この歳になって、自分の出来ることの内実がかなり限定されて視えてきたら、なんだか自分がとんでもない状況のもとに陥っていることに気づいた。これまでがむしゃらに生きてきたので、たぶん、状況は異なるだろうが、これくらいの壁にぶつかってもそれらを何ということもなく、これまでの人生、乗り越えて来れたのではないか?と思う。近頃自分の人生の大きな転換期を経て、新たな生きかたをすべく歩み出した。が、これは、僕自身を含めて、僕に関わる幾人かの人々に多大な精神的苦痛を与えるものであった。勿論、そのことに対する覚悟は出来ていたものの、僕を支えてくれた人々の心の襞に血が流れていることには想いが至らなかった。これが55歳になったばかりの僕の眼前に立ちはだかった壁を前にして、その壁を乗り越えようかどうかと逡巡したときに感じた浅はかな観想であった。当時の僕は、残念ながら自分が直面したことで精一杯だったと正直に告白する。他者を傷つけ、勿論そのツケはいま大きく自分に降りかかっている。それを受けるのは僕の責務だと感じるが、思いの外、自分という存在が弱っているのが分かる。確かに壁は乗り越えてはみたが、その後がいけなかった。乗り越えたはずの壁の上からまっさかさまに地面に投げ出された感がある。いまはそこに蹲ったままの状況なのだろう。よくしたものというか、辛いことは重なるというか、自分では予期し得なかった、胃臓が収縮してもとに戻らないほどの出来ごとが重なって僕に襲いかかってきたのである。己がこれほどに打たれ弱い人間であることに気づいたことを、自己の生の進歩とみるか、退歩とみるか、いまは結論が出せないでいる。
哀しい、という感覚、感情は人間に自然に備わっていて、辛い出来ごとがあれば哀しさというトンネルをくぐって、精神の再生に立ち至るもの、というくらいに考えていたフシが僕にはある。しかし、このような哀しさなどはかなり表層的な捉え方であり、結局、僕はこの歳になるまで、人の哀しさという感覚を知り得なかったことに気づくハメになった。否定的な書き方だが、その一方で、人間とは、負の感情の本質も味わい尽くしての人生か、ということに思い至れば、生の歓びとまでは言う元気はないにせよ、人生、長く生きれば生きるほどに、生きる辛さに関わる観念も増してくる。そうであれば、思い切って、それらを受けて立とうではないか、とも思う。
今回の気づきで、たぶん僕は言葉の規定よりも深いところで、人の大切な感情、つまりは哀しさという本質がどのようなものであるか、ということに気づき得た人間の一人になった、と確信する。勿論、具体的な自己の人生における傷の深さは測り知れないものがあるが、負の感情の深き意味を感得するには、多大な自己犠牲を伴うのは常識だろう。致し方のないことだと思う。ただ、人は失ったら、それに伴って、価値意識という次元で必ず得るものが在る、ということである。
いろいろな感情の中で、哀しさとは、よく口にする言葉の一つだが、たぶん、多くの人たちはかなり表層的な領域での気づきに過ぎない感性を、哀しさと呼びならわしているのではないか、と思われる。だからこそ、涙を流して、酒でもかっ食らえば案外と立ち直ってしまう。このような感情を敢えて規定する言葉があるとするなら、それは安直なカタカナ語としての、ストレスというものの一つの現れであろう。それに比して、哀しみとは、あくまで深い。心の深淵の暗闇にまで行き着くほどの負の観念である。哀しみという、この深き淵より立ち直り、心の再生をなす術はない。哀しみは、哀しみという円環の中で閉じた思想性である。そこからの発展性は期待出来ないが、哀しみという円環の存在に気づいた人間は、生きた刻印たる額の意味あるシワくらいは一筋か二筋は増えるだろう。エイジングとはシワにまみれることであるとするなら、数えきれないシワの中に、自分なりの気づきというシワをどれほど刻めるか、ということも生の意味と言えなくもない。
哀しみに関する僕なりの結論はまだ出てはいないが、近いうちに、自分の言葉にして、ここに書き遺すつもりである。今日の観想とする。
○今日は推薦図書はありません。いま、僕はかつて青年の頃に読んだ古典というジャンルに属する文学や思想の書に深く沈潜しています。その中でみなさんにお勧めしたいものが再発見出来れば、書き記します。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
哀しい、という感覚、感情は人間に自然に備わっていて、辛い出来ごとがあれば哀しさというトンネルをくぐって、精神の再生に立ち至るもの、というくらいに考えていたフシが僕にはある。しかし、このような哀しさなどはかなり表層的な捉え方であり、結局、僕はこの歳になるまで、人の哀しさという感覚を知り得なかったことに気づくハメになった。否定的な書き方だが、その一方で、人間とは、負の感情の本質も味わい尽くしての人生か、ということに思い至れば、生の歓びとまでは言う元気はないにせよ、人生、長く生きれば生きるほどに、生きる辛さに関わる観念も増してくる。そうであれば、思い切って、それらを受けて立とうではないか、とも思う。
今回の気づきで、たぶん僕は言葉の規定よりも深いところで、人の大切な感情、つまりは哀しさという本質がどのようなものであるか、ということに気づき得た人間の一人になった、と確信する。勿論、具体的な自己の人生における傷の深さは測り知れないものがあるが、負の感情の深き意味を感得するには、多大な自己犠牲を伴うのは常識だろう。致し方のないことだと思う。ただ、人は失ったら、それに伴って、価値意識という次元で必ず得るものが在る、ということである。
いろいろな感情の中で、哀しさとは、よく口にする言葉の一つだが、たぶん、多くの人たちはかなり表層的な領域での気づきに過ぎない感性を、哀しさと呼びならわしているのではないか、と思われる。だからこそ、涙を流して、酒でもかっ食らえば案外と立ち直ってしまう。このような感情を敢えて規定する言葉があるとするなら、それは安直なカタカナ語としての、ストレスというものの一つの現れであろう。それに比して、哀しみとは、あくまで深い。心の深淵の暗闇にまで行き着くほどの負の観念である。哀しみという、この深き淵より立ち直り、心の再生をなす術はない。哀しみは、哀しみという円環の中で閉じた思想性である。そこからの発展性は期待出来ないが、哀しみという円環の存在に気づいた人間は、生きた刻印たる額の意味あるシワくらいは一筋か二筋は増えるだろう。エイジングとはシワにまみれることであるとするなら、数えきれないシワの中に、自分なりの気づきというシワをどれほど刻めるか、ということも生の意味と言えなくもない。
哀しみに関する僕なりの結論はまだ出てはいないが、近いうちに、自分の言葉にして、ここに書き遺すつもりである。今日の観想とする。
○今日は推薦図書はありません。いま、僕はかつて青年の頃に読んだ古典というジャンルに属する文学や思想の書に深く沈潜しています。その中でみなさんにお勧めしたいものが再発見出来れば、書き記します。
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長野安晃