ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

なぜ人は進歩し続けることができないのか?

2009-01-09 22:47:32 | 社会・社会通念
○なぜ人は進歩し続けることができないのか?

ここでとくに論考の対象にしたいのは、人間の英知という、人間の歴史に関する最も大切な要素についてである。

人はなぜ過去から学ばねばならないのか?言葉を換えれば、人は何故ある種の困難に陥ったとき、過去に立ち戻らざるを得ないのであるのか、という深き疑問である。人間の知恵が、自然に蓄積している存在であるとするなら、それはたぶん、昭和を生きた僕のごとき軽佻なる人間にも、素朴に信じることの出来た未来への期待感、人間は必ず未来において物心ともに進歩し、よりよき未来を築けているはずである、と信じ得た、記憶の底に埋もれた感のある、ある種の懐かしき、いまとなっては空想劇に近い素朴極まりない感慨と通底している。そのとき、人は必ず過去、あるいは歴史から良きものを学びとることの出来る存在であると感じていたはずなのだ。

軽口をたたかしていただけるなら、人は懲りない存在である、と言って過言ではない。人間にとって歴史は大切な存在であることは否定できない事実である。もし、人が歴史から過去の過ちや、輝かしき栄光を学びとり、学んだ経験を生かし、その蓄積の上に立脚しつつ、新たな価値観を創造することの出来る存在であれば、我々の現在は、このような惨めな結末を迎えてはいないはずである。世界に戦争が絶えた瞬間はあるか?世界から貧困という不幸が消失したことがあるか?世界から人間の悪意が消え失せたことがあるか?

人間の世界からいつまで経っても欲望という因業のごときファクターが消え失せないのは、本来、人の脳髄の構造が、決して過去の歴史の蓄積の上に立ち、未来の構築などなし得ない存在である、という単純な結論に行き着かざるを得ないからである。勿論少数の優れた人間の、過去から未来への橋渡しが出来る英知の存在が、人間を堕落の底に貶めない努力をしていることを僕は積極的に認める。だからこそ、人間の現在が在る、と言っても過言ではないのだろう。

世界という大きな物語としての人間像を考えるまでもなく、個としての人間の、それ自体矮小でも、より多くの人々が、過去の歴史から学べるのであれば、人間の未来は明るいと言える。だが、どうも人間とは度し難いもののようで、そうはいかないらしい。大多数の人(無論僕も含めて)は、飽きもせずに過去に犯した過ちを、違う場面で繰り返している。軽佻浮薄なる大半の現代文学は、人間の、時々の局面をしか捉えてはいない。だからこそ読み捨てられる。現代社会から生み出される文学や哲学(と規定出来るのかどうか果たして疑問ではあるが)が、現代という時代を導くことも出来ず、垂れ流しのように出版されては消えていくありさまを見ていると、それらがどのような形であれ、人の脳髄に蓄積され、人の生きかたに影響を与え、より良い未来を構築していくような存在ではなく、その場限りの消費文化の一要因になり果てている姿は、人間の不幸を象徴的に物語っているような気がしてならないのである。現代における心の貧しさは、決して経済の不振だけがその原因ではない。それはむしろ、人間の価値意識たる誠実さや、他者を受容出来るような心の豊かさや、他者を許せる心の容積の大きさなどが、決定的に欠落してしまっているからである。

ある時、まだ若き知り合いの女性が、平然と、男の値打ちは札束をいくら切れるかで決まるのよ、というセリフを聞いた瞬間、僕の心は凍りついた。同時に可哀そうな人だと思った。未来のある女性である。しかし、果たしてこのような女性を異性が望んでいるだろうか?将来を伴に生きたいと思うであろうか?教養もそこそこにあり、文学もそこそこに読んでいる彼女から、前記のごとき言葉が自然に漏れ出てくるというのは、現代の時代的な不幸の一端をかなり明確に言い表しているような気がして、背筋に冷たいものが流れ出るのを抑えることが出来なかった。残念だが、若いと言っても僕から見れば、という基準だから、きっとこの女性は、自らの優しさを発見もしなければ、当然のごとくそれを育めないままに、つまらない生涯を終えるのは目に見えている。現代に生きる人間の心の貧困さをかなり象徴的に物語っているような気がして、僕の心も暗鬱たる気分に襲われる。人が、何十年か前の、日本がまだ貧しかった時代に、渇れた気分になって、心の奥底で呟いたであろう、密やかなる言葉が、現代においては、平凡な中年女性から、公然と言い放たれるのである。いかに貧しい人格の人間たちが増えつつあるのか、想像に難くないので、それほど遠くない時期にこの世界から去って行く人間としての僕には、この種の渇れた人間の感性が支配するような未来には、何の希望も感じられないのである。さもしさだけが、舌の先に苦い味として残る。

何度も同じ過ちを人は犯してきたはずである。前記したつまらない女性のことなどはその瑣末な一例に過ぎないが、世界的不況だと言われているこの時代に、一部の二世、三世の国会議員たちが、どう逆立ちしても分かり得ないだろう庶民の貧困が生まれ出る根拠を、彼らこそ、歴史の事実から真剣に学ばなければ、絶対に解決不能の問題のはずである。貧しい人格の個人が、奈落の底に落ちて行くことには、それほどの意味を感じない。自業自得である。自己の因業を引き受けるしか生きる方途などどこにも見出せないではないか。しかし、国の代表者たちは、その役割の大きさと、将来の日本の、あるいは世界の行く末を決定づける責務を担っているのである。過去から、歴史の事実から、大いに学んでほしい。その上で世界を眺め返してほしい。そう願うばかりである。そのために、困り果てた庶民一人一人が、厳しい目で自分たちの代表者たちを選んでいかなければならないだろう。議員の持つ雰囲気や、根拠のない人気度、マスコミ報道の表層的な分析などに惑わされないで、自分の未来を構築していくための、とても小さな権利だが、同時にとても大切な選択権を自分の現状と、未来への責務として行使していきたいものだ、とつくづく思う。このような行為の底に在るものこそ、人間の英知そのものである。僕はそのように信じたい。今日の観想である。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

信じるということの意味について考える

2009-01-04 23:28:04 | 観想
○信じるということの意味について考える

信じるという言葉は、舌触りがよいだけに、人々が好んで使う言葉の一つである。好感を持った人々に対して、恋人に対して、あるいは夫、妻に対して、信じているよ、信じているわ、という言葉はまるで輪廻のように世界中で囁かれているのではなかろうか。西欧の文化の中では、信じるという言葉は、男女の間で取り交わされる場合、しばしば愛している、という言葉とすり替わる。しかし、その内実は同じものと考えてよい、と思う。

物事がうまく進行しているときは、信じるという言葉の内実にそれほどの思い入れもなく、ごく自然な日常会話が成立しているだろう。が、いざ、信じていたはずの人間のいずれか一方にでも、心の隙間に不信という暗黒の言葉が、信じるという概念性を上回る程の勢いで起こった、その瞬間から人間の悲劇がはじまる。歴史上の、揺るぎないと思われた独裁者や権力者たちが失脚していくはじまりこそ、他者を信じられなくなる瞬間が心をよぎり始めた時である。果たして彼らは、猜疑心の虜となり、信じるべき人々、特に正しきことを箴言し得る人々を遠ざけ、場合によっては命さえ奪う。かつて物申す人々の力を信じてこそ手中に出来た権力を、いや、そのおおもとのファクターになっていたはずの他者への信頼感を惜しげもなく手離してしまう。残るのは当然のようにイエスマンだけのとりまき連中になることは必然である。かくして、時の権勢を誇った権力者たちはあえなく自ら墓穴を掘り、歴史の大きなうねりの中に姿を消していく。同じことがたぶん現代においても繰り返し、繰り返し起こっているはずである。万巻の書物を読むくらいならば、シェイクスピアの「マクベス」を心を込めて読んだ方がどれほど深き知恵が得られるかは、説明するまでもないのではなかろうか。サラリーマン諸氏が安手の時代劇物の小説を、たぶん自分の会社の派閥や人間関係に置き換えて、その書から生き残るヒントを得ようとするのはよく理解できるが、もし、そうであれば、どうぞ「マクベス」という薄っぺらな戯曲を読まれたし、と心から思う。

歴史上の変遷が、個としての人間関係と無縁であるはずがない。恋人どうしや、夫婦の絆や、親子の愛のありかたの中で、信じるという観念が不信にすり変わるとき、人間の不幸がはじまる。信頼関係に歪みが生じたとき、たぶん当事者たちにとっては、長い年月と時間をかけて構築したはずの、揺るぎなく見えた堅牢なる存在物は、見事にガラガラと音を立てて崩壊していくはずである。たぶん、人間の不幸の最も大きな不幸の原因とは、信じていたはずの他者を、信じることが出来なくなるという不幸に尽きるのではなかろうか。またこれこそが、人間を長きに渡って支配してきた人類の歴史の退歩の病巣でもある。いったい、人はこのような退歩からいかにすれば自由になれるのだろうか?

恐らく間違えてはいないと思うが、他者を信じるという行為の土台を形成している心的概念とは、端的に言ってしまえば、勇気である。人を信じられない人には勇気が確実に欠落している。あるいは、欠落すべき道程を辿り、不幸な結末へ突っ走る。結果は無残な敗退、あるいは死あるのみだ。信じ切れると思った他者に対して、心を丸裸に出来る勇気があってこその,信頼関係の深化が在り得るのではないか?その意味において、保身とは勇気と正反対の概念である。保身が結局は文字通りの保身に繋がらないのは、心の底に臆病で見苦しいほどの疑惑が渦巻いているからに他ならない。疑惑は、決して人を幸福に導きはしない。いっとき保身し得たかに見える現象が現れても、それは、荒れ果てた砂漠に気まぐれのように立ち現れる蜃気楼のごときものに過ぎない。蜃気楼は実体のないものであるがゆえに、疑惑に導かれた保身も、蜃気楼のようにあえなくその姿を消す宿命を背負っているのは当然であろう。

人がこの世界、この21世紀という足場の崩れかけた世界で生き抜くための大切なものとは、泡銭でもなければ、保身のためのマネーゲームでもなければ、世間的な地位などでもない。そんなものはいずれ確実に手元から零れおちる。寄る辺ない世界だからこそ、信じる勇気、心を丸裸にして憚らぬ心構えにしか、生き抜くエナジーなど湧き出て来るはずがないではないか?みなさん、そうではありませんか?

○推薦図書「ボヴァリー夫人」フローベール著。新潮文庫。田舎医者の妻エマが、凡庸な夫との単調極まる生活に死と同義語であるかのごとくに退屈し、情熱に駆られてついに身を滅ぼしていく物語ですが、再読していて思うのですが、エマの生きかたの中で、自分に正直であるのは身を救う大切な要素だと感じますが、エマは情熱の虜になり果てる過程で、自己に対する信頼感を喪失していきます。この書が悲劇の様相を呈しているのは、自分自身を信じ切れない主人公の悲劇性ゆえであるとも考えられます。お正月のこの時期に、かつて読破した名作をぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃