ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○これからの生き方の問題として。

2010-07-29 15:24:58 | 観想
○これからの生き方の問題として。

昨今、僕はなぜだか自分の年齢を忘却していることがあり、歳の割には新たな事業にも色気を見せるし、投資のチャンスを狙ってもいたし、仕事のさらなる発展さえ、非常に現実的な問題として、取り組もうとしていたように思う。しかし、誰に言われたか定かでないが、僕はアラカンなのだそうな。アラカンとは、還暦間際および、還暦を過ぎた、人生の最終盤に行き着いた人間のことらしい。そう言えば、アラカンという現象は、僕にとっては確かに否定し難い現実だろう。いつこの世界から去ってもおかしくはない歳だ。そうであれば、もはや焦ることもなかろう。何をぎらぎらと、もう一度何とか自己の人生を再構築しようなどと考えるに至ったのか、いまとなってはよくわからぬし、また、そんなことは、どうでもよくなった。別に金銭に執着がある人間ではもともとない。食えればよいし、食えなくなったら、野たれ死ぬ覚悟であったはずなのに、どこかで、世界観の軸がブレた。少なくともいま、これを書いている僕は、心穏やかである。もはや金銭に関するあらゆる作為的な想いは、自分の中から姿を消した感がある。もとにもどろう!食えなくなったら、野たれ死ぬ。それが僕の死生観だったはずだから。しばらく自分の思想と異なるところで、生き直しを意図していたのは、様々な理由があるが、いや、絞り切れば、一つに集約出来はするが、ここに書いてもあまり意味をなさないだろう。

昨今は久々に、自分の心が委縮するというか、その結果たる落ち込みの中でもがいていたのだが、それでもある小説の中の、山深い一軒家に一人で生き続けている90歳に近いと思われる老人が、たまたま山の中を彷徨っていた青年に対して述べる言葉に、ハッとさせられた。彼曰く、「人間なんざ一人で生きるのは、誰だって、みんな寂しいもんだがね。だけんど逆に、その寂しさが我慢できりゃあ、ほかのことはなんでもがまんできる。貧乏も病気も歳をとることも死んでいくことも、生きてる寂しささえ我慢できりゃあ、人間てえのは、はあ何でも我慢できるべえよ」と。彼の言葉は、確かな人生の真理だろう、とつくづく思う。人はどのように生きようと行き着く果ては、孤独なのだ。生きる孤独を忘却することも、孤独を癒すためだけに他者と関わる愚かしさの中に、人生の真実が見えるはずがないではないか。この青年は、老人の「生きていることがそんなに辛えかい」と心の底を見透かされたように問われる。その厳しい問いに対して、「生きていることが辛いのか辛くないのか、それはわかりません。でも死ぬまでの時間をどうやってつぶそうかと思うと、茫漠とします」と青年は呟く。老人答えて曰く「じっとしてればいいべ。死ぬまでの時間が長えか短けえか、そんななあ頭の中のカラクリたい。・・・本心から会いてえ人間がいるのか、いねえのか、兄ちゃんも一度よーく、自分に聞いてみることだいなあ」と癖のある秩父弁で生と死に纏わる真理を青年に語りかける。あくまで一人の生活者の生活哲学として。

人間が孤独に胸を搔き毟りたくなるとき、その人間にとって、ほんとうは孤独の意味すら分かってはいない感情に支配されて、身悶える。孤独か、孤独でないのかは、自分のまわりに他者が存在するか否かという視点からだけの判断では、判断不能なのである。言葉を換えれば、常に他者は存在する。しかし、どのような理由であれ、孤独の底に沈んだ人間にとっては、他者の存在が見えないどころか、おそらくは、そのときの、自分の姿さえ見えなくなっているものと想われる。限りなく自己の内面へ収斂していく精神の力学だけが、自己の存在そのものを呑みこむように機能し、存在の意味を無化する。それが一般に僕たちが感じるところの孤独の意味だろう。老人の「人生に対する目論見など、自己の頭の中のカラクリだ」という定義は、生の真実を捉えているという意味で、実に重い。

人間は生きねばならないのではない。人間は生きているのであり、生きるのが自然なのだ。そこに功利的な知恵が持ち込まれると、しばしば、要らぬことで、人は生きる意味を喪失するハメになる。誤解なきように。僕は悟りなどという境地を信じる人間ではない。それよりも、生活哲学からの生と死についての考察を深めたいと考えている。いま、行き着いていることについての考察は、すでに書いた。浅薄な思想なのかも知れないが、これがいまの自分の力量であると認めざるを得ない。何の因果か、このブログを読むことになった人々に対しては、正直に、「すみません」とひと言謝ることにしたい。そういう意味で読んでくだされば幸いである。今日の観想である。


推薦図書:「サガン-疾走する生」マリー・ドミニク・ルリエーヴル著。阪急コミュニケーションズ。フランソワーズ・サガンの評伝です。僕が青年のころ、サガンなんて、プチブルのたわごとだという風潮が支配的だった左翼の過激派集団の精神的土壌の中で、僕は、その一員でありながら、フランスの小説に読みふけりました。勿論、サガンの文庫本なども、ジーンズのポケットの中にしのばせて、こっそりと読んでいました。彼女の作品の文庫はどの作品も薄くて、ジーンズのポケットの中に入れるのにもってこいだったのです。さて、この伝記はよく書けたものだと思いますので、ぜひともの推薦の書です。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○歴史の見かたについての雑感

2010-07-26 22:57:15 | 歴史
○歴史の見かたについての雑感

歴史とはぼんやりしていると、様々な史実を援用しつつ、歴史記述者が書き綴るものゆえに、読めば、それなりの、そのときどきの歴史認識が身についたもののように感じることが出来る。しかし、ここには大きな陥穽も潜んでいる。今日は僕たちの歴史認識における陥穽に関する考察を少し。

たぶん、歴史教育という考え方がいけないのだろうと思うが、それによって、僕たちが認識している歴史とは、ほぼ、政治的・社会的・経済的・文化・文明的要素の流れを辿るだけの素材に過ぎない、という認識をしばしば忘却させられる。人間の歴史という存在を、教育という名のジャンルに押し込めようとすると、そこには、当然のことだが、権力や権勢を誇った人物が関わった事象の記述に収斂せざるを得ない。人間が捉え得る歴史とは、そもそも書き記すべき価値があるもの、すなわち、歴史における価値とは、権力そのものであり、当然のことだが、僕たちが目にする歴史的記述とは、権力の変遷である。そういう視点から考えれば、歴史を書き綴る側の権力の構造が変化すれば、歴史的記述そのものが変質する。その意味で、歴史とは、あくまで前記したいくつかのジャンルに限定される存在であり、歴史的記述は、権力を牛耳った人間にとって都合よく書き換えられてしまうような相対的なものでしかない。だから、僕たちが陥ってはならない誤謬とは、歴史的記述を絶対的なものと考えてしまうことである。その理由は、そもそも歴史とは、その時々の偽政者たちの思惑によって、いくらでも塗り替え可能なものなのだからである。僕たちはこのような視点を常に意識しつつ、歴史的記述と向き合わねばならない。その意味においては、歴史的懐疑主義者は、歴史の真実に最も近しいところにいる存在だと言えるのではなかろうか。

そもそも先史時代などという歴史的区分けそのものが、おかしいのである。この場合の先史とは、史実として書き記せないという意味であろう。こういう説明を聞くと、あたかも歴史として記述されたことが、逆説的に史実をともなった客観的真実であるかのような、あるいは、動かし難い事実であるかのような錯誤を抱かせるに十分なインパクトを持ってしまいかねない。しかし、実のところは、ある歴史的記述は、その国の権力掌握者たちが事実を粉飾しているか、あるいは、もっと積極的な歴史の改ざんによって、権力維持のための道具として利用している可能性が大きいということである。このような詐欺的行為に正当性を帯びさせる役割を果たすのが、歴史教育である。現在の日本における歴史教育などは、たかだか学生の入学試験のための一科目だと思っている人々が多いと感じるが、この日本とて、歴史記述における歴史的事実の隠ぺいや改ざんは、ここに書き切れないほどにあると思われる。ずいぶんと前の話になるが、日本のアジア侵略を、当時の文部省の教科書スクリーニングでは、日本のアジア進出と書き改めようとしたし、当時話題になった「新しい歴史教科書をつくる会」という右翼の論客たちが寄り集まって、書き綴った歴史教科書があったが、それはたとえば、中国における「南京虐殺」という名称を取り払い、「日本軍によって、南京市内の民衆にも多数の死傷者が出た」という記述にすりかえられた。これならば、戦争という災禍によって、南京市民もまきぞいをくったという程度にしか読みとれなくなる。また、角度を変えていえば、中国政府側の南京虐殺による市民の犠牲者の数はあまりに膨大で、これも事実そのものではなさそうな気もする。つまりは、歴史とは、客観的史実があるようで、その根拠はあくまで曖昧なのである。だからこそ、歴史改ざんという愚行でさえ可能になるとも言える。

歴史は生き物である。僕の歴史認識は少なくともそうだ。歴史における客観性などは、ある歴史的史実が、客観的事実として認知されていようと、それはあくまで限りなく客観性に近い可能性を秘めた出来事として、認識するべきものではなかろうか。そして、歴史教育の危うさという視点も忘れてはならない重要な観点ではないだろうか。なにせ、現在を生きる僕たちのまわりで生起する出来事ですら、その報道の仕方、解釈の仕方によって、極端に言うと、同じ事実がまるで異なる現実となり得るのだから、過ぎ去った歴史解釈においては、なおさらその客観性に対する繊細な感受性と云うものをもつ必要があると僕は思うのである。歴史的懐疑主義とは、精神の繊細さを伴わなければ、単なる主観主義に陥るだけの、ひねくれた歴史解釈しか出来はしないだろうからである。今日の観想である。

推薦図書:「国民の歴史」(上)(下)西尾幹二著。文春文庫。西尾幹二は、「新しい歴史教科書をつくる会」の最も有力な論客の一人です。歴史の見かたとしては、僕は賛成しかねますが、西尾は思想のあり方はさておいて、頭脳明晰な人ゆえに、日本の歴史がまるでこれまでの教科書の記述とは違って見えるはずです。それだけ西尾の筆致が冴えている証左でしょう。歴史とは突き詰めれば、思想の書だということが、この書を読めばわかります。どうぞ、眉に唾をつけてお読みください。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃

○過剰という概念性について想うこと

2010-07-23 13:24:15 | 哲学
○過剰という概念性について想うこと

書き進める前に、明らかにしておくべきことを書き記す。僕が、過剰という概念性について書き綴るとき、世間知で云うところの、過剰に対する反意語を適度、あるいは適量、または欠如・欠落という概念性を問題にはしないし、また、過剰の反対概念のベクトルとして、このような規定語を想起してしまうと、僕の論考そのものがそもそも成立しないことを明記しておかねばならない。

人間にとって、過剰という概念性は、たぶん生に纏わる不幸と深いところでむすびついている。過剰な愛は、家族愛に関して云えば、多くの場合、愛を与える側も与えられる側も、かたちを換えた互いの依存に陥る可能性が大きい。過剰な金銭は、人の価値観を金銭という基準で推し量ることになり、人間に備わった精神性を見失う。過剰な性は、人間から愛という崇高な思想を奪い取る。このとき、性は、即物的で、人間的な絆の深化の役割を喪失する。また、過剰な飲酒や薬物、過剰なギャンブルへの傾斜がもたらす結末については、もはやここに書き記すこともないだろう。

前記した適度とか適量という概念性はそもそも人間によって、まちまちだし、またその人をとりまく環境によって変化するものであるから、相対的と云えば聞こえはいいが、そもそも規定不能な概念性なのである。人間は規定不能な概念性を耳にしても、心が反応しない。関西弁で云うところの「ぼちぼち」だとか、関西弁という範疇を取っ払った、「そこそこ」という表現を聞いて、感情が動くことはない。もっと根っ子を探ると、人間の感性は、この種の曖昧語を耳にすると、不快感を抱くのだろうが、曖昧語は生活言語として定着しているものが多く、それらの含蓄する毒は薄められて、単なる挨拶語として流通しているだけのことだ。厳しく言えば、この種の生活言語としての曖昧性は、人間の言葉にならない喜怒哀楽の感情表現よりも数段劣ると僕は考える。

ものの考え方として、それでは過剰さと豊饒さとの違いはあるのか、という問いかけは当然にあることだろう。答えは勿論イエスである。私の中の両者の区別は、こうである。
過剰という概念は、常に人間の意識を削ぎ落す。それが負のベクトル、つまりは、不足や欠落という逆立ちした過剰といえども、やはり現象として現れた過剰のかたちとは、意識の鈍磨をともなった不幸なかたちである。それは既述したとおりの現象として立ち現れる。それに対して、豊饒という概念とは、思考のベクトルとしては、常に上向きの、人間にとっての生の可能性を広げる可能性として現れ出ると言っても過言ではない。たとえば、豊饒に纏わる生活表現だけを俯瞰しても、いくつかの表現のあり方から、豊饒という言葉が、新たな価値意識を含蓄していると思われるのである。たとえば、豊饒なる自然であるとか、農作物の豊饒な実り、豊饒な海の恵み等々。これらの言葉には、自然とともに、いや現代においては、世界とともにと言い換えた方が妥当だろうが、常に人間の疲弊しつつある個性に瑞々しい力を吹き込むエネルギーの象徴的な姿が感得できるはずである。

人間は、生きているかぎり、生の平坦さの過程で、豊饒さという明るい可能性に満ちた節目に遭遇する可能性と伴に、言葉のジャンルとしては同じものに分類されるであろう、過剰さという言葉との遭遇の可能性、しかし、概念性としては両者はまったく正反対の、人の生に対する正負の影響力を受けつつ、生のあり方を紡ぎださねばならないのである。人々が、自身や他者の生き方を捉えて、人生に対して前向きだとか、後ろ向きだとかと称する根底には、概念上の過剰さと豊饒さとの桎梏が在る、と考えるべきなのではないか、と僕は近頃思うのである。愚論なのかも知れないが、敢えてここに書き残す。

推薦図書:「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ著。ちくま学芸文庫。生の豊饒と過剰さにこれほど、本質的に拘った思索をなし得た思想家はバタイユ以外にはいないと言っても過言ではありません。バタイユの文学作品から入ると、読み方によっては、生や性に対する不浄な気分を持ってしまう可能性がありますが、やはり、彼の小説の作品群を読む前に、バタイユの思索の深さをぜひとも味わっていただきたいものです。良書だと思います。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

○日本の右翼について想うこと。

2010-07-21 15:57:30 | Weblog
○日本の右翼について想うこと。
 常々思っていて、あまり重要だとも思わなかったので書き留めることもなかったのだが、日本で右翼と呼ばれている人間及び組織に関して、何らかの、僕なりの定義づけが必要かとも思う。みなさんが漠然と抱いている右翼に関するイメージと、僕のそれとはそれほどの距離感はないと推察する。現象的に云えば、現代における右翼のイメージとは、大型の観光バスの中古車を黒塗りにし、時代錯誤の結社名を恥ずかしげもなく大仰に書き、古めかしい、売れない歌謡曲のような歌を大音量で流しつつ、北方領土返還と日教組に対するわけのわからぬ批判的言辞を繰り返すような悪趣味の極みである。あの大音量に対して、あるいは、街中に大型バスの大きさの不気味な何台もの車に対して、日本の警察が取り締まる光景を見たことがないのも不可思議なことである。つまらない個人に対する職質を繰り返す警察権力が、事、右翼団体に対しては、あまりにもお目こぼしが大き過ぎるのはいかなることなのか?
 近代社会における右翼団体のもとをたどれば、第二次大戦中の、あるいは日中戦争中からの、児玉誉士夫と、笹川良一の中国大陸における暗躍によって、巨万の富をネコばば同然に中国大陸から持ち帰り、その財力をもとにして、戦後の日本の保守政治家を陰で動かしてきた活動が思い浮かぶ。児玉誉士夫も笹川良一も満州から上海にかけて、日本陸軍の武器・食料などの調達を独占し、横流しし、中国の当時の資産家たちから、軍隊の力を借りて金品を不法に分捕り、それらを貯め込んだ。とりわけ、児玉誉士夫は、児玉機関と称する軍部との繋がりの中で、日本の国益などはそっちのけで、自己の金満家としての欲望を思いのままに満たしたのである。敗戦後、児玉を乗せた専用機には、中国大陸でくすねた金塊を飛行機の床に敷き詰め、その他の金品財宝を欲望のままに飛行機に持ち込んだために、過重な重量に耐えかねた飛行機が、日本の飛行場に離陸する際に前輪が重さに耐えかねて折れたという事実は、あまりにも有名な逸話である。
 児玉誉士夫は、戦後の日本でA級戦犯に問われることもなく、国際興業という日本型コングロマリットの代表者として、長きに渡って、GHQとその走狗としての保守政治家たちを陰から操り続けた。無論、そこには、膨大な金銭が動いたのは想像に難くない。笹川良一は、競艇界のドンとしての地位をほしいままにした。競艇を法律によって合法化し、独占できたのは、笹川が金銭で政治を繰ることで成し遂げられ結末である。笹川良一などは、歳老いてから、度々テレビの競艇のコマーシャルに出演し、好々爺を演じていたし、競艇で数えきれない人々が生活を破綻させた、その金で、国連に微々たるお余りの寄付をしたことで、国連から表彰されたことは、何とも歴史の皮肉としか言いようのない事実である。ご存じのとおり、笹川良一はA級戦犯として逮捕されたが、金の力と、GHQが日本を操るために必要とした人材?として認めたために、釈放された。A級戦犯として極東軍事裁判で認定された人間たちが次々と処刑される中で、笹川は悠々と巣鴨から出獄してきたのである。
 児玉も笹川もすでに鬼籍に入って久しいが、やはり自称右翼と称する団体がまるでセンスのない時代錯誤の言動を繰り返していられるのは、その資金源にせよ、警察の明らかなお目こぼしにせよ、裏でタカ派の保守政治家や、それを支える資本家たちが、時には株式総会でまっとうな株主に物を言わせないために、あるいは、タカ派政治家たちからの資金を得る見返りに、あやしげな商売に対する、これまたお目こぼしがあると考える方が自然ではないか?
 それにしても、児玉誉士夫も笹川良一は勿論のこと、彼らを支えた右翼政治家も右翼団体も愛国と叫びながら、彼らの攻撃のターゲットは、常にかつてのソ連、現在のロシアをはじめとする共産圏の国々やかつての日本軍の支配国に限られているのは、どう控えめに見ても思想的におかしい。愛国というならば、第二次大戦における敗戦が明らかであったにも関わらず、東京・大阪のB29の爆撃による非戦闘員の大量虐殺と、戦後政策のために落とされた、世界で唯一の広島・長崎への二発の原子爆弾によるホロコーストに対して、何故愛国的に、アメリカを非難しないのであろうか?北方領土だけが日本の主権を犯された証左なのだろうか?それなら、いま、大問題になっている沖縄におけるアメリカの軍事基地に対する、愛国的精神からの怒りがなぜ湧いては来ないのか?答えは明らかではないか。銭、である。日本の右翼団体の愛国の正体は、明らかに、銭のための言動に過ぎない。さもしい限り。

推薦図書:「夜と女と毛沢東」吉本隆明×辺見庸の対談。文藝春秋刊。政治的行為や言辞など、そもそも矛盾だらけ。右翼ばかりをやり玉に挙げるのもどうかと思いますので、かつては左翼の憧れだった毛沢東という、したたか極まる人物像に迫ってみましょう。毛沢東があの悪名高き「文化大革命」を指導したのです。政治とは、健康なときはそうでもないですが、体調がよろしくないと、僕にとっては、関わりたくない、NO.1の存在です。

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○「英語青年」随想

2010-07-21 02:26:09 | Weblog
○「英語青年」随想
 「英語青年」とはかつて研究社から出版されていた英語・英文学関係の、学会誌と、一般読者向けの中間的な存在として名の通った雑誌だった。英米文学者や言語学者たちの小遣い稼ぎの雑誌だったとは思うが、たぶん彼らにとっても、それぞれの所属する学会誌などへの投稿原稿と比べると、ある程度は、一般読者に読める程度には言葉を砕いて書いている英語専門誌という体裁であり、当時高校の英語教師であった僕にも理解可能な、しかし、あくまで退屈な雑誌だったと記憶する。友人の言語学者が、英語青年の雑誌を半年分か、1年分かをまとめたかなり分厚い冊子を図書館から借り出したというので、見せてもらったら、この雑誌を定期購読していた頃のことがいろいろな過去の思い出のフリンジとともに僕の記憶の中に甦ってきたのである。
 当時、僕のまわりには、「英語青年」などという、筆者たちの中途半端な長さの論文というか、レポートというか、そういう学者たちの寄せ書きにも似た雑誌を読むような酔狂な人間はいなかった。それを唯一読んでいた僕とても、決して真剣な読者などではなく、高校の英語教師という身分の不確かさ、英語教師でありながら、まともな英語理論さえ知らない連中に囲まれて、ずいぶんと腐っていたというだけの、かなり不真面目な読者だったと思う。正直に告白すると、掲載されている論文まがいの書きなぐりの原稿に対しては、少なからず憤慨しながら読んだ記憶がある。文学を、英語学、広い意味における言語学を論じるならば、それらは具体的な言語活動や言語習得に関わった、開かれた論点を持っていなければ存在理由など無きに等しいだろう、などと雑誌を読みながら毒づいていた記憶が鮮明にある。これは、研究社という英語関係の雑誌社の、学者への金のばら撒きの素材と、一般向けの研究書や辞書などの宣伝のための、研究書の体裁をとったある種のフェイク雑誌だろうという確信を持ち始めてから、購読を止めた。
 それが20年ぶりくらいに、当の雑誌が目の前に現れたのである。陳腐な表現だろうが、走馬灯のように、眼前の「英語青年」と伴に、僕の当時の過去の英語教師としての総体が甦ってくるのを圧し止めることが出来なかったのである。それがこのブログを書くきっかけになったと解釈していただくとよい。また、それ以外の目的はない。
 僕が「英語青年」を読んでいた頃の高校以下の英語教師の殆どは、海外留学の経験もなく、また、英語を自由に駆使したコミュニケーションなどが出来る人はいなかったと思う。僕の「英語青年」誌へのいっときの傾斜は、学術的なることを気どるための方便だったと思う。しかし、高校以下の英語教師にとって、学術的な要素など不要なものだったし、それは、単純に言うと、英語が聞きとれず、また喋れないことの僕なりの言い訳に過ぎなかったと思う。この当時、大学においては冷や飯食いの、英語教授理論なんかを専門にしている英語使いの大学教員たちは、高校以下の英語教師を「喋れない英語教師」などといって揶揄することが多かった。たぶん、彼らも大学においては、英米文学が中心の研究事情の中で、大学という研究機関においては、階層としてはかなり惨めなものだったからだろう。憤懣とは、常に上に向かうことはなく、より下層へと降下していくものなのである。
 中曽根康弘が日本の総理大臣になってからは、喋れない英語教師にとっては受難の時代だった。中曽根は、日本の英語教育が、物の役に立たないことに苛立っていた。彼は単純な競争原理を学校社会に持ち込む方法論として、海外の、特にはじまりはアメリカ政府の要請によって、アメリカの青年たちに食いぶちを与えるための方途を、AET(後のALT)、つまりはAssistant English Teacher(後のAssistant Language Teacher)を導入して、強圧的に喋れない、聞きとれない英語教師たちの能力開発に取り組んだのである。強圧的とは、日本人の英語教師に対しては、言語運用力をつけるための何らの予算も組むことはなかった、という意味である。要するに、日本の役立たずの英語教師たちは身銭を切って言語習得に励めというわけである。多くの英語教師たちは、この種の言語習得の嵐から身を潜めるように逃げだした。しかし、逃げてもアメリカの青年たちは、教員免許も持たない身分ゆえに、授業は日本人の英語教師の補助をすることになっていて、英語の運用能力のない人間にとっては、殆ど拷問に近い時間だったと推察する。
 中曽根康弘が首相になった当初に、僕自身は中曽根の意図を諒解していたので、猛烈に英語運用力をつけるための勉強を始めた。それは、夏休みからはじまったが、僕はナチュラル・スピードの英語のテープを何十本も用意して、朝から晩まで英語漬けになった。たぶん、一日に10時間は英語を聞き暮らしたと記憶する。その当時、自転車で通える距離に英国文化センター(British Council)があったので、数年間は、イギリス人たちに英語を教わった。仲間はみんな大学生。僕はすでに35歳になっていた。中曽根などには負けられないので、過激な勉強を自分に課したら、ひと夏で、英語が繋がって聴こえるようになった。英国文化センターの授業で、スピーキングも何とかこなせるようになった。僕にとっての英語習得は、中曽根康弘というタカ派政治家に難癖をつけられた英語教師としての小さな抗いそのものだったと思う。この頃、「英語青年」という雑誌から、Japan Timesという英字新聞と極東版のTime誌とNHKの英語上級コース番組へと変遷していった。同時に、前記したように、「英語青年」の専門誌としての偽物性にも嫌気がさしてもいたからである。こうして、僕が英語運用力を身につける過程で、「英語青年」は遠い存在になった。
 英語教師を辞してからの10年間で、僕の英語力は日増しに衰えていったが、それにしても、いまだに、自分の伝えたきことは、力技でも伝えきる。それが僕の英語の使い方なのである。喧嘩腰の英語である。それでよい、といまでも僕は思っている。今日の観想である。

推薦図書:今日は3冊です。「英語論文―すぐに使える表現集」ペレ出版。「外国人とのコミュニケーション」岩波新書。J.V.ネウストプニー著。「アメリカの彼方へ」自由国民社。越川芳明著。

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○形容語の意味と無意味に関しての雑感

2010-07-19 23:25:49 | 観想
○形容語の意味と無意味に関しての雑感

人は他者に対して、自分の考え方を伝えたいのである。人間存在のあり方の本質はこういうものである。たとえ、人が自己の内奥の真実を裡に秘める必要があったとしても、あるいは、人との接触を極端に嫌悪して、自己の内面にこもってしまったにせよ、それらの現象は、単純な他者との対話を言い表わす形式ではなくても、人は自己の脳髄の中で確実に伝達すべきことを声高に?反芻するというかたちとして現れる。このような思考回路が断絶したとき、それを心の病と呼ぶのである。

さて、人は他者に対して語りかけようとするとき、特定の両極のいずれかの方法で、自己の意思を伝達しようとするのである。その意味では、中間項の概念設定の方が困難なくらいだ。一つは、自分の伝えたきことを、形容語を駆使して何とかその全容を他者に諒解させようとする試みである。当然のことだが、使用言語数は過剰になる。それは過剰なる表現性、過剰なる意図の発露として立ち現れる表現形式である。もう一つは、形容語を極度に意識的に捨象して、表現形式としては最低限の言語で自己の真意を伝達する方法である。こういうことを書くと、誰もが、日本文学の特殊なジャンルとしての短歌を想定するだろうが、僕の意図はそこまで限定的なものではない。表現形式のジャンルを特定する意図もない。単純に形容語を剥ぎとることで、自己の内面の考えのコア-をより鮮明にしようとする試みと捉えてもらえば分かりやすいと思う。

過剰な形容語を駆使して自己の意思を伝達しようとする現象的な現れとして、僕が想起するのはそのチャンピョン的な存在として、現代作家としてはアメリカのトマス・ピンチョンの作品群である。このジャンルに属する数ある作家の中でトマス・ピンチョンを選んだのは、彼の作品の過剰な饒舌が、過剰になればなるほど、作品世界におけるイメージを捉えるのに少なからぬエネルギーを必要とするという意味合いにおいて、現代というとても重層的な時代性を反映していると思われるからである。さらに云うと、彼の作品世界における饒舌さと長大さが、現代社会の構造的理解が難解であるのと同様に、饒舌が過ぎるほどに、作品の内実の理解が難解になるという、アイロニカルな意味を深めるという混迷のありようそのものが、現代的なのである。

これに反して、形容語を極端に剥ぎとった形式の表現方法の代表格は、極論すれば、絵画ではないか、と思う。とりわけ、色彩すらも捨象したデッサンの段階の表現形式に象徴的に現れているのではないか、と思われる。もしも、この形体を文学的世界に求めるとすると、それは短歌ですらない、種田山頭火の作品群ではなかろうか。山頭火の作品は、トマス・ピンチョンと比して、現代という世界像を捉える方法が真逆と云える。山頭火は、形容語を剥ぎとることによって、あくまで読み手の側の感性に鋭く切り込んでくるのである。それは寡黙でありながら、寡黙さが、世界という存在の過剰さを言い表わしているという意味において、これまた、アイロニカルな存在なのである。

論考が抽象的に過ぎたと思われるので、ごくありふれた寡黙さが、過剰とか、饒舌さを言い表わしている例を一つ掲げて、このブログを閉じることにする。

たとえば、一組の恋人どうしの間にいつしか隙間風が吹き始めたとする。それは果たして愛の終焉を意味するものなのか、あるいは単なる愛の過剰による疲労感がもたらした結果に過ぎないのかも知れない。その分析はさておくとして、恋人の一方の側が、途絶えがちな会話を再開するに当たって、ごく短いメールを書き送ったとする。たとえば、その言葉は、「お元気ですか?」でよい。敢えて過剰な愛の空白感を埋めるがごとき濃密な筆致を避けたかたちである。ここには、トマス・ピンチョンの饒舌さはひとかけらもない。「お元気ですか?」という文に、ある日の夕暮時の美しい写真を添付した。さて、この恋人たちが寡黙になった関係性から、愛の豊饒さ、饒舌さをとりもどすには、どのような返信をなすべきなのだろうか?愛の饒舌さを快復させるために、元気な理由を長々と書き綴り、美しい風景写真を褒めちぎり、感謝の意図を伝達するのであろうか?つまり、愛の復権を伝達するべき過剰な言葉を返すことが、必要なのだろうか?たぶん、違う。返信はこうだ。「あなたは?」である。饒舌さそのもののあり方よりも寡黙さによって、饒舌さに勝る表現を返したことになりはしまいか?敢えて形容語を剥ぎとることによって、寡黙な饒舌さを獲得し得たのではなかろうか?トマス・ピンチョンは存在し得なくとも、彼らの間に吹きすさんでいた隙間風は止まるに違いない。今日の観想としたい。

推薦図書:「重力の虹」(Ⅰ)(Ⅱ)図書刊行会 トマス・ピンチョン著 トマス・ピンチョンの過剰な形容語に満ち溢れた饒舌な代表的小説をどうぞ。種田山頭火は、文庫本で楽しめます。 

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃


○ごちゃごちゃやっている方が国のありかたとしては、いいのだろう、と思う。

2010-07-13 00:22:05 | Weblog
○ごちゃごちゃやっている方が国のありかたとしては、いいのだろう、と思う。

 今回の参院選で、与党の民主党が敗北したことは、中国でもトップで報じられたそうな。アメリカも普天間基地問題がご心配の様子である。辺野古への基地移転に関するゴタゴタは、民主党の議員も含めて、日本の保守政党の、時代錯誤の、日米軍事同盟にしがみついている連中からすると、日本の海外に対する信用が失墜してしまうかのように、マスコミを巻き込んで連日報道される。どう控えめに見ても、おかしな現象だと僕は思う。
 共産国にもいろいろあるが、いずれにせよ、一旦一党独裁が成し遂げられてしまうと、自由な意見は封殺されてしまう。それは、人民の、あるいは、ネポティズムに毒された共産国?では、将軍様の利益を損なうという理由で、僕たちが知り得ないところでとんでもないことが起こっているのは、想像に難くない。また、日本の保守政府が大好きなアメリカ政府には、あるいは、ヨーロッパ諸国に対しては、日本における、今回のような出来事は、政治的混乱を意味し、日本の信用不安を招くことだと言う。それは、あたかも子どもが悪さをしたかのように、諸外国に対して、有識者?たちも、日本がいかにも未成熟な国であるかのようにのたまう、というかたちで現れる。が、果たしてそうなのだろうか?
 確かに、民主党政権においては、鳩山前首相の、政治家としての資質の悪しき点がモロに出た結果の混乱続きだった。しかし、鳩山前首相は負の遺産ばかりを残して、首相を辞任したのではない。彼は期せずして、僕たちに、特に沖縄県にアメリカ駐留軍をおしきせてきたことを深く国民に認識させた。無論、その認識のさせ方は、鳩山自身の政治家としての資質の欠如というかたちでなし遂げられたものでしかないが、そのことを必ずしも負の要素とは考えない方がよい。何故なら、鳩山の言動は、戦後ずっとアメリカ政府の言いなりになってきた保守政権がいかに堕落した存在であったのかを白日のもとに晒したし、僕たちを政治的に、ある意味成熟させたことでもあるのだから。今回の参院選の結果は、自民党に揺り戻しがあったかのように選挙結果からは感じられなくはないが、それは自民党に対する国民のコミットでは決してないだろう。現在、日本を経済的困窮に陥らせ、特に若者の未来に対する展望を封じ込めたのは、他ならぬ自民党の、堕落し切った政治のあり方だったからである。いっとき下野して、自民党がマシな政党になったなどという人がいるとするなら、それはあまりに幼稚な判断だろう。また、これまで自民党に票を入れ続けてきた日本の保守層の人々も、自民党が政策担当能力を有しているという、大いなる錯誤の上に立った支持だったことにそろそろ思い至ってもよい時期なのではなかろうか?
 参院選の民主党の敗北で、ねじれ国会になってしまったというが、政治とはある意味、ねじれた方がまっとうなのである。あれやこれやの意見が時間がかかっても、喧々諤々、論議されて、ある一定の妥協点を見いだせればよいのである。それが政治というものの、正しい姿ではないのだろうか。これを日本の政治的混乱などと見るのは、マスコミや諸外国の、利益優先の、政治的誘導のひとつの姿と解釈した方がよい、と僕は思う。いずれにしても、1994年を境として、村山富市という日本憲政史上最悪の総理大臣によって、日本から社会主義を標榜する有力な左翼政党は姿を消したのである。現在の社民党は力がない。護憲という意味では評価し得るが、福島党首の後を虎視眈々と狙っているのが、元極左主義者の辻本清美氏であってみれば、極左が極右に変転し得るという意味合いにおいて、信用できない。また左翼政党を標榜している日本共産党は、どこかの時点で、民主集中制を取っ払わなければ、党員のみんながまるで金太郎飴のままだ。民主集中制とは聞こえはいいかも知れないが、これこそ、一党独裁の恐怖政治の危険性を孕んでいる。とは言え、保守政党は、民主党もその他の小政党も含めて、もっと信用出来ない。彼らは国民の側に立ち切っていない。権力にすぐに擦り寄る。それが国内のそれであれ、アメリカをはじめとする諸外国のそれであれ、権力者たちの利益が優先される。それがグローバリズムだと錯誤しているのである。
 だから、いずれにしても、国会はねじれている方がよい。国債が800兆もあり、それをどうするのか、とか、福祉を充実させるためには、消費税を早急に上げる必要あり、などと世論操作をしている、保守党や、マスコミの論調には、少し距離をとって、政治家たちの政策がねじれた国会で、たどたどしく議論される方が、民主主義の理念にかなっている。急がないことである。何事においても。今日の観想とする。

推薦図書:直接税と間接税の比率も無視して、消費税率が日本ほど安い国はないだとか、総合的な日本の国民の資産状況を無視して、国債が800兆円を超える国は破産しているのも同然だとか、総理大臣ともあろう人が、日本はギリシャと同じように破産するなどと喧伝するのは、国民がバカだと思われているからでしょう。そのような侮蔑をはねのけるためには、私たちも読むべき書がたくさんあります。今回は、読むべき書を紹介した書の推薦です。「使える経済書100冊」-資本論からブラックスワンまで。池田信夫著。NHK生活人新書。

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○二大政党制というが、これまたアメリカのものまねではラチがアカンよ。

2010-07-09 11:16:10 | Weblog
○二大政党制というが、これまたアメリカのものまねではラチがアカンよ。
 二大政党制というなら、病んだアメリカの保守二大政党制などに学ぶことはないのである。むしろ、イギリスの保守党と労働党のあり方をより洗練させる必要性があるのではなかろうか。そもそも、日本には、保守と革新(曖昧な定義だが)の二大潮流がかつてはあった。しかし、自民党に対抗するべき社会党は、保守政党の連合政権の中に組み込まれ、巧妙に潰されたのである。当時はマスコミも社会党批判に明け暮れた。政策がないだの、空理空論しか出来ないだの、反対のための反対しか出来ないなどといった批判だったと記憶する。また、そのような風潮によって、社会党内の右派の若手の連中が、保守主義にすり寄った。このような情勢の中で、当時の自民党、新党さきがけ、社会党の連立政権が出来たのである。1994年の悪夢の出来事だった。当時の社会党党首の村山富市が首相指名を受けた。村山はそれがいったい何を意味するのかを深く考えもせずに、流れのままに首相になった。社会党党首が首相になるのは、1947年の片山内閣以来の、実に47年ぶりのことだった。多くの方が知り得ないことだが、村山は社会党内の左派だという認識をお持ちの方が多いと思う。当時のマスコミも村山の政治家デビュー当時のことばかり報道していたので、そのような錯覚を持たれたのも当然なのかも知れない。しかし、村山富市は、歴然たる社会党内の右派であった。彼は、右派勢力が主催する「政権構想研究会」、及び水曜会に所属する、社会主義からはかなりかけ離れたところにいた人物だったのである。
 1994年に村山富市が首相指名を受けて、その時の首相就任表明演説は、まさに保守党右派、タカ派たちが小躍りして喜んだ内実だった。長きに渡って社会党の党是としてきた、反安保・反米・国家、国旗反対という社会党の旗を全てドブに捨てた調本人が村山富市なのである。村山は、首相就任表明演説の中で、自衛隊合憲を声高に言い放ち、同時に日米安保条約堅持の確約さえした。自衛隊合憲といいながら、翌年の1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災において、村山は、情報を受けながらも、自衛隊派遣を渋った。その結果があの悲惨な被害者の数として現れた。村山の大罪とは、日本における保守・革新二大政党制という可能性を完全に潰したことだ。当然のことだが、その後社会党は雪崩を打ったように総崩れを起した。社会党は解体されざるを得ないところまで追い詰められた。社会党左派の流れを組む党として、いまは細々と社会民主党があるが、この党が、保守・革新の二大政党制度を担うだけの力はない。福島党首が鳩山内閣に入閣し、その理念ゆえに罷免されたのが、いまの社会民主党の実力である。1994年の村山富市の首相就任をひとつのターニングポイントとして、日本の労働市場に大きな変化が起きている。企業業績が悪化すれば、アメリカのように簡単に人を切り捨てるような国になった。派遣社員が当然のようにまかり通ることになった。国家財政が厳しくなると、景気浮揚策もロクに考えないで、すぐに消費税の引き上げが論議の対象になる。いまや、政治家、高級官僚のやりたい放題。それが、まじかに迫っている参議院選挙に投票しなければならない我々が置かれた状況である。自民党から離脱した人々によってつくられた新党もすべて保守。選挙を前に言っていることに微妙な差異はあるにせよ、本質は変わらない。民主党は惨敗するだろう。現在のマスコミの出口調査よりも結果ははるかに悪く出ると思われる。民主党も含めて、保守政権を創ってしまえば、国民生活はアメリカ並みに落ち込むことは目に見えている。
 社民党は、すでに福島党首の存在自体が危ない。共産党は金太郎飴だ。誰もが同じことを言うだけだ。それに軍事費を削減すると言っているが、防衛戦略に関してはなかなか公にしないが、彼らの主張は、ゲリラ戦だと言う。陸続きの国ならばともかく、日本の地勢でゲリラ戦を強いられたときは、もはや他国に占領されている中でしかないだろう。その後防衛戦略が変わっているかも知れないが、大した違いはないだろう。公明党は自民党にくっ付いてまで大臣の椅子を欲しがった。それになにより、政教分離も出来ていない政党は信用に値しない。迫りくる参院選は、国民にとって、出口なき選択を迫られる。蒸し暑い梅雨が、ますます息苦しくなる選挙選だ。どこに投票したところで、光は見えないのだろう。それにしても、善人顔の村山富市は、いまだ健在だ。人生なんて、どこまでいっても不公平に出来ている。今日の観想である。

推薦図書:「フリーフォール」ジョセフ・E・スティグリッツ著。徳間書店。ノーベル賞経済学者の説得力あるアメリカ論と言えます。日本が丁稚のようにアメリカのものまねをしたがりますが、その当のアメリカがいかに一部の富裕層のためだけの政治をしているかがよくわかります。その理由に関しても説得力がある書です。ぜひ選挙前にどうぞ。一般書として書かれていますから読みやすいのです。

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○本の読み方についての雑感

2010-07-07 16:52:43 | Weblog
○本の読み方についての雑感

世の中には、舌を巻くような読書家もたくさんいらっしゃる。僕などは、かなりの遅読家であり、自分の命尽き果てるまで読み続けたとしても、大した読書量にはならない。無論、そこいら辺の大学の文学の教師くらいならば、小難しい文学理論を持ち出さないのであれば、たぶん対等に、あるいは、優勢に議論出来るだけの自信はある。無論、どこかにそんな根拠があるのか?と問われれば、市井の人間であるから、実際にバトルをやらせてもらうしか、証明のしようがない。

ともかく僕の持ち味は、一つの文学作品におけるエッセンスを自分の言葉で、普遍化あるいは一般化出来ることである。文学の研究者も確かに普遍化や一般化の過程は踏むのだろうが、しかし、彼らの弱点は(というより、弱点に当たることをやらねば、飯のタネにありつけない大学なりの事情がある)、大づかみにした作品理解から、今度は表現の細部に渡る検証をやることが、文学研究ということになっているようだ。どこの大学の学部にも紀要というものがあり、それらの内実は、研究者にしか通用しない、どこかで文学とは無縁の、飯のタネを創らんがための切ないほどの営みの羅列である。大学という閉鎖空間でのし上がるには、ここを抜きにしては成り立たないわけだろうから、ご苦労さまなことである。

たぶん、本当に文学への傾注を自己の生き方の指標にするのならば、それが、自分の創作作品であれ、他者の文学作品の文芸評論であれ、専門家集団内だけの約束事である必要性などないはずである。ましてや、アカデミックな装いをつけやすい文学理論においても、理論自体が一般の読者に、文学作品を読むための理解を助けるものでなければ、存在理由がない、と僕には思われる。

さて、文学を生業とする人々はともかくとして、僕が本当に問題にしたいのは、本屋さんで立ち読みなりをして、ある作品を読もうとしている読者諸氏に対する意見書としての読書論である。本屋さんで本を買い、それを持ち帰って読む。単純なこのような行為を読書と倣い称している、読書家はたくさんいる。彼/彼女の書斎には、本が溢れていることも決してめずらしくはない。しかし、彼らの多くが、文学作品の享受者に過ぎないのである。享受者とは、文学作品を楽しみはするが、その楽しみ方とは、文学作品の様式理解としては、ひとつの作品に対してひとつの世界が広がっているが、まさに、それらをひと作品読みきりの、一回こっきりの読みものとしての認識しかないのが通常の姿である。それは、出来の悪いバラエティ番組が消費的に鑑賞され、すぐに忘却の彼方に追いやられることと通底している。ここにおいて文学作品は、消費社会における消費されては捨てられる猥雑物と化す。このような読みとしての消費主義をなしながらも、やはり本に対する執着の強い人もいて、本棚にはびっしりと本が並ぶことになるのである。本の読み方としては、これらの本は、本来ならば、台所で出る生ごみと同様に、ナイロン袋にでも入れて捨てられるべきものだ。

文学作品の読み方としてひとつの意見を書く。まず考え方の問題として、良質な文学作品とは、その中に登場する人物たちや、彼らによって紡ぎだされる世界は、確かに一回性のものである。また、それ以外の表現の仕方などあり得ないのが、文学作品という存在物だろう。僕が言いたいのは、物語としての一回性が、物語としての終焉とはなり得ず、年代、場所、登場人物たちの環境などが読者と遠くかけ離れていようと、作品の世界像の中から、人間が生きるためのエッセンス、あるいは、死するためのそれが、濃密に普遍化されたかたちで、抽出し得るもの、これが文学作品の普遍性といい、あるいは、一般化された作品というのである。これ以外の読み方をする読書家諸氏は、本の数は増えれども、いつまでもアマチュアとしての、ただの本好きである。無論、それが悪いとは言わないが、ずいぶんと勿体ない読み方をしているものだとは思う。こういう読み方をするくらいなら、僕ならお笑い系のバラエティ番組を観ていると思う。同じ垂れ流しであるなら、精根を傾けなで楽しめる方が、消費文化としては上質だと思うからである。さて、これが、文学愛好家諸氏にとっての某かの福音になればうれしいことである。傲慢さを敢えて吐露して筆を置く。

推薦図書:「ぼくとぼくらの夏」樋口有介著、文春文庫。サントリーミステリー大賞受賞作品です。が、この作品の妙味は、ミステリーを読み解くおもしろみではありません。形式はミステリーですが、人間の本質的な哀しみが切なく描かれています。樋口の文体は、実に豊かで、読む者をすぐに自分の世界に引き入れてしまうだけの力があります。また、読後感はすべての作品において爽やかです。少しの生の苦みをスパイスにして。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃

○やっぱりNHKはおかしいよ。

2010-07-03 11:47:30 | Weblog
○やっぱりNHKはおかしいよ。
 ごく最近のことだが、NHK受信料を支払わないという理由で、NHK側が、支払い拒否している一般庶民を5人訴えたというニュースが伝えられたのは記憶に留まっている。その圧力で、全員ではなかったと思うが、受信料を支払ったと聞く。おかしな話なのだ。NHKというところは、放送法によって、受信料を支払う義務が国民にはあると言って取り立てに来るが、その一方で、「受信契約は民法第533条の適用を受けるので、放送法を満たさない放送に関しては、「同時履行の抗弁権」により、受信者には受信料支払いを拒む権利が発生する(これを否定した判例はない)」という自分たちにとって、都合の悪いことは絶対に言わないのである。そもそも公益法人だから、法人税を納めなくてもよいわけで、自民党も小泉首相が郵政民営化路線の上で、民営化路線を突っ走ったのに、NHKは例外だったと見える。まあ、政府にとっては都合のよい報道機関だからだろう。
 昨今は、払えるのに、無茶な理由をつけて給食費などを支払わない家庭も増えていると聞くから、前記した5人も、この種のクレマーたちと同じ次元で断罪されたのだろうと思う。意図的なNHK側の悪意だろう。彼らは放送法上の正当な理由を訴えたはずなのに、権力的に屈服させられた格好だ。訴えるならば、「NHK受信料拒否の論理」本多勝一著:朝日文庫)を世に問うている本多勝一氏を訴訟の対象とすべきではないのか?本多氏を訴訟対象者にすると、飛んでもない裁判になることが見えているので、NHK側は絶対に本多氏を訴えることなどしないだろう。
 これまでの自民党政府もナーナーの政治をやっていたことは、民主党の事業仕分けで、無意味なダム建設がいかに多く進行中だったか、とか、役人の天下りのための公益法人の多さを知るにつけ、政治家や、政治家を繰っていた、高級官僚たちが、如何にこの日本という国をダメにしてきたのかが、よく分かる。民主党のマニフェストのいい加減さは、沖縄基地問題をはじめとして、今回の参院選を前にした、管首相の消費税との抱き合わせで、年間400万以下の所得者層に対して、税金の全額返還を検討中だと言い出した。現代の日本のサラリーマン家庭の最も多い所得層が、年収400万なのに。それじゃあ、いったい、消費税を10%に上げることにいったい、どんな意味があるというのだろうか。これでは、国民が消費税を引き上げることに対して、ノーと言ったとして、果たして、それを誰が責めることなどできようか?
 NHKの問題にもどる。相撲の名古屋場所は実施するらしい。さて、今回のヤクザ絡みの野球賭博に犯された力士たちの問題を抱えている相撲協会が公益法人を外されることもなく、一人の親方をスケープゴートにして事を納めようとしていることに加担しているのも、NHKだ。現在放送するかどうか検討中らしいが、これは単なるポーズであって、必ず名古屋場所は報道されることだろう。NHK自体が慣れ合い所帯だからに過ぎないからである。もの言わずに、これまで黙々と受信料を支払ってこられた人々は、ぜひともNHKが公にされては困る、それだけの理由で本多氏を訴訟の対象にしない書をぜひとも読んでください。もう、これ以上私たちに騙されている余力などありませんから。

推薦図書:「NHK受信料拒否の論理」本多勝一著。朝日文庫。朝日新聞社刊。私たちが、大きな権力に如何にして騙され続けてきたのか、という一端なりとも見えてくる書です。ぜひ、どうぞ。

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