ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○食らう!

2010-03-31 22:25:09 | 観想
○食らう!

 僕は○千○百円、食い放題などというプロパに極端に弱い。特に食い意地が張っているとも思わないし、何より大食漢などでは毛頭ない。無論美食家とは程遠い味覚の持ち主でもある。だから普段は適度に食し、適度に排泄するという生物学的にはまさにありふれた人間だと言える。しかし、なぜかしら、前記した食い物に関するプロパには、無反応を装えないどころか、過敏に反応してしまうのである。それが少々お上品なビッフェ形式の食事であれ、食べ放題の代表格たる焼き肉であれ、ともかく、その場に足を踏み入れたら、確実に体調を崩すほどに食いまくる。執念のごとくに。執念であるからこそ、健康志向とは無縁の行動である。主治医(そんなご大層なものではないな、ご近所の行きつけの内科医です)には、総コレステロール値が高いと指摘され、善玉コレステロールが少なくて、悪玉コレステロールが優勢なのだそうな。見た目には、大袈裟に太ってはいないと思うが、メタボ指数というものがあれば、僕はかなりのメタボ中高年ということになる。

最近は焼き肉のそれにハマっていて、何度か通い詰めた。時間を決められ、その時間内であれば、何をどのようにオーダーしてもよいのである。まあ、時間決めだから、昔の八百長プロレス○分一本勝負みたいなものだ。とは云え、オーダーした素材が来るまでの短い時間に、時折周りの客の様子をうかがったりするのだが、みなさん、たいへんお行儀がよろしいのである。よく知らないので間違っているかも知れないが、チシャ菜という雑草みたいな大きな葉っぱに、焼き上がった肉をくるくると巻いて食したり、大きなボール一杯の野菜サラダなども人気メニューらしい。スープもビビンバも上手に組み合わせて余裕の表情で楽しげに焼き肉を楽しんでいるかのように見える。たぶん、言葉どおりに楽しいに違いない。

しかし、僕の挑み方(そう、まさに挑戦なのである!)は、そんな生やさしいものではない。とにかく肉を食らう。小ライスと白菜キムチをオーダーするのは、さらなる焼き肉を頬張るための箸休めみないなものだ。食って、食って、食いまくる。ターゲットはあくまで肉そのものである。健康的に食らうなど、もってのほか、喉元までせり上がってくるまでが勝負どころである。世界中に、いや、いまやこの日本にだって満足に食えない人々が有り余るほどにいる。何をどのように考え詰めても、なんで結構うまい肉がこんな値段で食えるのか、まったく理解できない。一方で飢え、またその一方で飽食する人間がいて、その矛盾を埋めることさえ出来ない。政治も経済もまるで無力である。だから、そういう世の矛盾をいっさいがっさい自分の無意味な飽食とともに、体内に呑みこんでしまう。そのことに何の意味もないし、たぶん、地球的規模の視点から云うと、僕は世の矛盾を拡大している側に加担しているのだろう、と思うが、眼前に在る食い放題の食物は、自分の胃の腑に、これでもか!というほどに詰め込まなければ、何となく申し訳ないのである。誰に対してか?と問われれば、明瞭な答えは持ち合わせてはいないが、少なくとも、楽しんでは食えないのである。

たぶん、敢えて言うなら、地球資源保護という観点からの、あるいは政治・経済効力の観点から見ても、まったく無効で、無意味な、己れの裡なる密やかな罪悪感ゆえなのかも知れない。それなら、食らわねばよいではないか、と反問されそうだ。反問されれば、まさにその通りだ、と認めることしかできはしない。しかし、敢えて食らうならば、食らう快楽と苦痛とを同時に味わうべきだろう、というしかない。つまんねぇ話だが、敢えて書き置く。

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○人間的な、あまりに人間的な、といきたいものです。

2010-03-30 23:42:28 | Weblog
○人間的な、あまりに人間的な、といきたいものです。

僕は何度も組織と人間に関する考察を書いてきました。無論、書くたびに思考のブレはありましたが、軸に当たる部分に関しては、一度もブレたことはありません。組織と云う場合は、人間が創るあらゆる集団のことです。それが企業であれ、また政治がらみであれ、あるいは宗教がらみであれ、個としての人間が創った組織が、組織そのものとして、人間が創った組織の中の、当の人間の思考形態のあり方を換える可能性もあり得ます。組織と云うと少し誤解があるかも知れません。もっと広く、社会と言い換えてもよいのですが、社会そのものが、人間の思考のあり方に確実に影響を与え、個としての人間の思考が、それ自体として屹立して在る、と云うことがそもそも不可能であるのかも知れません。

しかし、それにしても、どのような組織の中であれ、個としての人間には、それなりの抗いの意思と云うものが確実に存在するのも否定できない要素ではなかろうか、と思います。それこそが、人間の裡に眠っているのかも知れませんが、革命的意思と規定してもよいものです。

先日以来、ずいぶんと期待をかけていた青年が、少し前に、日本の中でも有名な新興宗教教団に入りました。何気ない会話の中で、教団に入ると言い出したのです。理由は法華経を学ぶということでしたから、それならば、別にその組織に属することなどないし、むしろ仏教思想としての法華経を学ぶ邪魔になり得るから、もう少し学びの方法論について、考えてみてはどうか?と言ったのです。ところが、どういうものか、彼はその教団に入ってしまい、そんなに時間が経ってはいないのに、今度は教団から脱会した、と言うのです。脱会したら、当の教団から執拗な嫌がらせを受けているのだ、と言う。それどころか、この教団は、政治家を国会に送り出しているし、またマスコミその他の分野に網の目のように現代社会に浸透している教団ゆえに、嫌がらせどころか、迫害すら受けていると言うわけです。じゃあ、闘えばよい、と僕などは単純に言います。当然でしょう。迫害を受けたらそれをはねのける。生きるために、です。もし、相手の力が強大であれば、敗北するかも知れないが、それは自分が立ちいたった思想ゆえの闘いなのだから、生が死に転じたとしても後悔はなかろうとも言いました。

ところが、情けないことに、闘えよ、と言うと、どうやって闘うのか?とくる。相手はこの間まで日本を動かしていた政府の一員でもあったから、相手の勢力が弱るのを待つと言う。それならいつ君は闘うのか?君が受けているという迫害からいつ自由になるのか?と問うたら、被害者の会を創って、相手方が政治勢力として無力になったら・・・までしか彼の声は聞こえては来ない。こういうことなら、もう何もやるな、と言いたい。むしろおとなしくその宗教教団に入っていればいいではないかと思う。君が好きで入ったのだろう、と問うと、それ自体が仕組まれていた、とのたまう。もうこうなると救いようもないわけである。
 世界を見よ。たった独りであっても、それくらいの組織ならぶっ潰せる。やり方次第では。ほんとうに彼が言うように、多くの被害者を出し、その教団が世の中の害毒以外の何ものでもないのであれば、独りでも闘えと僕は何度でも言いたい。世界の政治のありようから云えば、究極の姿はテロだろう。無差別テロはテロリズムとしては堕落した姿だ。独りでやるならトップをやるしかないではないか。僕がこのような極論を言うと、彼はもう精神的にバテバテだ。要するに何も出来んのである。それなら、いまのように逃げているしかないではないか。逃げるしか能のない人間は、ブツブツ言わずに、おとなしく逃げていればよいのである。実践の伴わない小理屈くらい、みっともないものはないからである。青年よ、己れの思想を再構築し、実践することを忘れるべからず。こんなことを書いているオレだって怖い。しかし、オレならもし、迫害を受けたら、怖くても闘う。それしか方法がなければ、戦術はいろいろあってよいが、闘い抜く。実践を抜きにした被害者の会とやらのお仲間は、所詮手に手をとって逃げる仲間でしかないだろうに。つまらねぇよ、君たちは。

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○僕が孤独感に苛まれるときの意味とは・・・

2010-03-29 17:13:39 | 観想
○僕が孤独感に苛まれるときの意味とは・・・

物事を普遍化させて述べるためには、当然自分の体験としての個別的要件を語ることなくしては、なにほどの真実をも他者には伝えられないのだろう。その意味において僕はこの数年間というもの、自分の恥を書き綴らざるを得なかったのである。いっとき、このようなかたちで、自己の心境を語ることに疲弊したので、休筆した時期も確かにある。再度書きはじめたのは、休筆したからと云って、自己の内面から湧き出てくる言葉のあれこれを、書く、という行為でしかおさめることが出来なかったからに他ならない。単純なことである。自己の内奥の真実を、物語として書き留める方法にいまだ確信が持てないのである。物語としての創造空間を我が手にしたのならば、書き記した足跡は確実に一つのストーリーとなり、一つのストーリーが、読者の想像力を介して、書き手と読み手との間に、巨大な共有の意識が芽生えもするのだろう。しかし、僕にとっては、このような手記という手段でしか語る方法を持たない限界性があるゆえに、読者に共感を与え得ないリスクを抱えたまま、書き続けざるを得ないわけである。タイト・ロープを渡るかのごとしである。致し方ない。己れの才の問題だからである。ご辛抱願いたい。

さて、僕が書いてきた手記の中に通底しているのは、孤独感についての観想である。僕の拙い手記を読んでいただいて、お手紙を頂いたこともある。その方の印象では、僕はまさに孤立無援の状態であり、まわりには、誰一人として信じるに値する人間がいないかのごとくに感じたのだと云う。その意味ではたいへんにご心配を頂いたわけだが、現実は決してそのような現象が僕の周縁で起こっているのではないのである。ごくありふれた人間関係は確実に存在するし、信頼する方々もたくさんいるのである。その意味においては、僕の場合は恵まれている側にいるのではなかろうか、とすら思う。一旦は長年勤めた狭隘な学校空間から、取り返しのつかない年齢になってから、理事会との意見の相違で実質的に追放された。教師という、いまにして思えば世間知らずの職業から離脱したのが、47歳である。潰しなど効くはずもない。文字通り路頭に迷った。突き詰めれば己れの不甲斐なさが原因だろうが、家庭という存在の脆さにも直面させられた。生活力を失った中年男は、家族からも見限られた。再就職先など見つからなかった。万策尽きたのである。

この手記を読んでくださっているみなさんは、僕が、孤独のどん底に落ち込んだのは、このときだろうと考えられるのだろう、と推察するが、実はそうではない。確かに万策尽きた感はあったが、このとき、僕の心は奇妙なくらいに、自由であった。無論、社会機構から分断された括弧つきの自由だから、当然に云い知れぬ不安感がつきまとったのも事実である。孤独感がなかったと云うとウソになるが、当時感じた孤独感とは、少年期・青年期・成人期を通してずっと僕の内面に同居してきた観念だったから、また来たか、というのが正確な感覚だった、と記憶する。

確信を持って云えることは、僕の孤独感の実質は、集団の中にいるときに、常に個としての自己存在を意識し続けようとする意思の現れのごときものであった。その意味においては、僕の孤独感は、自己の精神の何処かからやって来るようなものではなく、自らが創り出した積極的な想念であるということである。確かに、それが意識的な想念の結果出現した観念であれ、孤独というものと常に向き合っていることには、かなりの苦痛が伴う。しかし、僕は想うのである。もしも、自分に残された人生の中で、新たな発見があるとするなら、この自ら挑んで対峙している孤独感と向き合うことによってしかなし得ないことのような気がするのである。拙いが、これが今日の観想なのである。

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○浅田真央とキム・ヨナ

2010-03-28 15:17:19 | Weblog
○浅田真央とキム・ヨナ
 フィギア・スケートなどに興味はあまりないが、世の中が冬季オリンピックだの、世界選手権だのと騒がしい。テレビのリモコンを手にとってチャンネルを当てどもなく換えていると、どうしても昨今はスポーツ中継が多いせいで、何となく邪魔にならない程度にはテレビはついたままであり、そのときどきのスポーツがテレビ画面の上を流れているという有様なのである。いろいろと感じるところが多いが、この間の冬季オリンピックでは、スノボで有名な国母くんの、選手団の公式ユニフォームの着こなし方がダラケているだのと、自民党の議員の誰それが、国会で問題にするいうアホウなことがあったので、自然と冬季オリンピックに興味が湧いたのである。そりゃあ、税金から大枚の金を出しているのは分かる。しかし、だからといって、大人の目から見れば、どう控えめにみてもセンスがよいとは思えないにしろ、なんで公式ユニフォームの着こなし方にまで大人が、それも国会議員が問題にすることがあろうや!僕などの年齢の人間には、スノボをやる若者たちが何故にわざわざ足が短く見えるようなパンツのずらし方をするのかまるでわからないし、ダラッとシャツを出しているのかも理解不能である。しかし、自分の若き日のことを思い出しても、ファッションのセンスが、その時代の大人と若者との間で折り合いがつくなどと思う方がどうかしているのである。国母くんの着こなし方は若者たちの中の一つの潮流であって、たぶんもっと多様な着こなし方が、彼ら、若者たちにはあるのだろう。その意味においては、むしろオリンピック参加選手たちはそろって行儀が良すぎる感あり、なのである。
 スポーツの祭典なのであろう?そもそも世界は政治体制や経済のありようや民族問題や宗教などの違いがあるゆえに、国家という帝国主義的な古めかしい概念性からいまだに自由になれないでいる。そういう自由になり切れない限界性を、たとえいっときであれ、凌駕してくれるのが、冬季オリンピックをはじめとするスポーツの祭典の意義なのではないか?無論、国家単位で選手たちは参加せざるを得ないにしても、この種の祭典に参加する選手たちのエネルギーは、常に古い価値観を破壊するだけの底力があってしかるべきだろうと思うのである。しかし、あろうことか、大人たちは、どこそこの国の代表者たる選手に対して、自国の国旗をしきりに振りながらの過剰な応援ぶりである。いい気なものだと思う。
 それでも日本は、いまだに公立学校の卒業式・入学式で国歌斉唱をすることや、日の丸という国旗掲揚に対するアレルギーがあることも事実である。自民党時代はモロに、権力的に、それらの実施を学校に押しつけてきたし、政治的右翼たちの喧しい議論のために、アブナイものを感じてはいたので、そのような状況下にある浅田真央は、国の代表などとは云っても、たぶん、大切な大会に出場するのと同程度のプレッシャー程度にしか国家という存在を意識してはいないだろうと思う。またそれでよいのである。しかし、韓国のキム・ヨナに対するマスコミ報道は凄まじかった、の一語である。国民の金メダルへの期待感も、マスコミに煽られたのか、異常なものを感じていた。それに、キム・ヨナは常に強気だが、しかし、どこかでポキリと折れてしまいそうな危うさがある。ジュニア時代に、いつも優勝を阻まれたのは、浅田真央だったし、キム・ヨナの当時の日記には、何故自分は浅田真央と同じ時代に生まれたのだろうとも書き綴っている。今回の世界選手権では、浅田が優勝したにしろ、少なくとも大きなミステイクをしない限りは、キム・ヨナの実力の方が審査員たちの視点からすれば、いまは勝っているのが実情である。だからこそ、あんな異常とも云える国家的レベルで注目されるポジションから、キム・ヨナは一刻も早く去る方が身のためというものである。若者は如何なる意味においても、国家などの犠牲になってはいかんのである。キム・ヨナは、プロ転向を仄めかしているようだから、一刻も早くそうすべきだろう、と思う。浅田真央のジャンプにさらに磨きがかかり、攻守の逆転現象は近いうちに起こるのは必然だから、その前に、自分のために、自分を守るためにキム・ヨナにはプロ転向をしてもらいたいと心から願う。
 スポーツの祭典に国家などがしゃしゃり出るな!さらに云うならば各国の国民はもっと冷静に選手たちの日頃の練習の成果を評価してあげればよろしいので、それ以上の期待感を持つべからず、である。選手たちは、国の代表である前に、個として、優れた技量を磨きぬいた人間であることを忘れるべからず、である。

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○過去になど、もどりたくもないけれど。

2010-03-26 13:48:41 | 観想
○過去になど、もどりたくもないけれど。

そもそも、自分の青年期の頃の思い出など、決して感傷的に書くつもりはないのです。あの頃の自分の感覚なんて、傲慢そのものだったし、またその感覚とは正反対の悲観主義に見舞われては、自分の将来への可能性を心底懐疑的に考えては、社会になど出て、いったい自分に何が出来るのかという想念が常に自分の裡に巣くっていたと思います。その意味で、過去をもう一度やり直したいかと問われれば、ノーと即答せざるを得ません。僕が己れの過去の総括と称して、現在の思想の枝分かれの模様について書き綴る隙間に、過去の自己の想念を執拗に書いているのは、たぶん、自分とはいったいなにものなのか?という自問自答には欠かせない要素としての過去があるからだろうと思うからです。それ以外の意味はないような気がします。無論今日の、むしろ死の方がぱっくりと口を開けて自分を待ち構えている状況のもとで書くのですから、そこには当然に過去の自分の言動に対する修正も加工も加わっているだろうと思いますから、僕の過去の総括などは、正確さから云えば、かなり怪しいそれに違いありません。

しかし、今日の、あるいは残り少ないであろう、自分の未来に対する生の構え方、死に対する臨み方という視点を定めるには、自分の思念の発展の模様を書くと同時に、その根底にあったはずの過去の自己の思念も、正確無比ではなくとも書かなくてはならないとは考えています。過去の自分の姿を書き綴ったことは何度もありますし、その経験の中にはいまから思えば結構勇ましい言動も含まれているにせよ、いま、それを書くことに、どのような意味においても過去への郷愁や過去を無条件に肯定する気持ちなど一切ありません。むしろ僕にとっては、過去の延長線上に現在の、失敗作としての自己の人生が横たわっているのですから、自分の過去を書き綴る行為自体に、苦い味が伴います。いま書いていることを、随想録と命名しようが、自分史と云おうが、そんなことはどうということではなくて、この種の思いつきを書きながらも、やはり、自己の経験知からは抜け出せないにせよ、このような直截的な書き方を離れて、虚構の世界像へと、文学的な形式を借りながら発展的に昇華させない限り、自分の中の自己表出の存在理由が近いうちに消失してしまうのではないか、とは心のどこかでは感得しているのです。以前、この種のカイエ(雑記帳)の休筆宣言をしたことがありました。それは、前記したような逡巡が、書き続けようと云う意思を上回ったからに他なりません。

虚構の世界像を創造するというのは、ゴタゴタとした過去の集積を書きながら、そこに意図せずとも少しの過去の修正やら加工やらが在ったとしても、カイエという方法論においては、決して哲学者たるシモーヌ・ヴェイユを超えられないのは必然です。無論、僕などが天才の彼女と比較すべくもないのはよく承知していますが、あくまで方法論においてさえ、と云う意味です。さて、そろそろ小説空間へと踏み出す時期に来ているのかも知れません。勝手な盲想でなければの話ですが。

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○生きる意欲をペンディングしなければ、精神の均衡が保てないような精神性は信用に値しない。

2010-03-25 15:49:45 | 観想
○生きる意欲をペンディングしなければ、精神の均衡が保てないような精神性は信用に値しない。

人間が生きる意欲を抱き続けられるのは、自分の力量が他者に認められてこそ、それが生に対する前向きな思想を己れの中に構築させる原動力にもなるのだろうし、時として外部的要因にて生きる意欲を減退させられることがあったとしても、そういう負の観念を忘却の彼方へ追いやることも出来るし、また、負の観念こそを新たな生に対するエネルギーへと転換させることも出来るというものではなかろうか。

ここではっきりとさせておかねばならないことは、人の生に対する意欲とは少なくとも現世的な価値観の中に留まるかぎりは、経済の論理抜きに語ることは出来ない。社会的地位といい、社会的存在理由といい、それらは、経済的土台がしっかりと備わっているか、あるいは、その方向へと自己を駆り立てるだけのエネルギーが裡に蓄積されなければ、人は徐々に生とは真逆のベクトルの方へと限りなく突き進んでいくような気がしてならない。無論、金が全てだと云うがごとき、守銭奴や拝金主義者のような、思想と銭金とが同価値であっても生きる土台は虚しいほどに脆弱にならざるを得ないだろう。つまりは経済の論理にも知の平衡感覚がどうしても必要とされるのである。

現代は生きるに値しないほどに、経済の論理が崩壊している時代である。世界的不況の時代でもある。この時代に富裕を貪っているのは、前記した守銭奴か拝金主義者しかいない。多くの人間が先行きの不安を抱き、希望を抱けないのである。生きる意欲を抱け、と云っても虚しいばかりである。親鸞主義に走って、ひたすら親鸞精神をマニュエル本のように書き続けているかつての人気作家がいる。若い頃は冒険主義の代表格のように読み込まれた作家が、いまや悟りきった宗教者のようなことを書きなぐる。馬鹿げたことだ。「人生を半分降りる」などと云って、人間の生きるエネルギーを骨抜きにするようなことばかりを書き散らす人もいる。さらに日本経済がどん詰まりになりかけていた頃に「清貧の思想」などと云う、古臭い精神主義の焼き直しのごとき書を書いて大儲けした作家もいたと記憶する。いずれにしても、物云わぬ羊の群れをつくる役割を担った書物だ。権力者にとってはこれほど都合のよい教材はなかろう。何せ、そこに金を注ぎ込む必要はない。生きるための指標を必死に探している庶民が身銭を切って、エセ物の書物を買っていくのだから、この種の作家たちには、勲章でもやればよい。持てる者のために、持てる者の地位を保持する役割を担ってくれているのだから、勲章くらいはやるにこしたことはない。この手の作家たちは大喜びで受諾するだろう。

生きるための意欲をそそるものが視えにくい時代だからこそ、物云わぬ羊の群れなどに属さずに、世の中のあたりまえの価値の真偽を疑ってみよう。人間の精神性のあり方を決定づける要素が、経済的基盤がどの方向を向いているかによって決定づけられるのは必然だから、前記した作家たちは無論のこと、経済を論じるマスコミ報道の真偽に対して、冷徹な視野で眺め直してみようではないか。そこに複雑な経済理論などはむしろ必要ない。何故なら、経済学者ほど、日本の、さらには世界の経済の行く末を見抜けない人種はいないからである。我々をとりまく情報には、思想的な色彩がすでについているが、それらを複数個鳥瞰して、あくまで己れの感性を信じて現代という時代を掌握しようではないか。現代こそが乱読すべき時代なのだ。ありとあらゆる価値観の中から、物言える市民として、生き抜こうではないか。


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○人間の本性は、保守的なものなのだけれど・・・

2010-03-24 17:01:51 | Weblog
○人間の本性は、保守的なものなのだけれど・・・

 1955年体制のもとで、自由党と民主党が合併して、自由民主党が設立され、無論、それ以前もアメリカ政府の実質的指導下のもと、保守政権が、結局のところ戦後以来60年に渡って続いてきたのは、保守政権下の経済が、安定的に右上がりに発展してきたからに他ならない。このような長期政権下において、腐敗しない政治などあろうはずもなく、頼みの綱であったアメリカ経済そのものが瓦解の危機に直面すると、自民党の官民癒着でぼろ儲けする政治家や特定企業にもほとほとうんざりし、政治的腐敗を黙認して得るものなどなければ、誰もが自民党などに頼りはしない。もはや、自民党政権下でも保守的な経済の安定が保障されないとなれば、国民がどこの党へ鞍がえしても、それは世の中の変化というよりは、保守すべき対象を国民が望み得なくなっただけのことである。保守的政権である民主党への傾斜が生じたのは、ドタバタ政権委譲のなにものでもなかった、と思われる。
 確かに、小泉政権の経済政策は、ひどかった。小泉元首相がやったことは、郵政民営化どころの騒ぎではなく、徹底的な福祉・教育の切り捨てだったからだ。「自己責任」という言葉があたりまえのことのように、本来政治が責任を持ってなすべき領域においても、政策放棄し、民間に丸投げした結果の、現在の日本の不況なのである。アメリカのモノまねはもはや何の効用もないことは、小泉の経済ブレインの竹中平蔵が誰よりもよく知っていたことである。何故破綻したアメリカの云いなりになったのか?それは、日本の国民生活よりも、政府から見て、利用価値のある特定企業を優遇するためだったとしか理解のしようがないのである。小泉政権こそは、明らかな棄民政策を舌触りのよい言葉で国民に強いた日本の保守政権下においても稀にみる悪徳政権だったと思う。根っ子が腐っている政策を引き継ごうとしても、実を結ばないのは当然である。その後のブザマな総理大臣の交代劇がそれをよく証明しているではないか。
 過去60年間のツケを払わされている民主党が右往左往しているのは、当然である。しかし、この政権とても、保守的政権に過ぎないので大した変化は起こり得ない。過去の自民党時代でも、最も金権政治が横行した田中角栄や金丸信の腹心だった小沢一郎が、民主党幹事長なのである。政治と金の問題は、かつての古臭い政治資金の古臭い集金システムがまかり通るのが当たり前である。僕個人の政治的思念としては、保守性などご免被りたいが、世の流れの様子から云うと、保守政権の時代が長く続きそうである。それならば、保守主義がお好きな方々よ、真正の保守主義というもののあり方をそろそろ確立するべきときなのではないでしょうか。今日の観想とします。

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○山田洋二という才能と毒―渥美清をめぐって

2010-03-23 21:11:33 | Weblog
○山田洋二という才能と毒―渥美清をめぐって

 近頃の山田洋二は、大きな賞にも恵まれ、意欲的な作品に取り組んでおり、そのような状況をみるにつけ、長年の山田の頽落にも似たエンターティンメント性と、その渦中に巻き込まれた才能豊かな役者の可能性を意図的かそうでないのかは定かではないが、とりわけ大衆映画として大ヒットを飛ばした「寅さん」シリーズによって、ズタズタに切り裂いたのである。結論から云うと「寅さんシリーズ」とは、山田洋二にとっても、渥美清にとっても、互いの才能を伸ばすという点において、悲劇的とも云える経緯を辿った作品群だったと僕は思う。

 「寅さん」シリーズにおいては、相も変わらぬ状況設定の繰り返し。マドンナが誰になるかという週刊誌並みの庶民の興味。現代においては、日本のどこを探しても見つかるはずのないムラ社会的な濃密な人間関係、家族関係、男女関係の退屈極まりない繰り返し。「寅さん」シリーズを絶賛するええオトナに、若者のマンガへの傾注を批判する資格はない。渥美清演じる主人公とは、人間の感性の点で云うと、過ぎ去りし日の郷愁を掻き立てる役割を演じつつ、郷愁そのものの象徴的存在として、映画の中に立ち現れる。「寅さん」ファンは、もう自己の手からこぼれ落ちて、踏みにじられて、もはや見る影もないほどに変質した、過去の素朴な人間像をスクリーンの中に見出しては、自慰的な過去への入り口に入り込むのである。

 山田洋二も渥美清も、大衆の人気とそれに伴う収益を我がものとするプロデゥーサーやスポンサーたちの意図を無視出来なかったのだろうが、それにしても、「寅さん」シリーズは余りに長過ぎた。このシリーズに出会うまでの両者はともに、すばらしい才能を開花させていたのである。山田は、有島一郎を主人公とする映画に独特のモノローグをとりこんだ名作を創っていたし、渥美に至っては、「泣いてたまるか」というシリーズ物の映画で、何十回と続くシリーズだが、これは「寅さん」とはまるで違って、渥美が一話ごとに役割を換えて、主役を演じきるという醍醐味があった。その度ごとに渥美の演技力の深さに凄みが増していき、どう控えめに見ても、美形ではない役者が、一流どころの演技派俳優になっていたのである。

 山田洋二はよい。渥美清が鬼籍に入って「寅さん」シリーズから解放されるや、以前にも増して次々と新たな映像芸術の可能性を広げつつある。しかし、渥美清に至っては、自己の有り余る才能を殺して、寅さんであり続けたのは、渥美の覚悟の上での俳優魂なのか、ダンディズムなのか?それにしても、僕は、「寅さん」シリーズの愛好家たちがいまだに大嫌いなのである。理由はすでに書いた。今日の観想とする。

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○いったい精神科医って、何のために存在するのだろうか?

2010-03-22 17:06:59 | 精神病理
○いったい精神科医って、何のために存在するのだろうか?

尊敬に値する精神科医も確かにいる。しかし、かつての私のカウンセリングルームを訪れた方々の中で、精神科医にかかったためにかえって病状を悪化させていたり、精神科医が、とんでもない誤診をして、不要な薬を患者に呑ませ、症状を悪化させてしまったなどということは、決してめずらしい諸例ではない。

褒められたことではないが、私がカウンセラーとして起業するにあたって、果たして精神薬がこれだけ巷にあふれている状況の中で、精神薬の効用とは如何なるものか、どうしてもさまざまな症状を装ってでも、精神薬の効用を自分の体を実験台にしてでも確かめたくなった。そのような想いで、数十件の精神科・心療内科・神経内科(名称は異なるが、治療内容は同じようなものである)を巡った。たとえば、うつ病の薬を何種類か試飲するために、うつ病であることを医師に伝えなければ当然のことだが薬の処方はなされない。パニック障害しかり、その他の精神疾患のあらゆる症状を、短すぎる診察時間の間に訴えると、想像通りの薬が処方されるのである。私の目論見は、クライアントがどのような薬を呑み、またその薬はどのような効用と副作用が在るのかを確かめたかったということなので、いまさらながらだが、関係した医師の方々には陳謝するが、その一方で、誰一人として、私のウソの病状申告を見抜ける人はいなかったのも事実なのである。

このことから何が云えるかというと、精神科医の殆どは患者を観ていないということである。精神疾患は、その病例のどれ一つをとっても、患者の症状を傾聴することからはじめ、深い洞察を通して、病気の特定をしなければならない。しかし、よく云われるところの3分間診断では、とりわけ精神科においては、患者からの問診からすべてを見通す必要がある課目だけに、そのようなことは到底不可能なことになるのは必然である。精神科は、他の課目と異なり、医療訴訟が起こりにくいと聞く。昨今の医学生たちの人気課目が、精神科であり、その他の課目に行きたがらない学生が多い、と嘆いていた医学部の指導教授がいたことを思い出す。薬の処方屋になりさがっても、儲けは大きい。たとえ診断が決定的に間違っていても訴訟は起こることはまずないとくれば、ふつつかな医学生ならば、精神科医を目指すのは理の当然か?それを補うために臨床心理士がいるはずなのに、彼らは精神科医の下働きに甘んじざるを得ない。ヒエラルキーが確立してしまっているのである。臨床心理士の地位向上を目指しながら、結局医師と同様に大学院を含めて6年間の勉学を経たのちに、医師国家試験とほぼ同レベルの国家試験を通過しなければ、臨床心理士にはなれない。それなのに、彼らが臨床心理士になるまでに要した授業料などを含む諸費用をペイするにはなかなかに難しいのが現状だろう。

河合隼雄の功罪が大きいと思う。彼がむやみに臨床心理士になる道を狭めた。その上、その難関をくぐってきた臨床心理士の社会的地位をあげることを河合は怠ったと思う。自分だけがその筋の権威として目立つことを望んだ結末が、現況の悲劇を生んでいる。そもそも、河合の代表作である「影の現象学」(講談社学芸文庫)を読んでみれば、河合隼雄の頭脳のレベルが知れる。論理の混乱が散見出来るつまらない書である。こういう状況の中にあってこそ、精神科医のみなさんが、医学書、特にアメリカ精神学会の病例分類に頼りすぎることなく、幅広い読書をし、洞察力を磨いてほしいものだとつくづく思う。


文学ノートぼくはかつてここにいた    長野安晃

○命の重さかー?

2010-03-21 23:00:17 | 観想
○命の重さかー?

あるテレビの番組を観るともなく観ていると、全身の筋肉が委縮して、自分では意識があるのに、その意識を伝える術がない難病患者が、わずかに動く頬の筋肉の動きをコンピュータに連動させて、自分の考えを開示していくドキュメンタリードラマに出会った。そこで問題となったのは、人工呼吸器をつけなくてはならない状況に立ち至ったときには、人口呼吸器を外し、死に至らしめてほしいという嘆願書を病院に向けて3年前に本人が提出したことが話題になったからである。現代における日本の医療は、患者の意思やその家族の意思とは無関係に延命治療が可能な場合は、患者を生き長らえさせておくシステムが出来あがっている。ここで大切なことは、患者本人の意思に関わりなく、という一点である。この場合、家族は家族関係によってさまざまな思惑が働くので、敢えてその存在については触れない。

無論、自死するだけの病気の症状や、そのような環境に置かれていれば、その選択肢は医師が何と言おうと、本人の考え方ひとつで、生きるか、はたまた死するかは、その手段さえ選ばなければ、選択肢は本人に在る。しかし、意識がもどったとき、すでに四肢の自由が奪われてしまっていたり、自己表出の手段さえ奪われているような場合、どうするか、と云う問題であろう。

自分の意思が働いた場合もあり、そうでない場合も含めると、死線を彷徨ったことは何度かある。僕は人の生死の問題は、一般論など通用しない領域のことだから、自分の考え方に普遍性などそもそも在るなどとは思ってはいない。そのような精神性のありようからものを云うならば、僕は、自死の自由を終末医療の問題だけに留まらせるのではなく、死する原因が何であれ、本人が生を選びとらずに死を選ぶのならば、安楽死も含めた生命に関する議論がなされねばならないと常々思っている。生きるということに、単純なヒューマニズムの精神を被せたり、死よりも生に価値あり、とするようなありふれた生命観の披歴はご免被りたいものである。命を自ら断ったら、自分を愛する者たちに対してどうのこうの、といったつまらない発想にはウンザリである。人間は、他者との関係性の中で生きているのだから、自分の死が他者に影響を与えないはずがないではないか。そんなことは百も承知で、生の中断としての死を、自己の意思が通用しない状況下では迎えたくはない、と僕は考えるのである。

尊厳死のあり方を法律で定めているオランダやベルギーでの詳細は分からないが、むしろこういう国が優れていると思うのは、死というものに対する深い理解が、逆に生に対する理解を増すということをよく諒解していることである。その意味においては、日本の医療はダメである。人間のために在るのではなくて、医療のために医療が在るからである。脳死が人間の死と認められたのも、医師たちが臓器移植の実験を、ダメージの最も少ない脳死状態の臓器で行いたい、という荒業のごとき論議で決めたことだ。そこに臓器移植を受けた患者がいかに拒絶反応に苦しむか、また、そのような危険を犯して臓器移植をしても存命率は極端に低いことなどを考えれば、決して本質的には、患者側、もっと云えば、人間の尊厳の側に立った思想ではないだろう。

人はいつかは死と直面する。問題は如何なる死との邂逅が、死を迎える人間にとって意味あるものか、という視点で、人は自己の生死を考えなければならないと云うことである。その意味においては、尊厳死の法的整備は、いくら急いでも早すぎることはない、と思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

○虚構と現実

2010-03-20 23:49:30 | 政治哲学
○虚構と現実

敢えて、現実と虚構と書かなかったのは、日常生活の中ですら、生起する出来事を規定する場合、それを現実的と称してよいのか、はたまた虚構と称してよいのかを決定づけるのは、意外に難題であるからである。ここで云う虚構とは、非日常と言い換えてもよい。つまりは、我々の世界像については、日常と非日常という区分は、極論すると不可能だ、ということでもある。人間にとっての日常性なるものは、簡便な言葉で表現すると、<慣れ>に過ぎないものであって、災害・戦争・飢饉・経済基盤の激変・社会通念の変革などによって、従来の日常は非日常へと簡単にスライドするのである。人間は、ともすると日常性の中に普遍的な価値意識を感じ取ろうとする傾向があるが、それは日常性という<慣れ>の中に身を置く場合に、出来る限り、変化、それも急変などが起こり得ない状況を望むからに過ぎない。その意味で、人間とは、あるいは、日常を支えているありとあらゆる体制とは、保守的な色彩を帯びていて当然なのである。

人がこのような意味で、保守的であるのことを間違っているとは思わない。僕が云いたいのは、人間とは、そもそも存在論的には保守的な性向を保持しているということである。だからこそ、不条理な世界を変革するための革命は、それが成就したその瞬間から革命によって得た新たな価値観を保持しようとする考え方が裡に湧くのである。したがって、如何なる意味における革命理論も、その理論の中に革命の永続的なファクターを導入しなければ、革命理論そのものが破綻するというジレンマを抱えている。トロツキーが世界革命論という永続的革命理論のために、革命が成功したロシアから逃げ出さざるを得なかったのは、彼が、革命によって得た利権を保守しようとする勢力を、より高次元の世界像に連結させ得るのか、という視点を革命理論の中に組み込むことが出来なかったからである。また、キューバ革命を成功に導いたチェ・ゲバラが自らの大臣の椅子を投げ捨てて、ボリビアの密林の中で闘い、そして死したのは、革命理論の不可能性をよく物語っているのではなかろうか。

文学ノートぼくはかつてここにいた    長野安晃

○現代における理論と実践について語ろう、と思う。

2010-03-19 15:06:13 | 観想
○現代における理論と実践について語ろう、と思う。

 理論と実践を包括するものが、思想である。つまりは、思想とは、脳髄の中で捏ねまわすだけのものではなく、必ず構築した理論に基づいた実践が伴わなければ、無価値である。賢い人々はたくさんおられるが、現代においては、なかなかに実践の場を見出し得ないのが実情のようなので、切っ先鋭い論法であれ、その内実が、空疎な抜けがらのごときものであるのも致し方なし、と腹を括るしかない。しかし、絶望はしていない。中途半端な年齢の、己れに思索する力があると錯誤している人々は、すでにその時点から守りの姿勢に入っているわけで、そこに思想の発展性もなければ、無論思想の実践化も起こり得ないのが道理である。

 僕が絶望していないと書いたのは、現代に生きる青年たちの人生に対する立ち向かい方に大きな希望を抱いているからである。彼らは事のはじまりから、閉塞した時代の中で、自己のアイデンティティを確立しようとしてもがいてきたのである。彼らを縛る世間的常識とは、アメリカの無節操な拝金主義が行き着く果てまで行き着いて、それでも懲りずに銭をせしめた輩たちは巨額の金銭を独占するシステムを創り出した。しかし、その一方で、多くのアメリカの庶民はとりわけサブプライム・ローンのシステム破綻のあおりを受けて破産する者続出である。日本では喧しい議論として格差社会などとマスコミは報じるが、国家としてアメリカは破綻状態である。その影響をもろに受けており、世界不況とは云うものの、最も大きな犠牲を強いられているのが、この日本なのである。このような時代性の中で、次世代を担う青年たちが未来を切り開こうとしているのである。希望を抱かずにいられようか!少なくとも彼らの邪魔にはなるまい、と思うばかりである。

 現代に生きる青年たちにとっての思想の確立、すなわち理論構築とその実践化とは、当然観念的なものであるはずがない。それは、たぶんにプラグマティックな様相を帯びているのが当然の姿であろう。また、そうであるべきだ、と思う。幸い、現代は情報量だけは、過去のどの時点と比べても膨大である。そしてそれらの情報は、特別な身分制など不必要なかたちで、誰にでも共有し得るものとなっている。従って、現代における思想の確立とは、無整理で、かつ広範囲に渡る情報をいかにして実証主義的に整理し、それらをいかにして、あらゆる状況に投下させ得るかというのが、現代における理論の実践化の内実であろう。もはや去りゆく人間である僕ごときに、とやかく言う権利も余地もない。大いに現代風の理論構築とその実践の試行錯誤の過程で、新たな価値意識を、また新たな生活の次元の高揚感を若き人々に感得してほしい、と心から願う。

京都カウンセリングルーム
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長野安晃

○思想の構築と日常性からの浅知恵くらいは区別してほしいものである。

2010-03-18 21:33:25 | 観想
○思想の構築と日常性からの浅知恵くらいは区別してほしいものである。

物事を深く考え詰められない人間ほど、自分の意見と他者の意見とが食い違ったときに腹を立てる。こういう輩は、決まって同じ種のことを主張するのである。曰く、自分は誰それの支えがあって生きている、と。だから、生死のことを軽々しく論ずることなかれ、とも。反論らしきことを言うと、誰それの支えなどと云っていたことを反故にして、絶対に反論に対する反論をしない。言下に、君とは相容れないとくる。アホらし!要するに上から目線。しかし、その考え方の土台は、ありふれた表層的ヒューマニズムでしかないから、極度に批判されることを怖れているのである。怖れは、怒りの感情にすりかえられ、一方的断交宣言となる。

思想の構築とは、この手の輩が考えているほど甘くはない。身を賭して行う闘いである。闘いは永続的に続くし、その歩みは、シーシュポスの神話のごとくに、終わりなき達成のときの上気と、それとは真逆の転落との反復でもある。ともかく厳しいのである。人間の本当の優しさが心の底から浮き出てくるのは、この種の労苦の末にこそだと言っても過言ではないだろう。日常性の次元から吐き出される無価値な表層的ヒューマニズムなど、前記したごとくに議論に耐えられないゆえに、憤怒の感情と裏腹の存在である。だからこそ、議論を避ける。避けるだけでなく、一方的な断交という非礼な態度で自分の思考の次元の低さを誤魔化そうともするのである。繰り返すが、日常性からの浅知恵からは、何ものをも生み出すことなど出来はしないのである。いや、あるにはある。自己満足と自己欺瞞。無理をして規定するなら、これくらいだろう。

人は、この世に生を受けたのであれば、死を迎えるその直前まで、自己鍛練の連続をもって、自己の存在を完結させねば、生きている意味などないに等しい、と僕は思う。己れのとらんとしている行為に、他者の、それが家族や恋人という濃密な関係性を持った人間であれ、そういう人々のため、などとは決して云うべきではない。恥を知れと言いたい。

人間の思考の深化はあくまで、自分一個の存在を賭けて闘い抜く覚悟がなければ、考えることなど放棄した方が健康のためである。中途半端な知性主義こそが、自己の存在意義を奪う根源なのだから。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃


○現代における「生成」とはどのようなものなのか?

2010-03-17 17:20:13 | 哲学
○現代における「生成」とはどのようなものなのか?

ロジェ・マルタン・デュ・ガールなどを近頃読む人はかなりきとくな方だ。彼の作品については、かつてはいろいろなものを文庫で読めたし、確か岩波文庫からは「生成」と称するいかにも時代がかった小説が出ていたと記憶する。あるいは哲学的小説と言ってもよいものだった、と思う。残念なことに、マルタン・デュ・ガールは、現代では忘れられた天才作家という範疇に入るようである。たった一つ読めるとすれば、白水社(なかなか気骨のある出版社だ)から大長編の「チボ―家の人々」が出ているだけとなった。まあ、マルタン・デュ・ガールに関しては、時間を持て余すようなときが来たら「チボー家の人々」を読まれんことを。ただし、何巻もありますよ、念のため。

さて、「生成」とはいかにも魅惑的な響きを持った言葉として僕の数少ないボキャブラリーの中に廃れることもなく鎮座しているタームとして、あるいは概念として確実に存在するのである。すべてが無の状態ということは人類史の中では起こり得ないのあってみれば、僕にとっての生成とは、既成価値観の破壊とその再構築の過程で生まれ出る新たな概念、あるいは新たな価値観を指して、生成という概念として諒解しているのである。したがって、生成とは必ずその過程に、古い考え方を根底から覆す動的な要素が潜んでいる、かなり過激な用語ではないか、と僕は認識している。

社会的・経済的・文化的・政治的糞詰まりのごとき現代において、意義ある生成を成し遂げるためには、いったい何が、あるいはどのような変革が必要なのだろうか?端的に言ってしまえば、それは、世の中に蔓延っている保守主義の破壊と保守主義を超える、常に動き続け、変化し続ける概念に支えられた思想の構築である。無論、世の中に蔓延しているということは、個としての人間の心性を腐食している保守主義をまずはぶっ壊さない限り、新たな価値の地平など見えようはずがない。

僕たちに必要なことは、現代の不安定な社会構造の安定化を望むのではなく、不安定な社会構造の中にあっても、不安定さを凌駕し得るだけの革命的思考回路の創設が求められているのではなかろうか。革命的思考回路といっても、公安警察が警戒するようなものとはまったく違う。何故ならこの革命的思考回路とは、現体制の社会を何らかの暴力革命によって、転覆させるのが目的なのではない。そうではなくて、それは、僕たちの裡に巣くっている保守的思想(現代において、もはや何を保守するのかすら分からなくなっているはずである)の編み換えを意味する。改めて言うと、保守的思想とは、あくまで保守すべき価値のある土台を守ることである。しかし、現代は、かつては土台としてすがるべき実体のあったものがことごとくその実体を喪失し、不安定な様相の中で粉々になっているのである。つまりは守るべき土台さえないのである。それが、現代という時代性である。日本政治における保守も革新も思想がないという意味においては、同質である。状況によって、保守から革新へ、革新から保守へと恥も外聞もなく変節する。

僕たち現代の日本人にとっては、思想に対する信頼感が欠落していることに対して、危機感を抱かない性向が当然のごとくに認められているが、しかし、人間の本質とは、パスカルの言葉を借りるまでもなく、考える葦なのである。考える葦あるいは考える土台とは、思想である。いま、僕たちは、思想の質を問われているのである。言葉どおり、概念どおりの生成に繋がる思想の確立の可能性を問われているのである。

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長野安晃

○ジュリアン・ソレルのごとき生き方は、やはり夢のまた夢だったかー

2010-03-16 15:29:57 | 観想
○ジュリアン・ソレルのごとき生き方は、やはり夢のまた夢だったかー

あのゴツクタイ体躯のスタンダールの脳髄の中から絞り出した青年ジュリアン・ソレルとは、溢れるような知性と、痩身だが筋肉質のすらりとした体型と、当時の貴族夫人ならひとたまりもないほどに惚れてしまう美貌と、何より野心溢れるエネルギッシュな行動力の持ち主として、「赤と黒」の創作空間の中に忽然と姿を現すのである。昨今のイケメン程度の青年が大人の女性を垂らし込んでも、なんということもない、よくある色恋沙汰に過ぎないが、ジュリアンの貴婦人の落とし方には、野心と知性とがない交ぜになった底力のごとき恋情が介在するのである。野心ゆえに近づいた貴婦人たちに、野心という次元を遥かに超えた愛の原型らしきものを彼女たちの心に刻印するさまは、単なる色恋沙汰ではない、青年ジュリアンの知性あってのなせる業としか表現のしようのないものである。しかし、はっきりと云えることは、ジュリアンは身分の高い女性を我がものとはするが、絶対に独占欲に溺れたりはしないし、愛の先にあるものを見据えてもいるのである。それがジュリアン・ソレルという青年のしたたかさである。

青年の頃、片方のポケットに、マルクス、エンゲルスの何冊かの文庫本、もう片一方のポケットにはスタンダールの文庫本を入れて歩いていた。それに加えて、ボードレールの「パリの憂愁」。僕は過激な活動家でありながら、どちらかと云うとジュリアン・ソレルの野心と彼に野心を抱かせた貴族社会という巨大なヒエラルキーに対する反抗の仕方に憧れた。暴力革命よりは、ヒエラルキーそのものの中に入り込み、ヒエラルキーを支える土台を突き崩してやろうとする一人ぼっちの孤高の闘い。ボードレールの詩集に託された人間の心の奥底に沈殿した暗黒の、その果ての美しさ。そして両者に共通するのは、滅びの美学である。僕は確実に政治というカテゴリーから外れた活動家?だったと思う。たぶん、どこかの時点で自滅したかったのだ、とも思う。

自分勝手につくりかえたジュリアン・ソレルが僕の心を占領していたし、だからこそ、ジュリアンの野心崩れて、ギロチンの露と消えたことと自分を重ね合わせていたのだろう。野間宏が戦争体験を「崩壊感覚」という秀作で告発したのとはまったく違う意味で、僕は、自己の崩壊を願っていたし、それを願う感覚をこそ、僕自身の崩壊感覚である、と認識していたのである。僕が自己の人生を完全なる失敗作だと思うのは、これまでの人生で何度も遭遇した崩壊寸前の状態から、中途半端に立ちあがってきたからである。そこには何も学ぶべきものなどなかった。ジュリアンに重ね合わせていた崩壊感覚の感性は鈍るし、かといって、生きる意欲が高揚したわけでもない。むしろ自己の生命力が弱体化するばかりであった。そして、弱体化した極限がいまの僕の寄って立つ位置なのだから、もはや救いはない。これにて書く気力なし。パラパラとスタンダールか、フロベールの著作を、指を舐めつつめくってみよう。これこそ、老体化した男の読書法だから。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃