ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○最近の政治情勢って、おかしいですよ、ね。

2012-11-23 16:35:06 | 政治・経済
○最近の政治情勢って、おかしいですよ、ね。

どうおかしいのか?ということですが、どうにもこうにも右傾化が激しくて、そのことが民主主義という衣をかぶって闊歩しているという感じですか。今回の選挙で民主党は大敗するでしょうが、自民党は自党優位ということで、お坊ちゃんの安倍晋三が、おかしなことを言い出す。僕は、小泉政権下の竹中平蔵の経済政策を批判的に見ていたけれど、この人、維新の会の経済顧問?だったかな、とりあえずは、維新の会にいるわけで、経済政策上は自民党、維新の会、石原慎太郎とその取り巻き連中、公明党は政権党に入りたいんだから、こういうグループの連合体で、結局政治は大きく右に軸がブレることになる可能性大ですね。民主党だって保守主義という名の右寄り政党でした。そもそも保守二大政党制なんて、それこそアメリカのモノマネで、市民の選ぶ権利を著しく奪うものでした。

11月22日の朝日新聞のオピニオン欄に、行動右翼の鈴木邦男さんのインタビューが掲載されていて、それを読んで納得されられることが多かったのです。彼はいま、自ら立ち上げた右翼団体の「一水会」の顧問だそうで、予備校でも教えているのだそうです。どこの予備校で何を教えているんだろうね。少し興味はあるのですが、まあ、そんなことはどうでもいい。この人の意見を読んでいると、あれー?という観想を抱くわけです。かつては、左翼か、中道に属する人たちが主張していたことに限りなく近いわけで、それなら、鈴木さんが転向したのか、というとそんなことはない。この鈴木さんが、いまの政治家たちの政治姿勢が雪崩を打ったように右に軸がブレているということを指摘するのを読むにつけ、なるほど、とうなったわけです。

鈴木さん曰く、「全共闘の連中は「俺には愛国心なんかない、そんなのを持つから排外主義に陥って戦争になるんだ」とはっきり言っていました。その時は冗談じゃあないと怒りましたが、今思えば、少しは当たっている面もある。・・・でも今は、左翼の人も「自分も愛国者ですけど」なんて前置きしてから話を始める。左翼は大きな理想を語り続けるべきで、現実に迎合したらおしまいです。その結果、世の中がどんどん右寄りになって・・・・」となるわけです。これは、リオタールの大きな世界像の理念と合致しますから、鈴木さんの懐の大きさが分かりますね。石原慎太郎や橋下徹のことのことも的確に捉えています。石原慎太郎については、現在のように政治的情勢の軸が右に傾いていて、彼が多数派の親分になることに違和感を感じていると。石原の「強さ」は少数派に身を置いてこそ光るとも。橋本に関しては、間接的に、僕が大阪府の教員だったら、処分されているかも知れないという語り口でしたね。

僕が、鈴木さんのインタビューで最も大切だと感じたことは、次の二点です。彼の意見をそのまま抜き出してみます。「(いまの政治家たちは)憲法に責任を転嫁して、山積している現実の課題をなかなか片付けられないことに国民の目がいかないようにしている感じがします。これでは、尖閣や竹島の問題を、国内政治に対する不満のはけ口にした中国や韓国を笑えませんよね」という意見。それと、「(いまの状況下で憲法を変えてしまうと)憲法は本来、政治家を縛るためのものなのに、政治家が国民を縛る憲法になってしまう危険もある。自由のない自主憲法よりは、自由のある占領憲法の方がまだいいし、アメリカから押し付けられた憲法を変えようと頑張った結果、よりアメリカに従属するなんて笑えない冗談です。」ということですね。

僕は無政府主義者で、無神論者ですけど、鈴木邦男さんの言うことはよくわかります。また、鈴木さんは、現在の政治情勢や、国民の意識そのものが、右傾化した政党をあたかも斬新で、進歩的であるかのように錯誤していることを鋭く指摘しています。昔、大型バスを改造した黒塗りの宣伝カーに単純で陳腐なスローガンが書かれていましたが、いまの政治の土壌や政治家たちの主張も底では、この種の単純化されたスローガンばかり言っているように感じます。もう、そろそろ騙されている、という認識を僕たちが持たないとね。やっていけませんよ。

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長野安晃

○自民党総裁選から透けて視えてくること。

2012-09-17 11:15:52 | 政治・経済
○自民党総裁選から透けて視えてくること。

実力のほどはよく知らないが、一応マスコミ報道などでは自民党の表看板を背負っているらしい人たちが5人、今回の総裁選に出馬する様子。それぞれの主義主張(と云っても同じ党員なのだから、基調は同じ。またそうでなくては党員とは言えないだろうし。その意味では、マニフェストをことごとくぶっ潰して政権党なんだと、恥も外聞もなく主張している民主党とは立ち位置が違って当然だろう)

おもしろいのは、いや、おもしろがって済ませるわけにはいかないことだが、彼らが一応に主張しているのは、たとえば、尖閣諸島や北方領土における日本の主権を、民主党が政権党としてきちんと主張出来ていないことを非難していること。あるいは、TPP参加に対して、アメリカの言いなりになって参加することを鬼の首でも取ったかのように言い募ること。また、あるいは、脱原発どころか、日本のエネルギー政策上、原発稼働は必然であると声をそろえて主張していること、等々。

すべてがおかしい。不可思議ですらある。民主党がダメなのは、もうみんな分かっている。けれど、民主党が政権党として存立し得なかったおおもとの原因は、戦後ずっとアメリカの言いなりになって実行してきた政治的・経済的集積のためだ。それをやってきたのが、自民党ではないのか?立候補者の一人が、自民党が単なる批判政党としてしか機能してこなかったことが自民党の支持率を上げられない主因だと言っていた。これは違うだろうに。自分たちが永年政権党としてやってきたことを、政策批判としてやれないから、民主党の揚げ足とりになる。だって、揚げ足とりくらいで済ませておかないと、批判の刃はすべて自分たちの方に向いてしまうからだ。でもね、こういうことを一番よく分かっているのは、君たちがバカにしてきた国民、市民だ。民主党があれだけ迷走していても、自民党の支持率が上がらないのは、戦後以来、自民党の犯してきた政治的、経済的隷属主義(それこそアメリカの言いなりになって、である)が明らかになってしまったからだ。

原発村という権益集団をつくったのは自民党。それがために、国民・市民が知るべきことをひた隠しにしてきたツケが、福島原発のメルトダウン。マスコミ報道がいい加減なので、いま日本がいかにアブナイ状況下にあるのかが、現実感を伴って伝わって来ない。民主党が大飯原発の再稼働をゴリ押ししてやったのは、これまで自民党が言いなりになってきた官僚たちの言いなりになったから。こういう状況下で注目を集めているのが、橋下さん率いる維新の会。彼らはどんなことも声高に叫ぶ。ぼんやりしていると、もの凄い可能性を秘めていいるかのように思わせられる。マスコミもそれに加担している。でも、維新の会は、権性欲丸出しの魑魅魍魎たちの集団だと感じる。騙される選挙民がたくさん出てくるだろう。これも致し方なし、か。ともあれ、政治的アンガージュウマンにとって最も有害なことは、絶望して無気力になることだ。それだけはどのような状況下であれ、回避する必要がある、と僕は思う。

じゃあ、どうなったらいいのだろう?僕は、少数派政党が、もっと増えればいいと考えている。それぞれの政党の政策を前面に押し出して、そのときどきに応じて連立と離反を繰り返しながら、権益と出来る限りむすびつかない政治を目指すべき時期に来ているのではないか、とつくづく思う。権益、利権に慣れきった旧態依然とした政治家たちは、政情不安を喧伝するだろうけれど、僕はそもそも、政治は喧々諤々、政策を巡る議論を繰り返しながらやっていくべきものだと思うのである。昨今、その想いがますます強くなった。大人数を抱えた大政党が安穏としている国は腐敗しやすい。腐敗した現実がメルドダウンして、丸見えになっているのが、いまの日本ではなかろうか?そうではありませんか?

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長野安晃

○人間って、・・・・・。

2012-06-16 22:32:22 | 政治・経済
○人間って、・・・・・。

数えあげたらキリがないから、いまはぐっと堪えて問題を絞ります。どう考えてもおかしいのです。たとえば、福島原発のメルトダウンから人はあまり学べていないということ。消費税増税における、民主党執行部(やね、あれは。民主党はバラバラだから)と自民党、公明党の野合的談合というインチキに対する認識が希薄なこと。まあ、簡単に云えば、こういうことに対する憤りについての、か弱き吐露です。

政治家は、選挙という手段を通じて、僕たちが政治という仕事を託している人々。だから、彼らは政治のプロ。政治をすることで、僕たちの税金から給与を与えられている。税金を収める側の僕たちは、各々の仕事に勤しむ。政治家たちのやることがダメなら選挙で落とせばよい。政治家集団が誠実かどうかの見極めは、公約に忠実であるかどうか、この一点。非常に単純なことです。たとえば、不測の事態になって、政治的な緊急の判断が必要なときは、当然のことですが、政治的決断をし、決断に従って実行する権限を政治家は与えられているわけで、大いに知恵を絞ってくれればいいわけです。当然のことですが、この際、情報の公開は必須の条件です。機密事項に対する構えとしては、政治家は、常に己の愚かしさに対する自覚が必要です。愚かな人間ほど、都合のよろしくないことを隠蔽したくなります。あるいは、情報操作という愚策をよし、とします。誤解なく。僕は政治家に対して、緊急の政策実行過程で、すべてのプロセスを明らかにせよ、などというバカなことは言っていないのです。そうではなくて、市民の合意なきことを政治的判断でやったとして、そのときは、問題解決後に、確実に情報公開をする必要があるのです。世論が大きく揺れるようならば、当然、自分たちがやったことがよかったのかどうかを、選挙という場で、市民に問いかけなければなりません。

ところが、現実はどうですか?おかしいでしょう?民主党は公約(彼らはマニフェストと呼びました)をすべて反故にしました。自民党は、長きに渡る政治のツケを支払うこともなく、その責任を民主党の頼りなさのせいにしています。公明党は?言わずもがなです。どうやって、時の政権党につけるかどうかという、党利党略ばかりです。なにより政教分離が出来ていません。基本中の基本のことが出来ていないのですから、政党という名に値しません。

これだけ景気が冷え込んでいて、消費税という間接税を上げれば景気回復を遅らせるばかりです。何のための消費税増税なのかがさっぱり分からない値上げです。念のために書いておきますが、景気がよろしくないといいますが、日本の海外での資産保有は世界第一位ですよ。円高の悪影響ばかりマスコミは喧伝しますが、円高のメリットもあったということです。さて、増税する前に国会議員の定数削減ありき、だったのに、あるいは、税金の無駄遣いを徹底的になくすということだったのに、現状維持のまま消費税増税なんて、まるでペテンですよ。人口比でいうと、欧米と比較して日本の国会議員の数はほぼ倍なのだそうですけど、国会議員定数是正には失敗しました。彼ら国会議員たちは、自分たちのことを考えるのが優先順位として、最初。そして、それ以外に殆どなにもやらない。福島原発のメルドダウンがまったく解決していないのに、大飯原発の再稼働を決めてしまいました。金に弱い学者たちが、原発再稼働にゴーサインを出すことに手を貸しました。産学協同という名の、経済に貢献しない学問がないがしろにされてきたツケがまわってきたということでしょう。あるいは、学者が金の旨みを覚えさせられたのか、まあ、いずれにせよ、ソフィストみたいな学者が多すぎます。僕たち市民の側もいけませんね。小規模な商売をしている人が、円高で膨大な損失を被る大規模製造業と同じことを言っていて、一体どうするの?放射能被害が、この地震大国日本においてどれほど驚異なのか!考えないで、あるいは見ないでいればどうということはない、という心境はもう捨てましょう!どのような社会的立場であれ、僕たちは、一市民であるという自覚を、考えるべきすべての出発点に据える時期に来ていると思います。絶望したきことばかりが起こりますが、それにバカがやることが目立ちますが、それでも一個の市民として生き抜きましょう!それが、この世界をよくする唯一の視点でしょうから。絶望感があまりに深いときは、人間って、・・・・とつぶやいて、またがんばりましょう!こういうことの繰り返しなんでしょう、生きるっていうことは。

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長野安晃

○人間ってねえ・・・

2012-06-11 12:56:46 | 政治・経済
○人間ってねえ・・・

人間って、忘れっぽいこと、この上ないし、意志の持続力はそれほどなく、冷静な判断力を失うこと、しばしば、ときているから、自分にとって、あるいは、自分たちにとって、不可欠で大切なことを常に覚醒した意識下に置くことが、本来、かなり困難な存在だ、と思う。とりわけ、現代のように、情報化社会という、この言葉だけを聞くと、ありとあらゆる情報が飛び交い、空中に飛散しようとする情報のカケラを、人間がポジティブに拾い集める姿を想像しがちだが、果たして、現実は決してそんなものではない。僕たちは溢れ出した情報を、縦横無尽に処理し、優先順位をつけて、自分の中に取り込むことが、いたって苦手なのである。そして、だからこそ、情報操作ということが可能になり、僕たちは真実とはかけ離れた現象を事実として錯誤するという、馬鹿げたことがしばしば起こるのである。

人間の心的傾向として、まず見逃してはならないことは、あまりに重大かつ苛酷な現実と、ずっと対峙することはかなり困難だということである。その意味で、現実が、時として、非現実と化す。あるいは、記憶に留めるべき現実が、むしろ忘却の彼方へとおしやられる対象ともなる。その意味で、現実と非現実とはコインの裏表の関係性であって、両者はまったく別々のものではない。これは、僕たち人間にとって、かなり危険なことなのだ。このような危険性の具体例を掲げることは至極簡単である。たとえば、僕たちが真実だと思い込まされていた歴史を、この角度から俯瞰し直してみると、まるで異なった様相の歴史が浮びあがってくるはずだ。最近とても気になっている二つの話題を語ることで、現実が非現実にされてしまうこと、あるいは、逆に非現実が現実として認識されてしまうことの意味が分かるかも知れない。

さて、一つは勿論、東日本大震災にまつわる地震と津波被害、それに伴う福島原発の崩壊について。もう一つは、沖縄の基地問題について。関連して、「アラブの春」と称する現象のウソと、ウソで固められた民主化運動の内実、NATO軍の不当、不法な空爆の裏に隠された意図についても書きたいところだが、これについては今日は少しだけ。元気のあるときに、一気に書き切ろうか、と思う。

ともかく、情報化社会と云うが、こいつは、その内実を引っ剥がしてみると、相当に原初的で幼稚な手段で、情報操作される場となり果てている感がある。これは無論、情報を操作されて、苛酷な現実をあたかもなきに等しいものとして感得してしまう、僕たちの軽佻浮薄な日常性のあり方についての、自己批判を込めた観想だ。さて、はじめる。怖いもの見たさという性向が人間にはある。これが裏返ると、現実を見なければ怖いものはなくなるということだ。実に、マスコミの堕落と政府の情報の隠匿と情報操作で、福島原発のメルトダウンがあたかも快復しつつあるかのような印象を与えている。しかし、現実はまるで逆だ。復旧のメドすら立っていないのは、報道の隙間から透けて見えてくる。放射能の影響が、日本中に拡散していることもよく考えてみればわかりそうなものなのに、マスコミ報道の主流は、福島近隣の第一次産業をターゲットにした風評被害に問題をすり替えたものが殆どだ。風評というからには、現実的には噂にあるような実体はない、ということになる。これは実におかしなことだ。この時期、中国大陸から黄砂が飛んで来る。黄砂被害は甚大だ。ならば、放射能汚染とその拡散が、なぜ政府が勝手に決めた危険地域でおさまっている、などという幻想がまかり通るのだろうか?あるいは、なぜその周辺の、農作物や畜産物や魚を中心とした海産物の放射能汚染ばかりが取りざたされるのだろうか?いまだに放射能飛散は止まっていないはずだ。放射能によって被爆した魚は、東日本周辺に留まっているのか?海に垂れ流された放射能は、海流によって、日本中に広がっているだろうに、そういうことはいっこうに語られることがない。繰り返すが風によって、中国大陸からはるばると黄砂が日本に運ばれてくる。じゃあ、飛散した放射能はどうだ?問題から目を背けてさえいれば、問題そのものが消失するのだろうか?

上記のようなアホウなことに対する批判力がか弱いのは、前記したような、現実を見なければ怖いものはなくなる、という一種の妄信に近い現実逃避の性向が僕たちの本質の一部であるからだ。その意味で、普天間基地問題を発端とした沖縄の米軍基地問題への関心は、現在の政治状況下において、またぞろ日米軍事同盟が現実的な防衛に不可欠だ、と云う議論によってかき消された。そのことにマスコミも多いに加担しているのである。北朝鮮のミサイル打ち上げ問題、尖閣諸島問題にまつわる報道のあり方は、沖縄の米軍事基地が日本における防衛の要であるかのような、古臭い思想を再構築しているかのようだ。沖縄の個人所得は日本の最下位なのだそうだ。そうであれば、基地移転の問題に限らず、米軍基地の撤廃による失業者の問題を考えれば、沖縄県民の中でも生活上のかなり生臭い問題が、矛盾を増幅させることになるだろう。ともあれ、この種の障壁のために、いま、沖縄の基地問題への関心はどんどんと薄まっているのではなかろうか。

大飯原発の再稼動が、無責任な野田首相の、リーダーとしての?責任論だけで行なわれる勢いだ。福島原発のメルトダウンによって、原発の安全基準は、少なくとも30項目。これでも不十分だという専門家の意見の方が妥当性があるかに見える。が、政治的圧力で、安全基準は15項目でよろしい、となった。あんな大惨事があっても、懲りんな。福島原発のメルトダウンの分析も、後処理もいまだ出来てもいないのに、大飯原発の再稼動ありき、だ。野田さんは、自分が責任を持つというが、一体、どんな責任がとれる?議員辞職か?何の意味もない。円高による日本の輸出産業の経済赤字で、たくさんの人々がクビ切りに遭う。国債返還に1000兆円要るのだという。しかし、野田さん、経済はもっと大きな目で見なければアカンのと違うか?輸出産業の貿易赤字が膨らんだ一方で、日本の海外における資産総額は、ダントツ世界一だ。それに国債返還のために1000兆円といっても、この国債は誰が持っているの?その殆どが日本人だ。要するに言葉どおりの国の借金ではない。経済破綻したギリシャと比較するなんて、まったくの情報操作だろうに。こういうことを考えると、やはり僕たちに必要なことは、覚醒した意識で、生起した問題を考え続けることだ。大手マスコミの情報を鵜呑みにしないことだ。それが、いま、僕たち日常人にとって、最も必要なことだと今さらながら思うのである。

目に見え難いところで、大きな利権が絡んでいる。大飯原発がいまの時点で、無茶な再稼動をする意味を僕たちは考えなければならない。再稼動したとして、真実は後からいろいろ出てくるだろう。

何度かリビアへのNATO軍の空爆について批判的な言辞を書き綴った。「アラブの春」という政治的現象については、またの機会にきっちりと書くとして、僕たちが認識しておくべきことは、世界は単純な政治的スローガンで動いているということ。その裏には、利権争いがあるということ、だ。カダフィが殺害された背景には、リビアが保有していた144トンの金を原資にして、ドルやユーロに換えて、アフリカ・アラブの統一通貨、ディナの発行をカダフィが目論んでいたことが報道されたことがあるだろうか?当然のことだが、IMFも世界銀行もその影響力を喪失する。統一通貨が出来れば、アフリカとアラブが統合される。石油取引のドルがディナにとって換われば、ドルもユーロも大暴落するのは必然だ。利権を貪っている側の国々はカダフィを抹殺したいわね。9・11との関連と大量殺戮兵器疑惑ゆえに殺されたイラクのサダム・フセインも、石油取引通貨をドルからユーロに換えてしまったからね。大体において、「アラブの春」と称された<独裁者vs市民による民主革命>という図式そのものがあやしいのである。

さて、むすびにリビアのカダフィの施策について、知っている限りのことを書いて終わる。カダフィはすべての国民が家を持つことが人権だとし、新婚夫婦には米ドル換算で、5万ドルを支給したし、失業者には無料住宅を供給した。市民が車を購入する場合は、政府が購入額の半額を出した。どこかの国の電力会社と違い、電気代はタダ。農業を滅ぼす政治をやってきた日本とは正反対に、農業をはじめたいという国民には、土地、家、家畜、種子まで国が無償で支給だ。たとえば、こういうことが出来たのは、アフリカ最大の埋蔵量を誇るリビアだからこそだが、もし、日本にこのような条件があったら、果たしてカダフィのようなことをやってくれる人がいるのだろうか?さて、この豊穣な国に、NATO軍は2万回に及ぶ空爆をやってのけた。カダフィを亡き者にして、アルジャジーラを傀儡にして、甘い汁を吸おうとした軍事介入。見苦しく、また、リビアの市民にとっては、不幸な出来事だった、と思う。

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長野安晃

○保守主義者?に言いたきことがある。

2010-10-31 22:17:22 | 政治・経済
○保守主義者?に言いきことがある。

まずは、保守主義者という存在の定義をしなければならないだろう。私がここで問いかけたいと思うのは、かつての正統派?の保守主義者のことではない。少なくとも彼らには、保守すべき、長年に渡って生き延びてきた伝統的な価値観という実体を、明確に規定出来る能力があったと思う。しかし、現代という時代性の中で、保守主義という言葉はまことに便利、勝手気儘に使われているので、真正の保守主義者にとっても、迷惑千万なのではなかろうか、と思う。たとえば、ジャーナリズムの良心などというが、思想的に右から左まで、論調は違えども、一応にエセ保守主義の大合唱である。エセものであることの意味は、思想性のなさゆえである。一般に、現代におけるジャーナリズム保守主義とは、生活言語、もっと砕いて言えば、己れの生活を何とか維持していくだけの現状を阻止すべきものを、エセ保守主義者たちは、サヨクといい、批判するだけのことなのである。つまりは、現代ほど、思想というものと解離した時代性はないと言っても過言ではないのではなかろうか。

真正の保守主義者を標榜する論客の一人である、西部邁が、エセ保守主義たる大衆の生活感覚を、また、そういう大衆におもねるようなニュースの垂れ流しのごときジャーナリズム、一般書の類に対してしばしば牙をむくのも、ある程度頷ける。もともと資本主義という名の論理は、底に思想などという高邁な論理はなく、敢えてそれに似たものを探せば、経済の論理くらいのものである。換言すれば、資本主義などというものに、思想などはない。社会通念としても、不景気になれば、最も弱いところから、金の回収をやるものなのである。銭金が最も大事な思想、言葉を換えれば、単なる拝金主義という唾棄すべき思想がその根っ子にある。それが現代資本主義の本質である。貧富の差をなくそうという思想、誰もが平和に暮らせる思想がなければ、あるいは、そのために闘う意思がなければ、社会は、腐り果てるだけである。

社会主義や共産主義における革命の過程で、その刹那に、革命によって勝ち取られるべき理想、人間の尊厳が守られるはずの思想が見えたはずなのである。しかし、現代に残った名前だけの社会主義国、あるいは共産主義国と言っても同様だが、それらの国々の、権力者たちの利権、権益を保守しようとする厭らしさには、ほとほと辟易させられる。しかし、その一方で、幻想としての世界同時革命を目指したかつての革命家たちもことごとく、その末路は悲惨である。

しかし、社会変革に、テロリズムを含む暴力革命なくして、社会の転覆はあり得ない。こんなことを書くと、危険思想だという批判が返ってくるのだろうが、平和的な権力委譲など歴史上かつてなかったはずである。平和こそ、闘いによって勝ちとらねばならない最大の目標だ。黙して待つだけでは、平和は、経済的勝者たちのご都合主義のために利用されるだけではないか。私が言いたいのは、平和主義を標榜するならば、低次元の政治的で、つまらない駆け引きなどやめて、現在世界中に溢れている武器も全て捨て去って、大国も小国も、喧々諤々の議論のための外交をやればよい。そのために、世界経済が沈滞したとて、何がダメなのか?ヘタな利権獲得のためのやり取りが長引けば、世界中が不況になるのである。それが平等というものである。大衆が、もしも、力を発揮するとすれば、こういうところからしかない。持てる者の都合でリストラに晒されて、自分の生活を守るのに躍起になっているだけの守りの姿勢を保守とは言えないのである。大国の利権のための金融資本主義がすでに破綻している。この時代に、老後がどうの、こうの、と言っていてもはじまらないのである。小さな生活を守ることに汲々とすることなかれ、とも言いたいのである。

現代において、ヒューマニストであることを己れの思想の土台にする論者は、すべからく偽モノである。なぜなら、彼らこそ、時代の寵児であり、銭金に関して鋭敏であり、セコイ金銭的成功をおさめている輩だからである。彼らの主張することは、確かに舌ざわりはよかろうが、そこに何らの真実もない。さて、思想的な構えを持った真正の保守主義者、エセモノのヒューマニストを気どった括弧つきの保守主義者、あなた方は、いったい、何を保守しようとしているのか?チャチな自分の世間的名声と、それに伴う金銭的見返りを保守するために、大衆を騙してはいけない。大衆が賢明でないことは、よく理解しているが、保守的扇動は、罪深い。大衆の思想の広がりの可能性を根こそぎ奪ってしまうからである。ちっぽけな目の前の、計算したところで、その銭金の計算自体が幻想的未来であるに過ぎないのに、あたかもそれが確実に手に入るべきものだという錯誤を抱かせるという意味で、詐欺的行為である。保守主義者よ、君たちは、この世界のありようを肯定しているのではなかろう?拝金主義を排せよ。そうすれば、君たちがなすべきことが漠然とでも見えてくるはずである。それなら、おまえの構えは、どうなのか?という質問に対しては、自分は敢えて時代遅れの、世界同時革命論者である、と主張しておくことにする。ただし、力なき、孤独な革命論者である。力なきがゆえに、世界で孤立してもいる。恥じることなく、告白しておくことにする。

推薦図書:「エウスカディ」馳星周著。上・下巻。角川書店。1970年代初期に、日本赤軍であった、一人の青年と、スペイン内乱後のフランコ独裁政権によって、抑圧されていた、バスク民族主義のテロリズムとの相克との合一の物語である。青年の暗殺に至るまでの物語と、青年がバスク女性の間にこの世に送り出した、21世紀の世界とが交錯する読み応えのある物語です。ぜひとものお薦めです。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃