○食らう!
僕は○千○百円、食い放題などというプロパに極端に弱い。特に食い意地が張っているとも思わないし、何より大食漢などでは毛頭ない。無論美食家とは程遠い味覚の持ち主でもある。だから普段は適度に食し、適度に排泄するという生物学的にはまさにありふれた人間だと言える。しかし、なぜかしら、前記した食い物に関するプロパには、無反応を装えないどころか、過敏に反応してしまうのである。それが少々お上品なビッフェ形式の食事であれ、食べ放題の代表格たる焼き肉であれ、ともかく、その場に足を踏み入れたら、確実に体調を崩すほどに食いまくる。執念のごとくに。執念であるからこそ、健康志向とは無縁の行動である。主治医(そんなご大層なものではないな、ご近所の行きつけの内科医です)には、総コレステロール値が高いと指摘され、善玉コレステロールが少なくて、悪玉コレステロールが優勢なのだそうな。見た目には、大袈裟に太ってはいないと思うが、メタボ指数というものがあれば、僕はかなりのメタボ中高年ということになる。
最近は焼き肉のそれにハマっていて、何度か通い詰めた。時間を決められ、その時間内であれば、何をどのようにオーダーしてもよいのである。まあ、時間決めだから、昔の八百長プロレス○分一本勝負みたいなものだ。とは云え、オーダーした素材が来るまでの短い時間に、時折周りの客の様子をうかがったりするのだが、みなさん、たいへんお行儀がよろしいのである。よく知らないので間違っているかも知れないが、チシャ菜という雑草みたいな大きな葉っぱに、焼き上がった肉をくるくると巻いて食したり、大きなボール一杯の野菜サラダなども人気メニューらしい。スープもビビンバも上手に組み合わせて余裕の表情で楽しげに焼き肉を楽しんでいるかのように見える。たぶん、言葉どおりに楽しいに違いない。
しかし、僕の挑み方(そう、まさに挑戦なのである!)は、そんな生やさしいものではない。とにかく肉を食らう。小ライスと白菜キムチをオーダーするのは、さらなる焼き肉を頬張るための箸休めみないなものだ。食って、食って、食いまくる。ターゲットはあくまで肉そのものである。健康的に食らうなど、もってのほか、喉元までせり上がってくるまでが勝負どころである。世界中に、いや、いまやこの日本にだって満足に食えない人々が有り余るほどにいる。何をどのように考え詰めても、なんで結構うまい肉がこんな値段で食えるのか、まったく理解できない。一方で飢え、またその一方で飽食する人間がいて、その矛盾を埋めることさえ出来ない。政治も経済もまるで無力である。だから、そういう世の矛盾をいっさいがっさい自分の無意味な飽食とともに、体内に呑みこんでしまう。そのことに何の意味もないし、たぶん、地球的規模の視点から云うと、僕は世の矛盾を拡大している側に加担しているのだろう、と思うが、眼前に在る食い放題の食物は、自分の胃の腑に、これでもか!というほどに詰め込まなければ、何となく申し訳ないのである。誰に対してか?と問われれば、明瞭な答えは持ち合わせてはいないが、少なくとも、楽しんでは食えないのである。
たぶん、敢えて言うなら、地球資源保護という観点からの、あるいは政治・経済効力の観点から見ても、まったく無効で、無意味な、己れの裡なる密やかな罪悪感ゆえなのかも知れない。それなら、食らわねばよいではないか、と反問されそうだ。反問されれば、まさにその通りだ、と認めることしかできはしない。しかし、敢えて食らうならば、食らう快楽と苦痛とを同時に味わうべきだろう、というしかない。つまんねぇ話だが、敢えて書き置く。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
僕は○千○百円、食い放題などというプロパに極端に弱い。特に食い意地が張っているとも思わないし、何より大食漢などでは毛頭ない。無論美食家とは程遠い味覚の持ち主でもある。だから普段は適度に食し、適度に排泄するという生物学的にはまさにありふれた人間だと言える。しかし、なぜかしら、前記した食い物に関するプロパには、無反応を装えないどころか、過敏に反応してしまうのである。それが少々お上品なビッフェ形式の食事であれ、食べ放題の代表格たる焼き肉であれ、ともかく、その場に足を踏み入れたら、確実に体調を崩すほどに食いまくる。執念のごとくに。執念であるからこそ、健康志向とは無縁の行動である。主治医(そんなご大層なものではないな、ご近所の行きつけの内科医です)には、総コレステロール値が高いと指摘され、善玉コレステロールが少なくて、悪玉コレステロールが優勢なのだそうな。見た目には、大袈裟に太ってはいないと思うが、メタボ指数というものがあれば、僕はかなりのメタボ中高年ということになる。
最近は焼き肉のそれにハマっていて、何度か通い詰めた。時間を決められ、その時間内であれば、何をどのようにオーダーしてもよいのである。まあ、時間決めだから、昔の八百長プロレス○分一本勝負みたいなものだ。とは云え、オーダーした素材が来るまでの短い時間に、時折周りの客の様子をうかがったりするのだが、みなさん、たいへんお行儀がよろしいのである。よく知らないので間違っているかも知れないが、チシャ菜という雑草みたいな大きな葉っぱに、焼き上がった肉をくるくると巻いて食したり、大きなボール一杯の野菜サラダなども人気メニューらしい。スープもビビンバも上手に組み合わせて余裕の表情で楽しげに焼き肉を楽しんでいるかのように見える。たぶん、言葉どおりに楽しいに違いない。
しかし、僕の挑み方(そう、まさに挑戦なのである!)は、そんな生やさしいものではない。とにかく肉を食らう。小ライスと白菜キムチをオーダーするのは、さらなる焼き肉を頬張るための箸休めみないなものだ。食って、食って、食いまくる。ターゲットはあくまで肉そのものである。健康的に食らうなど、もってのほか、喉元までせり上がってくるまでが勝負どころである。世界中に、いや、いまやこの日本にだって満足に食えない人々が有り余るほどにいる。何をどのように考え詰めても、なんで結構うまい肉がこんな値段で食えるのか、まったく理解できない。一方で飢え、またその一方で飽食する人間がいて、その矛盾を埋めることさえ出来ない。政治も経済もまるで無力である。だから、そういう世の矛盾をいっさいがっさい自分の無意味な飽食とともに、体内に呑みこんでしまう。そのことに何の意味もないし、たぶん、地球的規模の視点から云うと、僕は世の矛盾を拡大している側に加担しているのだろう、と思うが、眼前に在る食い放題の食物は、自分の胃の腑に、これでもか!というほどに詰め込まなければ、何となく申し訳ないのである。誰に対してか?と問われれば、明瞭な答えは持ち合わせてはいないが、少なくとも、楽しんでは食えないのである。
たぶん、敢えて言うなら、地球資源保護という観点からの、あるいは政治・経済効力の観点から見ても、まったく無効で、無意味な、己れの裡なる密やかな罪悪感ゆえなのかも知れない。それなら、食らわねばよいではないか、と反問されそうだ。反問されれば、まさにその通りだ、と認めることしかできはしない。しかし、敢えて食らうならば、食らう快楽と苦痛とを同時に味わうべきだろう、というしかない。つまんねぇ話だが、敢えて書き置く。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃