ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

棄てる(6)                        小田 晃

2021-09-11 14:32:31 | 文学・哲学
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 オレは自分の卑近な経験則から、恐らく世界を支配している実体が何であるのかということに気がついたのである。
世界はすでに機械化されていると言っても過言ではない。我々がこの世界に存在したいと願うなら、機械化された世界の構造の中に身を委ね、時折は不満タラタラでよいが、適度なところで自分に「世の中こんなものだ」などと言い聞かせ、不満の炎(ほむら)に自ら水をかけるのである。こういう自動機械論も思想の一片には違いないが、思想にはそもそもある考え方から別の考え方へと変化・変節していくエネルギーが内包されている。しかし、自動機械論にはそういう意味のダイナミズムは微塵もない。また、大多数の人々を支配する自動機械論は常に体制に歯向かうことがない。日常語でいうと、世の中の決まり事に対する無批判な盲従や世間様に対する見栄の保持など、「いま、目の前に現に在る」ことに対する疑義など持てないのである。それが機械論的思想の真に迫った姿ではないか、とオレは思っているわけである。誤解なきように言い添えておくが、オレがここで述べている自動機械論は、フェリックス・ガタリの「闘争機械」とは真逆の、のっぺらとしている、平坦な世界観のことだ。それに比して、ガタリの「闘争機械」という思考は、世界に対するこれでもか!と言わんばかりの、多面的視点からの考察で満ち溢れている。というようにガタリを褒めちぎっているのだが、オレは決してガタリのようなフランスの教養主義的左翼主義者では毛頭ない。そもそも思想などには興味はないし、政治にも何も期待などしていないわけだから。ただ、こんなことを性懲りもなく考えているのは、過去に読んだ読書体験のカケラのごときものがオレの脳髄の片隅にへばりついて、何らかのエネルギーに変換されているからなのだろうか?
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 最近、妙に体調が悪い。いつも身体のどこかが痛むし、油断すると倦怠感が身体中に沁みわたって、布団から起き上がることさえ面倒になる。オレが子どもの頃は、9月に入れば少しは涼しい風が窓から入り込んできたものだが、いまどきは9月になっても真夏のままだ。いったい、日本の四季はどこへ消え失せたのか?日本は亜熱帯に位置する国とたいして変わらない。下着にへばりつくような湿気とエアコンの室外機から漏れ出る生ぬるい空気が、鴨川べりですら感じるのが今日の日本の現況だ。おかしなことになった。政治家たちは地球温暖化のせいだ、と声を揃えて言っているが、果たしてそれだけが原因か?もっと深刻な問題がひたひたと忍び寄って来ているように思われてならないが、オレにその正体を証明する術などないことは自明の理だから、人さまに理路整然と語る資格もないので黙って耐えるしかない。あくまで、オレの内心の声に過ぎないが、いまのエコ志向なんかで地球温暖化に対処出来るとは思えないだけだ。オレに言えることは、事実を知らされなければ、その事実そのものが存在しないのと同じことだ、というくらいか?その意味では、オレが生きてきた長きにわたる年月の間にも、一大衆としてのオレなんかには想像も出来ないことが数えきれないほど起こって来ただろうことには、確信がある。
 倦怠感の只中で観るテレビ番組は、どれもこれも同じように見えるから不思議だ。あるいは、テレビ番組自体がつまらないものになり果ててしまったのか?大衆娯楽の代表格としてのテレビが娯楽でも何でもなくなって、オレのような何をするでもない孤独な人間にとっては、テレビ画面の向こうから誰かに見張られているように感じられてならない。オレたちはバラエティ番組や連続ドラマを観ているようでいて、何にも観ていず、むしろテレビの向こうからただ観られているのではなかろうか?という幻想?に捉われる。体調が悪く倦怠感が強いほど、この傾向は強くなるのはどうしたことか?
 世の中は犯罪防止と云う名目のもと、監視カメラだらけだし、ちょっとした悪さも見逃されることは稀になった。何かの事件が起きて、犯人が忘れた頃に報道されるのは、警察組織が証拠固めに時間を割いているからに過ぎないのだ。ならば、テレビ画面の中に監視カメラごときものがテレビの生産時点から仕掛けられて売られていても不思議ではない。
ジョージ・オーウェルが予言した世界は確実に現代社会に具現化されている。オレは少なくともそう思っているのである。その一方で個人情報保護がどれだけ大切か、という風潮があるが、それらはジョージ・オーウェルが「1984年」の小説世界で描いた監視社会が確実に世界中に浸透していて、個人情報保護などは監視社会の合わせ鏡のようなものだ、とオレには思える。つまり、オレたちには、そもそもプライバシーというものはないのだ。オレみたいな世の中にとってどうっていうことのない存在には監視する価値もないだろうが、余計なことを敢えて言っておくと、秘密がお好きな政治家たちの守るべき秘密そのものが果たしてあり得るのか?秘密主義が横行すればするほど、秘密を暴く社会システムが強固に構築されるのは必然だ。そうであれば、世界政治の現況とはいったいどうなっているのだろう?職業的政治家や官僚や評論家等々、国家の考え方を決定づけているものは、彼らの使う小難しい言葉や、反対に選挙向けの、大衆をバカだと信じて疑わないとしか思えない陳腐な言葉の裏で、政治のありようが大体は決まっているような気がするのはオレだけか?政治体制の如何を問わず、大衆に見えている世界と、大衆の指導者たち(と本意ではないが、一応言っておく)の世界の像はまるで違っているように思えてしまう。しかし、善良な?大衆はオレを被害妄想者の戯言(ざれごと)ばかりを垂れ流していると断じて、平和な日常を生きていればいいのだ。
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 オレはしばしば人間が直面してきた危機、それはカタストロフィーという類の危機のことだが、人類史をざっと眺めてみても数えきれないカタストロフィーを人間は経験してきたのだ、とつくづく想うのである。そして、カタストロフィーの捉え方は、人の立ち位置によってその判断が真逆にすら感得されてしまう。オレが、世界史の中に立ち入って、その一つ一つを見返すことなど出来ないし、何よりオレの中の倦怠感が、それはおまえの役回りではないだろう、と自虐的に囁きかけてくるし、自分でもそんなことで葛藤すること自体、バカか、おまえは!と囁きかけてくるのでやめておく。繰り返しになるが、人間社会のどこをとっても、「知らなければ、どのようなことも存在しないことと同じになる」というのが世の中なのだ。むしろオレみたいな厭世的な人間にはこの種の真理を胸に刻むことが自分の小さな役割なのかも知れない、と思って日々をやり過ごしているというわけだ。
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 AIだとかIOTだとか、それに伴うデジタル時代の到来によって、ロボットが人間の仕事を奪う、という恐怖感と多くの人々は闘っているのだそうだ。ぼんやり眺めているテレビ報道や討論番組の論調は、ほぼ同じように時代が変わり、仕事の質量も変わるというような感じだ。しかし、そういうことをテレビ番組の司会者や多くの論者たちは、事の本質を伝えている側であるからこそ、自分たちは安泰だと云う顔をしているのを観ると、オレはついつい吹き出しそうになる。
 何故って、この時代、誰もが例外にはなれないということだからね。
特に激変をまともに食らうのは、大学を出て、就職活動をして職を得た中間層の人間たちだと云うことは当然のことだとオレは思う。だって、彼らの事務仕事や営業の仕事等々こそがAIの得意な分野ではないか!事務仕事をコンピュータを操って効率的にこなしていると思い込んでいる人々そのものの仕事がAIにとって代わられる。ロボットは単純労働を人間の代わりにこなしてくれるのではなく、自分の仕事が高度だと認識している人間の仕事そのものをロボットがやり抜くわけだろう?人間の創造性がAIを創ったわけだから、特に先端技術の研究者を始めとした知識階級だけはどこまでもこの社会に必要であるはずだ、と思いたがるのは心情的にはよく分かる。
ロボットに人間が支配されるなんて、マンガっぽい未来社会を描いた映画の世界でしょう?という反論が聞こえてきそうだ。映画の世界さながらにロボットが人間の支配者になるかどうかは別にして、大した能力も持たないのに人並み以上の生活をしてきた人間こそが、頭を柔らかにして、自分たちの仕事を創り出さなければならない時代に突入した、と思うのが当然の論理的帰結だとは思うね。
まあ、変化は気づいた時には変化そのものが加速度的に速度を上げて起こる、という真理をオレは信じているが、多くの人間が右往左往している頃にはとっくにオレはこの世にいない。孤独な老人の孤独死の後のことだ。その意味でオレは幸福な?ことに逃げ切り世代だね。こんなことを考えると、常に襲い来る自己憐憫も少しは和らぐ。ともあれ、自分は大した自己中人間だと思う。オレみたいな精神的な根っ子のない人間は、どこか卑屈だということで、偶然にもこんな駄文に遭遇した人たちの怒りの鞘を納めてもらう他ないな。


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