ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

哀しみという感覚

2008-12-29 00:01:55 | 観想
 この歳になって、自分の出来ることの内実がかなり限定されて視えてきたら、なんだか自分がとんでもない状況のもとに陥っていることに気づいた。これまでがむしゃらに生きてきたので、たぶん、状況は異なるだろうが、これくらいの壁にぶつかってもそれらを何ということもなく、これまでの人生、乗り越えて来れたのではないか?と思う。近頃自分の人生の大きな転換期を経て、新たな生きかたをすべく歩み出した。が、これは、僕自身を含めて、僕に関わる幾人かの人々に多大な精神的苦痛を与えるものであった。勿論、そのことに対する覚悟は出来ていたものの、僕を支えてくれた人々の心の襞に血が流れていることには想いが至らなかった。これが55歳になったばかりの僕の眼前に立ちはだかった壁を前にして、その壁を乗り越えようかどうかと逡巡したときに感じた浅はかな観想であった。当時の僕は、残念ながら自分が直面したことで精一杯だったと正直に告白する。他者を傷つけ、勿論そのツケはいま大きく自分に降りかかっている。それを受けるのは僕の責務だと感じるが、思いの外、自分という存在が弱っているのが分かる。確かに壁は乗り越えてはみたが、その後がいけなかった。乗り越えたはずの壁の上からまっさかさまに地面に投げ出された感がある。いまはそこに蹲ったままの状況なのだろう。よくしたものというか、辛いことは重なるというか、自分では予期し得なかった、胃臓が収縮してもとに戻らないほどの出来ごとが重なって僕に襲いかかってきたのである。己がこれほどに打たれ弱い人間であることに気づいたことを、自己の生の進歩とみるか、退歩とみるか、いまは結論が出せないでいる。
 哀しい、という感覚、感情は人間に自然に備わっていて、辛い出来ごとがあれば哀しさというトンネルをくぐって、精神の再生に立ち至るもの、というくらいに考えていたフシが僕にはある。しかし、このような哀しさなどはかなり表層的な捉え方であり、結局、僕はこの歳になるまで、人の哀しさという感覚を知り得なかったことに気づくハメになった。否定的な書き方だが、その一方で、人間とは、負の感情の本質も味わい尽くしての人生か、ということに思い至れば、生の歓びとまでは言う元気はないにせよ、人生、長く生きれば生きるほどに、生きる辛さに関わる観念も増してくる。そうであれば、思い切って、それらを受けて立とうではないか、とも思う。
 今回の気づきで、たぶん僕は言葉の規定よりも深いところで、人の大切な感情、つまりは哀しさという本質がどのようなものであるか、ということに気づき得た人間の一人になった、と確信する。勿論、具体的な自己の人生における傷の深さは測り知れないものがあるが、負の感情の深き意味を感得するには、多大な自己犠牲を伴うのは常識だろう。致し方のないことだと思う。ただ、人は失ったら、それに伴って、価値意識という次元で必ず得るものが在る、ということである。
 いろいろな感情の中で、哀しさとは、よく口にする言葉の一つだが、たぶん、多くの人たちはかなり表層的な領域での気づきに過ぎない感性を、哀しさと呼びならわしているのではないか、と思われる。だからこそ、涙を流して、酒でもかっ食らえば案外と立ち直ってしまう。このような感情を敢えて規定する言葉があるとするなら、それは安直なカタカナ語としての、ストレスというものの一つの現れであろう。それに比して、哀しみとは、あくまで深い。心の深淵の暗闇にまで行き着くほどの負の観念である。哀しみという、この深き淵より立ち直り、心の再生をなす術はない。哀しみは、哀しみという円環の中で閉じた思想性である。そこからの発展性は期待出来ないが、哀しみという円環の存在に気づいた人間は、生きた刻印たる額の意味あるシワくらいは一筋か二筋は増えるだろう。エイジングとはシワにまみれることであるとするなら、数えきれないシワの中に、自分なりの気づきというシワをどれほど刻めるか、ということも生の意味と言えなくもない。
 哀しみに関する僕なりの結論はまだ出てはいないが、近いうちに、自分の言葉にして、ここに書き遺すつもりである。今日の観想とする。

○今日は推薦図書はありません。いま、僕はかつて青年の頃に読んだ古典というジャンルに属する文学や思想の書に深く沈潜しています。その中でみなさんにお勧めしたいものが再発見出来れば、書き記します。

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長野安晃

多様化する社会における言語表現について

2008-12-21 00:35:45 | 社会・社会通念
○多様化する社会における言語表現について

まず、「多様化する社会」という表現の、<多様化>とはどのように定義すればよいのか、という問題に言及しておかねばならないだろう。現代社会における多様化とは、価値観の多様化というよりも、物事の価値観の希薄さと分散化であると位置付ける方が説得力があるように思われる。20世紀における日本の歴史上の事柄についてのいちいちの評価はさておくとして、それを一言で表現するならば、悲喜こもごものドタバタ劇の連続体として認識することが出来る。それにしても、軍国主義における価値の一極集中化、他国の圧力がもたらした唐突な既成価値からの解放感とともに訪れた、平和主義という新たな価値の一極化、そしてその後の経済復興を底支えしてきた「経済の論理」という、これまた別の価値への一極化という変遷の過程で、おそらくかつては人間相互間における言語は、その時々の共通したファクターが媒介となり、それらが共通言語の土台ともなり得たのではなかろうか。これが昭和を生き抜いてきた一人の人間としてのささやかなつぶやきである。事の是非についての確証は残念ながら明瞭ではない。が、それなりの人生体験の堆積と、自分なりの直感力と、少しばかりの洞察力によって、なにほどか、時代の空気を感得する自信は消し難くある。まとめて言えば、かつては、なんとか己の真意を尽くせば、他者との間にふつつかなりとも共通感覚という精神の交通路が生起する可能性があった時代性、と定義づけられるのではないかと思われる。

さて、現代における<多様化>の意味は前記したとおりだが、多様化が価値の希薄さと分散化と同義語であると認識するならば、そのような社会的土壌の上に立った言語表現とはいかなる形として存立し得るものなのだろうか?少なくともかつてのような哲学的・文学的論理それ自体では、特に現代の若者たちの価値意識の中に入り込むことなど到底出来はしないであろう。このような状況下において、表現者としての立場からの要求の強度をさらに上げるとするならば、若者たちの価値意識の変容にまで立ち至る可能性を創造することにしか、現代に通用する言語表現の可能性は残されていないのも同然なのである。この、分散化され、存在そのものが希薄になった価値意識が支配的な現代においては、直截的な論理的思考回路は言語交通の手段としてはあまり役立たない。無論、どのような時代背景に覆われようとも、論理の力は言葉の構築力によってなされる、人間の最高級の叡知であることに変わりはないだろう。したがって問題となるべきは、人間の叡知としての論理力、そしてその土台となるべき言葉の力が、如何に現代という時代性の中に溶け込めるかどうかにかかっているということである。だからこそ、そのための方法論が論じられなくてはならないのだろう。

-1-
 言葉の構築力が論理を創る。換言すれば、創造力とコンストラクション、あるいは時として、創り上げられた論理のデ・コンストラクションが直截的な方法論でなく、現代ふうにデフォルメされた論理の構築を考えなくてはならない。極度に凝縮された言葉の使い方、過剰な表現を如何にして剥ぎ取り、剥ぎ取った結果としての表現が、言葉の威力をさらに増しているか否かという観点を、常に表現者が意識することこそが不可欠なのである。これは言語表現を単に簡便化するという意味ではない。現代が、多様化する社会と位置づけるられるとしても、過剰な言葉を剥ぎ取るという意味は、かつての絶対的な価値意識に関わる表現を、可能な限り相対化する知的作業のプロセスの中から創り出されるはずである。ある思想を表現するための、かつての言語表現の中に散見出来る既成の言葉を、常に新たな言葉として創り変えていく努力を惜しまないこと。言葉の力とはあくまでその時代性に受容され得る表現形式と表現方法によって、旧価値の中から再発見出来る思想のあり方を、価値の希薄さと分散化された現代という多様性の中に、デ・コンストラクションすることの出来る表現能力を若者たちに伝播させていくことなのである。その方法論は決して、価値の希薄さや分散化におもねることではない。それどころか、現代の多様性を表現者の側が、己の表現方法としての言葉を、価値の希薄さと分散化そのものをデ・コンストラクションする営為のプロセスにおいて、多様化する現代社会の価値意識の意味を言葉の力によって表現する可能性が残されているもの、と確信する。現代社会の多様化に単に追従するだけではなく、新たな創造的な価値意識を言語化し得る言語表現の可能性とは、かくのごときプロセスの中にこそ存立し得るものである。また、このような表現の方法論は、母語である日本語あるいは、あらゆる外国語表現においても当てはまる思想性を含んでいると確信する。

○上記の内容は、ある大学の教員募集の課題レポートです。魔がさしたというか、学問への多少の傾注が、自分の歳も考えずに応募してしまい、予想どおりに不採用になった提出文書の一つです。この大学のHPから履歴書や、経歴書などをダウンロードし、そこに必要事項を書き込むようになっているのですが、その履歴書たるや、どこかの大学のオーバードクターを捜していることが見え見えの、大学院という学歴が不可避な代物でしたが、なんだかそれを眺めているうちにかえって心が偏狭になりまして、応募に至ったというわけです。実損はまるでありませんが、自分の年齢と学歴のなさと、何よりも、才能のなさを自覚せしめてくれる良き素材ではありました。お暇があればどうぞ。

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人間の絆について考える

2008-12-19 20:23:56 | 文学
○人間の絆について考える

サマセット・モームの作品世界は、読者に言い知れぬほどの力で迫りくるものがある。それを生きる意味、あるいは生きる価値と呼んで差し支えないだろう。勿論、今日のお勧めの書はモームの「人間の絆」だが、表現者のはしくれとしては、やはりどこまでも僕の裡なる人間の絆というものについて考えることにする。絆とは読んで字のごとく、人と人との、深き心の底から湧き出るような感情の発露が共振し合い、個としての人間には到底気づき得なかった、複数の人間どうしの精神が絡み合う心の活動そのものである。無論、友人の数の多い、少ない、などという視点だけで人間の絆の質を云々すること自体が、そもそも誤った人間観である。人間観に歪みがあれば、若き時期の表層的な友人関係がそのままに、人間の絆のあり得るべき姿だ、と感じるだろう。あるいは社会人になって、仕事場で出会う同僚や、上司、あるいは部下たちとの関係性に、人間的な繋がりを過剰に求め過ぎると、後年手ひどいシッペ返しを食らう。青年期の友情など、歳を食らうごとに磨滅していくような宿命的な存在なのではなかろうか。長きに渡る宮仕えにも、事なきを得て定年を迎え、さて自分の周縁を見まわすと、本当は誰一人として、人間的な次元における絆で繋がっていた人間などいなかった、という現実は決して笑い話などではすまされない酷薄なる事実であろう。しかしこのようなことは、果たしてごく特殊なことなのだろうか?

これは物事の本質を深く見ようと見まいと、次元の違いはあるにせよ、誰にでもどこかの年齢で遭遇するはずの精神の空漠感、欠落感、虚無感などといった観念のドラマが創り出す、終焉に対する気づきの訪れは確実にあるだろう。若さという純粋さを介して、自己の思念は間違いなく若き覚醒者の限界点にまで一足飛びに到達することになる。その結果としての彼らの自死はかなり鋭角的な角度で起こり得る現実的な問題となる。天才的な才能に恵まれ過ぎると、その才能たるや、濾過された後に救い取れるような澄み渡った清水のごときものであり、世の中のケガレ(敢えて穢れとは表記せずに、このように書きおきたい。ケガレという言葉を使ったのは、所謂世間で通用している、かなり大雑把な清澄さと猥雑さの区別から離れたいという秘かな僕なりの願いがあるからだ)が混じると、清水の清らかさなどは一瞬にして汚濁の憂き目に遭う。これこそが天才的才能の挫折の意味するものである。

多くの人々とともに、僕も凡庸なる精神の持ち主として、この世界に、この年齢まで憚ってきたのである。凡才とはいえ、凡才なりの生に対する限界性が広がり、逆に未来への希望はますます縮小し、やはり己の死とは全ての終焉を意味するもの、と感じざるを得ない。惨めな最期を迎えるであろう自分のかなり具体的なイメージが想起される。そしてさらに付言するなら、死に至るプロセスは、孤独そのものであり、全ての人間的な絆を断ち切った末に現れ出るそれである。

どのような意味合いにおいても才能に恵まれずに生きてきた男。才能のないままに、自我意識の肥大をある種の才能である、と錯誤してきた哀れな男の末路。それが僕のこの世界との離別の姿であるなら、厳粛に受け止めることでしか自己存在の意味はなかろう。それにしても、凡庸なる知性の僕の唯一の錯誤の一つとして、ここに書き留めるような言葉が、たとえ人々の頭上を掠めて通り過ぎるものであったとしても、通り過ぎた空気の流動なりとも感じてくださる人がいれば幸いなのである。かなり寂しい規定ではあるが、僕の言葉が他者の頭上を掠めて通り過ぎるときに生じる僅かな空気の流動と振動を、僕なりの、人間の絆のあり方、と規定しようと思う。切ないが致し方のない現実である。今日の観想である。

○推薦図書「人間の絆」(Ⅰ)~(Ⅳ)サマセット・モーム著。新潮文庫。この書は心と体を<からだ>と称するならば、そのような人間の精神の繋がりを、精神と肉体を兼ね備えた濃密な関係性としての絡み合いとして、小説世界という舞台で描き切っている名作です。あまりによく読まれた作品ですので、プロットなどの紹介は割愛しますし、かつて読破された方々にも再読していただきたい作品として、ここに紹介します。僕のようなやせ細り、尖った精神の受容力では、他者を包み込むことなど出来ません。僕と似通った観想をお持ちの方々にはぜひとものお勧めの書です。

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長野安晃

時間と空間と人の記憶と

2008-12-15 23:40:09 | Weblog
 大学時代の友人の通夜だった。58歳にしてこの世をあっけなく去っていってしまったのである。大学の頃、友人たちと一致していた認識は、亡くなった友人が最もこの世に憚るだろう、ということだった。何十年も会っていない友人たちと、葬式でしか再会出来ない不甲斐なさを互いに慨嘆しながらも、彼の外面的なイメージとは、あくまでお気楽で、少々軽くて、女っぽいしぐさが気になる男だった、ということだっただろうか。それにしても惚れやすい男で、大学の4年生の頃、好きな同級生がイギリスに留学してしまい、彼女を追いかけてイギリスを彷徨い、彼女に自分の気持ちを伝えることも出来ずに、長い間帰国しなかったような、純情で、照れ屋で、その割には中途半端に行動的な男だったのである。
 そんな彼が、職場で素敵な美人の女性を射止めたのは、少々驚きだった。あいつはどうやって、あんな美人に自分の気持ちを訴えることが出来たのか、という話題で持ち切りの、彼と彼女の結婚披露宴だった。大仰なものではない。梅田の阪急電車の高架下にあるフランス料理だったか、イタリアンだったかの、こじゃれた店の二階で口にした料理の味がなぜか鮮明に蘇る。そして、そのときの彼の、嬉しい、とはこういう表情を指して言うものなのか、というくらいの満面の笑み。花嫁さんの綺麗な横顔(勿論正面から見ても類稀なる美形)を盗み見るときの胸の高鳴り。それらがワーと押し寄せて来る。帰りに、彼女と交わした手をなかなか離さなかった記憶と、みんなから、なんでお前だけが彼女と握手するかなあ、と呆れられ、それらの声に向かって、そういうならば手も握れなかったのはひとえにお前らの怠慢なのであって、オレが正直なだけだろう、と僕はうそぶいた。それ以来、彼にも、彼女にも今日の彼の通夜まで一度も会うことがなかった。若さとは哀しいほどに楽観的だ。いつでも会える。決まり切った紋切り型の、自己都合だけの人生の歩み。馬鹿げたことだ、と思う。
 時の流れとは残酷なものだ。何十年と会わなかったせいで、通夜で出会った友人たちの容貌の変化にギョッとしながらも、何も変わってはいないかのごとくに、言葉を交わす。友人たちも、いや、敢えてかつての友人たち、と呼ぼうか、彼らも僕に対して同じ想いで接しているのが手にとるように分かる。何とも居心地のよろしくない時間の流れの中で、自分の過去への郷愁が頭の中を駆け巡る。
 喪主の奥さんは少しやつれていて、かつて握手したときの面影が何とか伺えるほどには、あのときのレストランで握手した手の柔らかさと温もりをもっていた人であることが識別できる。たかだか40分くらいの焼香の時間が通夜という儀式の実体である。人の死とやらが成仏するということであって、永遠の別れなどではない、と何百回と繰り返してきたであろう説法を、僧侶はまたも今夜ご丁寧に繰り返した。本来、通夜などは友人の写真でも眺めているだけでよろしいのである。坊主も祭壇も不必要だ、と感じることにますます確信が深まる。数珠も持たずに焼香とやらを済ませて、喪主である奥さんの顔を見つめて、頭を垂れた、その瞬間、彼女の顔つきに変化が現れた。何十年という時の流れと、空間的な隔たりとしての過去の一点と現在の一点とが瞬時に繋がったのが僕には分かった。僕の名前などすっかりと忘れているにせよ、あのときのレストランでの別れ際の握手の感触が彼女の裡にも蘇ったはずである。その一瞬、亡くなった友人とも何かが繋がった気がしたのは決して思い過ごしなどではなかろう。
 会場を出るとき、喪主の奥さんと友人の弟さんと、たぶん彼の母親とが出口で丁寧に一人一人に頭を下げている。彼女が顔を上げた瞬時に、披露宴のパーティでお会いしたままで、申しわけありません、と呟いたら、彼女は、ええ、23年ぶりです、と呟き返してくれた。やはり彼は良い奥さんと長きに渡る時を過ごしてきたのだろう、と実感し、死ぬなら、こんなふうにこの世を去りたいものだ、と心底思った。少し急ぎ過ぎたが、かつての友よ、君はたぶん早すぎる死に対して憤ったにせよ、長く生きるだけが人間の生きかたではない。君は確実に幸せだったと思う。そのように今夜君の死を胸に落とした。そう遠くないうちに、僕も逝く。あの世などないし、人の死など無に帰するに過ぎないが、やはり僕も君と同じように無となるのである。寂しがる必要などないんだよ。だって、君は幸せだったのだから。

○今日も推薦図書はありません。自分の過去の遺骸と直面してきた日です。昨夜と同様に読み流してください。

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つまらないことをダラダラと書くことにする

2008-12-13 01:44:18 | Weblog
 青年の頃の、それもおそらくは、青年ゆえの錯誤なのだろうが、それでも錯誤としての光が明滅していた時期を、破廉恥を承知で青春と称することにする。なぜ敢えてこんなことを書くかと言えば、それなりの訳がある。55歳にもなれば、かつて友人と称して憚らなかった人々とも疎遠になってしまう。好むと好まざるに関わらず、人生の終焉にふさわしく孤独を実生活の中で味わうことになる。まあ、これが死への心身の備えでもあるのか、と諒解すれば孤独もなにほどか意味を持ち得るものだ。そんな気持ちで毎日を過ごしている。
 京都の、二流なのか三流なのかは知らないが、ともあれ誰の金銭的援助も受けられないことを承知で、何十年も前に私学に籍を置いた。授業料を支払うためにバイトをし、バイトをすれば大学に行けないという矛盾の中で、それでも何とか卒業に漕ぎつけるまでには、何人かの気のおけない仲間が出来てしまうものだ。彼らは総じて僕ほどには金銭的に困窮してはいず、たまに一緒に酒でも飲む機会があっても、いつもなにほどか、精神的な距離感を感じていたものである。卑近な言葉で表現すれば、僕はその頃、確かに寂しかった、と思う。自分には彼らのように楽観的に未来を語ることなど出来はしなかった。ともかく、僕は寂しく、そして追い詰められていた。それでも大学時代の友人をかかげよ、と言われれば、違和感を抱きつつ付き合っていた5~6人のむさくるしい男友達の顔が思い浮かぶ。歳をとるとともに、5~6人が2~3人に減り、気がついたらまわりには誰もいなくなっていた。  何年も音沙汰のなかったかつての友人から今夜電話があった。声色は彼が若かった頃とまるで変わってはいなかった。僕は何となくはしゃいで、おお、元気にやってるかい?という素朴な感嘆の声を投げかけた。電話の向こうの声色は、話すほどに事務的になってきて、その内実は、数少ない大昔の友人の訃報を伝えてくれたものであった。ガンであったらしい。亡くなった、かねての友人の死を悼む気分は深いが、それほど遠くないうちにオレも行くよ、という感慨の方が支配的だったので、死を悼むというよりは、彼の死に共鳴する感覚の方が遥かに勝っていた。しかし、そういう気持ちとは裏腹に、電話に向かっては、大仰にかの友人の死を受け入れられない、という声色になる自分がいた。同時に、ああ、友人と言っても、今後も誰それの訃報くらいは知らせてくれるのが、鈍磨した友情の化石化した姿なのだろう、とも潔く胸に落とした。最も親しかった友人には、その知らせを伝える役割を僕がつかさどった。しかし、東京に在住している彼は、このところ何度か電話をするがいつも留守電で繋がらない。悪い想像を巡らせると、編集の仕事を独立起業していた彼が、昨今の不況で、逃げているのかも知れないとも思う。そういう想像がまんざら絵空事ではないようにも思ってしまうこの頃なのである。案の定、今夜も電話は留守電のままで繋がることはなかった。いま、人生の酷薄さを感じずにはいられないままにパソコンのキーを叩いている。まあ、これが人生か、と嘆息するしかないのだろう。
 日曜日の夕暮れ時に、通夜だと言う。葬式などという、様式化された死の隠蔽のための儀式などには出たくもないが、死した彼の結婚式の後の披露宴に出席するために、梅田のあるレストランへ出向いたことのケジメだと思うことにする。どうしたわけか、何十年も前の、あの二階のレストランの中の光景、食した料理の味、彼の嬉しそうな顔、美人の奥さんの手を帰り際に握ったときの感触が、いま生々しく蘇ってくるのはどうしたことか。おい、君は早くにガンという厄介な病気でこの世を去ったが、美人の奥さんと暮らし、仕事にも恵まれ、こうして君のことを昨日のごとくに思い出している人間がいるのである。死はそれほど悪いものではないよ。たぶん、通夜の夜に、君の死に顔に向かって、僕は密やかに呟いていることだろう。安らかに眠れ、君よ。

○今日は勝手気儘な私ごとです。推薦図書はありません。読み流してくだされば幸いです。

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論理的思考の重要性について

2008-12-10 23:50:02 | Weblog
 論理というと何かしら堅苦しいイメージをともなうもののようで、昨今の風潮では、論理とは程遠い、感性に訴える方法論による思考形体が好まれる。別の言い方では、論理的思考を柱にしたカルチャーに対抗し得る価値意識として、感性的思考を柱にしたサブ・カルチャーという二元論が世の中を席巻している。とりわけ後者のサブ・カルチャーとしてのマンガブームなどは、オタクと呼ばれるある種の偏狭な趣味に固執する人々によって、論理を超える実体として、それが、世界を捉えるツールであるかのごとき認識がなされているように思われる。しかし、このようなカルチャーとサブ・カルチャーという二元論そのものがすでに使い古された思想的な枠組みであるとも言える。        
政治というカルチャーの領域における最重要ポストに就いた麻生首相がサブ・カルチャーの理解者気どりで、秋葉原のオタクたちが傾注するマンガ愛好者として登場してきたのは、いかにも時代を象徴するかのような出来事ではあった。カルチャーという領域に含まれる重要な要素としての政治の担い手が、カルチャーの領域である論理力を要求されるいくつかの演説の場で、まともに漢字も読めないことが判明して以来、おそらくはサブ・カルチャーという存在価値そのものまでも著しく損ねたのは見逃せない事実であろう。サブ・カルチャーの旗手ともいえるテレビのバラエティ番組における漢字ブームは、麻生首相に犯されたサブ・カルチャーの側からの、カルチャーが有する論理力の重要なファクターとしての、日本語という言語の、漢字に対する博識を争う番組の流行という形をとって、強烈な巻き返しを行っているようにみえる。
 しかし、よく考えてみれば、このような傾向が言い表している現実とは、正確には、かつて、旧来の価値を形づくっていたカルチャーと、カウンター・カルチャーとしてのサブ・カルチャーという二元論よる社会分析そのものが、そもそもかなり表層的な価値意識の分類の方法論に過ぎなかったのではないか、と思われる。このような二元論が、旧価値を破壊し、新たな価値観の生成を感じさせるだけの力をもっていたのは否定出来ない事実であろう。しかし、前記したように、このような視点そのものが、簡便なる二元論に過ぎなかったという事実は、麻生首相の出現によって、明らかにカルチャーとしての政治が貶められ、同時に、サブ・カルチャーという反権威性の化けの皮まで剥がされてしまったのは皮肉な現象である。このような現象から何が読み取れるのか?
 それは、旧価値であるという論理を反転させ得る、新たな価値たるサブ・カルチャーにも確固とした論理が不可欠であった、ということではなかろうか。それが一国の首相たる人間の論理力の欠如という破廉恥な事実の露呈によって、新旧の両価値観の位相の違いがかえって曖昧になったということではないか、と思われるのである。つまりは、カルチャーに対するサブ・カルチャーにも、カルチャーを底支えしている論理力なくしては成立不能であることが証明されたことに他ならない。麻生太郎とは、論理力を持たない政治家というピエロ役を演じたと同時に、自称マンガ愛好家というおふれによって、サブ・カルチャーの持ち得る論理力の意味を理解し得ない、破壊役としての、一人二役を演じて見せた存在である。
 いまや麻生首相及び麻生内閣の支持率は最低迷を続けている。彼と彼が組閣した内閣への信頼感が急速に下落したのは、麻生太郎という一国の指導者の無策ぶりもさることながら、彼が漢字すらまともに読めない大金持ちで下品な、ただのおっさんに過ぎない、という幻滅が政治に対する監視の必要性を庶民に抱かせたのは、予期せぬ麻生効果というべき現象である。
 政治が言葉による政策とその実践によって成立する存在として、その言葉を紡ぎ出している根底にあるファクターとは、一言で言うと、論理力である。人は蓄積した知識を統合する論理力によって、新たな思想を編みあげる才能に溢れた存在である。その才がカルチャーという領域で発揮されようと、カウンター・カルチャーという領域で発揮されようと、そのようなことはとるに足らない要素である。この頽落した21世紀に、一条の光なりとも投げかけられる可能性が残っているとするなら、その可能性を支える中軸は、あくまで論理力でしかない、と僕は確信する。この時代だからこそ、敢えて無骨に、論理力の不可欠な存在理由について書き遺す。今日の観想である。

○推薦図書「論文の書き方」清水幾太郎著。岩波新書。論文の書き方についての基本的な考察と具体的な指導書として読んでいただきたいのですが、「いかに書くか」は「いかに考えるか」を離れては存立し得ないものです。論理力の必要性をこれほど分かりやすく、しかも硬質な筆致で書かれた入門書は数少ないでしょう。お勧めの書です。ぜひ、どうぞ。

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人間の誠実さって、何だろうか?

2008-12-09 08:43:36 | 観想
○人間の誠実さって、何だろうか?

世の中には醜悪の権化のような悪人も確かにいるし、きちんとした社会生活を送っていて、それなりの勤勉な生活基盤を確立し得ているような人であっても、一皮剥げば、悪徳とまではいかなくても、結構癖の強い人もいるようである。誠実さなどという言葉を書くこと自体が、なにほどか気恥かしい今日ではあるが、耳慣れた言葉であるからこそ、いまの世の中、人間の誠実さに出会うことは案外に困難なのではなかろうか。どうもこの誠実さという概念そのものが、観念的なそれになり果てているような気がしなくもない。何となくギスギスとした、ザラリとした感覚を、人間関係というものの中に感じとっているのは果たして僕だけなのだろうか?

このようなことを書くと、おまえは偽善者だろう?という批判がすぐさま返ってきそうな気もするので、正直に自分の抱えてきた暗中模索の状況について、告白しておかねばならないのだろう、と思う。というのは、自分は精神的領域におけるかなりの覚醒した意識の持ち主だ、とずっと思ってきた。それにも関わらず、詳細に書くと僕と関わった人々に迷惑がかかるので、どのようなことがあったのかをつまびらかにするのは差し控えるが、フトしたことで、自分という人間が如何に堕落した感性から物事を判断してきたか、ということに気づきはじめてやっとまる一日なのである。堕落した感性から発せられる言葉などに誠実さという概念はない。誠実さを装った言葉で、自分自身が騙されているのである。これはクセが悪い。自分の理屈が屁理屈になり下がり、小理屈をこねまわし、偏狭な浅知恵を膨らませていくプロセスを思い起こすと、今さらながらぞっとする。たぶん、ここを通りぬけると、その果てには詐欺師に限りなく近い自分がいそうな気がする。人間窮すれば鈍すなどと言うが、精神が鈍磨するくらいならば他者に迷惑はかけないが、窮して他者に依存するような心性が習性になってくると、とんでもないことになる。たぶん僕はそこの淵まで行き、かなりな自己保存的な発想で、自らの依存心を正当化していたフシがある。いや、そのような事実がある。

このようなことに気づきはじめたのは、前記したごとく、一瞬の出来事のように、雷鳴のごとく、自己の内面を震撼させたのだが、打ち震えた瞬時、内心に怖れが生じて来るのを禁じ得なかった。誠実であろうとして、誠実になり得ない自己が、行き着く果てまで突っ走りそうになって、自分をかたちづくってきた、過去から現在に至る道程の全てを嫌悪する感情が渦巻いてきたわけである。果たして、自己喪失とは、誠実さを喪失することと同義語ではなかろうか。自分で自分の未来が創造出来ない状況を、自己喪失というのである。自分の未来を切り開けない心境のもとからは、いかなる意味においても、他者に対する誠実なる姿勢など望むべくもない。腐りかけていた自分が確実にいる、といまは感じとることができる。

ならば、腐りきる前に、自己快復に至る道のりを駆け昇ろうではないか、と自分に問いかけている。もしも、自分にエセものではなく、信じることの出来る誠実さがこれからの人生における指標となるなら、何をおいてもそのように生きてみようではないか、と思う。この歳にして、この気づきである。いずれにしても、たいした人間ではない。猛省する。

○推薦図書「誰の中にでもいる彼」蓮見圭一著。角川文庫。輝かしい瞬時の出来ごとが時間の経過とともに過ぎ去っていく切なさを蓮見はこの書の、いくつかの短編で見事に描いています。今日の僕の観想とは性質が違うのかも知れませんが、読後感は切なさと同時に感得出来る、生に対する肯定感です。ぜひともこのような書から僕自身が喪失したものを取り戻すきっかけなりとも感じとりたい、と思います。みなさんもどうぞ。

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長野安晃

ペルソナとしての人間存在

2008-12-07 09:33:03 | 文学・哲学
○ペルソナとしての人間存在

周知のようにペルソナ(persona)とは、ギリシャ悲劇にもちいた仮面のことである。人間を表わすpersonとか、人間性を意味するpersonalityという言葉は、そもそもペルソナという仮面をつけた存在として認識するべき言葉なのである。つまりは、人の存在、人の吐き出す言葉には、半分の真理と、その真逆の仮面という虚構とが相半ばするように絡まっている。personやpersonalityという言葉が、人間の真理の側だけで成り立っているものと解釈されたのは、おそらくは近代以降ではなかろうか。ギリシャ時代以降、近現代に至る以前の、長きに渡る歴史の中では、人の言葉には、必然的に仮面としての虚構が含まれていることを承知の上での、会話の楽しみ方をしていたに違いない。そこには真実と虚構とがない交ぜになった言葉の網の目の中から、自分にとって意味ある内実を掬いとる妙味が、言語交通の只中に確固とした価値観をもって存在していた、と思われる。人はあらかじめ虚々実々にまみれた言葉の中に、真実を見極める精神の遊びとしての会話を、たいした努力もせずに、なし得ていたのである。このような言語空間の中にこそ、限りなく拡がりのある世界観が生成されてきたのである。たぶん、芸術とはある意味において、本来、かなりないかがわしさを含んだ精神的世界の中に立ち現われて来るものではなかろうか。考えてみれば、人間存在こそが、いかがわしさにまみれているとするなら、人間という本質をえぐり出すことの出来る芸術とは、むしろ芸術特有のいかがわしさを有しているべきであろう。

近現代文明が、人間の存在理由として不可欠ないかがわしさを、魔女狩りのごとくに奪い去ったのである。そのような状況下にギリシャ悲劇やシェイクスピアの戯曲におけるような、聖・俗併せ持った豊穣なるペルソナを、生の内実に含み込んだ個性が生まれ出ることなどあり得ない。表層的なヒューマニズムという、人間にとっては仮住まいのごとき思想が、人という個性の中からあらゆるペルソナという灰汁を絞り出してしまったのである。人の精神構造からペルソナという遊びの要素を剥がしとってしまった結果、生み出された正義とは、何という窮屈な理念であったことであろう。偏狭なる正義、狭隘なる悪という二元論が、近現代の人間の歴史を席巻して憚らなかったのは歴史的事実として認識できるのではなかろうか?

かつての冷戦という歴史的事実の中には、左右両陣営ともに、お互いの偏狭なる真理を、政治理念にすり替えて成り上がった一握りの者たちが、大多数の人々を支配するための道具としての言葉、それを政治理念と言い換えてもよいが、互いの理念の正当性を主張するかに見えて、その実、無意味で無価値な多くの争いを経て、無辜なる人々を犠牲にした歴史的事実は、どのように控えめに見ても見逃すことなどできはしない。得をしたのは誰か?答えは明らかではないか。政治的指導者たち、また彼らを裏で操っている経済の論理。富む者たちはますます富み、貧しき人々はあくまで貧しいままに、階層が固定化されてきたのが、近現代という時代性である。ペルソナを喪失した故の、剥き出しの欲望が露呈した時代に、差別が増幅されるのは当然の結末である。21世紀における格差社会は、すでに人々がペルソナを喪失した時点からはじまっている。各時代によって、単に呼び名と内実の変化があるだけである。

人間の不幸の要因の中で、最も本質的で、回避し難いもの、それがペルソナという仮面を剥ぎ取って、人間の言葉の中からあらゆる精神の遊びを捨象したことではないだろうか。ペルソナをつけるという行為は、人間の、他者に対する想像力の駆使を必要とするし、その結果は、人と人との関係性の中に、ペルソナが存在するゆえの、他者に対する思い入れの深さを増大させるのである。思い入れの深さの中には、他者への思いやりも当然に含まれる。ここにこそ人間が、互いの違いを認めようとする精神構造の構築の可能性が秘められているのである。ペルソナを喪失したとき、人は他者に対する優しさという心も同時に喪失したのである。人はギリシャ時代も、それ以降も、またギリシャ時代よりもさらに遡るほどに、不必要な暴力行使の必要性などなかったはずである。さて、僕たち現代に生きる人間は、どのようなペルソナの快復を心がけるべきであろうか?今日の観想である。

○推薦図書「二人がここにいる不思議」レイ・ブラッドベリ著。新潮文庫。この短編集は、人間が喪失してしまった何ものかをとりもどすための物語に溢れています。どこにもペルソナに関する話題はありませんが、今日の僕の観想と通じるものがあるかも知れません。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

<壊れ>という現象

2008-12-06 23:05:05 | 哲学
○<壊れ>という現象

人は、それが人間に関わることであれ、ある事象に関わるそれであれ、生成している存在物が瓦壊し、消失していくプロセスを好まない。なぜなら人や物事に関わる崩壊感覚は、自分の存在の奥深くに隠れている崩壊への欲動が結びついていることを本能的に識っているからだ。人は生まれたその瞬間から、生とその反対概念の死、そして死にまつわる自己の内面の崩落とを同時に分かち持って、この世界に出現するのである。人間は好むと好まざるに関わらず、存在の、暗黒のファクターを知らずして生きるようにプログラミングされているようである。従って人間は、人生における大半の時間を何とか無事にやり過ごすのである。しかし、誰にしろ幸福の絶頂を味わいもするが、思わぬところから、生の健全さの中に暗いホツレが生じるのを見逃してはならない。だからこそ、人は生ある限り、安心立命のままにこの世を去るわけにはいかないのである。いつかは人それぞれの資質や環境の中で、不可避な不幸に見舞われることになる。ある意味において健全なる人々は、このような不幸に見舞われたことを不運という言葉に置き換えて、諦念し、打ち続く不幸の連鎖の中から這い出して来るのである。これを生の<壊れ>と称するものだと僕は規定しているが、このような真理を諒解せずして生きていると、身に降りかかった不幸や不運を呪詛しては、果てることのないかのごとくにみえる精神の底の底にうち沈んでいることになる。そこから這い出したとき、人は何か自分には手の届かぬ存在によって救われたと感じるものである。たぶん、宗教が生まれる精神的背景には、人間に本質的に備わっている<壊れ>に対する無知と無思想とが絡んでいるような気がしてならないのである。もっと言えば、絶対者の存在を、生きる支えにする大多数の人々(ここには苦しいときの神頼みも含めて考える)と、絶対者を否定する無神論者との違いはまさにここに在ると思われる。

要は、人間存在における<壊れ>に対する想像力と認識力の欠如が、人に絶対者としての宗教を生み出させ、信じさせる大きな要因ではないか、と僕は思う。確かなことは、人は自己の裡に在る<壊れ>からは絶対に逃れられないということである。生きている限り、平穏極まりない人生など、あり得ないのである。<壊れ>は必ず訪れて来る。それこそが人生と言えば言えなくもない。身体的な病気、精神的な病、経済的な問題、人間関係におけるあらゆるトラブル、仕事上の不如意、愛の破綻、etc.全ては運の悪さとして片づけられるはずがない。人にあらかじめ備わった<壊れ>の思想に鈍感な人々は、それがキリスト教であれば、神が与えた人生の試練とでも定義して受容するのではなかろうか。あるいは、仏教で言えば、生におけるある種の悟りの形体としての、諦念という概念を持ち出して、絶対者に対する祈りという無意味な行為を行わせる。そして、人の不幸が去りゆくまで、絶対者に対する忠誠心に惑溺させることによって、不幸そのものを忘却させるのである。そのうちに<壊れ>という嵐が去りゆくことを、彼らは絶対者による救いである、と錯誤するのである。人に襲いかかって来る不幸の連鎖に対する対処療法として、絶対者への祈りという、ある種の忘我の状況下に自らを置くというのは、安直だが、分かりやすい救済の方途ではあるだろう。長きにわたる歴史を有する宗教がありながらも、より現世利益と結びついているような怪しげな新興宗教がウジのごとくにわき出て来るのは、苦しいときの神頼みと、経済の論理が結びついた故に起こるタチの悪い現象である。まず、こういう動向は絶えることはないと僕には感じられる。致し方ないではないか。人間はともすると楽な方へと傾斜する存在であるからである。

天国や地獄などという、くだらない人間の想像力が生み出した死後の世界などは、死という終末を簡単な物語にすることによって、少しでもこの世界から去りゆくことを諦める発明品としては、たいした苦労もなく受容できる世界観ではある。いわばインスタントコーヒーを人類が発明する要素は、太古の昔から備わっていたのだろう。そのように考える方が理屈に合っている、と僕は思う。

人間とは<壊れ>という要素を含み込んだ存在である。<壊れ>があるからこそ、その<壊れ>が表出したとき、自覚的に負の要素を人は受容出来るのではないか?だからこそ、新たな生成という価値が生み出されて来るのではないか?マルタン・デュガールが夢見た生成とは、このような概念を指しているのではないか?そうでなければ、あの膨大な「チボー家の人々」のような大著を書き遺す必要などどこに在ったというのだろうか?生成と<壊れ>との入り乱れた生のかたち、これが、人生というものではなかろうか?勿論、こんな考察など、一面の真理をしか言い当ててはいまいが、凡庸な知性から吐き出される戯言と読み流して頂ければ幸いである。今日の観想とする。

○推薦図書「恋刃」五條瑛(アキラ)著。双葉文庫。長編ですが、読んでいてダレルところなく読める良書です。人間の本質に迫っているからでしょう。特にこの著者は、人の感情の機微を描かせたら、並ぶ人がいないくらい繊細な精神を持ち合わせている人です。この書以外にも何冊か文庫が出ていますので、おいおい、紹介します。楽しみにしていてください。お勧めです。

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長野安晃

偏狭な愛が支配している小説世界には、そろそろうんざりとしてきたかも・・・

2008-12-01 23:12:50 | 文学
○偏狭な愛が支配している小説世界には、そろそろうんざりとしてきたかも・・・

昨今、青春恋愛ものの小説がやたらと出版されていて、ブームに乗っていろんな作家が書きまくっているような感がある。新刊書の多くが、このジャンルではなかろうか?勿論、読者あっての小説であり、売れなければそれでお終いなのだからそれでよい、としても、携帯小説とやらも含めて、このジャンルによって慰められている、特に若者たちの精神のありように僕はしばし想いを馳せることになった。僕のようなおっさん読者は、ある意味、留保つきの読み方をしながら、狭苦しい世界観の中で繰り広げられる青年たちの恋愛を、物語というジャンルから、自らの過去への遡りのツールとして大いに活用させてもらっている。言葉を換えて言えば、ある種の過去への偏執のための、割り切り型の読み方である。その意味合いにおいて、僕はあくまで留保つきの、若き書き手たちに対する、理解ある読者であり得る。それは許されることと勝手に思うこととする。

だが、このような狭隘なる世界の中で閉じこもり、出口なき球体の中で愛を交わし、性を交わす現代の青年たちの恋愛とは、そのまま現代の青年たちの世界観を狭めてしまう負の役割を担っているように最近とみに感じるようになってきたのである。年寄の冷や水と言っていただいて何ら差し支えはない。年寄が冷や水を流すようになったきっかけなりとも書こう、と思う。それが年老いた人間の役割というものだろうから。

青春恋愛小説というジャンルに区分されるものが売れている背景には、青年たちが、自らをとりまく世界の、展望なき、拠り所なき不確かな原像を自らのイメージと重ねて生きているような、実に切ない想いがどうしても払拭できない。客観的に見ても、現代の若者たちの意識の中に、何がしかの確固とした生きる指針が育まれる要素というものがない。彼らにとって、仕事にもかつてのような、会社に奉じることで自己の身分を保障される土壌すらないのが現状である。いつもリストラの憂き目を覚悟しながらの、何らの身分の保障なく、税金の負担ばかりが重くのしかかる生活が彼らの日常ではなかろうか。さらにもっと重要なことは、勿論これはええ歳したおっさん、おばさんに、いかにも世界を観る目がなさすぎることが多分に影響しているとは思うが、青年たちの未来を創造する選択肢の中に、政治を媒介にした社会変革という要素が見事に抜け落ちていることである。未来を自分たちの力で選択し得ないと錯覚(しているだけだが)している、彼ら、青年たちの恋愛観の中に、人間の力ではどうにも及ばない大きな力によって、もしかすると愛する対象を失わしめることになりはしまいか、という危惧すら生起することはないように思う。あるいはその逆に、たとえば経済的理由や社会的身分がうまく築けないという目先の要素だけで、簡単に(少なくとも僕にはそう見える)愛する対象者を投げ出してしまう価値意識の中からは、どのように控えめに見ても刹那的な恋愛観しか醸成出来ないのではないかと、僕は思う。いや、もっと本質的なことは、彼らには、自らの未来を構築していく底力というものが喪失してしまっていることに対する、僕なりの危惧がどうしても拭えないことなのだ。人間が自らの未来への構築力を喪失したとき、それは、人間としての精神の死を意味することではないのか?

精神の死した、いやもっと正確に言うと、精神の死を強いられた青年たちの、青春の時代にはどこかしら暗い、可能性を喪失させられ、閉ざされた世界が見え隠れする。閉ざされた世界の中で紡ぎ出される愛の言葉には、未来を構築するだけのエナジーは勿論ない。だからこそ、恋愛青春小説には、一見して若者の恋愛が描かれているに見えて、そこには饐えた、熟して腐りつつあるごとき性の爛熟が必須の要素としてプロットの中に投げ込まれる。そうでなければ売れないのであれば、それらの書を、現代における文化の頽廃として受容しなければならないのだろう。

○推薦図書「人間の運命」ショーロホフ著。角川文庫。戦争によって、一人の人間の小さな愛に満ちた幸福など、一瞬にして吹っ飛びます。しかし、そのような過酷な状況の中からでも人は希望の光を見出していく力を秘めた存在です。そのような人間の潜在能力を思い起こさせてくれるお勧めの書です。ショーロホフはご存じのように「静かなドン」によって、あの悪名高いスターリン賞を受賞しましたが、その後ノーベル文学賞も受賞している押しも押されぬ名作家です。残念ながら「静かなドン」は現在は絶版になっており、古本でしか読めませんので、とりあえずは今日の推薦の書をどうぞ。

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