ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○省察(4)

2013-04-01 10:33:55 | 省察
○省察(4)

人はどこまで行っても、他者と繋がりたいという想いが消し難く裡にある。しかし、その一方で、他者に対する言い知れぬ嫌悪感を抱くことから自由にはなれない。その意味で、ヒューマニズムは、人間のこの種の相反する心性を相殺させようとする壮大な試みであったことを僕は否定しない。が、それ以上に正しいと思えるのは、拭い難い瑕疵のごとき人の精神構造の方だ。もしも、ヒューマニズムというものが実現され得るとか、すでにそのような考え方に基づいた人の歴史が綿々と続いているなどと公言する人がいるとするなら、さらに云うなら、ヒューマニスティックであることが、人間のあらゆる高次元の心的現象の中の、極めて価値ある存在であると認識している人がいるとするなら、僕はそういう人を信用しない。

今さらながら僕は想うのである。自分の言葉、言葉によって紡ぎ出された思想、それに基づいた行動を持ってしても、また、そこに誠実というファクターを加味しても、どうにもこうにも相手の心に滲みいるように、自分の想いが通じないことがあるのではないか、と。あらゆる次元における差別主義を取り除いたとしても、人間集団とは、相容れない他者が確実にいる。それは、自他の気づきや教養や育ちや人種等の違いがあるからではない。逆に考えれば、同じ環境下に育った人間どうしであっても、やはり本質的に相容れないことはしばしば起こり得るのである。近しい関係にある、あるいはかつてそうであった人たちの中にも、じわじわと、あるいは唐突に分かり合えなくなることがある。人はしばしば豹変し、変質する可能性を秘めている。だからと言って、その要因を書き連ねることは不可能なことだし、またそんなことに意味があるとも思えない。要は、人間どうしの精神構造という側面には、相容れない齟齬が生じる必然性がある、ということだけは書き記しておく。

僕は人間という存在に絶望しているのだろうか? たぶん、違う。嘘偽りなくいうと、限りなく絶望に近い感情を抱いていることは否定出来ないが、絶望のラビリンスを抜け出る可能性をまだ捨て去ってはいない。だから、僕はまだ当面は生き抜いていく。人間の生理的限界が僕を消し去ろうとするまでは。掴み取るべきものがいまだたくさんあるからだ。僕のような凡俗な人間には時間が必要だと思うし、そのために執拗に生き抜こうという意思が強固なってもくる。まあ、そんなところなのである。かつて、青年の頃、自分には何者にもなれる才が備わっている、と錯誤していたときとはワケが違うからである。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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