(11)
上司の中山は抜け目のない男だったと思うが、唯一の計算違いは理恵という女を甘く見たことだろう。男と遊びまくっている女だ、オレもこの女を味わい尽くしてやろう、と欲を出したのがそもそもの間違いのもとだった。理恵という女は単なる全方位型の男狂いではなかった。彼女のゆるい股は、最もうまそうな餌を探すための有効な道具だったと断定してもよいのではなかろうか。妻子ある中山は、求めればすぐに応じてくる理恵を理想的に便利なセックス処理の対象だと錯誤したのだ。中山にしてみれば、オレのようなバカで世間知らずの部下に結婚相手として押し付けることで、危機を乗り切ったつもりでいたに違いない。しかし、理恵の食指にひっかかった最高の獲物は実は中山の方だった。
理恵がオレとの結婚を承諾したのは中山を油断させる手段だったのである。まあ、それほどにオレは間抜けて見える存在だったというわけだけれど。会社が倒産することを見抜いていた中山は、倒産の数年前から、極秘に織物と小物とのコラボ商品の開発に乗り出していたらしい。理恵がそんな中山をオレとの結婚で手放すはずがない。オレと結婚する条件として、彼女は中山の秘書として働くことを、中山との関係を続ける条件として義務づけたに違いない。オレみたいなバカに中山と自分の関係性を見破られるはずがないと彼女は見切ったのだろう。
オレは理恵が仕事と称して遅く帰宅することに文句は殆ど言わなかった。一方で、中山の正妻は彼の浮気に気づく。理恵はさりげなく中山の自宅にも秘書として出入りしている。この女が夫の相手だと中山の妻に知らせるために、だ。理恵の大股びらきは、小賢しい悪知恵で磨きがかかっていたのだろう。ジャン・コクトーの「大股びらき」という小説は、バレリーナが股を床に全開する姿態からとった題名だったと記憶しているが、そういうこととは無関係に、理恵は中山を略奪するために中山の子どもをつくり、(オレとのセックスは絶対安全な不妊時期以外は避妊具をつけることを強要したのは、そのためだ。オレはそれでも計算通りにいかずに理恵がオレの子どもを身ごもったのだと、すっかり信じ込んでいたのである)、理恵は、中山の妻が去る時を待ち、オレを棄てるときをしたたかに待っていたのだろう。
(12)
女に繰られていた、という意味ではオレも中山も同じだったが、いくら差っ引いても一方的に騙されていたのはオレの方に違いない。その頃のオレの怒りは、理恵というより中山に向けられた。煎じ詰めると中山という男は、オレを見下し、オレなら理恵を押し付けても自分の存在を疑わないと踏んだわけだから。理恵に対しては、その卑しさや計算づくの生き方に、自分とは全く違う種類の人間だという想いの方が強かった。オレはそもそも人間社会に対して、人と人との繋がりという概念に深い疑問を抱いていた人間だったから、息子として育てたはずの和樹に対する想い入れがまるでないことに、自分でも不可思議な感じがしてならなかった。嫌な言葉を使えば、息子は別にどうでもいい存在だった。
会社が倒産し、職もなくし、妻の理恵と和樹から見棄てられ、彷徨っていた。中山の方は自分の目論見通り決して大きくはないが、和装小物の業界に入り込み、いっぱしの社長気どり、理恵は社長夫人ということになっていた。時間が有り余っていたので、彼らがつくったいくつかの店舗や、市内左京区の岡崎近辺の高級マンションの最上階フロアーすべてが住まいになっているペントハウスふうの三人が住むマンションを見つけた。オレの裡に在ったのは小さな復讐心だった。中山にオレ自身の痛みの幾分かを共有させること、この想いだけしかなかったのである。中山を生かして辱めを与えるとしたらどうすればいいのかを考えた。当然オレは警察にしょっ引かれるが、そんなことはどうでもよかった。自分がかつて育てた息子の前で中山を痛い目に遭わせるわけだから心が痛むか?と自問してみたが、それがまるでないことで、改めて自分が社会不適合者でしかないことを思い知った。
中山は夜の10時には帰宅する。何日も張り込んで確かめた。今日それが外れても、明日またここにやってくればいいだけのことだ。何せオレは暇なのだ。時間だけはたっぷりある。適度な重みのある出刃包丁を買った。和食の職人が使うものだ。オレは中山の左手の小指を切り落としてやる算段だった。たいした理由はない。痛い想いをさせるなら、その後の商売がやりづらいだろうと踏んだからだ。オレの浅知恵だ。仕事の際に中山は常に自分はかたぎなのだという装いをしなければならないのがオレには痛快だったからに過ぎない。また、その度にオレのことを思い出すことだろう。この復讐はなかなかいいと自分で悦に入った。買った出刃包丁の刃先は何度か道に叩きつけて、刃こぼれさせた。切れすぎると痛みが少ない。切れない包丁でぎりぎりと中山の左小指を切って落とす。いまのオレの生きる目的である。
(13)
ある日の夜、ほろ酔い気分の中山がマンションの玄関を開けるのにそっと付き従った。包丁を彼の背中に突き立て、部屋までいくように指示したら、エレベーターの中の鏡に映った中山の顔は恐怖でひきつっていた。多分皆殺しにされるとでも思っていたのだろう。
エレベーターが開くとすぐに玄関口だ。二人でマンションの中に入った。理恵の顔も恐怖で打ち震えているように見えたが、何の感慨も浮かばなかった。和樹はすでに寝ているか自分の部屋の中にいるのだろう。むしろ顔は合わせたくないので好都合だった。
オレは理恵を買ってきたナイロンの細いロープで両手を縛り、口には粘着テープを貼った。中山には痛みのために大声で叫ばれるのを避けるために理恵と同じように口に粘着テープを念入りに貼った。オレは意識的に敢えてゆっくりと行動した。この日が来たことを実感したかったし、目的を果たせば警察に通報されようと一向に構わなかったからである。
中山の左手を、金をかけ過ぎた台所に置かれたまな板の上に置いた。オレは時間を出来るだけかけて、刃こぼれさせた包丁で中山の左手小指をギリギリと切り刻んだ。粘着テープを通して中山の動物的なうめき声が聞こえた。理恵は叫び声を上げていたように思うが、腰を抜かしてその場にへたり込み、足許には理恵が漏らした尿が流れ出ていた。数分間かけて切り落とした小指は包丁の柄の先でグチャグチャに砕いた。後で再生手術などされないためだ。さぞかし中山は自分の切り落とされた小指がカタチを失くしていくのが辛かったと見え、激痛に顔を歪めながら気を失った。そのまま警察に捕まるのもよいと思ったが、理恵の口の粘着テープを剥がし、縛ったロープを外した。ポカンとオレを見上げる理恵の表情は自分が殺されるのではないかという恐怖感でいっぱいだった。オレにはそう見えた。しかし、オレはそのままマンションからゆっくりと出て行ったのである。
ところがすぐに捕まるどころか、中山のマンションで起こしたことは事件にもならなかった。世間体を気にしたのだろう、と思う。オレが忌み嫌ってきた世間様からオレは罪を拭われたのだ。皮肉な結末だと思った。
数か月後に中山が働く姿を遠めに見たが、彼は闇の社会から足を洗うために多くの人がつけている人形のような指サックをつけていた。一見誤魔化しはつくだろうが、取引先の客には何らかの不信感を抱かせるだけのにせもの感は拭えなかっただろう。
上司の中山は抜け目のない男だったと思うが、唯一の計算違いは理恵という女を甘く見たことだろう。男と遊びまくっている女だ、オレもこの女を味わい尽くしてやろう、と欲を出したのがそもそもの間違いのもとだった。理恵という女は単なる全方位型の男狂いではなかった。彼女のゆるい股は、最もうまそうな餌を探すための有効な道具だったと断定してもよいのではなかろうか。妻子ある中山は、求めればすぐに応じてくる理恵を理想的に便利なセックス処理の対象だと錯誤したのだ。中山にしてみれば、オレのようなバカで世間知らずの部下に結婚相手として押し付けることで、危機を乗り切ったつもりでいたに違いない。しかし、理恵の食指にひっかかった最高の獲物は実は中山の方だった。
理恵がオレとの結婚を承諾したのは中山を油断させる手段だったのである。まあ、それほどにオレは間抜けて見える存在だったというわけだけれど。会社が倒産することを見抜いていた中山は、倒産の数年前から、極秘に織物と小物とのコラボ商品の開発に乗り出していたらしい。理恵がそんな中山をオレとの結婚で手放すはずがない。オレと結婚する条件として、彼女は中山の秘書として働くことを、中山との関係を続ける条件として義務づけたに違いない。オレみたいなバカに中山と自分の関係性を見破られるはずがないと彼女は見切ったのだろう。
オレは理恵が仕事と称して遅く帰宅することに文句は殆ど言わなかった。一方で、中山の正妻は彼の浮気に気づく。理恵はさりげなく中山の自宅にも秘書として出入りしている。この女が夫の相手だと中山の妻に知らせるために、だ。理恵の大股びらきは、小賢しい悪知恵で磨きがかかっていたのだろう。ジャン・コクトーの「大股びらき」という小説は、バレリーナが股を床に全開する姿態からとった題名だったと記憶しているが、そういうこととは無関係に、理恵は中山を略奪するために中山の子どもをつくり、(オレとのセックスは絶対安全な不妊時期以外は避妊具をつけることを強要したのは、そのためだ。オレはそれでも計算通りにいかずに理恵がオレの子どもを身ごもったのだと、すっかり信じ込んでいたのである)、理恵は、中山の妻が去る時を待ち、オレを棄てるときをしたたかに待っていたのだろう。
(12)
女に繰られていた、という意味ではオレも中山も同じだったが、いくら差っ引いても一方的に騙されていたのはオレの方に違いない。その頃のオレの怒りは、理恵というより中山に向けられた。煎じ詰めると中山という男は、オレを見下し、オレなら理恵を押し付けても自分の存在を疑わないと踏んだわけだから。理恵に対しては、その卑しさや計算づくの生き方に、自分とは全く違う種類の人間だという想いの方が強かった。オレはそもそも人間社会に対して、人と人との繋がりという概念に深い疑問を抱いていた人間だったから、息子として育てたはずの和樹に対する想い入れがまるでないことに、自分でも不可思議な感じがしてならなかった。嫌な言葉を使えば、息子は別にどうでもいい存在だった。
会社が倒産し、職もなくし、妻の理恵と和樹から見棄てられ、彷徨っていた。中山の方は自分の目論見通り決して大きくはないが、和装小物の業界に入り込み、いっぱしの社長気どり、理恵は社長夫人ということになっていた。時間が有り余っていたので、彼らがつくったいくつかの店舗や、市内左京区の岡崎近辺の高級マンションの最上階フロアーすべてが住まいになっているペントハウスふうの三人が住むマンションを見つけた。オレの裡に在ったのは小さな復讐心だった。中山にオレ自身の痛みの幾分かを共有させること、この想いだけしかなかったのである。中山を生かして辱めを与えるとしたらどうすればいいのかを考えた。当然オレは警察にしょっ引かれるが、そんなことはどうでもよかった。自分がかつて育てた息子の前で中山を痛い目に遭わせるわけだから心が痛むか?と自問してみたが、それがまるでないことで、改めて自分が社会不適合者でしかないことを思い知った。
中山は夜の10時には帰宅する。何日も張り込んで確かめた。今日それが外れても、明日またここにやってくればいいだけのことだ。何せオレは暇なのだ。時間だけはたっぷりある。適度な重みのある出刃包丁を買った。和食の職人が使うものだ。オレは中山の左手の小指を切り落としてやる算段だった。たいした理由はない。痛い想いをさせるなら、その後の商売がやりづらいだろうと踏んだからだ。オレの浅知恵だ。仕事の際に中山は常に自分はかたぎなのだという装いをしなければならないのがオレには痛快だったからに過ぎない。また、その度にオレのことを思い出すことだろう。この復讐はなかなかいいと自分で悦に入った。買った出刃包丁の刃先は何度か道に叩きつけて、刃こぼれさせた。切れすぎると痛みが少ない。切れない包丁でぎりぎりと中山の左小指を切って落とす。いまのオレの生きる目的である。
(13)
ある日の夜、ほろ酔い気分の中山がマンションの玄関を開けるのにそっと付き従った。包丁を彼の背中に突き立て、部屋までいくように指示したら、エレベーターの中の鏡に映った中山の顔は恐怖でひきつっていた。多分皆殺しにされるとでも思っていたのだろう。
エレベーターが開くとすぐに玄関口だ。二人でマンションの中に入った。理恵の顔も恐怖で打ち震えているように見えたが、何の感慨も浮かばなかった。和樹はすでに寝ているか自分の部屋の中にいるのだろう。むしろ顔は合わせたくないので好都合だった。
オレは理恵を買ってきたナイロンの細いロープで両手を縛り、口には粘着テープを貼った。中山には痛みのために大声で叫ばれるのを避けるために理恵と同じように口に粘着テープを念入りに貼った。オレは意識的に敢えてゆっくりと行動した。この日が来たことを実感したかったし、目的を果たせば警察に通報されようと一向に構わなかったからである。
中山の左手を、金をかけ過ぎた台所に置かれたまな板の上に置いた。オレは時間を出来るだけかけて、刃こぼれさせた包丁で中山の左手小指をギリギリと切り刻んだ。粘着テープを通して中山の動物的なうめき声が聞こえた。理恵は叫び声を上げていたように思うが、腰を抜かしてその場にへたり込み、足許には理恵が漏らした尿が流れ出ていた。数分間かけて切り落とした小指は包丁の柄の先でグチャグチャに砕いた。後で再生手術などされないためだ。さぞかし中山は自分の切り落とされた小指がカタチを失くしていくのが辛かったと見え、激痛に顔を歪めながら気を失った。そのまま警察に捕まるのもよいと思ったが、理恵の口の粘着テープを剥がし、縛ったロープを外した。ポカンとオレを見上げる理恵の表情は自分が殺されるのではないかという恐怖感でいっぱいだった。オレにはそう見えた。しかし、オレはそのままマンションからゆっくりと出て行ったのである。
ところがすぐに捕まるどころか、中山のマンションで起こしたことは事件にもならなかった。世間体を気にしたのだろう、と思う。オレが忌み嫌ってきた世間様からオレは罪を拭われたのだ。皮肉な結末だと思った。
数か月後に中山が働く姿を遠めに見たが、彼は闇の社会から足を洗うために多くの人がつけている人形のような指サックをつけていた。一見誤魔化しはつくだろうが、取引先の客には何らかの不信感を抱かせるだけのにせもの感は拭えなかっただろう。