしていたのだろうか?
コミュニケーションさえうまくこなせればすべてがうまくいく、というのは、アメリカ流の楽天主義的コミュニケーション論そのものだろうに。
人には、自分だけが見ている、あるいは自分にだけ見えている世界像というものがあるのである。個としての人間が、この世界のありとあらゆる情報と真実を、洗いざらい他者に明かすことが出来るという幻想を抱かせるのが、アメリカのコミュニケーション論の根底にある思想である。僕から言わせると、これを幻想と定義することもかなり控えめな表現なのである。もっと突っ込んで言えば、それは共同幻想。いや、さらに正確に言えば、国家規模の組織的虚偽と云う方が妥当かも知れない。だって、アメリカほど世界中の、秘匿に値する情報を極秘裏に拾い集めている国はないだろうからである。広大な敷地の中に、広大な建物と、ありとあらゆる情報を盗み取るデバイスを設置し、数万人がそこで24時間体制で働き、集めた情報を独り占めにするために、職員同士の恋愛、結婚を奨励するなんて、尋常な精神では考えられない。でも、実際にそういう組織がアメリカにはある。たとえば、日本のアメリカ駐留軍がいる軍事基地内には、高精度の盗聴設備があり、日本の機密などはダダ漏れだと聞く。世界中で、アメリカは同じことをやっている。
アメリカ式のコミュニケーション能力の実体とは、あらゆる意味で、人の、尊厳に関わることだって平気で暴露しようとする意図に満ち溢れているものである。こんなものに大きな価値を感じる必要性など、いったいどこにあるというのだろうか?情報が世界を制するなんていうスローガンも、政治・経済・そしてそれらが行き着く最低のどん詰まりとしての戦争には欠かせないものだろうけれど、人間の存在理由という観点から見れば、こういうものほど無駄な能力を人間に割かせるものはない。そもそも人の精神が豊かにならないし、精神性としては、下司・下劣になっていくばかりだから。
二つのことを書いて、今日の締め括りにしたいと思う。一つは、人のコミュニケーションとは、他者に語り得ないことを持ちつつ、しかし、それでも、か細い言語回路を開いていこうとする努力の結果の姿であるということ。この努力の過程をコミュニケーション能力と云うのだ、ということ。また、ここで僕たちが認識しておかねばならないことがある。人には、他者に対して秘密にしておきたい、という欲動がある。そして、ときとして、ウソもつく。それでよいのである。さて、もう一つ。他者との付き合い方について。無論、根底には、コミュニケーション能力の裏面に隠された人の本性というものを理解しつつ、さて、他者との関わりを持つとする。僕たちには二つの相反する気分を矛盾するものとは考えず、互いが影響し合って、結果的には、価値意識として、より高みへと止揚していくものである、という認識をもつべきことが肝要だ。相反する二つの傾向性とは、一旦創った他者との関係性は、よほどの不都合が起きない限り、居心地のよいものゆえに、出来あがった関係性を閉じようとする力学が働くのは必然であるということ。が、その一方で、別の他者との関係性を築くのでなければ、おもしろくない、という想いも同時に働く。この二つの逆向きのモーメントが相伴って、僕たちのコミュニケーションを成り立たせている、と考える方がより真実に近いのではなかろうか?ともかくも、誰それにとって都合よきコミュニケーション能力なんて、底が浅い。特にそこに権力なんていう代物が介在する場合、タチが悪い。個性を開くこと。自由闊達であること。これが、僕たちが目指すべきコミュニケーション能力の原型として据わっていなければならないだろう、と思う。今日の観想として、書き遺す。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃