○過去と向き合う必要がある!何のために?
つらき過去の思い出も、いつまでも慈しみ、抱え込んでいたい過去の出来事も、なんとなく頭を掠めて通り過ぎるくらいの、どうでもいいような経験も、そのすべてに意味がある、と僕は思っている。ただし、過去の意味を生かすも殺すも、考え方次第。単直に云えば、過去が輝かしきものであれ、唾棄したいようなそれであれ、過去の出来事に単純に縛られているのは、どう控えめに見ても間違っているし、そのことが、その人の現在も未来も幸福に導いてくれないのは確かなことだろうと思うのである。しかし、間違ってはいけないのは、過去の出来事をなかったことにして、それらを忘却の彼方に放り投げることが、未来を開拓する(cultivate)ものだ、などという錯誤に陥らないことである。僕たちは自己の過去と向き合わなければならないのである。逃げることは許されない。どういう意味で?以下に簡単に述べる。
僕たちの思考回路というのは、過去の出来事、学び等々の集積の結果である。これは動かせぬ現実だ。が、僕がここで述べたいのは、思考回路の力学に関することである。それが、限りなく過去に収斂されてしまうような、情緒的で、消極的で、観念的なものなのか、はたまた、過去の出来事を現在の思想から、再構築し、自己の生の再生のために生かすことが出来る代物なのか、という違い。言うまでもなく、過去は現在に深き影を落とす。当然のことだ。だが、過去の経験知の単純な集積の上に立った現在が、いまという時間であるとするなら、その人の<いま>は、現在そのものではない。過去の出来事の焼き直しを、いまの生に投影させているだけの人生なんて、これほどつまらないことはない、と僕は思うのである。過去のある時点で生きる勇気を挫かれた人は、いつまでもその挫折感を抱いた時点から世界を眺めているに過ぎないのである。未来はあくまで、切り開くものなのだ。どうやって?かなりな力業で。
なんて、書いている僕自身に、雄々しき勇気が備わっているわけではない。ただ、こうは云える。怖々ながらも、一つ一つ、過去へ収斂されようとする思想のモーメントを現在に引き戻そうと努力はする。思想的な強靭さを加味した現実の光を照射して、過去の苛酷な出来事を捉え返す。そうでなければ、過去の総括などと称して、こんなしんどいことを書き続けることなどとっくの昔に放棄している。あるいは、単なる感傷主義に陥ってつまらない生の残滓の中にすでにいる。僕にとって、過去は現在を、未来を創造する大切な素材なのである。この時点において、思想の再構築(reconstruct)とか、再生(rebuild)という概念が入りこんで来る。人はいまを生き生きと生きるために、そしてその延長線上に未来を築くために生きるのである。死んだように生きたくはない。これが僕の人生訓だ。これからも闘いは続く。覚悟の上である。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
つらき過去の思い出も、いつまでも慈しみ、抱え込んでいたい過去の出来事も、なんとなく頭を掠めて通り過ぎるくらいの、どうでもいいような経験も、そのすべてに意味がある、と僕は思っている。ただし、過去の意味を生かすも殺すも、考え方次第。単直に云えば、過去が輝かしきものであれ、唾棄したいようなそれであれ、過去の出来事に単純に縛られているのは、どう控えめに見ても間違っているし、そのことが、その人の現在も未来も幸福に導いてくれないのは確かなことだろうと思うのである。しかし、間違ってはいけないのは、過去の出来事をなかったことにして、それらを忘却の彼方に放り投げることが、未来を開拓する(cultivate)ものだ、などという錯誤に陥らないことである。僕たちは自己の過去と向き合わなければならないのである。逃げることは許されない。どういう意味で?以下に簡単に述べる。
僕たちの思考回路というのは、過去の出来事、学び等々の集積の結果である。これは動かせぬ現実だ。が、僕がここで述べたいのは、思考回路の力学に関することである。それが、限りなく過去に収斂されてしまうような、情緒的で、消極的で、観念的なものなのか、はたまた、過去の出来事を現在の思想から、再構築し、自己の生の再生のために生かすことが出来る代物なのか、という違い。言うまでもなく、過去は現在に深き影を落とす。当然のことだ。だが、過去の経験知の単純な集積の上に立った現在が、いまという時間であるとするなら、その人の<いま>は、現在そのものではない。過去の出来事の焼き直しを、いまの生に投影させているだけの人生なんて、これほどつまらないことはない、と僕は思うのである。過去のある時点で生きる勇気を挫かれた人は、いつまでもその挫折感を抱いた時点から世界を眺めているに過ぎないのである。未来はあくまで、切り開くものなのだ。どうやって?かなりな力業で。
なんて、書いている僕自身に、雄々しき勇気が備わっているわけではない。ただ、こうは云える。怖々ながらも、一つ一つ、過去へ収斂されようとする思想のモーメントを現在に引き戻そうと努力はする。思想的な強靭さを加味した現実の光を照射して、過去の苛酷な出来事を捉え返す。そうでなければ、過去の総括などと称して、こんなしんどいことを書き続けることなどとっくの昔に放棄している。あるいは、単なる感傷主義に陥ってつまらない生の残滓の中にすでにいる。僕にとって、過去は現在を、未来を創造する大切な素材なのである。この時点において、思想の再構築(reconstruct)とか、再生(rebuild)という概念が入りこんで来る。人はいまを生き生きと生きるために、そしてその延長線上に未来を築くために生きるのである。死んだように生きたくはない。これが僕の人生訓だ。これからも闘いは続く。覚悟の上である。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃