○なぜ人は進歩し続けることができないのか?
ここでとくに論考の対象にしたいのは、人間の英知という、人間の歴史に関する最も大切な要素についてである。
人はなぜ過去から学ばねばならないのか?言葉を換えれば、人は何故ある種の困難に陥ったとき、過去に立ち戻らざるを得ないのであるのか、という深き疑問である。人間の知恵が、自然に蓄積している存在であるとするなら、それはたぶん、昭和を生きた僕のごとき軽佻なる人間にも、素朴に信じることの出来た未来への期待感、人間は必ず未来において物心ともに進歩し、よりよき未来を築けているはずである、と信じ得た、記憶の底に埋もれた感のある、ある種の懐かしき、いまとなっては空想劇に近い素朴極まりない感慨と通底している。そのとき、人は必ず過去、あるいは歴史から良きものを学びとることの出来る存在であると感じていたはずなのだ。
軽口をたたかしていただけるなら、人は懲りない存在である、と言って過言ではない。人間にとって歴史は大切な存在であることは否定できない事実である。もし、人が歴史から過去の過ちや、輝かしき栄光を学びとり、学んだ経験を生かし、その蓄積の上に立脚しつつ、新たな価値観を創造することの出来る存在であれば、我々の現在は、このような惨めな結末を迎えてはいないはずである。世界に戦争が絶えた瞬間はあるか?世界から貧困という不幸が消失したことがあるか?世界から人間の悪意が消え失せたことがあるか?
人間の世界からいつまで経っても欲望という因業のごときファクターが消え失せないのは、本来、人の脳髄の構造が、決して過去の歴史の蓄積の上に立ち、未来の構築などなし得ない存在である、という単純な結論に行き着かざるを得ないからである。勿論少数の優れた人間の、過去から未来への橋渡しが出来る英知の存在が、人間を堕落の底に貶めない努力をしていることを僕は積極的に認める。だからこそ、人間の現在が在る、と言っても過言ではないのだろう。
世界という大きな物語としての人間像を考えるまでもなく、個としての人間の、それ自体矮小でも、より多くの人々が、過去の歴史から学べるのであれば、人間の未来は明るいと言える。だが、どうも人間とは度し難いもののようで、そうはいかないらしい。大多数の人(無論僕も含めて)は、飽きもせずに過去に犯した過ちを、違う場面で繰り返している。軽佻浮薄なる大半の現代文学は、人間の、時々の局面をしか捉えてはいない。だからこそ読み捨てられる。現代社会から生み出される文学や哲学(と規定出来るのかどうか果たして疑問ではあるが)が、現代という時代を導くことも出来ず、垂れ流しのように出版されては消えていくありさまを見ていると、それらがどのような形であれ、人の脳髄に蓄積され、人の生きかたに影響を与え、より良い未来を構築していくような存在ではなく、その場限りの消費文化の一要因になり果てている姿は、人間の不幸を象徴的に物語っているような気がしてならないのである。現代における心の貧しさは、決して経済の不振だけがその原因ではない。それはむしろ、人間の価値意識たる誠実さや、他者を受容出来るような心の豊かさや、他者を許せる心の容積の大きさなどが、決定的に欠落してしまっているからである。
ある時、まだ若き知り合いの女性が、平然と、男の値打ちは札束をいくら切れるかで決まるのよ、というセリフを聞いた瞬間、僕の心は凍りついた。同時に可哀そうな人だと思った。未来のある女性である。しかし、果たしてこのような女性を異性が望んでいるだろうか?将来を伴に生きたいと思うであろうか?教養もそこそこにあり、文学もそこそこに読んでいる彼女から、前記のごとき言葉が自然に漏れ出てくるというのは、現代の時代的な不幸の一端をかなり明確に言い表しているような気がして、背筋に冷たいものが流れ出るのを抑えることが出来なかった。残念だが、若いと言っても僕から見れば、という基準だから、きっとこの女性は、自らの優しさを発見もしなければ、当然のごとくそれを育めないままに、つまらない生涯を終えるのは目に見えている。現代に生きる人間の心の貧困さをかなり象徴的に物語っているような気がして、僕の心も暗鬱たる気分に襲われる。人が、何十年か前の、日本がまだ貧しかった時代に、渇れた気分になって、心の奥底で呟いたであろう、密やかなる言葉が、現代においては、平凡な中年女性から、公然と言い放たれるのである。いかに貧しい人格の人間たちが増えつつあるのか、想像に難くないので、それほど遠くない時期にこの世界から去って行く人間としての僕には、この種の渇れた人間の感性が支配するような未来には、何の希望も感じられないのである。さもしさだけが、舌の先に苦い味として残る。
何度も同じ過ちを人は犯してきたはずである。前記したつまらない女性のことなどはその瑣末な一例に過ぎないが、世界的不況だと言われているこの時代に、一部の二世、三世の国会議員たちが、どう逆立ちしても分かり得ないだろう庶民の貧困が生まれ出る根拠を、彼らこそ、歴史の事実から真剣に学ばなければ、絶対に解決不能の問題のはずである。貧しい人格の個人が、奈落の底に落ちて行くことには、それほどの意味を感じない。自業自得である。自己の因業を引き受けるしか生きる方途などどこにも見出せないではないか。しかし、国の代表者たちは、その役割の大きさと、将来の日本の、あるいは世界の行く末を決定づける責務を担っているのである。過去から、歴史の事実から、大いに学んでほしい。その上で世界を眺め返してほしい。そう願うばかりである。そのために、困り果てた庶民一人一人が、厳しい目で自分たちの代表者たちを選んでいかなければならないだろう。議員の持つ雰囲気や、根拠のない人気度、マスコミ報道の表層的な分析などに惑わされないで、自分の未来を構築していくための、とても小さな権利だが、同時にとても大切な選択権を自分の現状と、未来への責務として行使していきたいものだ、とつくづく思う。このような行為の底に在るものこそ、人間の英知そのものである。僕はそのように信じたい。今日の観想である。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
ここでとくに論考の対象にしたいのは、人間の英知という、人間の歴史に関する最も大切な要素についてである。
人はなぜ過去から学ばねばならないのか?言葉を換えれば、人は何故ある種の困難に陥ったとき、過去に立ち戻らざるを得ないのであるのか、という深き疑問である。人間の知恵が、自然に蓄積している存在であるとするなら、それはたぶん、昭和を生きた僕のごとき軽佻なる人間にも、素朴に信じることの出来た未来への期待感、人間は必ず未来において物心ともに進歩し、よりよき未来を築けているはずである、と信じ得た、記憶の底に埋もれた感のある、ある種の懐かしき、いまとなっては空想劇に近い素朴極まりない感慨と通底している。そのとき、人は必ず過去、あるいは歴史から良きものを学びとることの出来る存在であると感じていたはずなのだ。
軽口をたたかしていただけるなら、人は懲りない存在である、と言って過言ではない。人間にとって歴史は大切な存在であることは否定できない事実である。もし、人が歴史から過去の過ちや、輝かしき栄光を学びとり、学んだ経験を生かし、その蓄積の上に立脚しつつ、新たな価値観を創造することの出来る存在であれば、我々の現在は、このような惨めな結末を迎えてはいないはずである。世界に戦争が絶えた瞬間はあるか?世界から貧困という不幸が消失したことがあるか?世界から人間の悪意が消え失せたことがあるか?
人間の世界からいつまで経っても欲望という因業のごときファクターが消え失せないのは、本来、人の脳髄の構造が、決して過去の歴史の蓄積の上に立ち、未来の構築などなし得ない存在である、という単純な結論に行き着かざるを得ないからである。勿論少数の優れた人間の、過去から未来への橋渡しが出来る英知の存在が、人間を堕落の底に貶めない努力をしていることを僕は積極的に認める。だからこそ、人間の現在が在る、と言っても過言ではないのだろう。
世界という大きな物語としての人間像を考えるまでもなく、個としての人間の、それ自体矮小でも、より多くの人々が、過去の歴史から学べるのであれば、人間の未来は明るいと言える。だが、どうも人間とは度し難いもののようで、そうはいかないらしい。大多数の人(無論僕も含めて)は、飽きもせずに過去に犯した過ちを、違う場面で繰り返している。軽佻浮薄なる大半の現代文学は、人間の、時々の局面をしか捉えてはいない。だからこそ読み捨てられる。現代社会から生み出される文学や哲学(と規定出来るのかどうか果たして疑問ではあるが)が、現代という時代を導くことも出来ず、垂れ流しのように出版されては消えていくありさまを見ていると、それらがどのような形であれ、人の脳髄に蓄積され、人の生きかたに影響を与え、より良い未来を構築していくような存在ではなく、その場限りの消費文化の一要因になり果てている姿は、人間の不幸を象徴的に物語っているような気がしてならないのである。現代における心の貧しさは、決して経済の不振だけがその原因ではない。それはむしろ、人間の価値意識たる誠実さや、他者を受容出来るような心の豊かさや、他者を許せる心の容積の大きさなどが、決定的に欠落してしまっているからである。
ある時、まだ若き知り合いの女性が、平然と、男の値打ちは札束をいくら切れるかで決まるのよ、というセリフを聞いた瞬間、僕の心は凍りついた。同時に可哀そうな人だと思った。未来のある女性である。しかし、果たしてこのような女性を異性が望んでいるだろうか?将来を伴に生きたいと思うであろうか?教養もそこそこにあり、文学もそこそこに読んでいる彼女から、前記のごとき言葉が自然に漏れ出てくるというのは、現代の時代的な不幸の一端をかなり明確に言い表しているような気がして、背筋に冷たいものが流れ出るのを抑えることが出来なかった。残念だが、若いと言っても僕から見れば、という基準だから、きっとこの女性は、自らの優しさを発見もしなければ、当然のごとくそれを育めないままに、つまらない生涯を終えるのは目に見えている。現代に生きる人間の心の貧困さをかなり象徴的に物語っているような気がして、僕の心も暗鬱たる気分に襲われる。人が、何十年か前の、日本がまだ貧しかった時代に、渇れた気分になって、心の奥底で呟いたであろう、密やかなる言葉が、現代においては、平凡な中年女性から、公然と言い放たれるのである。いかに貧しい人格の人間たちが増えつつあるのか、想像に難くないので、それほど遠くない時期にこの世界から去って行く人間としての僕には、この種の渇れた人間の感性が支配するような未来には、何の希望も感じられないのである。さもしさだけが、舌の先に苦い味として残る。
何度も同じ過ちを人は犯してきたはずである。前記したつまらない女性のことなどはその瑣末な一例に過ぎないが、世界的不況だと言われているこの時代に、一部の二世、三世の国会議員たちが、どう逆立ちしても分かり得ないだろう庶民の貧困が生まれ出る根拠を、彼らこそ、歴史の事実から真剣に学ばなければ、絶対に解決不能の問題のはずである。貧しい人格の個人が、奈落の底に落ちて行くことには、それほどの意味を感じない。自業自得である。自己の因業を引き受けるしか生きる方途などどこにも見出せないではないか。しかし、国の代表者たちは、その役割の大きさと、将来の日本の、あるいは世界の行く末を決定づける責務を担っているのである。過去から、歴史の事実から、大いに学んでほしい。その上で世界を眺め返してほしい。そう願うばかりである。そのために、困り果てた庶民一人一人が、厳しい目で自分たちの代表者たちを選んでいかなければならないだろう。議員の持つ雰囲気や、根拠のない人気度、マスコミ報道の表層的な分析などに惑わされないで、自分の未来を構築していくための、とても小さな権利だが、同時にとても大切な選択権を自分の現状と、未来への責務として行使していきたいものだ、とつくづく思う。このような行為の底に在るものこそ、人間の英知そのものである。僕はそのように信じたい。今日の観想である。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃