ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○虚構と現実

2010-03-20 23:49:30 | 政治哲学
○虚構と現実

敢えて、現実と虚構と書かなかったのは、日常生活の中ですら、生起する出来事を規定する場合、それを現実的と称してよいのか、はたまた虚構と称してよいのかを決定づけるのは、意外に難題であるからである。ここで云う虚構とは、非日常と言い換えてもよい。つまりは、我々の世界像については、日常と非日常という区分は、極論すると不可能だ、ということでもある。人間にとっての日常性なるものは、簡便な言葉で表現すると、<慣れ>に過ぎないものであって、災害・戦争・飢饉・経済基盤の激変・社会通念の変革などによって、従来の日常は非日常へと簡単にスライドするのである。人間は、ともすると日常性の中に普遍的な価値意識を感じ取ろうとする傾向があるが、それは日常性という<慣れ>の中に身を置く場合に、出来る限り、変化、それも急変などが起こり得ない状況を望むからに過ぎない。その意味で、人間とは、あるいは、日常を支えているありとあらゆる体制とは、保守的な色彩を帯びていて当然なのである。

人がこのような意味で、保守的であるのことを間違っているとは思わない。僕が云いたいのは、人間とは、そもそも存在論的には保守的な性向を保持しているということである。だからこそ、不条理な世界を変革するための革命は、それが成就したその瞬間から革命によって得た新たな価値観を保持しようとする考え方が裡に湧くのである。したがって、如何なる意味における革命理論も、その理論の中に革命の永続的なファクターを導入しなければ、革命理論そのものが破綻するというジレンマを抱えている。トロツキーが世界革命論という永続的革命理論のために、革命が成功したロシアから逃げ出さざるを得なかったのは、彼が、革命によって得た利権を保守しようとする勢力を、より高次元の世界像に連結させ得るのか、という視点を革命理論の中に組み込むことが出来なかったからである。また、キューバ革命を成功に導いたチェ・ゲバラが自らの大臣の椅子を投げ捨てて、ボリビアの密林の中で闘い、そして死したのは、革命理論の不可能性をよく物語っているのではなかろうか。

文学ノートぼくはかつてここにいた    長野安晃

無神論者として生きる覚悟

2009-03-01 01:05:38 | 政治哲学
○無神論者として生きる覚悟

無神論者とは、世界の中のいかなる絶対的価値意識に対しても、反抗し、対峙し、反抗と対峙に対する自己の思想性に常に意識的であり続ける思想を生きる、あるいは死するための覚悟として、それを胸に落とすことの出来る人のことを言うのである。単純な議論好きの人々は、無神論者とは、無神論という絶対的価値意識を自己の裡に構築することであり、その行為自体が絶対的価値意識にすりかわるのではないか?などという的はずれの屁理屈を考え出す。しかし、よく考えてほしい。無神論者を、世界の中に幾多存在する絶対的価値意識の一つに過ぎない、などというこじつけをしたい人たちは、必ず自己の裡に既成の絶対的価値意識を後生大事に抱え込んでいる人々であり、そのようなある種の信仰?によって、精神の平衡感覚をとっているような人々なのである。つまり彼らこそは、いかなる絶対的価値意識も信じない人々が現実に存在することに不安を感じ、ただ、不安から解放されたい、という想いが支配的で、凡庸な日常生活人である。この論考からは、敢えてこのような日常生活人を外す。理由は、出来る限りここに述べるべき論考を直線的に語りたいだけのことである。反論のある方々は、いくらでもこの論考に対して批判をくださればよい。

さて、無神論とアナーキズムは両輪の思想である。無神論者でありながら、たとえば既成の集団の政策や主義主張に心から共鳴しているということは起こり得ない。また反対に、アナーキストでありながら、どこかの政治的な集団などに所属し、それを信じているということもあり得ない。言葉を換えれば、無神論者とは、思想的・信条的にはあらゆる意味合いにおいて、自由であり、かつ反抗的である。そして、自由であることの孤独の意味を誰よりも深く認識している人々のことである。それでは、無神論者は、いかなる行動も起こさない人々、心に狼のような激情的な衝動を持ちながら、外見は物言わぬ羊の群れに属するような人々のことなのか?というような疑問を持たれる方々もおられるだろう。勿論、答えは否である。

無神論者は、あくまで絶対的な価値意識に対して反抗的である。が、さらに言うと自己が反抗的であるということに対して、自覚を失わぬ知性を崩さず、それどころか、己が知性を構築していくような強靭な精神の持ち主である。どのような現実的な団体や集団にも所属せず、行動も起こさないで、この世界で生きていくことなど出来はしないから、あくまで日常性に対して反抗的であることを忘却することなく、日常性の中に身を浸していることに耐えつつ生きるのである。だから思想的には、無神論者とは日常生活の中では、絶対に他者から無神論者とは看破され得ぬ人々であり、その意味では「見えない人間」(Invisible Man)(ラルフ・エリソン著。早川文庫。(上)(下):現在は絶版)と規定出来る。ラルフ・エリソンは、日本では忘れられた存在だが、当地アメリカでは、いまだよく売れる作家である。彼の伝記すら新刊としてペーパーバックになって本屋に並んでいるくらいだから。

21世紀という世界的大恐慌の中にあって、「見えない人間」は着実に増幅していくことだろう。そして彼らの存在によって、絶対主義的な存在を認めるような既成の価値意識の意味が徐々に希薄になっていくことになる。彼らはまた、日常生活における政治的・経済的情勢などを政治の力や、民衆の団結の力などによってよりマシな状況になし得るなどというような甘い展望などは一切抱いてはいない「見えない人間」のことであり、「見えない人間」が今後、この世界を席巻することは否定しようのない現実である。

無神論者にとって、生と死という一般的には正反対の概念、あるいはその実体としての真逆の思想性とは、両者がかけ離れた存在などではなく、むしろ常に隣り合わせの、いつでもどちらへも移行可能なものでしかない。元来人間には、生物体として生きるための機能が脳髄の中に組み込まれているものと思われる。それは感情的には死に対する恐怖心あるいは畏怖という、死を遠ざけるための脳髄の中の死に対する防御的な役割として存在しているのである。無論、無神論といえども、生物体としてこの世界に生きている限りにおいて、確実に生命体維持装置のごとき、死への畏怖心が抜き難く在るにせよ、無神論者にとっては、この種の生物学的な生に対する衝動なるものを超越すべき課題として、思想の確立の過程において認識しているのである。したがって、無神論者にとっては、生と死の境界線などは思想の中には介在しない。無神論者が死するとき、それは生きるがごとくに死ぬのである。絶対的存在である超越者を信じ、どこぞの神の思し召しで、自爆テロによって、死することで神のもとに召されるなどという、甘き考え方などは一切ない。それが無神論者の精神の行き着く果ての姿だと認識している。

それでは無神論者にとって生の意味、死の意味というものは存在するのか?という問題に突き当たるが、答えはシンプルにイエスである。彼らは、生の過程にいる間は生を感受し、生のあらゆる可能性を追求するが、かと言って、彼らに死が直面すべきときが訪れたとき、死とは全ての終焉を意味するのであるから、終焉を拒否するのではなく、言葉通りに終焉たる死へと淡々と向かうのである。これが無神論者としての生きかたであり、死にかたである。そこにヘタな理屈などない。シンプルで透明な生きかた、死にかただけが在る。

○推薦図書「唯脳論」養老孟司著。ちくま学芸文庫。文化、伝統、社会制度、言語、意識、さらに心等々、あらゆるヒトの営みは脳に由来する「情報」によって支配され、ヒトとはそれによって創り出された夥しい人工物によって生きている、脳の中に棲む存在だというのですから、養老氏は、かなり徹底した唯物論者ではないでしょうか。唯物論を、脳の機能の活動の結果の産物として考えているフシもあります。こういう学者がいてこその学問ではないか、と僕は思います。一読に値する書です。どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃