ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○過去と向き合う必要がある!何のために?

2011-11-30 11:48:22 | 観想
○過去と向き合う必要がある!何のために?

つらき過去の思い出も、いつまでも慈しみ、抱え込んでいたい過去の出来事も、なんとなく頭を掠めて通り過ぎるくらいの、どうでもいいような経験も、そのすべてに意味がある、と僕は思っている。ただし、過去の意味を生かすも殺すも、考え方次第。単直に云えば、過去が輝かしきものであれ、唾棄したいようなそれであれ、過去の出来事に単純に縛られているのは、どう控えめに見ても間違っているし、そのことが、その人の現在も未来も幸福に導いてくれないのは確かなことだろうと思うのである。しかし、間違ってはいけないのは、過去の出来事をなかったことにして、それらを忘却の彼方に放り投げることが、未来を開拓する(cultivate)ものだ、などという錯誤に陥らないことである。僕たちは自己の過去と向き合わなければならないのである。逃げることは許されない。どういう意味で?以下に簡単に述べる。

僕たちの思考回路というのは、過去の出来事、学び等々の集積の結果である。これは動かせぬ現実だ。が、僕がここで述べたいのは、思考回路の力学に関することである。それが、限りなく過去に収斂されてしまうような、情緒的で、消極的で、観念的なものなのか、はたまた、過去の出来事を現在の思想から、再構築し、自己の生の再生のために生かすことが出来る代物なのか、という違い。言うまでもなく、過去は現在に深き影を落とす。当然のことだ。だが、過去の経験知の単純な集積の上に立った現在が、いまという時間であるとするなら、その人の<いま>は、現在そのものではない。過去の出来事の焼き直しを、いまの生に投影させているだけの人生なんて、これほどつまらないことはない、と僕は思うのである。過去のある時点で生きる勇気を挫かれた人は、いつまでもその挫折感を抱いた時点から世界を眺めているに過ぎないのである。未来はあくまで、切り開くものなのだ。どうやって?かなりな力業で。

なんて、書いている僕自身に、雄々しき勇気が備わっているわけではない。ただ、こうは云える。怖々ながらも、一つ一つ、過去へ収斂されようとする思想のモーメントを現在に引き戻そうと努力はする。思想的な強靭さを加味した現実の光を照射して、過去の苛酷な出来事を捉え返す。そうでなければ、過去の総括などと称して、こんなしんどいことを書き続けることなどとっくの昔に放棄している。あるいは、単なる感傷主義に陥ってつまらない生の残滓の中にすでにいる。僕にとって、過去は現在を、未来を創造する大切な素材なのである。この時点において、思想の再構築(reconstruct)とか、再生(rebuild)という概念が入りこんで来る。人はいまを生き生きと生きるために、そしてその延長線上に未来を築くために生きるのである。死んだように生きたくはない。これが僕の人生訓だ。これからも闘いは続く。覚悟の上である。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○なぜ、学校空間の中で閉塞したがる人々がいるのだろうか?

2011-11-29 11:19:24 | 学校教育
○なぜ、学校空間の中で閉塞したがる人々がいるのだろうか?

不条理なことは、しばしば予期せぬときに身に降りかかる。もう数年前になるが、僕は京都美山高校という通信制の学校の機関提携カウンセラーという立場を一方的に破棄されたのである。この学校の機関提携カウンセラーになった経緯は、校長さんの大野先生という方が、僕の京都カウンセリングルームのHPをご覧になって共感してくださり、唐突に来訪されたのがきっかけである。当時の、この人は立派な人で、ご本人は「歌う校長」と称して、ギター抱えてところを選ばず講演をしてまわる。あるいは、フォークソングの合間に、美山高校の宣伝をしているわけである。この人とは食事をしながら教育論をやった。僕がかつて教師だった経験も議論の話題になった。機関提携カウンセラーと云っても、何の報酬もないのである。年に一度、保護者の会が総会を開き、その際に議題ごとにグループ討論をする際に助言者になるか、単独の講演会をするかなのである。そこに招かれたときは、確か交通費込みで3万円頂いていたか。僕にとっては、この学校との関係は、金銭的なそれではなくて、普通学校からはじかれて、行きどころを失くした生徒さんたちの喪失した自信を再構築し、確かな学力をつけるという、大野校長の意気に共感したからお付き合いし続けたのである。僕の印象では、当初はとても開かれた教育観を有した通信制学校だったと認識している。

ところが、である。大阪の公立中学校の一人の教師が、この美山高校の教育方針に惚れこんで(あくまで本人の言である)、大野さんに雇用してもらうように直訴したのである。結果的には、この、たぶん、実際には大阪の公立中学校では使い物にならなかった人物を、大野さんは、副校長という職責を与えて雇用したのである。大野さんがこの人物を連れて挨拶に来た折に、この採用は失敗だなあ、という率直な印象を持ったのをありありと思い出す。言葉の端々に、学校が開かれた存在ではなく、あくまで閉じた世界として、生徒さんたちに教えるのが学校の役割だ、という姿勢が透けて見えたからである。

この副校長は、京都美山高校と僕のHPとのリンクを外すと通告してきた。理由が笑わせるのである。というよりも、美山高校の生徒さんたちを見下していることにまったく本人は気づいていないのである。彼は、僕のブログの一つにひっかかった。あるブログのタイトルの中の「性愛」という文言が、教育的でない、というのである。また、美山高校の生徒には、この種のオトナの価値観に属する文言は理解出来ないとも言ったのである。アホか、とつくづくと思ったな。大野さんも人を見る目がなくなった、とも。この男は、通信制という学校でありながら、頭の中は、自分がはじかれただろう、鉄柵に囲まれた学校空間と、その中でしか通用しないバカげた価値観の延長線上で、開かれていた美山高校を、遮二無二、閉塞させようとしていたのである。大野さんに、前記した内実のメールを何度か書き送ったが、返信してこなかった。彼も堕落したのだろう。教師たるものが、教育に関して真面目に質問状を受けているのである。それを無視するなどというのは、教師失格である。人間的頽落である。回答もないままに放置されたので、「京都美山高校にもの申す(1)(2)」を<ヤスの雑草日記>に書いた。興味を抱かれた方は、京都カウンセリングルーム(http://www.counselor-nagano.jp/)のトップページの<ヤスの雑草日記>の検索欄に「京都美山高校にもの申す」と入れていただければ、読めるはずである。

さて、以下が、アホウな副校長が内容も読まずに言葉だけに引っかかり、大野校長も真偽のほどを検証もせず、また、まじめな質問状に対して無視を決め込み、このことがきっかけで、僕と京都美山高校との縁が切れたブログである。再掲載しておくので、読んでくださる方は、ぜひどうぞ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○性愛という必然について想うこと。

愛という概念について語ろうとするとき、人は性の問題を意図的に回避するか、偽悪的に性の縦横無尽さについて語りはじめるかのいずれかであって、性と愛が不可欠な合一性を持っていることを明確に語らないことが多いのはなぜなのだろうか?人間社会において、性的関係性が情愛というファクターを上回る瞬間が如何に多いことか。愛と性が切り離せないという前提に立った上で言うが、昨今、男女の関係性のもつれゆえに起こる事件の本質は、性が過剰になったときか、あるいは、男女の関係性の中にその他の要素、たとえば、金銭などの問題がこじれの原因になっていることが殆どではないか。男が、あるいは女が、深い関係性にある、あるいはかつてそうであったパートナーシップを、相手を破壊することによって解消するなどというのは、性の過剰か、その他の要素が深く絡んでいないわけがないではないか。そもそも性愛の構築がなされている場合、男女あるいは男男、女女の関係性が壊れることはないのである。性が充溢していることを、特に世の中の制度上の規範からはみ出したそれを、不倫と呼びならわているようだ。週刊誌ネタの抜かせないものになっている。それにしても、不倫とはおかしな言葉である。単純に言うならば、結婚制度という倫理的関係からはみ出した男女の関係性を表現する言葉なのだろうが、僕の感性からすれば、いかにも下品な言葉に聞こえる。この考え方からすれば、もし、性への憧憬から異性の間を彷徨する人間がいたとして、その人間が制度上の結婚をしていたとき、それが不倫と言うことになる。短期間の異なる異性との性的関係性による満足感などは、まさにいっときのもので、すぐに倦み飽きる。だからこそ、また別のターゲットを探すことになる。不倫の定義がこのようなものならば、やはり、不倫とは不可解で、下劣な言葉だと言うしかない。端的に言うと、性がもたらす快楽に生きる歓びはない。もっと正確に言うと、性的関係性だけに人生の倦怠解消を求めることがそもそも間違っているのである。この場合、性の充溢とは、生の貧困さと同義語である。生きることに倦み疲れた人間が性のもたらすいっときの快楽を求めても、生きる歓びを快復してくれる特効薬にはなり得ない。延々と救済の道なき棘の道を歩き続けることになる。これは性の追求であって、性愛の問題とはまったく異なる次元の問題である。性の追求の末に待ち受けているのは、性の堕落を超えて、人間的堕落でしかない。誤解なく。僕は性を嫌悪しているのでは決してない。人間にとって、性は大切な、抜き難きものだと思っている。宗教的理念によって、無理矢理性を断絶させる人々もいるが、そういう人たちの中から、卑猥な破壊僧が出現する。笑止千万である。

性的営みが疎ましく感じられるとき、確実に両者の関係性の中に精神的亀裂が入っている。それを愛の欠落という。したがって、愛しているのに、性的な関係性を忌避するなどというのは、日常生活に波風を立てたくないだけの、誤魔化しの制度上の倫理観だ。これを不倫と言わずして、何が不倫なのだろうか、と僕は思う。昨今の日本人のmoralとimmoralとの違いは、愛の本質からあまりにも遠くにある概念規定だと思う。倫理が不倫であり、不倫が倫理であり得ることなど、世の中に溢れている。何をもってこのような規範が成り立つのかというと、性愛の合一という、愛を育むために不可欠な要素があるかどうか、である。たとえ、制度的夫婦関係においても、性愛の観念が育めない、あるいは、育もうとする意思が喪失したとき、それを不倫と呼ぶのである。制度に保障された不倫関係の何と多いこと!今日の観想として、書き遺す。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃 

○小学校、中学校、高等学校の指導体制についての短い観想

2011-11-28 00:57:22 | 学校教育
○小学校、中学校、高等学校の指導体制についての短い観想

近頃、学校の先生方が調子を崩されることが多いと聞きます。ここに書くのは、あくまで間接的に学校の様子を聞いた結果、僕が考えて書き記すことです。生徒指導の問題、先生同士のコミュニケーションに関わる問題が、その中核的な話題です。

さて、前者に主に関わること。そもそも生徒指導とは何か、という定義が、学校空間にはない場合が多いのではないでしょうか?なんのための生徒指導?各学校にある校則を守らせるためでしょうか?それでは、校則とはいったいなんのためにあるのでしょうか?集団生活における規則を守ることによって、社会に巣立つための準備をするため。ごもっとも。しかし、その当の集団生活を守るための校則は、誰が決めているのでしょうか?先生が勝手に決めている場合が殆どではないのでしょうか、昨今は。人間、みんな時代の潮流の中で生きているのです。その時々の風潮に影響されないはずがないでしょう。それが正しい人間理解です。ところが、学校空間においては、このあまりに当然の発想が黙殺されてしまうようです。校則の基準は先生方のまったき恣意的な想いで、勝手気儘につくられます。むしろ時代に逆らうように。反逆するなら、それ相当の生徒像をイメージして教育し切る、という覚悟が必要ですけれど、実態はそうではありません。一歩学校から出れば、絶対に通用しなようなことを校則にし、自己満足して、それを生徒指導、生活指導の大前提にしているのです。それは、おかしいでしょう?児童会、生徒会と校則について話合うような体制をとっている学校が一体、この日本にどれだけあるのでしょうか?限りなくゼロに近いでしょう。もっと砕いて言うならば、先生方の勝手な好みで校則はつくられているのです。それも学校空間という閉鎖的な、限られた時間の間だけ守られればよい、とする、先生方のかなり自己満足的な指導方針のもとになっているわけですから、おかしなことが教育の大部分を占めていることになります。九州のある高等学校では、男子生徒が、女子生徒の陰部にあたる部分を何秒か以上(アホらしくて忘れました)凝視すると、校則違反なのだそうです。こういう校則をつくった先生は、変態か?と思われても仕方がありませんでしょう?この種の校則は極端な珍しい例でしょうか?いいえ、日本中に、このレベルの、常識を疑うような校則はたくさんあります。それを大真面目に教育という名のもとに指導?する素材にしているわけです。素材などという言葉では足りませんね。まるで、憲法のように、です。これでは、学校はおもしろくないでしょう。まともな先生方は腐ってしまいます。

校則も含めて、学習指導や生徒指導をどのようになすべきか、という課題は、学年団の先生方が、年度当初に指導方針案として、職員会議に提案して了承を得るべきものです。もし、生徒指導部という校務分掌というものがあるなら、そこに所属している先生方は、各学年団の学年会に助言者として参加して、その学校の教育方針の全体像を外さないことが役割です。そうして、各学年団の指導方針が、職員会議で議論されるのです。ついでに言っておくと、各校務分掌もその年度の指導方針を文書で提案するべきです。こういうことが行われていれば、九州の高等学校における女子生徒の陰部がどうのこうの、というようなアホウな校則は生まれようがありません。教育は、個としての先生が、経験知だけでなすべきものでは、決してありません。独りよがりになるだけです。また、若い先生方が自信をもって、生徒指導にあたれません。

管理職の責任は重大ですよ。職員会議が議論の場になり得ていないのは、管理職の責任です。いまの大半の学校現場では、職員会議は、議論する場ではなくて、単なる連絡会議の様相になり下がっているようです。これでは、先生方の英知を集めて、生徒指導に生かせるわけがありません。個人の勝手な思い込みや、価値観が支配的な教育環境ほどつまらないものはないのです。自分の思いどおりになる一握りの先生方にとっては天国ですけれど、殆どの先生方にとっては、無意味な時間を浪費しているわけですから、働きがいもありませんでしょう。先生どうしのコミュニケーションがうまくいかない、というのは、大抵は上記のようなことが起こっているからでしょう。学校に行っておもしろくなるようにしませんか?ある意味簡単なことです。たとえば、僕が書いたことの一端でも実践すれば、学校全体の、先生方の、そして、なにより生徒さんたちの意識が変わります。楽しくなければ、学校なんて意味のないところです。そうは思いませんか?

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○子育て残酷物語-断章

2011-11-26 13:47:33 | 精神病理
○子育て残酷物語-断章

昨今、マスコミ報道などで、子どもに対する虐待から死に至らしめる犯罪行為などが喧伝されている。育児放棄などを含めると、この種の子捨て(オバ捨ての逆バージョンだが、子どもには意思を明確に伝えられないこと、また、かつての日本の貧困ゆえのオバ捨てとはまったく様相が異なる)と称すべき諸現象は、多種多様である。無論、子捨てとは、捨てられた子どもの命が奪われても、幸運にも生き残ったとしても、その後の人生に多大な影響を与えるという意味において、やはり、総称的に、子育て残酷物語と云って差し支えないような、親から子への消し難い烙印のごとき言動について、思うところを今日は書き綴る。

虐待こそが、最も単純な動機を内包している子捨ての姿である。子どもの存在が疎ましいという消極的な理由から、子どもの存在を捨象すべく、子殺しに至るまでの虐待行為は、事件性という点においても、その分かりやすさという点においても、マスコミ報道になりやすい。だから、僕たちは、子育ての残虐性をしばしば、虐待という一点に収斂させる傾向がある。虐待による殺人という結末が重すぎるものだということは諒解した上で、さて、子育てにおける隠微な残酷性とはいったいどのようなものなのかについて述べる。

子どもという概念が定着したのは、近代に入ってからである。このことは周知の事実であるから簡単に描く。つまりこうだ。近代以前の子どもとは、庇護し、育て、次の世代を担う存在として、大切に親が養育する対象などではなかったのである。子どもは、その頃、まったき労働力以外の何ものでもなかった。したがって、オトナとは、労働力として生み育てられ、酷使された経緯を経て、自分たちの子どもをつくる存在であるゆえに、親が子を精神的、肉体的支配下に置くことが異常でもなんでもなく、至極ありふれた親子の関係性のあり方だったと推察できる。このような精神の型が、人間にとって振り払い難い本質であるとするなら、現代における虐待をはじめとする、子どもを唾棄・忌避するような傾向性は、誰の心にも潜む心性であると認識した方がよさそうである。その上で、知育によって養われた理性で、原初的な残虐性を克服するという意識的な試みがあってしかるべきではなかろうか?

現代において、最も残酷な子育てのありようとは、親が前記したような自己の心性に対して無自覚で、無自覚ゆえの苛酷な支配欲を子どもに対して具現化しているような場合を指して云うのである。昨今、心理学的な用語として、親子の共依存という精神の煉獄(無論、この場合の煉獄とはあくまで子どもの側の問題である)が話題にされることがしばしばあるが、共依存の様式は、親が子を一方的に支配し、子は支配されながらも、親の支配欲を愛情と錯誤して、その支配下から抜け出せない状況のことを云うのである。が、支配者が支配するものに依存するというのも、言葉の定義として少しの違和感がある。共依存の本質は、近代以前の、親の子に対する絶対的な支配のあり方が原型として在り、子はその支配に屈して、抗いの力を奪われているという、原初的な親子関係に起因しているのではなかろうか?

現代における子育てが残酷になるのは、その目的が、子どもを庇護し、教育するという現れの裏に隠れた、子どもに対する支配であるゆえに残酷なのである。強圧的な親は、躾(しつけ)や教育の場面で、苛酷な課題を課してそれを愛情と錯誤して憚らない。また、世の荒波に簡単に屈服してしまうような幼児的な親は、子どもに対して親が負うべき過大な重荷を背負わせてしまう。いずれにしても、子育てにおける残酷物語そのものである。

子育て残酷物語の中に投げ込まれた子どもたちが、その蜘蛛の糸から抜け出せる確率は極めて低い。願わくば、彼らが親の世代になったとき、同じことを繰り返しませんように。悪しき、たゆまぬ循環こそが、残酷物語を助長し、永続化させるわけだから。



文学ノート僕はかつてここにいた
長野安晃

○感傷主義的語り部-さだまさし考

2011-11-24 12:35:52 | 芸能
○感傷主義的語り部-さだまさし考

先日、ふとしたきっかけでさだまさしの中古CDを買った。まだLPレコードが生き残っていた頃に、さだまさしの関白宣言がヒットしたときの2枚組のを持っていたのに、引っ越しをきっかけに、紛失。それ以来、さだまさしとの縁も切れて長かった。

さだまさしは歌声もいいし、歌のメロディーだって、音楽オンチにだってついていけそうな錯覚を抱かせるほどに簡明だ。そういう意味ではこれほど抵抗感なく聴ける歌手もめずらしい。グレープ時代にバイオリンを弾いていたけれど、彼のバイオリンを聴くと、古くから日本にある歌謡の旋律を想起させる。かつては、殆ど三味線で聴いていたものに限りなく近い。ジャンル分けとして正しいのかどうかは知らないが、頭の中を掠めるのは、エレジーというコトバ。少なくとも僕の内面では、さだまさしとエレジーという語彙は共存しているのは確かなことなのである。

さだまさしと落語家との付き合いは、かなり濃密なもので、彼の軽妙な語りの根っ子は、落語の中の、笑いと憂いを拾い集めてきたものではないか、と思う。日本の古典的な音楽の旋律に乗せた上質な笑いと憂いとのコラボ、それをさだまさしの語りの美しさと称してもよいのではないか?彼が聴衆を魅惑し、時に笑わせ、時に涙させるものの本質は、感傷主義である。僕はセンチメンタリズムの否定論者ではない。古い概念を使わせてもらうならば、人間の下部構造と上部構造の、後者に属する最下層の価値として認識すればよいのではないか。誤解なく。最下層を小馬鹿にしているのでは決してない。人間には、生にまつわる浮き沈みがあり、沈んだときのつらさ、哀しみ、涙、失望、さらには、その果てには絶望感がついてまわるのである。これらは上部構造の中では、最下層の位相に属するものだろうが、それにしても、人間は、この種の感傷主義から自由にはなれない。もっと正確に云うならば、感傷主義は必要不可欠な生のファクターと規定するほうが的を得ている、と思う。

さて、さだまさしの語りを聴かされていると、心の奥底に在る、ジワッと湧き出てくる、抑え難き情念をどうすることも出来なくなってくる。この種の情念と向き合ったとき、僕たちは、泣き笑いという表現手段を通してしか、自己解放をすべき術がないのである。こんなふうに僕たちはさだまさしの術中にハマる。感傷主義の語り部の面目躍如たるところだろう。

人生、とひと言で表現するには、あまりにも多くのファクターが煮詰まり、凝縮された生の姿は、複雑に過ぎる。つまらない関係性の中に自分を置いてしまうと、光り輝くはずだった原石としての個性は、幾重にも折れ曲がる。ついに原石のまま、もっと悪くすれば、原石すら溶解してしまうかのごとき、不幸を背負ってしまう。社会的な、経済的な成功不成功は、人の幸不幸の規範とならないのは、お金持ちも、そうでない人もおなじだけの幸不幸を背負っているからだ。どちらが軟くて、どちらが厳しいとは云えないものがある。生きる、とはこういうものか、と開き直るしかないのだろう。ただ、開き直ったとしても、切なさや、哀しさ、生き難さに直面して、喘ぐことしばしばだ。そういうときの一服の清涼剤、それが感傷主義である。おセンチになって、自意識過剰になって、乗り切れることも多くある。その意味で、さだまさしの感傷主義的語り部の存在価値はこの先もずっと続くことだろう。今日の観想として書き遺しておこうと思う。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○恋愛適齢期-中高年の孤独

2011-11-22 20:28:22 | 観想
○恋愛適齢期-中高年の孤独

中高年から老境の域に入らんとしている、ジャック・ニコルソン演じる実業家と、売れっ子の脚本家に扮する、老いの中で美しさを危うく保っている、それでも魅力的なダイアン・キートンとの出会い。その偶発的な出会いは、ジャック・ニコルソンと別荘で数日を伴にしようとしていた、若すぎる女性の母親の予期せぬ来訪によって、実現する。加筆するまでもなく、ダイアン・キートン演じる脚本家は、ジャック・ニコルソンの恋人の実の母親である。二人の出会いは、ジャック・ニコルソンの若き女性好みからすると、この種の偶然性が働かなければ起こり得ない事実だった。二人きりになった、この中高年の男女二人のぎこちない会話と行動が、いつしか二人の心の中に言い知れぬ親和感を育んでいく。短い期間に、二人は急速に惹かれ合っていき、ぎこちなく抱擁し合い、そのぎこちなさが、お互いの存在そのものが融合するかのごとき交歓を感受し合うことになる。この瞬時は、互いの気持ちはホンモノだった。ダイアン・キートンは確実に離婚後初めての恋として、彼の存在を心に刻むことになる。が、哀しいかな、ジャック・ニコルソン演じる実業家の方は、仕事柄出会う機会の多い、娘のような年齢の女性たちとの浮名を流すこと、彼はそのことと恋愛とが同義語であると、長年の間錯誤してきたのである。ダイアン・キートンを一方的に愛している勤務医のキアヌ・リーブスとは、息子のような年齢差がある。彼と食事しているところに、日替わりのようにつきあう相手を変えつつ、若い女性を連れたジャック・ニコルソンとがレストランで鉢合わせする。ジャック・ニコルソンにしてみれば、愛し合った、その刹那、すばらしい、愛している、とダイアン・キートンに伝えた言葉は決してウソではないにしても、その気持ちをどう成就させるべきかが分からないまま、以前と同じような女性関係の中に身を置いていたに過ぎないのである。仕事におけるルーティーンワークのごとくに。とても自然に。

ダイアン・キートンは傷つき果て、ジャック・ニコルソンから離別する。そのとき初めて彼は、自分のこれまでの長きに渡る過去の女性関係のありようを辿ってみる気になる。ダイアン・キートンの自分に対する愛のあり方が分からなかったからだ。一人一人尋ねて歩くが、絵に描いたような門前払いばかり。かつて自分を愛していると確信を持ち、その上で、自分から去り、たぶん、いまでも逢えば快く迎えてくれると確信していた女性たちが、すべからく彼に蔑視の目を向け、追い払うのである。自分のこれまでの人生の道程そのものが、虚妄の上に築かれた錯覚の集積だったことに彼は心の深いところで気づく。彼の仕事もM&A(Merger and Acquisition)という、のっとりに近い会社経営で業績を伸ばしてきたわけで、そこで出会う人間たちとの間に、あるいは、巡り合う女性たちとの間に、さらには、彼自身の他者に対する気持ちに、ありふれた割り切りの気分が濃厚な介在物として立ちはだかっていたのは疑う余地がない。ジャック・ニコルソン扮する実業家の内面が、自然的な時間の流れの上では、確実に老いさらばえながらも、自分では決して老境に至った気分や思想の深化を感得できないままに、孤独感の只中に追い込まれたことになっていたのである。

人は老いて孤独になることが怖いのではない。老いに対して無自覚になることによって、名声や金銭の力で手に入れられるものの総体が、老いを忘却させることが怖いのである。もっと正確に言うと、老いの忘却に直面し、その実体を識ることが怖いのである。

ジャック・ニコルソンという個性が、老いる意味の錯誤をよく表現した映画である。この実業家と脚本家は、たぶん、二人ともに初めて人を愛することの意味を、老いる過程で識る。中高年のイニシエーションストーリーだと考えればよい。イニシエーションは、若者の専売特許ではない。近頃は肉体的な老いに抗う傾向が目立つばかりだが、老いて、精神が熟成するということにも目を向けないと、中高年の孤独感は深まるばかりではないのだろうか?肉体は老化し、心は幼稚なままなんて、不幸を絵に描いたようなものだろう。恋愛における適齢期は、いつの時代、どの年齢であれ、その人なりの時宜というものがあるのだろうか、とも思う。今日の観想として書き遺す。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


○シルベスタ・スタローン、雑感。

2011-11-21 15:07:40 | 芸能
○シルベスタ・スタローン、雑感。

シルベスタ・スタローンのファンの方々にとっては、甚だ申し訳ないことを書くのだが、それにしても、いまはスタローンに対して否定的な感覚を持っているにしても、結構彼の作品をたくさん観ているから、こじつければ、僕もスタローンのファンの一人なのかも知れない。そうであれば、ファンからの苦言とでもしておいて頂ければ書く方も気楽というものである。

とりあえず、これはみなさんと共有できる感覚だと思うが、この人の頭は非常に単純に出来ているらしい。代表作は、ロッキーとランボーのシリーズ物だが、それぞれの主人公の置きどころが異なるだけで、ヒーローものということでは、まったく同じ種の映画である。スタローンは脚本も自分で書くわけだから、映画の評価が、スタローンの思想性の評価と直結しているのか、とも思う。

これを書くきっかけになったのは、昨夜、ロッキーファイナルのDVDを観たことだろう。観ながら、僕はなんで、スタローンの映画をこれまで何度も観てしまった(そう、観てしまったのだ、という慨嘆です)のだろうか、という後悔とも、悔しさとも云える感慨を抱いた次第。ロッキー・ファイナルの前半の殆どはつまらない、のひと言に尽きた。主人公のロッキーが、心の支えとして愛していた妻のエイドリアンの死を受け入れられず、経営するイタリアンレストランもエイドリアンと名付けている。一人息子は平凡なサラリーマンになっているが、常に父の過去の名声を通してしか自分を認識してくれない世の中に、そして、その主因たる父親に対して、いつまでもイジケている。世の中にごまんとある父子の関係性の距離感と壊れ方のプロトタイプである。またロッキーの失った妻に対する思慕の念も、これまた愛する人に先立たれた者のプロトタイプだ。このような人間の関係性の中で交わされる会話は、やはりどのように洒落た言葉を脚本の中に投げいれようと、プロトタイプという範疇から逃れられない。ランボーが追い詰められるまでのシーンも、やはり個としての人間が組織に対して反抗するときの、最も想像しやすいプロトタイプと云える。どちらの作品の主人公も、モンスター級の気力と体力を兼ね備えているという非現実が、危うく映画としての体裁を保っている。これが、シルベスタ・スタローンの持ち味だろうか?人間の、まったく屈折すらしていない喜怒哀楽の感情の波を、スタローンの創る物語性の中で、いっとき静めてくれる役割を持ったものとして、観客は映画を観るのだろうか?とも思ってみる。

しかし、ロッキーが、あるいはランボーが、眼前に立ちはだかる高い壁に対して、力の限りを尽くして立ち向かうまでの伏線としての物語が、伏線になり得ていないのである。だから鑑賞者は、総じてロッキーの試合に向けてのトレーニングの光景と試合当日のリング上のハラハラドキドキするロッキーの闘い方に心を奪われるのである。ただそれだけだ。また、ランボーが、たった一人で大勢のプロの武装集団と闘い、ダイ・ハードであり得ることに対して、鑑賞者は自己の存在と重ね合わせて、強靭なフィクションとしての自我像を想起して、武者震いするのである。そういう意味において、ロッキーもランボーも、物語の伏線自体が無用なのである。ただ、それだけだ。これが僕のシルベスタ・スタローンに抱く不満。肉体派だけど、アーノルド・シュワルツネッガ―のような魅力はない。中途半端なのだ、どこまでも。さて、スタローンが、あのフランスの天才詩人のアルチュール・ランボーから、ランボーという主人公を創ったとも思えぬし。果たして、スタローンは今後、どこへ向かうのだろうか?

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○異形を造る快楽と哀しみ

2011-11-20 13:21:57 | 観想
○異形を造る快楽と哀しみ

今日はボディビルダーの話。ボディビルダーたちの、頂点としてのミスター・オリンピア(女性の場合は、ミズオリンピア)の、トップ10たちの、大会前のトレーニング風景がDVD3枚に収められている。これを観るには9時間かかる。まだ観終わらない。なぜこんなに長いDVDになっているかというと、殆ど編集というものをやっていないからである。たとえば、あるビルダーが、胸筋の鍛錬をするとする。それを編集なしで、延々と撮り続けるのである。筋トレに興味のない人にとっては、退屈以外の何ものでもない代物である。昨今は、ダイエットブームでもあり、男性と云えど、細マッチョなんていう言葉があるくらいだから、筋トレとは、痩せながらそれなりの均整のとれた筋肉をつける、というのが、大抵のスポーツジムの方針だし、そこに足を運ぶ人々の訓練の仕方でもある。そういう意味では、ミスター・オリンピアという大会に挑もうとしている男たちのからだ造りは、おおかたの日本人の健康志向の身体つくりとは対極に在るものだ、と云える。

多くの人たちは、プロのボディビルダーたちの体躯を観て、顔をしかめる。異常に発達した筋肉のつき方を薄気味悪がるのである。すべてが、あくまで巨大である。目指す体型もどこまでも特異なものである。たとえば、それがいかに特異なものなのかは、からだのすべての部分を、際限なく肥大させているからである。無論、彼らにも肥大させるための目的と基準はある。大会のジャッジたちが、何を基準にしているかにあくまで合わせるからだ。勝って、飯を食うために。

あらゆるアスリートたちについてまわる黒い噂。アナボリック・ステロイドの存在。とりわけ、プロ・ボディビルダーたちの異形の体型が、ステロイドの存在なしに造られるとは誰も思っていないだろう。大会では厳しい尿検査が義務づけられているから、勝負はそれまでの段階だ。無論DVDにはあくまで厳しいトレーニング風景と、ときおり選手たちのストイックな食事風景とがない交ぜになって、映し出される。プロティンは、もはや痩せるための補助食品として誰にでも認知されているが、彼らは大量の不味そうなそれを胃に流し込む。赤身の肉片を何枚も食べる。卵は卵白だけを取り出し、数えきれないほどに喰らう。反吐のような色のオートミールにグルタミンの粉末を振りかけて食す。表情はトレーニングで苦痛にゆがんだそれとまったく同じだ。とにかくがんばって口に入れる。

プロ・ボディビルダーたちは、異形になることで飯を食っているのである。もはや美的なものとは異なる次元である。誤解を解く。プロのボディビルダーたちを観て顔をしかめる人たちは、ステロイドをやって、厳しいトレーニングさえすれば誰でもあんなからだになれると安易に解釈しているようだが、決してそうではない。彼らは、100メートルを9秒代で走り抜けるアスリートと同じような天才性を持っているのである。彼らを軽蔑するなら、あの苦しげなトレーニングの十分の一でもやってみるとよい。たとえば数カ月。どれだけの体型の変化がある?トレーニングのルーティーンを絶えず変革する頭脳と才能がなければ、何一つ変わらないだろう。凡人にはかなわぬ異形の世界なのである。からだも異形ならば、それを維持するための生活形態も異形なのである。才能を持った少数のビルダーたちが、異形の生活様式に耐えて、異形のからだを造ることに凌ぎを削る。トレーニングはあくまで孤独で、厳しい。鏡に自分の姿を映すのは単にナルシシズム的な感傷主義ではない。プロの目で自分の体躯の異形の度合いを点検するためだ。ドヤ顔になるのは、そうでもしなければ長く苦しい鍛錬に耐えられないからである。

過剰なトレーニングのインターバルで見せる気弱で不安げな表情。自分の裡の弱さと必死に闘っている絵は、僕には彼らの異形の体躯よりも、興味深く、また美しく見える。そして、異形を造るという迷盲な精神に哀しみを覚える。決して蔑視などできはしない。僕は彼らに対して非常に肯定的だ。過食し、散歩程度しか身体を動かさなかった時代から彼らのことは認めている。DVDに登場するビルダ―の誰もが、絵に描いたような豪邸に住んでいて、ガレージには、ピカピカのスポーツカーが、彼らがジムに行くのを待ち受けている。金も入り、金使いを知らないのだろうな。

アナボリック・ステロイドの存在を知ったのは、100メートルを9秒代で軽々と走り抜けた、カナダのベン・ジョンソンが、ステロイド使用を暴かれて、記録を抹消され、大会参加も禁止されたことがはじまりだった。ベン・ジョンソンもそう言えば、ブラックの流線形のフォルムのスポーツカーに乗っていたな。結婚後に住む豪邸を建設中だった。スポーツカーの存在自体がどこかしら時代錯誤なのに、彼らが好んで乗るのがそれだとすると、たぶん、ボディ・ビルダーたちの価値基準が、ずっと以前の価値観に留まっているのだろうか、と思ってみたりする。アーノルド・シュワルツネッガーのマッチョぶりを許容出来ると思う人でも、現代のプロ・ボディビルダーたちの筋肉の肥大には、目を背ける人は多いだろう。人は異形を追求し出すと、果てしもない究極のゴールまで走る。異形を求める人々の哀しみもそこにある。そんな想いで、飽きもせずに長大な時間のDVDを観続けている。まだ、二巻の途中である。あと一巻はまるまる残っている。苦痛ではない。異形をつくる快楽と哀しみがつまっているんだから、観る価値は十二分にあるのである。さて、今夜も観るよ。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○乗り越えるべき壁?いつも自分の前に現存します。

2011-11-18 23:48:10 | 哲学
○乗り越えるべき壁?いつも自分の前に現存します。

人はどのような環境下においても、自分自身と向き合って生き抜く覚悟があれば、なんとか生き抜いていけます。無論、生き抜くとは、惰眠を貪るような生き方を指しません。それは、常に自分が対峙すべき課題から目を背けずに、向き合う覚悟のことを指して使う言葉です。<乗り越えるべき壁>と書きました。つまりは、乗り越えられない壁など存在しないからです。ここで話題にしているのは、くどいようですが、あくまで自分自身ときちんと向き合う覚悟のある人についての観想ですから、空想的にありもしないことを仮想して、考えにふけることを意味しません。誤解なく。

まったく間尺に合わないことをやっている場合は別として(そういう自覚があれば、即効やめればいいわけです。なすべきことはいくらでもあります)、ある程度でよろしいですから、適応できるところに身を置けたらそれは儲けものです。無論努力の成果でもあるのでしょうけれど。さて、問題は、その次です。人間の脳髄には、慣性のモーメントが働く能力?が備わっているようで、手をつけ始めたときの困難さなどは、時間を経るに従って、困難さが、普通の感覚に変わります。所謂慣れですね。簡単に慣れと言いますが、これは、その人に能力があるという証左です。慣れるにはそれなりの力量が必要だからです。でも、大抵の人は、慣れたら、その時点の精神状態に安住したがります。新たなことに挑戦することに憶病になりがちです。

たとえば、職場の異動や転勤や昇進で、仕事内容が変わった途端に調子を崩す人が出ます。これは、脳髄の慣性のモーメントに隷属した精神性だと言える状況です。社会科学的に表現すると、こういう心性を保守主義というのです。無批判な体制擁護の思想というのは、心的現象としては、慣性のモーメントに傾斜して、そこに安住している心境と言えるでしょう。保守主義者と自己規定して憚らない人は、その理由として、保守すべき価値あるものがあるだろう、と言います。それを伝統と言い表わしても構いませんけれど、しかし、伝統とは、その時々の成果がかたちとして残ったものであって、その一方で、人間をとりまく状況は刻々と変化し続けるのです。また、変化し続けるということを認めないと、状況が変わることに人は怯えてしまいます。つまり、人というのは、かなり意識的な自己確認、自己改革の機運を働かせる努力をしなければ、放っておくと、既成の価値意識に確実にすがります。蛇足ですが、既成の価値観とは、常に一歩も二歩も遅れた存在ですから、伝統という、聞こえのよろしいものにしがみ付くこと自体が保守主義です。保守主義とは、結局のところ、人が前を向き、刻々と移り変わる時代と向き合うことに背を向けた懐古趣味です。惰眠を貪っていたら、自然に保守主義者になることが出来ます。惰眠に理屈をつけることが、保守主義者の論理です。そこから何も得るものはありません。当然のことでしょう。


現代は、政治も経済も文化も含めて、何もかもが閉塞している感があります。しかし、この種の閉塞感は、マスの報道やエセ評論家たちが振りまいた雰囲気です。また、政治家たちも、既得権益を守ろうとする旧態依然とした金持ちたちに繰られています。あるいは、金持ちが自己の権益を守るために政治に携わりますから、僕たちはよほど意識的に、社会は変革し得るという思想を堅持する必要があります。当然のことですが、既成の名前ばかりの革新?政党などの政策はお話になりません。革新と云うばかりで、自らが保守化しています。そうでなければ、票をとれないと思い込んでいるからです。既得権益の暴かれ方を見ていれば、わかるでしょう?指弾されるのは、小物ばかりです。もっと大きな、国政レベル、国際的な既得権益を保守しようとする輩がいるのです。政治家もマスコミも事実を暴きません。自分たちの存在が危なくなるからです。

騙されないようにしましょう!僕たちは、この世界を切り開くことが出来ます。言葉どおりの再生も出来きます。いろんなことを視えなくさせられているだけです。かつてアメリカがもっと健康だった頃、一人の天才作家が出現しました。彼はラルフ・エリソン(Ralph Ellison)と云います。アメリカ社会におけるブラック・アメリカンの存在を「見えない人間」として描きました。しかし、それは現代社会にも十分に通用します。現代において、見えないのは、まともな人間です。そういう意味で、一読の価値はあります。お薦めします。かつては、ハヤカワ文庫で読めましたが、いまは絶版のようです。これだけ英語ブームなのです。石川遼くんの英語会話教材もいいですけれど、ペーパーバックで読んでご覧になるといいです。英語力がつきますから。Invisible Man(Vintage International)です。アマゾンで手に入ります。越えるべき壁が視えるかも知れませんから。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃





○まわりの空気を読み過ぎること-僕は間違っていると思うね

2011-11-17 13:31:32 | 観想
○まわりの空気を読み過ぎること-僕は間違っていると思うね。

昨今のKY(空気が読めない)叩きは少々度を越していると思う。明らかな差別主義が跋扈し始めたと思えてならないし、KYなどと云って安易に人を批判し、疎外するような風潮が、他人種排他主義とむすびつくのは誰もがどこかで気づいている兆候ではないのだろうか。国の経済政策の失敗や、それに伴う雇用制度の実質的な衰退と崩壊が、人々の心を荒ませているのは理解するに難くないのである。また、ふるまいとしての人との付き合い方のあれこれも当然あってしかるべきだし、他者との距離感のとり方における暗黙の諒解事項に関して、全否定するつもりも毛頭ないのである。

とは云っても、最近の、<空気を読む>ということの実体は、繰り返すが、底に明らかな差別主義が在るし、もっとソフトに表現しても、他者に対して開かれた自我をぶっつけていく誠実さに欠けるものではないのか?現象的に見ると、学校社会ではいじめがあり、職場においては、人間関係の不調和などが散見できる。しかし、よく考えてみようではないか。排他主義というのは、排斥される側の悲劇は必然だが、他者を強圧的に排他する側も、いつなんどき立場が入れ換わるかもしれない、という恐怖心に裏打ちされた心情がもたらす、低次元の人間の思考形態なのである。その意味で、排他主義の別称である、<まわりの空気を読む>ことの弊害とは、ひと言で表現するなら、自己閉塞という人間的頽落・堕落である。

まわりの空気をうまく読みおおせて、世の中をすいすいと泳ぎ切って、社会的地位もそこそこに獲得したとして、それが一体何を産み出すというのだろうか?人間とは、こういう人が思っているほどには器用な存在ではない。人と云うのはすべてを掬い切れない。取りこぼしは確実に在る。まわりの空気をうまく読んだつもりでも、読み切れない人との関係性も確実に在る。大体において、こういう人は、もっとも大切な足場となる親密な人間関係で破綻している場合が多い。ツケは、あるとき一気にどっと自分の身に降りかかっても来る。人の生き方なんて、良い意味でも悪い意味でも大抵うまく帳尻が合っているものなのである。

現代は、孤独で、閉塞感が強く、人は笑みを浮かべているかに見えても、どこかで互いが孤立しているような、薄ら寒い時代である。その原因を、かつて存在した地域社会が崩壊したからだ、というような凡俗な分析におっかぶせてもはじまらないだろう。確かに地域共同体的な社会は、確実に名実ともに瓦解したと思う。が、それにしても、瓦解後に現れた人間の関係性が、びくついた他者との関わりで危うく成り立っているとしたら、これほどグロテスクなことはないのである。まわりの空気を読めるとは、自己が受けとめ切れるずっと前の段階に、勝手な限界値を定めてバリアーをハリ巡らせるような、安逸で、臆病な心的状況の別称そのものだ。こんな時点から、人間的なあたたかみなど出て来るはずがないではないか。

勇気を持とう!他者を受容する勇気と覚悟を取り戻そう!それが結局は自己救済に最も近い生き方だし、幸福感を得られる生き方だろうから。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○人生の岐路-僕の場合

2011-11-16 14:02:19 | 観想
○人生の岐路-僕の場合

老いも若きも、そして、この僕にも、人生の岐路に突き当たるときは何度もある。これまでも、いま現在も、そしてこれからも。思い起こせば、生の岐路に立ち至ったとき、僕は、その時々の直感力で進むべき道を選びとってきたはずだ。しかし、どうも僕の思考のありように想いを巡らせると、直感と経験知とが相矛盾するもののように感じとられているようで、それゆえに失敗も多い。人生まっしぐらだとか、直球勝負の人間だとかと屁理屈をつけていたが、失策の多くは、やはり思想のありかたにその原因が潜んでいたように、今さらながら思い至るのである。

一般に閃きという瞬時が人には誰にも訪れる。この閃きという概念を直感と言い換えても差し支えない、と思う。さて、閃きだが、その時々の人生舞台における経験知の積み上げが閃きという概念に内包されていないはずがないのである。だからこそ、人間の諸活動における閃きが、文化・文明という大きな枠組みのかたちにすら影響を及ぼすことが可能なのである。人の才能の現れ方はさまざまだが、キリスト教文化における才能は、talentよりもgiftという語彙が、より才能という定義としては意味が深い。なぜなら、giftとは、神から与えられた天賦の才のことだからである。人間とはどこまでいっても不平等なもので、才能を与えられた人間にこそ、その閃きには、大いなる影響力があり得るし、実際に不特定多数の人間の生を変革させもする。

才能が神から与えられた天賦のものであるにせよ、それが原型のままで通用するはずもない。そこには、与えられた才能を間断なく磨き続けようとする強い意思と、そこから生み出される確かな経験知が原型の才能をより次元の高いものにする。したがって、閃きにも次元の違いがあるのは必然なのである。当然のことだが、直感力が、それ自体の概念のまま、屹立しているはずもなく、やはり才能の積み上げと同様に、経験知の蓄積が、直感力の次元を高める。

というような、考えてみれば、至極常識的であるはずの概念から、僕は敢えて重要なファクターを剥ぎとった原型を、鋭角的な直感だと錯誤していたのである。これほど無意味で無価値な行動の指標があり得ようか?人生を踏み誤ってきたことにも合点がいく、というものである。

僕は自分に言い聞かせる。前を向け!人生という時間を浪費するな!直感に従え!しかし、直感とは、経験知との複合体である。それを世間知などと云って軽蔑することなかれ!と。遅きに失する認識だろうが、致し方なし。これが自分の力量と限界性だ。心して、残りの人生を生き抜くこととしよう。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○老いを言い訳にしないこと。これが目下の僕のテーマ。

2011-11-15 13:43:54 | 観想
○老いを言い訳にしないこと。これが目下の僕のテーマ。

人間の思考の入り口なんて、どこにも開いているもののようで、今日はジムワークから感得したことを少々。

怠惰と過食で、弛み切った肉体と、肉体が衰微すれば、当然精神の疲弊にも大いなる影響を与えるもので、今年の2月の、縮み上がるような寒さの中,怖々ジムの窓口へ。入会してから、ジムのマシーンやスタジオレッスンやバーベルやダンベルがずらりと並んだフリーウェイトゾーンを見学し、Tシャツの下の出っ張った下腹をさすりつつ、こりゃー、アカン、俺には無理や!と声にならぬ叫びをあげていたのである。試しにヤワいヨガのスタジオレッスンに参加したら、ドアをピシャリと締められた。45分間は出ることアイならん、ということらしい。パニック障害の人はどうするんじゃあ!と腹の中で毒づきつつ、パニック障害の人がこんな場所で、締め切りのスタジオでヨガの訓練なんてするはずないか、と自分が毒づいたことに毒づいている。情けなきことだ。7,8分で息が上がり、まわりの人々が悠々とやっていることについていけない。額からは、玉の汗が滴っている。無論僕だけが。10年間の怠惰な日々のツケがまわってきたわな、という嘆息が漏れる。それでもなんとかしのいで、さて、次の日からがホントの地獄のはじまりだった。

ええかっこしいが、僕の心情なので、出っ張った下腹をゆすりながら、フリーウェイトのコーナーに。隣のガタイのよろしいオニイサンの持っているのと同じ重量のダンベルに手をかけて、ウン!と力を込めたら、腰にきた。それゆえに恥ずかしいほどの軽いダンベル運動に切り替える。それでも、場をわきまえぬ僕は、超がつく初心者なのに、バーベルに挑む。手首と肩を痛めた。帰ったら、腕も上がらぬ状態で、朝目覚めたら、筋肉痛どころのさわぎではなくて、身体がそもそも動かないのである。立ち上がるのに、エイ!とかすかに残ったエネルギーをふりしぼって、ようやく立ち上がれる。そんな状態がほぼ3カ月続く。へこたれつつ、それでもジム通いは続く。

1カ月くらいするとまわりが見えて来る。高齢だろうが、僕よりも確実に若いに違いない人々のトレーニングスタイルには、ある特徴があるのに気づく。それは、僕から見ても明らかに分かる理由だ。彼らは殆どの場合、自らの限界値よりもずっと前のところで、つまりは、もっとずっと重い負荷をかけられるはずなのに、決してそうはしない。軽い重量のダンベルを振り回している。訓練の方法論もまったくのルーティーンになってしまっているのに、ルーティーンワークが安心材料のように、同じことを飽きもせずにやっているのである。これでは効果は現れない。彼らこそ僕の良き反面教師だった。

苦しいが、負荷を可能な限り上げていく。身体のどこかを痛めたら、その部位のまわりの筋力を上げて治していく。原初的だが、これが原点だろう、という確信を持ってやっていたら、まわりのガタイのいいオニイサンたちに、僕の存在が目に入りはじめたようで、適切な助言をくれる。ありがたいものである。僕のジムでの唯一のテーマは、自分の老いを言い訳にしないこと。これあるのみ。しかし、自分の体力と肉体に向き合うのに、これほどシンプルで確かな指標はないとも思う。屁理屈は有害だ。だから、僕のジム仲間は、みんな若いし、若い人たちが真摯に付き合ってもくれる。彼らの言葉はシンプルゆえに説得力がある。こういう言葉の力が必要なのだ、と思う。まともに向き合えば、財産となる言葉を得られるのである。

昨夜のトレーニングの締めの段階で、鍛え抜いた体躯を誇るある青年が僕に言った。彼は、いつも僕に対して、無茶をするな、と言い、理論的な方法論を説いてくれた青年だ。が、昨夜の彼の言。これだけ短期間に効果が出ているんだから、長野さんの踏んばりには驚くほかないね、だと。僕は心の底で彼に呟いた。いや、いや、踏んばってなんかいない。苦しくて仕方ないけど、僕は老いているから、という言い訳を封じ込めただけなんだよ、って。交わす言葉は多くはないが、ジムで鍛える仲間たちとの共有感覚は、自分の筋力の限界値を超える度に深まる。世の中、いろんな歓びがある。歳をめした方は、どうぞ、歳をとったー!などとすぐに弱音を吐かずに少しがんばってみることです、どんな分野においても。そうすれば、新たな発見があるかもしれません。老いを言い訳にしないこと。これは、ある意味、生きる知恵でもあります。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○「自己肯定」のウソ・ホント

2011-11-14 11:43:54 | 精神病理
○「自己肯定」のウソ・ホント

人が精神の平衡感覚を喪失するのは、なにがしかの乗り越え難き壁に突き当たって、高き壁の前で立ち尽くし、身動きとれぬ状況だと想像すれば分かりやすい、と思う。これまで何ということもなかったことに、妙に鋭敏になる。そして、晴れやかな気分が影を潜め、暗欝で、いかなる希望的な光もさし得ない。言葉どおりのどん底である。


自分を認められなくなる。自分の存在自体が無意味に感じる。果たして自分は、この世界で生き抜いていけるのか?という深い憂愁の念の虜となる。もっとひどくなると、自己の存在を否定することしか考えられなくなる。その究極の姿が自死である。


このような心境に陥ったとき、藁にもすがりたい気分になるのが人としての自然な感情。宗教も占いも啓発本の類も、表層的な救いの言葉に溢れている。当然のことだが、誰もがこの種の救済に身を委ねたくなる。これら、救済の言葉に共通して流れている概念は、癒しである。癒しという言葉は、それ自体に救済の響きがあるから不思議だが、さらに突っ込んで癒しの実体、本質とはなんぞや?と掘り進んでいくと、現れ方はさまざまだが、ひとつのかたちが在ることに気づく。それが、自己肯定という概念だ。精神の平衡感覚を失い、生きる自信も確信も失くしている人間にとって、自己肯定という概念は、打ち沈んだ思念を180度ひっくり返す。少なくともそれだけの動機を与えてはくれる。


しかし、僕はこの段階における「自己肯定」、及び「癒し」というものに対して、懐疑的である。もっと端的に言うなら、ウソである。理由は至極簡単だ。人の心が弱ったとき、すべからく、人は自己の精神の平行棒にただならぬ狂いが生じているのである。それを負のモーメントが強烈に内面を支配している、と称してもよい。この負の力学を光あるところへと引き出すためには、弱体化した精神の「あるがまま」を肯定することでは不十分なのである。場合によっては、不十分を通り越して、有害ですらある、と僕は思う。この時点における「自己肯定」から導き出せる「癒し」は、絶対者や神秘主義や言葉だけの心地よさに対して、まったくの無防備状態だからである。ここからは、依存的な心的状況しか生まれ得ない。これが「癒し」ならば、人は一つの困難を乗り越えるという、一大事業を教訓化することが出来ないことになる。これをあるがままでよい、と認めるならば、人は常に依存することによってしか、新たな苦難に対峙することが出来なくなる。単なる依存的傾向を肯定したり、肯定することによって癒しを得たりすることを、「自己肯定」のウソと称しても間違いないことではなかろうか。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○世界に対して、否(ノン)と言い続ける勇気。

2011-11-12 14:41:15 | 哲学
○世界に対して、否(ノン)と言い続ける勇気。

心理学という学問の世界に対して、僕が懐疑的であり続けるのは、この学問が人間洞察のごく表層的な入り口論でしかない、という失望感と、生を肯定することだけで、歪曲した精神性を、直線的に豊かで、生きやすき思想を構築出来るかのように描いているからです。なのに心理カウンセラーなのか?という疑問を抱いく方がおられることは覚悟の上です。僕なりの理屈を開陳すると、僕のカウンセラーとしての立ち位置は、クライアントに対する具体的助言をなすことが、カウンセリングだというものです。また、初回のカウンセリングで、全的な解決に至るはずもないのですが、少なくとも問題解決に関わる道筋を示していくことが真情です。このようなアプローチ以外のカウンセリングは、本質的に無意味、無効だというのが、僕の考え方の根っ子にあります。これは、臨床心理士をはじめとするカウンセラ―の世界においては、まったくの異端でしかありません。しかし、異端にしか言いえない真実があるわけで、そういう意味では心理学という狭い世界において、僕は否(ノン)と言い続けてきたわけです。そのことが間違っていたとは思っていませんし、これからも、まったりしたカウンセラーの手法に不満を持った方々が、少数であれ、僕を必要としてくれるものと確信しています。あとしばらくは、この仕事をやり続けるつもりでいます。

さて、現在関わっている仕事に対して、否(ノン)と言い続けると書きましたが、僕の心的傾向は、ずっと昔、そう少年の頃から、世界に対して、否(ノン)と言い続けてきたと思います。常に現状をよし、としませんでした。そのために小さな試みであろうと、体制に対して、反体制の姿勢を取り続けてきたのです。僕の裡では、耐えることなく、否(ノン)という叫びが反響していたように思います。体制に潰されることが分かっていても、やはり、反抗し続けたわけで、そのために仕事を失いました。家庭を失いました。それでも、やはり、いまだに世界に対して、自分の立ち位置から、ノンと言い続けています。たぶん、息絶えるまでこの傾向は変わることはないのでしょう。それでいいと思っています。

時折弱気になります。そういうときには、セリーヌを読みます。「夜の果ての旅」(中公文庫)。彼は誤解を受けやすい人で、第二次大戦後に、反資本・反ユダヤ主義的言辞が災いして戦犯に問われました。逃亡先のデンマークで投獄もされました。フランスに帰国してからは、不遇のうちに生を閉じました。セリーヌの墓石には、ただひと言、<ノン>と刻まれているそうです。セリーヌらしい生き方、死に方だったと感じ入ります。セリーヌは、戦争という災禍を巻き起こした全世界に対して、その欺瞞性を呪詛したのです。そして、その糾弾に命を賭けました。絶望的で、孤独な闘いであるにせよ、僕には、立派な生き方だったと思えます。それに、こんなすばらしい傑作も残している。凄いことだと感じます。

世界を呪詛することと、単なる幼稚なゴネ倒しとはまったく違います。誰もが、もはや常識になり切った考え方、間違った思想の上に構築された取り決めごと等々に対して、常に本質に立ち帰って、間違いは間違いとして糾弾して、それを体制が跳ね返すのであれば、反抗し、世界に対して呪詛の言葉を勇気と覚悟を持って投げかけ続けること。これが、人の生きざまとして間違っているはずがありません。誰もが体制やその時々の権威に擦り寄っている時代です。こういう時代だかこそ、セリーヌのごとき、否(ノン)が必要なのではないか、と僕は思うのです。ちっとした告白ですけれど、いま少しはこの手の安逸な評論めいたものを書き殴っていますが、誰に認められなくても、僕は現代に投げかける否(ノン)を小説の文体で書き遺そうと思っています。やり遂げます。

京都カウンセリングルーム

アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○壊れの美学あるいは崩れの美学

2011-11-10 13:22:09 | 観想
○壊れの美学あるいは崩れの美学

美の様式ほど多様なものはないと云えるのではないだろうか。僕たちが美しいと感じるモデルは、どのようなジャンルであれ、完成された美しさというものであろう。さて、美しさというジャンルとして、女性のそれ、一般化した女性美ということになると難しい問題が生じるので、ここは女優さんを対象にして女性美について、語らせていただくことにする。

女優さんとひと言でまとめることが、昨今かなりむずかしい。とりわけ、近頃の女優さんの美しさの定義づけをするとなると、これまた困難なことなのだと思う。かなりお歳をめしている人々にとっては、昔、昔の美女というのは、いくつかの典型例はあるにせよ、たとえば、山本富士子が清楚系だとすれば、同じ美的存在だが、表現し難き色香の代表格として、京マチ子という二大双壁が屹立していた。当時映画少年だった僕の、まだ性のことなど何かも分からぬ精神の中に、性の原型がどっと入り込んで来る感覚を抱かせたのは、断然、京マチ子だった。山本富士子は、完成美。あくまでそうだ。しかし、京マチ子は、存在そのものに、エロスを包含している。子どもながらに、美とエロスとの相関関係を感じとっていた、と思う。

さて、現代に目を向けよう。時代はアンチ・エイジングへと限りなく傾斜している。女優の美の保ちかたにも、美容整形は欠かせない要素になりつつある。無論この傾向は男優にも当てはまるのだろう。が、こちらにはあまり興味はない。アンチ・エイジングの思想のもとで、美容整形でもっとも成功しているのは、歌手の松田聖子だろう。この人は、ある意味、ここまでやって、若さを謳歌しているわけだから、見事というしかない。逆に、同じ歌手の水前寺清子は、明らかな目の手術の失敗だ。もとの顔とまるで違う顔になっては意味がない。女優で云えば、十朱幸代。この人も目もとがまるで創りもの丸出しで、原型を保っていない。これがアンチ・エイジングの失敗例だろう。歌手や女優がかつての個性たる顔の原型を崩してしまっては、アンチ・キャラクターという惨劇になってしまう。本人たちは満足しているみたいだけれど。かつて、奈美悦子が乳房の美容整形で、乳首がなくなったといって、訴えを起こしていたことなどはかわいいものだ。僕たちにそれを確かめる術などないわけだし、女優業としては、何の影響もないわけだから。

本題に入る。今日、書き遺したきことは、壊れの美学・崩れの美学についてだ。たとえが、ありふれていてつまらないが、とりあえずは最も僕が言わんとしていることに関わりのあることなので書き記すことにする。木になる果物が熟して地面に落ちる寸前の、しかし、なかなか現実には落ちないで、細い枝がたわんでも、木にあくまでくっ付いて離れることのないような、壊れ、崩れギリギリのところで爛熟している美しさ。これがエロスを内包した美の象徴として、たぶん、美という定義の中で、最も質の高いそれだ、と僕は思うのである。この種の美的チャンピョンは、僕の感性で云うと、鈴木京香と大塚寧々。美に壊れが内包されているからこそ、元来備わっていたはずの美に仄かなエロスが漂って、これこそ美の爛熟という概念を具現化している最高例ではなかろうか?整形美人だとの噂が絶えない真木よう子も、加齢がもたらす変化が演技に生きるような女優でありたいと、どこかの雑誌のインタビューで述べていたから、たぶん、鈴木京香や大塚寧々の次元の女優になること請け合いだ。蛇足として書いておくが、加齢を幼稚さに変換させる術を魅力にし得た稀有な存在が檀れいだ。どこかのビールのコマーシャルの、あのあざとさは、すでにあざとさというジャンルとして成立するくらい、檀れいの存在は特異だと云える。偏見なく書いておかねばならない。檀れいは、別の、壊れの美学、崩れの美学から枝分かれした別物の美として認知するに値する。

山本富士子と京マチ子から少し時代が下るが、これは、あくまで女性の色香というよりも、アンチ・エイジングの二例として書きたいのが、吉永小百合と栗原小巻のことだ。若い頃の吉永小百合は、どちらかと云うと、色気のない女優だった。それに比して、栗原小巻は、顔の造作が大づくりで、それが、色香を醸し出していたとも云える。子どもながら、当時の僕は、断然サユリストではなく、コマキストだったのである。(若い人たちにはこういう言葉も通じないかな、当然だろうけど。まあ、巨人ファンと阪神ファンのごときものだと思ってくれればいいね)しかし、歳月とは恐ろしいもので、吉永小百合は、アンチ・エイジングのシンボルにしてもいいし、それにもまして、現代の彼女の方が若き頃よりもよほど魅力がある。栗原小巻は痛々しい。エイジングそのものだ。これまた、どこかの老人介護マンションの宣伝写真に出ている。介護マンションのロビーだろうか、そこのソファに座っている彼女は、入居者として認識する方がピタリとくるくらいの、エイジングのあり方だ。先日亡くなった竹脇無我との共演で、切ない恋愛もののテレビドラマが大ヒットしたのが昨日のことのように頭の中を過る。あの頃の栗原小巻の美しさは、壊れや、崩れの美を内包していない、素朴な若さゆえの美だったのだろう。エイジングの進行によって、文字どおり壊れ切ってしまった感がある。哀しいとしか表現の仕様がないのである。

そうそう、壊れの美、そして崩れの美の代表格として、桃井かおりも掲げておく。鈴木京香や大塚寧々ほどには、強烈に訴えかけてくるものはないが、彼女も立派な崩れ、壊れを内包して、それを美に転換させている女優だ。書かないでおけば非礼にあたる。
さて、ここで、唯一の箴言:無節操に老いに抗うことは、老いの醜悪さを背負うことである。
つまらぬ、独りよがりはこれくらいにしておかないと、アカンね。今日は、 もう止めます。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃