ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

キム・デジュンについて想う

2007-10-31 23:16:17 | Weblog
1973年という年は僕が大学生になって、ようやくしばらくは落ちつけるわなあ、とため息まじりに、とりわけ嬉しさもなく、人生の中で短い執行猶予を下された罪人のような少々後ろめたい気分に浸っていた頃だった。とは言え、こんなことは付け足しだ。どうでもよい。
この73年という年は、韓国でも屈指の政治家として尊敬していたキム・デジュン氏が来日しているホテルから拉致されてその姿を忽然と消した。当時の韓国はパク・チョンヒ大統領が中央情報局(悪名高いKCIA)を使って、実質的な独裁者として韓国に君臨していた時代である。新聞報道を頼るまでもなく、僕は直観的にこの仕業はパク・チョンヒ大統領が、たぶん彼にとって最大の目の上のタンコブであったキム・デジュン氏の殺害を狙ってKCIAに命じてやらせた事件だ、と確信していた。勿論拉致に到る詳細など分かるわけもなかったが、政治的な動向から考えれば、そうとしか解釈出来なかった。しかし、それにしてもこのときの日本政府の対応はまるで国際政治感覚ゼロの状態で、何らの有効な捜索手段も講じることが出来なかった。国家としての体裁がまるでなっていなかった、と何だか妙に僕は恥じるばかりだった。実際にキム・デジュン氏を殺させなかったのはアメリカ政府の強烈な韓国政府に対する圧力があったからである。アメリカにとっても、パク・チョンヒの独裁体制には目に余るものがあったのだ、と思う。それにしてもキム・デジュン氏という政治家は、運の強い人だと思う。勿論自己の強運を引き寄せたのは、彼自身の政治家としての手腕ゆえのことだろうが、世界的に見ても政治的手腕があっても命を落とした政治家は歴史上数え切れないほどいるではないか。
キム・デジュン氏の無事が韓国で確認されてからも、彼はその後大統領になったチョン・ドファンの命令によって、所謂「光州事件」の首謀者として逮捕され死刑判決を受けた。この時ももうダメか、と思って殆ど諦めに近い気分でマスコミ報道を注視していた、と記憶する。この頃はキム・デジュン氏は何て運の悪い人なのだろう? と正直、気の毒に思っていた。
後ろでアメリカ政府のパク・チョンヒ忌避の思惑があったにせよ、当のパク・チョンヒ大統領自身が、部下の軍人にピストルで暗殺された。政治の世界とは条理性とは無縁の世界なのかも知れないなあ、というのが僕の当時の偽らざる観想だった。その後キム・デジュン氏は釈放され、何度かの大統領選で惜敗し、彼の政治家としての命運もここまでか? と思っていたら、何とキム・デジュン氏は大統領に成り上がった。その上ノーベル平和賞まで受賞した。やはりキム・デジュン氏は不屈の精神を持った強運の政治家だ、とつくづく思う。
それに比べ、「僕の友達の友達がアルカイダなんだなあー」と外国人記者クラブで平然と言ってのける鳩山法務大臣は、素人以下だ、と思う。自分の発現が一人歩きする、ということの意味が分かっていない。いやむしろこの人には国際感覚などに興味がないのかも知れない。日本国民に向かって、海外からの入国者を今後さらに厳しく制限したい、ということだけが言いたかったのかも知れない。そうであれば悪質な確信犯だ。政治家のレベルと言うより、人間的なレベルがキム・デジュン氏とは天と地ほど違う。これが日本の政治レベルだ。安倍前首相の不格好な退陣劇が特別なのではない。日本の政治が政治のプロ集団によって営まれていない、ということなのだろう。キム・デジュン元大統領の日本政府に対する「私への人権侵害だ」という批判に応えなくてはならないだろう。福田首相はこの発言に対して何らかのアクションを起こすべきだ。少なくともキム・デジュン氏との対談くらいは企画し、謝罪すべきだろう。ダンマリを決め込むのは日本の政府の悪しき癖なのでこれだけは避けてもらいたいものだ、と心底思う。
それにしても、キム・デジュン氏に名誉博士号を贈った立命館大学は、二つの意味で賢い。一つは、こういう人に対する評価をすべきことを見識として持っていること。もう一つは、これほど有効な大学の宣伝はない、ということである。僕がかつて勤めていた、かの女子学園にこんな発想はどこをどう探しても生まれては来ない。「誰でもいらっしゃい!」と、高い新聞広告費を払ってかえって値打ちを下げている。何の未練もないだけに、かの女子学園の無能さに哀れみさえ感じる。これが今日の観想である。

○推薦図書「危ない現実」 栗本慎一郎著。学研刊。この際だから、日本の戦後思潮から、湾岸戦争まで総まくりの栗本節の辛口政治評論をお勧めします。特にキム・デジュン事件には触れていませんが、世界政治の潮流がよく視えてきます。

健康食品オタク

2007-10-30 23:59:28 | Weblog
命が惜しいわけではない。何度も死にかけたし、いまだに生きているのが不思議なくらいのジタバタした生き方だった。だからとっくに死ぬ覚悟は出来ている。しかし、悲しいことに、死ぬ覚悟をいくらしても小さな病気に罹っては、落ち込んでしまう。病気が死を連想させるのではなく、病気というものが幾分かでも自分の意識を暗鬱にしてしまう思考回路が出来上がっているからだろう。これは理性では制御できない。脳髄がそのように勝手に働く。いま、ちょっとした風邪をひいている。少し嘔吐感もあるし、そのために気分が滅入っている。そういえば生きる自信も少し衰えているようでもある。たぶん、そのような状況はいまは無茶はするな、という脳髄からの命令かサインのようなしるしなのかも知れない。今夜はこのブログを書くのが精一杯だろう。いつもの夜の読書もままならずばったりと倒れ込むように眠ってしまうのだろう、と思う。
誰にもできるだけ迷惑はかけたくはない。とは言え、病気になれば他者にうつしてしまうこともあるし、死ねば、少ないとは言え僕の知り合いは少しは悲しむことになるだろう。僕が健康食品オタクだ、というのは、生き生きと仕事をするとか、生を朗らかに過ごすという概念とはたぶん違うものだ、と思う。敢えて言えば、僕が健康食品にこだわるのは、出来る限り医者いらずで生きたいからに過ぎない。積極的な健康志向ではまるでない。たとえば癌の早期発見、早期治療というのも殆どピンと来ない。胸に落ちて来ない理屈である。だから、最低限のことを実行しておいて、それでもやって来る死は避けないでおこう、と思っている。教師を辞めてからまる7年が経つ。健康診断という面倒なことはだいたいはその年度の春に実施されるから、今年で8回目の健康診断無視の生活を送ってきたことになる。個人でも簡単に出来ることだが、何となく鬱陶しい。毎食後に飲む幾種類かの健康食品が、僕の毎日の健康診断のようなものだ。これで病気になればそれはそれでいいではないか、と思う。治療困難な病気になって、大きな手術をするなどということは僕の将来には起こりえないことだ。
闘病という言葉が大嫌いだ。だいたい病気と闘う、とはいったいどういうことなのか? と思う。ちょっとした薬を飲んで治る病気を、僕は病気だ、と思っている。大手術をしなければ助からない病気とは、それで助かれば確かに医学の進歩なのかも知れないが、たとえ受けた手術によって多少の命を永らえても、それに何の意味があるのかが、僕には分からない。一昔前なら、たとえばサラリーマンの定年が55歳の時代の医療技術で、生きられないようならば、医学が進歩した分、もし死に到るまでの痛みをとる技術だけは受容したい、と思う。病気に抗いたくない、という意味での痛みの回避だ。矛盾はないだろう。
それにしても今夜はやけに頭が痛い。熱もあるようだ。市販の風邪薬は飲んだからあとは横になるばかりか。そうして自己の中の自然治癒力が働けば、数日で治っているだろう。健康食品オタクとは、僕にとって他者に出来る限り迷惑を懸けないでいようとするサインに過ぎないのだろうが、何故かその志向にこだわっている自分も否定出来ないでいる。もっと自分の思考が洗練されれば、この種のオタクからもおさらば、である。3度の食事と適度な睡眠と頭脳を活性化させてくれるくらいの適度に小難しい本があればそれでよい、と思うようになる、と思う。またそれが僕の行き着くところであるような気がする。

○推薦図書「病気にならない生き方」 新谷弘実著。サンマーク出版。時折こんな馬鹿げた健康志向の本も読みます。たぶん何分の一かの収穫はあるとは思いますので今回の推薦の書とします。興味のある方はどうぞ。

NOVAという外国語学校がつぶれそうだ、と聞く

2007-10-29 23:53:26 | Weblog
NOVAの問題に入る前に自分のことを少々。語学教師に至るまでの屈折した道のりを簡単に。高校時代に親友と呼べる人間が数人いたが、その中で特に勉強という分野で秀でていた友人が二人いた。彼らとは良き友人でもあり、同時に所謂ライバルだった。全般的な成績で言うと、二人には負けていなかったが、彼らは共に理数系の教科に秀でていて、僕が苦労して解く問題を彼らは難なく解いた。自分の中のコンプレックスはいつも疼いてた。僕が学生運動に足を突っ込んだ後も彼らは変わることなく勉強家で通した。僕が変質していく過程でも彼らは変わりなく僕と付き合ってくれた有り難い友人たちだった。かなりの人間が僕から離れていく渦中で、彼らは僕の学生運動のことなどにはまるで興味がないかのごとく(実際はたぶんかなり彼らなりの気遣いをしてくれていたのだと思う)僕と付き合ってくれた。たぶん僕があの70年代の時代の空気に押し流されないで彼らと一緒に勉強していたら、うまくいけば浪人でもしていれば、京大の哲学科(なぜか僕にはここにしか興味がなかった)に入って、哲学しながらフランス文学に興じていた、将来のまるで見えない大学生として、かなりおもしろい人生を歩んでいたかも知れない。二人は安全に難なく大阪大学の法学部と神戸大学の経済学部へとそれぞれ進んでいった。僕が東京の秋葉原の電気屋の住み込みの小僧になり、人の家の屋根に登ってはテレビのアンテナを取り付けていた頃、彼らは一流大学へきちんと入学していた。このときはさすがにコンプレックスなど微塵も湧かなかった。ただ彼らの辛抱強さとその成功を東京でやさぐれながらも素直に喜んだ。
さてNOVAの問題に入る。僕が英語教師をしてかなり経ってからこの学校は頭角を現してきたと記憶する。教え子の中にもNOVAに通う子どもたちがいて、最初にチケットを購入するのだ、と言う。その値段の高さに驚いた。同時に僕は軽く彼らに嫉妬した。大人が子どもに嫉妬するくらいだから、それなりに恥ずかしい理由がある。前にも書いたが僕が英語をネィティブ並に使いこなせるようになったのは35歳になってからだ。それまでは喋れない英語教師だった。その訳は分かっていた。逆のぼれば僕の中学時代の英語の授業にもどる。何十年も前の英語授業だったから、先生の授業は殆ど日本語であり、たまに発音する英語も日本人英語丸出しで、何の魅力も感じなかった。高校時代も同じようなものだった。ただ僕は英語の成績は良かったと思う。それでもまともにやる気はしなかった。学校教育の英語授業が僕の英語熱に火をつけてはくれなかった。
小学生の頃から父に連れられて洋画(その頃はそう呼んだ)によく連れて行ってもらった。アメリカ物とイギリス物、それにフランス物がほぼ同じくらいの比率で上映されていた時代だ。僕の英語もフランス語も映画を通して耳に入ってきた。映像はその快感に拍車をかけた。中学に入って正直がっかりした。高校に入って受験英語とやらにはさらに絶望した。こんな英語なら縁を切りたかった。学生運動をきっかけに学校英語からとは完全に縁を切った。だから幼い頃に脳髄に染み渡っていたネィティブイングリッシュもネイティブアメリカン(本来イギリス語は英語、アメリカ語は米語と区別すべきだろう。幼い頃の僕の耳にも英語と米語の違いはまるで違う言語の発音のように入ってきたから)にも封印した。だから僕の英語の喋る・聴くという能力はある私立の大学の英文科にもぐり込んで、私立の中学高校に英語教師になっても、本来の僕の語学力は封印されたままだった。それでも仕事にはなったから、当時の英語教育なんてタカが知れている。35歳になって幼い頃の能力を引き出そうと決意したのは、情けない話だが、当時の中曾根首相が海外からどっと若者たちを日本の学校に招き入れるJETプログラムを強行に実行してしまったからだ。自民党の超タカ派の首相が描いたシナリオに乗っかるのは悔しいことこの上なかったが、もう喋れない英語教師では生き残れない、と自分の中で危機感を募らせた。それからの約1年間は時間があれば英語のナチュラルスピードの英語テープを聴き続けた。最初はバラバラにしか聞こえてこなかったが、自分の脳髄の底に溜まった潜在能力が目覚めるのを辛抱強く待った。ある日唐突に英語が繋がって聴こえた。同時にスピーキングの能力もかつての映画の台詞のようにスラスラと口から出てくるようになった。その意味では中曾根には負けなかった、と自負している。喋れない英語教師時代から、幼い頃の映画で聴き覚えた発音だけは自然に口から出てきたから、僕の英語、あるいは米語も喋り分けられるが、ネイティブのそれらに限りなく近い発音だ、と自画自賛できる。別に日本人英語の発音でもコミュニケーションをとる、というレベルであればそれで十分だが、僕の場合は自然にネイティブの発音になってしまっていた。父に感謝すべきだろう。
フランス語は学生運動時代に本格的にやりはじめた。理由は語るのも恥ずかしいが敢えて書くと、フランス文学が単純に好きだったことと、フランス映画を通じてフランスという社会に憧れていたからだ。なぜあれだけお金のない時代に芦屋のセイドー外国語学院に通えたのか忘れてしまった。僕のフランス語との出会いは、英語を捨てた、せいせいした気分もあり、初めからフランスネイティブから教わったことも影響して、進歩は著しかった。東京に出てからもお茶の水にあるアテネ・フランセというフランス語の学校には通い続けていたので、当時は日常会話にはまるで困らなかったし、書き手としてもフランス人の小学生の高学年レベルのことは表現できた。
いまは両言語ともに僕の脳髄の中で眠っている。あるときまったく日本語の通じないある外国語大学のアメリカ人の老教授がカウンセリングに訪れたが、眠ったままの英語力で彼の悩みの正体を発見し、彼も満足げにカウンセリングを終えて帰っていった。たぶんフランス語の方も半年くらい必死になれば、当時の能力は取り戻せるだろう、と思う。人間の脳髄に溜まった泉のような能力が枯れはてることなどない、というのが僕の揺るがぬ思想である。脳髄にある程度の刺激を与えることによって、埋もれた能力は必ず蘇ってくる。幼い頃、映画で鍛えた力はそう易々とは壊死しない。
NOVAは確かにチケット制を採用し、その膨大な資金力で教室をどんどん増やしていった。そこまではよかった、と思う。が、NOVAのワンマン社長が見抜けなかったことがある。これだけ教室を増やせば、ネイティブの数が不足するのは当然だ。休みもロクにとれない状態だった、と聞く。海外の青年たちが、そんな労働条件に耐えられるはずがない。なぜワンマン社長は外国人も日本のサラリーマンのような滅私奉公、それも終身雇用制度がある時代の労働のあり方を前提にしたのだろう? 僕には急速な拡大路線をとった時点から、いまの状態は想像出来たのではないか? と思う。彼には欲に駆られて何も視えなくなっていたのかも知れない。会社更生法の申請をしたと新聞の記事に書いてあった。しかし、肝心の教師が不足している状況、教師たちへの給与も支払えない状況を考えると、どこにも引き取り手はないように思う。NOVAは破産し、姿を消すことになるだろう、と思う。高い授業料の返還を求める裁判があちこちで起こっているようだ。たぶん、これも労多くして得るところは少ないだろう。結果的にはある種の英語熱にうなされた人々の情熱を利用した詐欺行為を起こしたことになる。人の世の無情を感じる。
余談になるが、二人のかつての友人たちはどうしているのだろう? 阪大の法学部を卒業し、その後神戸市の上級職員になった男は、卒業後労務管理をやらされていると言ってブツブツ言っていた。疲れる仕事だ、と。いまごろは部下をたくさん抱える偉いさんになっているだろう。がんばってほしい、と心から望む。神大の経済学部を卒業した男は、東洋信託銀行(いまはもう存在しない)に入行し、部下の女子職員が使いにくいと言って文句と言っていたが、ちゃっかりその一人と早々に結婚し、すぐにイギリスに転勤になった。為替の分野にでも入ったのだろう。その後の度重なる銀行再編で、有利な側で合併していてほしい。そして銀行マンとして最高の地位に昇りつめていてほしい。この二人には世の無情は感じたくはない。あくまで幸せであってほしい、と心底思う。無事でいてほしい。

○推薦図書「「学ぶ」から「使う」外国語へ-慶応義塾藤沢キャンパスの実践」 関口一郎著。集英社新書。いっときこのキャンパスは日吉と三田にある従来の慶応大学とは違って、先鋭的な教育を特化させて有名になりましたが、現在はどうなっているのかは分かりません。この書はある意味において、かなり従来の大学の教育のあり方への反措定のような存在としてのキャンパスの立ち上げでしたので、痛烈な語学教育に対する批判も含まれています。参考にはなります。この分野に興味のある方はどうぞ。

囲い込まれる人間

2007-10-28 23:59:08 | Weblog
○囲い込まれる人間

人は自由を希求する存在である。誰もがこの世界に生を受けた瞬時から自由を求めて生きようとする。人は気の遠くなるような大人の世話や支配下に置かれつつ、あるいは言葉を換えて言えば、大人たちの価値意識による囲い込みの世界から何とか這い出してくる。それが自立と呼ばれる生のプロセスである。自立とは深い関わりのある大人の価値意識から、独立し、囲い込まれた世界から逸脱し、その過程で自らの世界像を創りはじめる時期を指して云うべき定義である。

人間以外の動物は本能の命ずるがままに、子どもを産み育て、あたりまえのように子どもを親の手から惜しげもなく離す。しかし、それこそが、生あるものたちの生きる掟なのである。自立なくして動物の種の保存は不可能であるからだ。親は自らの囲い込みの世界から巣立つ子どもたちを、むしろ突き放すことによって子どもに生きる力を与えているのである。<囲い込み>から<突き放し>への転換が自立のサインである。こういう過程を経て、動物たちの子どもは自らの世界を、厳しい競争原理の中を通過することによって創り出していくのである。

人は自由を希求する存在である、と初めに書いた。しかし、その一方で人間だけが、子どもの自立を阻む可能性のある存在でもある。心理学者の岸田 秀は<人間は本能の壊れた動物である>と看破した。そうであるなら、本能が壊れたら、人間はいったいどこでその壊れを表現するのだろうか? 最も考えやすいのは、親が子どもを精神的に囲い込むことによって、結果的に子どもの自立を阻む行為として現れる。理念上、子どもの自立を望まない親はいないが、愛という概念そのものが、人間の場合壊れていることがある。動物にとっての親の子どもに対する愛の表現とは、子どもを自立させ、独立した存在に仕上げる行為そのものである。それに比して、愛という概念性が壊れてしまった人間には、意識的にしろ、無意識的にしろ、自分の子どもの自立を阻む親がたくさん出現することになった、と思われる。子どもを育てる過程で、自立を願いながら、結果的に親が子どもを精神的に囲い込む。

姿形の上では、囲い込まれた子どもも大人になっていく。しかし体の成長とは別に精神的な親離れが出来ない大人として、世界の只なかに放り出されてしまうことは稀ではない。いや、もっと正確に言うと放り出すのではなくて、いつまでも親の精神的支配下に子どもを置いたままに放置するのである。こういう大人が増えているのではないだろうか? 青年期を子どもの心のままに生きてしまうと、幾つになっても大人の精神-自立した精神-を持った人間にはなれない。こういう大人が家庭を持ち、子どもを持つということは、不幸の再生産に容易につながるものなのである。自立し、独立したい、という本質的な欲求を疎外されたまま、囲い込みから解放されない親も、そんな親に育てられた子どもも、自然な欲動に反した生きかたを強いられる。これはあくまで頭脳の優劣の問題などではない。人間の本能、あるいは本性に反するが故に不幸であり、最悪の場合は取り返しのつかない事件性のある行為によって、歪曲した自立-自己表現を仕出かしてしまいかねない。人間が生きていく、というのは岸田 秀の指摘を待つまでもなく、ひどく困難な茨の道である。そんなことを考えた。

○推薦図書「大人のための幸せレッスン」 志村季世恵著。集英社新書。セラピストの書いた、人間社会の諸相をいかにうまくこなしていくか? というやさしい入門書ですが、僕の定義で言えば、大人になるための即席ラーメンのようなメニュー満載の読物です。どうか気軽に読んでください。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

こんな時代なのだ、アウトローとして生きていこうじゃあないか!

2007-10-27 23:54:58 | 観想
○こんな時代なのだ、アウトローとして生きていこうじゃあないか!

世の中いつの時代にも世渡り上手な人もいれば、逆に世間のうつろいの早さについていくのがやっと、という人だっている。世渡りの巧い人はそれでよいではないか。せいぜいがんばってほしい。ただ、世渡りが巧いと言っても、そういう人の中にも、人生、至るところに穴が空いているわけで、時折ドスンとその中にはまってしまう人もいるから、絶対の安心感というものはない。少なくともそれくらいの覚悟で生きていくに越したことはないとは思う。

今日は世渡りベタな人の生きかたについて、何らかの参考になれば、と思って書く。そもそも世渡りベタな人の中には結構な数のアウトローが存在する。言葉を換えて言えば、世の常識に従えない人々のことである。自覚的なアウトローのみなさんは、各々我が道を突き進んでいかれるから、その過程で人生の意味を自分なりに発見して、最期はある程度満足してこの世界から姿を消していく。それはそれでいい、と思う。ただ不幸なのは、自分が本質的にアウトローであるという資質を持ちながら、そのことに気づかないでいる場合である。こんな人は毎日が地獄のように感じられるのではないだろうか? 職場であれ、学校であれ、家庭の中であれ、周囲の人たちとの考え方の違いに圧倒されてしまう。その結果が悪くするとうつ症状の出現だ。こんなアホらしいことはないではないか。

アウトローとは僕の定義で言えば、世間知の領域をはるかに超えた個性の持ち主のことである。さらに言えばアウトローとは世間の良識、職場の決まり、家庭内での暗黙の了解事項等々をことごとく打ち破っていくような個性の持ち主でもある。だからと言って、世間から相手にされないか、というとそうではない。世間という空間で通用している常識など、全てアウトローたちは諒解していて、独自の思想を形成しつつ、世間の価値意識を遙かかなたから凌駕した上で、世間知にも対応していける素質を有した人間のことである。その意味で言えばアウトローとはこの世界に存在するためには、確信犯だ、という自覚は持たねばならないだろう。アウトローは自己の思想を深化させる。そして深化させた思想を言語化していく。その過程で、アウトローは各々独自の思想に確信を持つことになる。

いまだ世渡りベタなままのアウトローのみなさんは、そろそろ自覚的、確信犯的な思想を創造しようではないか! そうすれば、人間関係がうまくいかない、と言っては嘆き、社会に溶け込めないと言っては嘆息しているような状況から完全に抜け出せる。アウトローとは世界を自分の思想の中に取り込むことの出来る人々のことだ。世界を自己の思想に組み入れることの唯一の要件は、自己の思想を言語化し、言語化しつつ、更なる思想の深化を遂げようとする人々である。それはあたかもカミュが書き残した「シーシュポスの神話」の中の世界像でもある。世界の不条理性を鋭く見抜き、その不条理性に反抗し続ける人々のことである。アウトローとして、世界に対する反抗者として、この世界を生き抜いてやろうではないか! 道は開ける、と思う。

○推薦図書「男はときどき買えばいい」 内藤みか著。マガジンハウス刊。物語の内容は9編の男と女の愛と性に関する短編集です。女が男の性を見事に内在化し、性の悦楽の中で、乾いた感性を身につけていきます。内藤の見事なところです。が、何故か性をリアルに描こうとはしているのですが、内藤の性描写には、表層的な悦楽の形、似通った形のそれが多いのが欠点と言えば言えなくもありません。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

緩慢な死としての病

2007-10-26 23:54:16 | Weblog
今日の新聞報道によれば、あの悪名高いフィブリノゲン血液製剤の投与によって、C型肝炎に罹った患者418人の、製薬社側から厚生労働省に提出されたリストを国が隠蔽してきたのだ、という。肝炎にもいろいろな種類があることが発見され、いまや、A型、B型、問題になっているC型の他にも幾つかの種類の肝炎ウィルスによる肝炎患者がこの日本には数百万人は存在するらしい。これを国民病と言わずして、何と表現すればよいのだろうか? とりわけフィブリノゲン血液製剤によるC型肝炎の感染については、汚染された血液によって製造された事実を分かっていながら、医薬品としての許可を取り消さなかった大きな責任が国にはまずある。つくづく日本という国はおかしなことをやっている、と思う。海外に比べれば、新薬の販売まに至る期間が比較にならぬほど長くかかる。海外では新薬に限らず、これまで認可してきた薬の中に、生命に危険をもたらす要因が例え数例でも見つかれば、その原因究明に即座に取り組む。結果が悪く出ればターゲットに挙がった薬は即座に販売中止に追い込まれる。だから必然的に製薬会社も、新薬の申請に至るまでには慎重な姿勢を崩さないし、新旧を問わず、危険性が発見された時点で、国からの発売中止命令や何らかの改善命令に速やかに従う。それに比べ日本の国としての薬の認可、及び危険性が発見されて、海外では発売中止か改善命令が出されても、この国では、同じ薬が何らの改善もされず長く販売され続けるという犯罪行為を続けてきたのである。薬害エイズ訴訟においては、アメリカでは汚染された血液製剤が何年も前に販売中止になり、その後は加熱血液による血液製剤がこれまでの非加熱血液製剤にとって換わった。厚生省(現在の厚生労働省)はその事実を知っておきながら、非加熱の血液製剤の患者への投与を止めようとはしなかった。その結果被らなくてもよいエイズに罹った患者数は膨大な人数に達した、と記憶している。これは何をどう控え目に見ても明らかな国家犯罪である。しかし、それにも関わらすこの国の司法も長い間、国の責任を認めようとしなかった。僕の頭の中でこれを書きながら、「これが人間の国か!」という小田 実の声がこだまする。
肝炎については僕の場合人ごとではない。緩慢な死としての病と称したが、たとえ人生そのものに緩慢な死という定義が当てはまるにせよ、肝炎患者は、自己に与えられた人生をこの病気によって確実に加速される。「緩慢な」という表現は、肝炎の場合悪くすると、どのタイプの肝炎でも急性肝炎から慢性肝炎へ、そして肝硬変に病状が悪化し、最期は肝臓癌という死の病を背負い込むことになる、という意味である。僕は28歳のときに血液感染するB型肝炎に罹った。その年の夏は夏風邪か?と思い、内科医にも診てもらった。夏風邪という診断だった。しかし、いくら風邪薬を飲んでも、徐々に体がだるくなり、食欲が極端に落ちていった。素うどんを食べることすらままならなくなった。食べ物を見るだけで嘔吐感に襲われた。背中は常に重苦しい鈍い痛みに苛まれることになった。背中に大きな湿布薬を貼り、右の下腹の鈍い痛みにも耐えかねてそこにも湿布薬を貼って耐えた。症状から考えても肝炎に間違いない、と確信したので、かの内科医にその旨を告げ血液検査をしてもらった。数時間後自宅に電話があり、かの内科医はすぐに入院しろ! と言ってきた。日本の医療もこの程度か、という諦めを抱きつつ、僕はすぐに紹介された大きな病院の肝臓病棟に入れられた。感染する危険性があり、子どもにも会えない1カ月半の入院生活だった。教師になり結婚して数年たち、上の息子がまだ一歳の頃だ。一時は職場復帰を諦めた。それだけ苦しかったのである。
僕の場合は検査結果でB型肝炎であることが判明した。病気がつらくなる前、ずっと歯医者に通っており、半年も治療を続けた。体力がガクンと落ちたし、痛みで夜も眠れなかった。何故歯医者で感染したことに確信を持ったのかというと、入院先から一時帰宅をする際に、担当医に治療中のさし歯がまだ入っていないので、一時帰宅のときに入れてもらってよいか? と尋ねたら、僕のその時の病状はまだ抗体が出来ていない状況だったので、たぶん歯医者は治療を避けるだろう、と答えた。近所の歯医者に抗体が出来たら治療してもらうつもりで、そのことを伝えたら、何と、どうぞお入りください! という返答。出来上がったさし歯を入れてもらい、帰る途中で僕の後の患者は一体どうなるのだろう? と心配になった。同じようないい加減な治療をしてきた歯医者だろう。僕はここで感染したのだ、という確信を持った。
28歳で肝炎になるまで、僕の食生活はただ事ではなかった。魚は嫌い、野菜は殆ど口にせず、ただただ肉食だった。酒も毎晩大ビンのビールは最低二本は飲んでいたし、煙草は一日に100本近く吸っていた。ひどい歯医者だったが、あのまま肝炎にでもならなければ、たぶん僕は確実に癌を含めた大病を患って40代までにこの世界からおさらばしていただろう、と思う。54歳の現在も生きているのは食生活の激変だろう、と思う。ともかく一ヵ月半の入院生活で出てくる食事は、狙ったようにこれまで絶対に口にしなかったものばかりだった。拷問としか思えなかった。28歳にもなって、食事の度に情けなさに涙が出た。早過ぎる夕食後には病院の屋上にあがり、焼肉屋のチラチラと誇らしげに光る看板を見ては、ああ、焼肉、食いたい! と呟いていた。急性B型肝炎の場合は三通りの結果が待ち受けている。激症肝炎になって死ぬか、あるいは慢性肝炎になり、その後肝硬変になって死を迎えるか、あるいは肝硬変からさらに進んで肝臓癌でこの世を去るか、だった。僕の場合はその何れでもなかった。悪運というか、肝臓の指数の目安であるGPTやGOTの指数が正常値にもどった。抗原が消え、抗体が出来た。ということは、僕は、ことB型肝炎に関しては、たぶんまぐれで完治したことになったのである。28歳にして早や四度目の死からの生還だった。死んでもよい、と覚悟してから、いまだに生きているというのはさっきも書いたが悪運でしかないだろう。ただ、病院で厭味のように出てきた厭味なだけの食事が、その後の僕の食事の常態になった。嫌いなものが好きになるのだ。人間とはどこまでいってもおかしな存在である。これが僕の肝炎体験談だ。ただ、僕の場合はあくまで自分が招いた生活習慣の結果だろうし、自業自得だと思う。致し方ない。
だが、血液製剤訴訟に関するこの国の姿勢は、悪質極まりない。それどころか、国家的犯罪だろう。この種の国家的な規模の問題が、医療の世界に限らず、政治や経済の世界にたくさん隠されているのだ。消費税だって、うやむやにされて導入された。福祉に限って使う財源だ、と言いながら、もうそんなことは誰も覚えてはいないだろう。馬鹿の一つ覚えのように繰り返した小泉元首相の郵政民営化が10月から実施された。手数料が上がった。他にもこれからたくさん問題は明確になってくる。民営化になって良いことがあるとは思えない。いま、福田内閣は消費税を10%から13%まで引き上げることを検討中だそうだ。衆院選でもし自民党が勝てば25パーセントに上がるのは間違いないだろう。民主党党首の小沢代表も自民党時代は消費税は25%が妥当だ、と言ってきた男だ。
21世紀が明るい時代などとは決して言えない事態が目白押しだ。ちょっと暗い気分で今日のブログを閉じる。

○推薦図書はありません。薬害訴訟に関する本はたくさん出ています。いろいろな立場からの本が出版されていますが、どれにも賛成し難い問題が含まれており、敢えて一冊を推薦するには重過ぎる問題ですので、みなさんが選んで読んでください。この問題に関しては僕には確信を持ってお勧め出来る本がありません。

アマゾンよ、傲るなかれ!

2007-10-25 23:20:41 | Weblog
趣味の少ない人間である。自分の人生の中で、楽しみと言えばかなり狭く絞り込むことが出来る。その中の一つは、何と言っても読書だ。読書が僕に与えてくれる意味は、たぶん他の人たちに比べても僕にはより大きな要素がある、と思う。たぶん僕は自分の世界像を読書という行為によって広げてきたのではないか? と思われる。よく言えば内省的であるし、悪しき評価をすれば、多くの人々と触れ合って、触れ合うことによって生じる摩擦熱のように、自分の世界の仕切りがじんわりと壊れて、その壊れから更なる広がりを増していく、というタフな人間ではない、ということだ。僕は確かにタフではない。内面への深みに身を浸しつつ、地表の下深く流れる水の中に身を置いて、これまでの自己の世界を、水が気の遠くなるような年月をかけて岩肌を削り取るように、己れの堅い殻を徐々に壊していくようなタイプの人間である。そういう意味で言えば、読書は、僕にとって、途切れることはないが、自分の世界観が広がるには、たぶん人の何倍もの時間を必要とするし、読書の量も同じように人よりもかなり多くなるのは必然である。それだけ物分かりが悪いのだろう、と思う。
アマゾンサイト(amazon.co.jp)は、インターネットから簡単に本を入手出来るサイトで、随分と活用させてもらってきた。僕はその意味でアマゾンの優良購入者であった。何故過去形で書くか、と言えば、アマゾンサイトに嫌気がさしたからである。たぶんもうこのサイトを使うことはない、と思う。アマゾンサイトも本のサイトとして特化していた時期はよかった。ここを利用すれば手に入らない本は殆どなかったからだ。しかし、このサイトも手を広げ過ぎた。いろんな物が売られるようになった。インターネットの世界である。相手の顔が見えないが、しかしアマゾンサイトが変質してきたことだけは分かる。
実は今日、少し高価な本と文庫本を数冊注文しようか、と思ったのは、アマゾンカードを作れば、数千円のキャッシュバックがある、とうたっていたからである。サイトのトップページにはカードの申込みのための大きなクリック用のボタンがついていた。早速面倒だが、カード作成のためのシートのページを開いてみると、何とも細かなことをたくさん記入させるものだった。こんなシートを使っているサイトはたぶんいまやアマゾンだけだろう、と思う。苦労して記入し、送信して、忘れた頃にメールが入っていた。僕の情報ではカードが作れないのだ、という何とも高慢な回答だった。理由など一言も書いていなかった。人間、高慢になれば、必ずその先には何らかの失策が待っているものだ。アマゾンも手を広げすぎたのだ。たぶん遠からず何らかの失策を犯すに違いない、とそのメールを読みながら思わすにはいられなかった。
同じ情報で、これは初めから手を広げたところからインターネットの世界に乗り込んできた楽天サイトで、キャッシュバックつきのカード作成のページを開いた。アマゾンとは比べようもなく簡単明瞭な記入欄に同じように自分の情報を書き入れ、送信したら、カード発行がなされると言う。一体どういうことか、と思い、再びアマゾンサイトを開くと、もうアマゾンカードの申込みのボタンすら消えていた。ページの隅に小さくあったカード申込みの欄をクリックするとまたウンザリするような細かな情報を入れるページが開いた。せっせと同じ情報を書き込んで、クリックすると、どうだ! 次のページには、<一度カード作成を断った人には、申込みは出来ません>、という文言が目に飛び込んできた。これが高慢になった業者の行き着く果てを想起させる証左である。インチキな商売を続けてきたミートホープ社は倒産した。北海道の「白い恋人」というチョコレート菓子も販売中止に追い込まれた。最近では伊勢の赤福が、消費者を騙し続けていまや先も見えない状況だ。いすれも高慢が高じて販路を広げすぎ、儲け主義に陥って自らの首を締めたのだ。ごたぶんにもれずアマゾンもこんな高慢な状況下にあるわけで、いずれはよく似た失策をやらかすだろう、と推察する。
もう僕はアマゾンサイトは利用しない。見切りをつけた。楽天でも本は買えるし、近所の大型書店は、優良購入者である僕専用の棚まで用意してくれている。考えて見れば僕の裡では既にアマゾンサイトは特に必要のないサイトに成り下がっていたのである。いやらしい経営姿勢を暴露してくれてむしろよかった、と思う。アマゾンよ、驕るなかれ! 僕は少なくともアマゾンを見放した。

○今日はもともと本専門の優良サイトとして出発したアマゾン(amazon.co.jp)が、堕落し、高慢になり、明日からの没落の道筋をひた走っていることを書きたかったので、推薦図書はありません。

死ぬまで聞きたくない声

2007-10-24 23:30:25 | 観想
○死ぬまで聞きたくない声

死ぬまで聞きたくない声なんて書くと、とても混乱した言い方になるが、そうとしか表現の仕様がないので、敢えてこういう書き方をした。世の中にマザコンなんていう悲劇も確かにあるし、そんな母子関係に陥ると、その後の息子の人生、自分の母親から受ける愛情の深さと同じ種類の愛情を、年頃になって出会う異性から得ようとしてしまうものだから、たとえ結婚したとしても、その後の結婚生活もままならず、遠からず破綻してしまうというのが、よくある行き過ぎた母子関係における悲劇である。こういう悲劇が起こるのは、たぶん母親の方に非があるのだろう。愛情で支配しようという意思力が無言の圧力になって、子どもはその力に抗えず、あえて母親の支配下に自分の身を無意識のうちに置くことになる。こういう関係性が子どもが一人の大人として成長するまで持続する。こうして、大人になった男の裡に、巨大な母親の幻像が消しがたく居座るようになる。こんなふうだから、結婚しても、妻はたまったものではない。永年に渡って構築されてきた価値観で全ての言動を判断されてしまうのだ。それだけならまだ耐えられる術もあるのかも知れないが、多くのマザコン男性は、自分の妻を力技でねじ伏せようとする。それが言葉の暴力であれ、現実的な暴力であれ、内実は同じことだ。妻には耐えがたい現実が眼前に広がっていることになる。

実に矛盾したことを言うようだが、僕の裡にはマザコン男性に対するある種の憧憬があるのも事実である。母親の愛情の支配下に置かれるというのは、無論その後の自分の人生のかなりの部分を犠牲にする可能性を秘めてはいるのだろうが、同時に母親から受ける愛情に心地良さを感じ続けていることも否定出来ないだろう。あるいはもう少し控えめに考えても、母親の愛情を浴びるほど受けて、ある時期に、母親にとっては酷薄かも知れないが、子どもが自立し、自分の手に負えないところに行き着いてしまうという、恐らくは子どもとしては真っ当な成長の仕方をするにせよ、ある時期多くの子どもは母親の体を張った犠牲的精神とも言える愛を受けた経験が心の底に溜まっているに違いない。だからこそ真っ当に自立し得た人間は、その後の人生においても己れの家庭を構築し、営々と続けていけるのではないだろうか。

告白しておくと、僕には上記のようなまともな自立に至るまでの母親の愛情がどこをどう探してみてもないのである。母性なる愛を実の母親から受けたことがない。だから、僕の自立というのは、無理失理、母性愛というものから突き放された結果としての、子捨てに近い括弧つきの自立である。だからこそ、僕はいつまで経っても大人に成りきれない自分を抱えたままにこの歳まで生きてきたことになる。ある意味、歪曲した人格を持って生き続けてきた人間なのである。居直るつもりでなく、これが正直な自己分析である。僕の耳の底から、自分の母親のヒステリックに叫ぶ声が時折聞こえてくることがある。何気ない生活の中で、唐突に聞こえてくることもあれば、夢の中で母親の叫び声がこだますることもある。耳を覆いたくなるほど、下品な声色だ。父親の胸を包丁で刺し貫いた瞬時も、あの下品な声を発していたのだろうか? 僕はたぶん父親に父性と母性の両方を求めていたのかも知れない。父親に母性を求めること自体が幻想的な要求なのだが、そうでもしなければ僕は世界に立ち向かって行けなかったような気がする。僕の父親に対する評価が甘過ぎるだろうことも十分に分かっている。父親に対する愛の深さは、父親を単に尊敬していたり、好きでたまらなかったりしたからではない。僕は幻像としての母性を父親におっかぶせていたに相違ないからだろう、と思う。

自分の家庭を築いてから息子を二人育てる過程で、何度か母親との関係回復を試みた。が、その度に、何かに彼女は腹を立て、あの下品な声を荒らげて、電話の向こうで怒鳴り散らしたのだった。その後再度一旦は良い関係にもどったが、また何かのきっかけで、母親はぶち切れた。彼女が75歳なった正月に、またあの下品な叫び声を聞かされた。心底母親を憎悪した。僕も初めてぶち切れた。電話に向かって怒鳴っていた。自分の声色が母親のそれに似ているのが、悔しさを増した。それ以降絶縁した。絶縁状も書いた。そう遠くないころに彼女は死ぬだろうが、いや僕の方が案外先なのかも知れないが、お互いに死に顔も見ないと思い合っていることだろう。それが僕における母子関係だ。諦めるしかない。

○推薦図書「スズキさんの休息と遍歴」 矢作俊彦著。新潮文庫。広告会社の副社長のスズキさんが、かつての全共闘同志の仲間から送られた一冊の古本は「ドン・キホーテ」でした。この本がきっかけでスズキさんは20年前への時間旅行へと駆り立てられます。そう、僕も母親にうんざりとさせられていた青年の頃、妙に「ドン・キホーテ」を好んで読みました。すべてが笑いの渦の中に消え去るのです。快感でした。

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長野安晃

淡路島一人ブラブラ旅行

2007-10-24 07:36:49 | Weblog
10月21日の日曜日に思い立って、生まれ故郷の淡路島へ出かけることにした。最低限の持物を小さなバックに詰めての出発だった。本は二冊入れた。京都駅からJR(というか、僕にはいまだに国鉄という認識がJRに切り替わらない)の新快速電車に乗って、神戸の三宮で快速電車に乗り換えた。数年前まで三宮から垂水まで快速で行き、そのホームでローカル電車に乗り換えて、舞子まで行っていたのに、いつの間にか、快速電車は舞子で停まるようになっていた。舞子駅につくと、駅にはいまどきのショッピングモールが出来ていて、明石海峡大橋を渡るバスに乗るのに、エスカレーターまでついていた。以前は三階分のねじれ階段をフーフー言って登った。冬でも額から汗が吹き出した。ねじれ階段のせいで目が回った。数年間の変化に驚きつつも、エスカレーターでバスの乗場まで行った。バスはすでに到着していて、乗り込むだけだった。午後5時を過ぎていた。辺りは真っ暗だ。何となく憂鬱な旅の出だしだった。致し方ない。僕は3歳のときに祖父母も含めて、一家全員が没落して淡路島を去った。小学生の頃は親戚を頼って、夏休みは岩屋の海で一日中泳いで遊んだ。その頃の淡路島の岩屋は本州の明石とをむすぶ中型の連絡船で30分の距離だった。明石海峡は潮の流れが激しく、瀬戸内海であるにも関わらず、いつも船は結構揺れた。そういうスリリングな想いをしてやっと到着出来る島が淡路島だったのである。当時岩屋は人で賑わっていた。季節に関わらずに人が多かった、と思う。夏休み、泳ぎ終わった夜、銭湯で日に焼けすぎてヒリヒリする体を熱い湯ぶねの中に無理やり押し込んだ。路地を少し入れば、子ども相手のお好み焼き屋さんがたくさんあった。大型の鉄板を囲むように座り、僕たち子どもは少ないお小遣いで満腹した。
そんな数年が経ち、僕が小学生の6年生から中学を卒業するまでの4年間、父は母方の生業であるサルベージ(大きな宇宙服のような丈夫なゴム製の服を着て、頭には鉄製の顔の部分だけがガラス張りになっている、やたらと重い密閉製の鉄のかぶりを付けて海の潜り、港湾をつくるための海底での石の基礎づくりを生業にする仕事である)を淡路島の公共事業を請け負って懸命に仕事をした。会社組織ではなかったので、父はあくまで親方だった。20人近くの人間を雇って、飯場を造り、母は土方たちの飯の支度をしていた。その4年間僕は母方の祖父母のもとに居て、土曜になると神戸から淡路島まで船で通って来ては、土方でごった返す飯場で寝泊まりした。だから僕の土・日の勉強部屋は淡路島の飯場だった。部屋のあちこちで、酒をかっくらう人がいて、また別のグループは花札に興じていた。安物のレコードプレーヤーからは尾藤イサオのヒット曲が何度も何度も流れていた。
あの頃、父はたぶん、没落した淡路島でもう一度再起を懸けたのだ、と思う。金も入ってきた頃だ。黒塗りのセドリックという国産車を乗り回していた。毎週淡路島に行くたびに、父が請け負っていた港湾の基礎工事の上に石が積み上げられて新たな湾が段々とその姿を現していた。僕は正直、嬉しかった。父は生き生きとしていたからだろう。たぶん僕が3歳の頃、父が24歳の頃に無理失理捨てざるを得なかった故郷に錦を飾りたかったのだ、と思う。父は素朴にそんな感覚を抱いていた、と思う。しかし父はついていなかった。港湾工事の中止命令が役所から何の前触れもなく出た。大手の請け負い業者の下請けの仕事をしていた父は、すべてをこの仕事に懸けていたわけで、呆気なく破産した。父は全てを失った。親子二代に渡る破産の憂き目に遇ったわけだ。言葉にはならなかったが、当時の僕にも、世の不条理という感覚が漠然とだが身に滲みた。父は役所の心変わりのせいで、いまのお金の価値に換算すれば2、3億の借金を抱えたことになる。父が苦労して造りかけた港湾は途中でポツンと切れたように、中途半端な姿を晒したままに放置された。この事件が僕たち一家の経済を破綻させ、父は母を口説き落として母の実家を抵当に入れ、幾ばくかの借金を返済し、それでも到底払い終えることなく、姿を消した。タクシーから降り立った父を見張っていた母が神戸の福原という歓楽街で、自分の全体重をかけて包丁を父の胸目掛けて突き立てたのは、父が再び腐心のままに淡路島を去ってから数年後に起こった出来事だった。
父の破産とこの事件は僕自身の生き方にモロに影響を与えた。僕のこれまでの人生において、何かに抗い、何かを憎み、何かを掴み取ろうとして、やはりそれでも父とは形を変えた僕の人生の失楽の姿は、これまでずっと僕を縛り続けてきたように思う。前置きが長くなったが、今回の淡路一人ブラブラ旅行の意味は、僕自身の過去を抗い難く縛ってきた記憶を淡路の海に投げ捨てるためだった。そうでなければ、あの無様な巨大な明石海峡大橋など渡るものか! あのバカでかい橋のせいで、一体何人の人々が職を失ったことか。かつての海の男たちはいまは一体どうしているのだろう? 何より、岩屋という町はさびれ果ててしまった。みんな対岸の明石や神戸へ職を求めて出て行くのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、僅か7、8分で橋を渡り終え、真っ暗な淡路島の海岸沿いにポツンと建っているホテルの前でバスを降り、部屋をとった。窓を開けると広々とした黒い瀬戸内海が観えた。その日は本を数ページを読んだだけで、眠りに落ちた。
次の日の朝、カーテンを開けるとやはりあくまで広い海が広がっていた。捨てるはずの自分の過去が、海からの潮騒に逆に共鳴していた。やはり海は理屈なく素晴らしい、と思うばかりだった。僕はある一点を眺め続けていた。そこには海ばかりで支配された世界だった。本を床に落として、それを拾おうとして何気なく、僕の視線が横にずれた。その瞬時、体が固くなるのを感じた。何十年も前に見慣れた風景が広がっていたからである。廃湾だった。船など一隻も見当たらなかった。茶色に変色した石垣が不自然に途中で、プツリと切れた光景。何十年前の父との再会だった。ここが父が淡路島というちっぽけな島にこだわった、あの場所だった。僕は何時間も、何時間もプッツリと千切れたように海に洗われ続けている石垣を眺めていた。僕自身の過去も確かにそこに在った。淡路島にこだわるつもりはない。しかし、そこには捨て切れぬ過去が実在したままに存在していた。まだ僕は過去に抗い続けるのか? あるいは共鳴することになるのか? 答は出せなかった。いや、出さずにおいた。2泊3日の短い旅は、濃密な過去との遭遇の連続であった。ちなみに、僕の本籍地は兵庫県津名郡淡路町(現在は市になっているらしい)岩屋1606番地である。しかし、そんな場所はこの世界に存在すらしない。3歳のとき、すでに消失した。はるか昔の夢の名残りである。捨てきれずに僕の運転免許証の本籍地は、不在の象徴としての住所のままである。中途半端な自分に苛立ちを覚える。これが本音である。

○推薦図書「家日和」 奥田英朗著。集英社刊。6つの家庭ドラマです。奥田の筆致の冴えが見事です。読みきれませんでした。この本を床に落としたおかげで、僕の過去との邂逅がありました。柴田練三郎賞作品です。残りは明日から読みます。

自分を許すということ

2007-10-20 23:31:09 | Weblog
○自分を許すということ

許すという言葉を聞いて、誰もが心に想い描くのは他人を許すという行為だろう、と思う。確かに日常生活という空間の中で他者を許せない人は生き難い世の中である。他者を許せない人の心の中はきっとかなりすさんでいることだろう、と推察する。同時に他者に対する不信感も心の中を大きく占領していることだろう。これはある意味生き地獄だ。これを生き地獄だ、と認識できない人は可哀相な人だ。生を確実に浪費する人でもある。

今日は単に他者を許すということではなく、もっと本質的で、重要な課題、それは自分を許す、という行為について少し語ろう、と思う。自分を許す、ということが他者を許すという行為の原点だからである。殆どの人たちは自分には甘い、という錯誤が在る、と僕は思う。たとえば、自分の犯した罪など、自分にしか分からない程度のものであれば、簡単に自分を許せる、と思っている。それが人に知れたからといって、誰も他人のことなど長くは覚えてもいないだろうから、自分が犯した罪など、泡のように消えてしまうだろう、とタカを括っているものだろう。

しかし翻って考えてみれば、極端なことを言うと犯罪に手を染めてしまうような人々こそ、自分を許せない人たちである。過去の何らかの出来事の中に、自分の言動を許せないことが心の底に沈んでいる。心の傷としては常に傷口から血を吹き出しているような重症患者だ。こういう人たちには他者を決して許せない。それだけの心の受容力が備わっていない。だから直ぐに腹を立てる。腹が立ったら、どこまでも苛立ちを抱え持ったままに生きている。人間とは、どこかで溜まりに溜まった鬱憤を吐き出さねば生きていけない存在だ。人を許せない最悪の事態は事件性のある出来事の主人公になることだ。それも犯罪者の側として。

たとえば統合失調症に悩まされている人はどうだ? 必ずと言っていいと思うが、自分を責めている。許せない自分の存在に苛立っている。消せない心の傷が癒えていない。それが心のコントロール機能を奪っている。頭が良過ぎて、精神の深みに敢えて入り込んで、そこから抜け出せないのである。摂食障害の人はどうか? 確実にストレスが主因だ。それもかなり長きに渡るストレス性の行為、それが人間の生きる基礎的行為を狂わせる。極端に食物が食べられずにやせ細る。極端な場合は骨に皮がへばりついているような自分を美しい、とさえ感じる。ある人たちは止まるところを知らぬほどの過食をし、過食をしている間だけは体内に溜まったストレスを忘却している。肥満する人もいれば、過食と嘔吐を繰り返す人たちもいる。いずれにせよ、本来の自分をどこかで憎悪し、許せない人々なのである。自傷行為は? 自分の体に傷をつけて、そこから吹き出す血が流れる様を見て、生の実感を得るというような精神の迷路に迷い込んだ人たちも、自分の存在理由を見出せないという意味で、どこかで自分を責め、責めている自分が許せないのである。例証はもういいだろう。

他者を許せるという行為はすばらしいものである。しかし、そこには幾分のウソが混在している場合もある。許すという行為は、許して、以前にもまして許しの対象である他者を愛せるということでなければならないのではないか? もし許すという行為の中に他者を見離す要素が混じっているとするなら、それは許しではない。なぜならそこには更なる愛の醸成が含まれていないからである。他者を許すには、まず自分を許す、という前提がなければ、他者の存在が自分の裡に入ってはこない。一方的な許しは、だからこそ、限界があるのだ。愛は育まれることなく、逆に切り捨てられる。自己を許し、許す他者の存在をさらに愛し得ることの出来る可能性が、生を豊かにできる不可欠な要素だ、と僕は思う。

○推薦図書「夏の朝の成層圏」 池澤夏樹著。中公文庫。青年の脱文明、孤独への無意識の憧憬をこれだけ美しく描くことの出来る背景には自己を無限に許すという営為が底になければ書けない小説です。池澤の長編デビュー作品です。

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長野安晃

孤独と孤立について

2007-10-19 23:15:18 | 観想
○孤独と孤立について

言わずもがなのことだが、人間は誰一人として同じ生を生きることなど出来はしない。人間の生とはあくまで固有のものであり、同じ様相の生など存在し得ない。だからこそ、孤独という概念が存在すると言って過言ではない。どのような濃密な人間関係があるとしても、一個の人間にとって、どうしても自由になれない負の要素、それが孤独という存在である。孤独の中からこそ、人は深い思索ができ、その結果思想が形成される、というのは本当だが、あくまで結果論である。深く思索して己れの思想を編み出すのは別に孤独の中に浸る必然性など特にない。こういう考え方はあくまで孤独の擁護に過ぎない。人間はどこまで行っても自己正当化する存在だからだ。

孤独とは、控えめに見ても苦く、ささくれだった精神のありようではないか、と僕は思う。孤独の中でしか深遠な思索が出来ないという人は、たぶん孤独の中にも時として光輝く瞬時があるわけで、思索の閃きや、深さが感じられるのは、孤独の中に予期せず訪れる光明のためである。孤独を合理化してはならない。もし孤独という存在を擁護する面があるとすれば、それはあくまで、生の歓喜をより高めるスパイスのようなものとしての捉え方でしかない。生の価値とは、命ある限りどれだけ歓喜の瞬時が多く訪れたか、という尺度で測れるものではないか? と思われる。そして人間が生の歓喜を不可避的に感じられる要素こそ、他者性である。もし孤独の瞬時に光輝く時があるとすれば、それは、孤独という時の流れの中に唐突に他者性、他者の存在やイメージが介入してくる一瞬である。だからこそ孤独を孤立と混同してはならないのである。孤立とは他者が入り込む余地のない精神の煉獄である。膚を突き抜けるような厳しい風が吹きすさんでいるはずだ。孤立とは、他者性を排除している、という点で、どのような意味においても意味ある思想は生まれ出ては来ない。

したがって、孤独を擁護しないという前提で敢えてものを言えば、孤独を愛するという言辞にはある程度の意味があるが、孤立を好むという人間には救いがない。人間社会において、他者を排除して生きていくことなど出来はしないからだ。その意味においては<引きこもり>とは、あくまで孤立の状態である。孤独という精神の生産性が、孤立という生きざまの中から生まれることは絶対にない。<引きこもり>とは他者を遮断する精神の構造である。繰り返しになるが、他者性を否定したところから、新たな価値意識が芽生えることはない。それは人生の浪費である。今日は孤立から立ち上がってゆく過程については述べない。別の機会に書く。

翻って考えるなら、愛という概念は、孤独という精神の底を覗き見た人間にしか抱けない感情である。思想が生み出されるのも他者性という概念があってこその営為である。もっと人間臭のする精神の領域で生じる愛という概念は深い孤独を実感した人間にこそ与えられる、日常性の中の最上位に在る世界観である。愛を甘く見ては大きなしっぺ返しを喰らうことになる。言うまでもないが、孤立感によって惹きつけあう愛に似た感情は、愛そのものではないのは当然だが、ここには愛の裏返った憎悪が生じる可能性の方が高い。突きつめて考えれば、この場合、憎悪とは他者性がないところに働く感情ゆえに、己れを憎む感情と同義語である。愛憎という言葉があるが、正確に言えば、愛とは孤独という精神の深みから生み出されてきた感情であり、憎悪とは他者性を排除した孤立感から生じてきたそれである。したがって憎悪を剥き出しにするタイプの人間は、結局自分のことが憎いのである。

孤独は何かを生み出し、孤立は砂漠のようなざらついた非生産の世界である。生きているかぎり、たとえ孤独という地獄を垣間見なければならないとしても、何かを生み出したいではないか。違いますか?

○推薦図書「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 パウロ・コエーリョ著。角川文庫。危険をおかすことを恐れていては、人生は何も変わりません。この物語は主人公の女性が12年ぶりに再会した幼なじみと伴に、愛を媒介にした生の癒しを体感させてくれる書です。

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長野安晃

自前の思想を創ろう!

2007-10-18 20:46:33 | 哲学
○自前の思想を創ろう!

自前の思想を創ろう! と常に口癖のように言っていたのは小田 実だった、と思う。しかし、よく考えてみれば、自前の思想とは表現上では、矛盾した言い方ではある。何故なら、思想とは、人間の永い思索の過程で生み出されてきた、何人もの天才的な思想家が言葉を駆使し、世界を自分なりに解釈し、それと伴に自分の世界像を拡げよう、とした知的試みである。その意味において、新たな思想とはこれまでの蓄積された思索の跡を思想家が丹念に辿っては、自分の言葉に編み直していく知的作業、と言い換えてもよい。その結果、新たな地平が視えるようになった思索の跡を、新しい思想というのである。20世紀の末からフランスの思想界を席巻した思想は、それまでのヨーロッパ思想の編み替えとしての、世界の新たな見直しをなし遂げようとした知的運動論として、ポスト・モダンの騎手たちを、この世界に多く生み出した。しかし、21世紀になってその力は衰えた感がある。ポスト・ポスト・モダニズムの思想的運動には、ポスト・モダニズムの思想的運動とは比べようもないほどに、衰弱したそれだった、と思う。21世紀もいまだに前世紀の思想の土台の上に立って、思想家たち、というよりは思想家くずれたちが、薄っぺらな思索? の跡を結果を急ぎ過ぎる読者たちに、人生訓のような愚にもつかない本を書き散らしている始末だ。「老人力」? 「鈍感力」? 「~の品格」? のバーゲンセール。こんなものは思索でも何でもなく、単なる「人生相談」か占いの類に近い。昨今の政治の潮流や経済の浮き沈みを論じた(とは決して言えない代物だが)表層的な論説の類などはもう目も当てられないだろう。まあそれを嘘だと思う人がいたら、日本や世界の経済や政治の動向を書いた新書の類をぱらぱらと目を通してみれば、いかにそれらが思いつきの思索に過ぎないかが分かるだろう。

客観的現象やジャーナリステックな出来事が必ずしももの事の客観性を言い当てているのではない。世界の事象の客観性の本質を抉る力は人間の主観性に基づいた思索が土台となった思想である。浅薄な人間は主観性を、腰の定まらない右にも左にも転び得る、頼りなげな思想的立場だ、と錯覚している場合が多い。こういう発想は全く物事の本質を外している。客観的事象が視え得るのは、人間の幾世代にも渡る思想の蓄積を、自分の言葉で、現代という時代を客観的に規定出来るように、己れの思想を編み直す主観的な思索の深みの中から、初めて視えてくるものなのである。小田 実の自前の思想を創れ! という雄叫びこそ、表層的なジャーナリステックな括弧つきの客観的世界に対する反措定の思索のあり方だ、と僕は思う。小田 実が、東大時代に古代ギリシャ語を専攻したのは、いかにも小田らしい世界への挑戦のはじまりだった。

21世紀は、いまだ混迷の時代である。人々は深い苦悩の中にいる。必要なのはエセもののインテリたちの解説書などではない。いま必要なのは、普通の市民がそれぞれの主観というフィルターを通して、混迷したジャーナリステックな出来事の本質を鷲掴みにする主観的思想の確立である。

○推薦図書「現代批評の遠近法-夢の外部」 竹田青嗣著。講談社学術文庫。竹田の思想の根幹に在るのはフッサールの現象学ですが、それこそが主観主義を通して確固とした思想的土台を形づくる大いなる思想的根拠です。彼の著作はたくさんありますが、どれも難しい課題をあっさりと自分の思想に編み直して、読者に与えてくれます。実に気持ちのよい、歯切れのよい思想家です。その中ではこの書はやや粘っこい思索に徹している竹田の姿が垣間見れて、読みごたえのある一冊です。推薦の書です。

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長野安晃

卒業生といっても様々だなあ・・・

2007-10-17 23:45:09 | Weblog
私立の女子校で永年教えてきて、何人もの優れた教え子に出会った。タイプは違っているし、各々の才能も異なるが、彼らはいまは若くて人生経験も浅いが、少なくとも自分よりはずっとまともな人生をこれから歩んでいくのだろう、という確信があった。告白しておくが、教師といっても同じように接した生徒たちをすべて記憶の底に溜めているわけではない。そんな能力は僕には少なくともない。授業を離れて、職員室の古びたソファーに座り込んではよく生について語ったものだ。僕は勿論死という概念についても彼らの考えを聞き、僕も話したかったが、何せ将来が光輝いている未来の女性たちだ。やはり話題は、彼らの光輝く未来を想い描くことに勇気を与える言葉を選ぶことが必要だった。だから、僕は生の明るい側面を意識的に語った、と思う。もし、生きるということに暗黒の側面が潜んでいるとしても、それは彼らのもっと先の話題だろう、と思ったからだ。そして優秀な彼らのことなのだから、自分の生きざまの中で心の闇に光を当てることも出来るだろう、とも思っていた。 卒業生として何人かが思い出したように学校に訪れて来てくれた。彼らは大人の一歩手前で、立ち止まりつつ、戸惑いながらも語りかけてくる問題は真剣だった。教師をしていてよかった、と掛け値なしに思える瞬時であった。たぶん僕は幸福な表情を浮かべていたはずだ。ただ、僕は同窓会という集まりは、正直大嫌いだった。出欠のお知らせは度々来たが、どの年度の同窓会にも顔を出すことは一度もなかった。同窓会で語られる話題は、容易に想像出来たからだ。そこはあくまで社交の場であり、話題が深まることもなく、単なる現状報告と過去への憧憬と少しの愚痴とが混ざり合った形式的な繋がりを呼び戻す場であり、出席した教師たちと卒業生たちとの関係性は、その内実は変わるものの、精神的な距離感は永遠に同じ状態を崩すことはない。それが、僕には何故か虚しい行為に感じられたわけで、いつも欠席の側に印を付けて往復葉書の片一方をポストに入れるのが常だった。僕には様式としての師弟関係など、どうでもよかったわけで、自分が見抜いた才ある生徒が成長し、数は少なくとも、時折僕を訪れてくれる方に意味を感じていたのである。
僕の記憶に深く残る生徒たちも、僕が学校を辞めた途端、殆ど連絡を寄越さなくなった。そうなのか、と思った。教師とは学校にいてこその教師なのであり、教師を廃業すれば、その途端に精神的に深く繋がっていた? はずの生徒たちとの縁も切れていくのだ、と納得させられた。現実が僕に教えてくれた。彼らは僕から言葉の意味通りに、卒業して行ったのだ。こちらからメールしても返信すら返って来なくなった。これが現実だ。それでよい、と思った。
そんな状況の中に一人だけ、僕を見捨てない卒業生がいる。彼女も35歳になった。立派なご主人と結婚した。仕事もバリバリとやってきた。彼女はこんな落ちこぼれの元教師に、いまだにこだわってくれる。おかしな関係で、時折食事会を二人でする。今日も祇園の、僕などが踏み入れたことのない高級創作フレンチをゴチになった。彼女は絶対に僕に支払わせることがない。たぶん僕の経済的窮状を知ってか知らぬか、そんなことを気づかってくれているのだろう。結局僕の卒業生は、この35歳を迎える女性に集約できるのか? と思う。いずれにしろ、僕向きだ。たくさんの卒業生に囲まれた、形だけの、思い出したような同窓会で話す言葉など容易に見つかりはしない。素直に有り難い、と思っている。今夜は彼女の未来を祝福してブログを閉じたい、と思う。

○推薦図書「だれかのいとしいひと」 角田光代著。文春文庫。どこか不安定で仕事にも恋にも少しばかり不幸で不器用な登場人物たちから成り立つ短編小説です。そういえば、僕にも彼女にも、同種の共通点があるようにも思います。読みごたえありの小説です。よければどうぞ。

ああいうふうに歳はとるものだ、と思う

2007-10-16 23:28:34 | Weblog
先日<SMAP×SMAP>といういつも何気なくだが、観るとはなしに観ているスマップがつくる料理の番組に、ずっと記憶の底に眠っていた世紀の(前世紀だが)美男子たるアラン・ドロンが72歳になって唐突に僕の前に姿を現した。彼は見事な歳のとりかたをしていた。「太陽がいっぱい」で世界にその役者としての実力を見せつけたアラン・ドロンは、20世紀が生み出した美しい青年の代表として銀幕の上にそのみずみずしい姿を現した。アラン・ドロンの若い頃を知っているのは、僕のグレた親父が、無類の映画好きだったからである。どういうわけか、映画に行くときいつも僕を連れて行った。小学生の頃からませた少年になった。大人の世界を映画を通して覗いているのが何故か心地よかった。子ども心なりに人間の美と醜という姿を、姿形だけでなく、スクリーンの中の世界から、人間の存在の本質的なものとして感じとっていたように思う。悪くない気分だった。僕が親父を好きなのは、別に何か特別なことを意識的に教わったからではない。たぶん気まぐれにいつも映画の世界に僕を誘ってくれたお蔭だ、と思う。僕は親父と少なくとも1週間に一度は映画の世界に浸ることが出来た。映画の中の世界はたとえそれが哀しい結末であろうと、そこにはいつも夢が在った。人生とは光輝いているものなのだ、という思想を僕はしっかりと刷り込まれた。生の中に退屈感などというものは存在はしないし、そんな感情を抱くような生きかたにはどこかに嘘があるのだ、とも思った。子どもながら深い信念になった。
しかし日常性とは自分の信念とは違って如何にも退屈極まりないものあった。勉強をすればあるいはこの退屈感からいつかは抜け出せるのではないか? という淡い希望を持った。僕が学生運動に関わるまでずっと優等生だったのは、勉強というものに望みを託していたからだろう、と思う。1969年に所謂進学校と言われる高校に入学したが退屈感は増すばかりだった。70年安保闘争は、僕の心の中の劇場的な高揚感を高めるための極め付きの時代的背景だった。数年間、退屈感は僕の中でおとなしく眠ってくれていた。が、それでも映画館には通いつめていた。その頃、アラン・ドロンは魅力的な中年になっていた。彼の映画はたぶん一つも見逃してはいない、と思う。時折配給されるイタリア映画にも夢中になった。アラン・ドロンが美的な魅力をたたえた男前の代表とすると、イタリア映画界で、当時人気NO.1だった男優はマルチェロ・マストロヤンニだった。青年の美男子というのではなく、マルチェロ・マストロヤンニは大人の美男子だった。イタリア男の女たらしがこれほど似合う男優もいなかった、と思う。彼には包容力という武器があった。女たらしに包容力が備わったら、もう恐れるものなどない。マルチェロ・マストロヤンニもアラン・ドロンと同様に銀幕の世界の裏側で浮名を流した筋金入りの女たらしだ。それでもたぶん二人とも女性には恨まれてはいない、と僕は思う。女性に恨まれるような男は美的にも包容力においても決定的な欠落感があるからだ。凡庸な男は女性との別れ際に必ず煩わしい修羅場を体験するのである。これは凡庸な男の一人として断言できる。その意味でも二人の20世紀の美男子たちは、僕のいまだに憧れの的だ。マルチェロ・マストロヤンニは、老境に達する前にこの世を去った。彼の72歳をこの目で確かめたかった。アラン・ドロンが魅力的な72歳であったように、マルチェロ・マストロヤンニもいかにもイタリア男として成熟した72歳の老年を迎えていただろう、と思う。アラン・ドロンも思えばイタリア男だ。若い頃、有名なシャンソン歌手に見出されて貧しいイタリアの田舎町を捨ててフランス人として映画の世界に入り、フランス人としての歳のとりかたをした。アラン・ドロンの出演した翌週の<SMAP×SMAP>に老境に達したマルチェロ・マストロヤンニが出演してくれていたら、これは見物だった、と想像する。
54歳にもなっていまだに生きていることに退屈する。いつも何かを求めている自分がいる。凡庸な人間はどこまでいっても凡庸なままなのかも知れない。もう淡い希望を持つ年齢ではない。ヘタな人生を送ってきたものだ、と思う。僕はたぶん死の間際まで、己れの退屈感と抗っているような気がする。美と醜の区別をつけるとすると確実に醜の側にいる自分。どこまで行っても退屈感から自由になれぬ偏屈な自分がいる。歳はとりたくない、とよく人は言うが、アラン・ドロンもマルチェロ・マストロヤンニも、たぶん決してそんなことは言うまい、と思う。凡庸な人間として、このブログを書き終えるにあたって、僕は敢えて、歳はとりたくない、と言っておくことにする。それが自分の人生なのだ。諦めるしかない。

○推薦図書「別れの後の静かな午後」 大崎善生著。中公文庫。別れとはじまり、生きることの希望を描いた珠玉の短編集です。僕はあくまで凡庸な人間として、こういう小説が大好きです。凡庸であれ、非凡であれ、楽しめる作品集だ、と思います。

浮遊している自分がいる!

2007-10-15 23:35:53 | 観想
○浮遊している自分がいる!

若い頃に妙な妥協は絶対にすべきでない、と書いたことがある。やはりそれがよい、と今も思う。自分の裡の矛盾と徹底的に向き合ってほしいし、抗ってもほしい。確かにこの21世紀とは前がまるで見えない状況だから、困難なことは認める。僕の時代は時折訪れる不況の波があり、その時々で就職難が襲ってきた。僕も卒業の頃ひどい不況で、優秀な学生は安全志向が働いて公務員試験は80倍を超える自治体も珍しくなかった。勿論国家公務員の第1種の試験など、到底僕の当時のサボり倒した学生時代の不勉強さでは挑戦するなどと言ったら、友達にせせら笑われただろう。それに僕は文学部英文科なのだ。法律関係の勉強など出来る余裕もなかった。国家公務員の第1種のための勉強をしかけたこともある。もともとフランス文学志望だったのに、英文科に入ってしまったのは、自分のようなオケラの人間が、もしも教員になるとすれば英語の教師の需要はまだ大きいはずだ、と朧げながら思っていたという、つまらない的はずれな計算をしていたのである。たぶんロクな人間ではなかったが、大学に入るまでにかなりの精神的なエネルギーを人並み以上にジタバタと空費したことが原因で、深く考えるという粘着質なエネルギーを使い果たしていたのだろう。もう中年のおっさん並の発想しかなかったように思う。

でもその場凌ぎの考えほど脆いものはない。僕の場合はもっと早くに崩壊していればよかったが、じわじわと崩壊していったわけで、その崩壊感覚を加速したのも、やはり誰でもない、この自分という存在だったのだ。23年間の教師生活はまさに崩壊過程そのものだった、と思う。夫として、父親として、形だけは何とかやり通したつもりだったが、それも中抜け状態だっただろう。21年間の結婚生活の後半の10年間は確かに僕は家族に対する愛を喪失していた、と思う。仕事に逃げていた10年間だった。家族で夏休みには必ず遠方へ旅行した。が、ホテルに着いても何も楽しい気持ちは湧いて来なかった。夕食を終えると必ずと言ってよいほど、僕は家族を部屋に残し、ホテルのロビーで論文の構想を練っていた。ノートと万年筆は離さなかった。喪失した自分を、物を書くことによってなにほどか取り戻せるのではないか? と淡い期待をしていたに過ぎない。10年間学校の研究紀要に論文を書き続けたが、たいした中身のない駄文ばかりだ。それが僕というロクでもない教師という存在、形ばかりの家庭人という存在を暴露しているかのように、見事な駄文ばかりだった。気負いばかりが目立つ駄文だ。いま読み返しても何の魅力も感じない。崩壊感覚の過程で崩れるがままに気負って表現したものなどが人の共感を誘うはずがないではないか。僕の認識している限りにおいては、人間の崩壊感覚の姿を明確な意思力を持って小説という方法論でなし得た作家は野間 宏氏と武田泰淳氏の二人だけだ。彼らは崩壊感覚を小説世界で思想化し得た人たちだが、僕の場合は世界に向かって呪詛していたに過ぎない。それが僕の駄文の正体だ。比較の対象にもならない。野間 宏も武田泰淳も勝手に比較の対象に持ち出されてさぞや迷惑していることだろう。

教師を辞めた47歳から今日に到るまでの年月の内実は、はっきり言って、よく思い出せない。断片的な記憶がバラバラに頭の中を浮遊しているだけである。いま何とか飯を食えていて、屋根のある部屋でこうして読者のみなさんには大して実りもないことを書き散らかしていられるのも単なる偶然の結果に過ぎないのは何とも情けない。書き続けることによってひょっとすると何かの偶然で、自分の生きた軌跡の中に意味が見出せるかも知れぬ、というとんでもない見当はずれの行為を繰り返しているのかも知れない。ただ、いまは書きつづけるしか自分の存在理由が見つからないような気がしている。確信などない。おそらくは成り行きなのだ。偽らざる感慨だ。

○推薦図書「だれかのいとしいひと」 角田光代著。文春文庫。どこか不安定で、仕事にも恋に対しても不器用な主人公たちの繰り広げる青春小説です。角田はそれにしても表現者としてはあなどれない作家です。生の真実をかいま見せてくれます。実力派です。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃