ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○経済の沈滞期を打開する・経済を活性化する、という風潮が広がるときに考えておくべきこと。

2012-05-04 19:52:25 | 経済
○経済の沈滞期を打開する・経済を活性化する、という風潮が広がるときに考えておくべきこと。

この定義自体に違和感を感じはするが、敢えて便宜的に使うとして、日本が西欧諸国のような先進諸国の仲間入りをしたことの意味について、考えておくべきことがあると、いまだからこそ思うのである。出来るだけ簡潔に書き置く。

日本の近代化の歩みの思想的根拠は、西欧諸国がすでに帝国主義国家として、世界中に植民地という支配地をつくり、そこから一方的な富の搾取をし、搾取を土台にした経済的繁栄を我が物として憚らなかったことにある。開国以来の日本のお手本は、帝国主義的思想で富の独占を果たしてきた西欧諸国の発展?のあり方。遅れてきた帝国主義国家としての日本が、アジア・太平洋諸島を植民地化しようと真似たのも、その行為自体としては当然のことか、と思う。搾取され、弾圧される側の国、民衆のことを考えに入れない限りにおいては、である。

第二次大戦に至るまでの、そして、戦後の日本の復興に至るまでに、西欧諸国から受けた、数え切れないほどの不条理な問題のツケが、特に55年体制後の自民党政府の、アメリカさまさまの奴隷的服従の果てにまわってきたのだと考えればよい。自民党政権はダメだったのか?勿論である。そもそも日本に民主主義が字義どおりに根付いて来なかったことが、いまの不幸の根源だ。まっとうな政治家がいないとは思わないが、政治家の名に値しない人が、日本の政治を繰っているのも事実としてあるのではないか?いくら優れた分析をしたところで、予測不能なことが起こるのが、世界のありようだと考えれば、日本の政治家たちがまともにそれらに対処してきたとは決して思えない。それらの具体的な諸例を列挙するまでもないだろう。

ちょっと古いことを言えば、東側諸国がゴルバチョフの登場と、彼のペレストロイカの施策の実行によって、総崩れになって、それを資本主義の勝利だ、などと喧伝した低脳な西側諸国の政治家、御用学者たちが次に掲げたスローガンが、グローバリゼイション(globalization)。国境を越えた経済交流という幻想的な、現代的経済支配機構の再編である。さあ、またまた新たな富の独占支配が始まるというわけである。グローバリゼイションの変形としての、現在の日本の主な話題は、TPPへの参加を巡る議論。昨年の3・11以降、マスコミの表舞台からは影を潜めているけれど、これは進行が見えないだけで、その筋では着々と準備が進んでいると考えるべきだ。さて、僕らが考えるべきことは、そもそもグローバリゼイションという発想そのものが、新しいものなのか?ということ。グローバリゼイションなんて新しくもないし、経済思想的な斬新さもない。当然のことながら、既述した資本主義の一方的勝利なんていうのも愚昧なデマゴギーだ。

マルクスの思想は死んだ、と云うアホウもいるけれど、「共産党宣言」には、すでにグローバリゼイションの本質が、しっかりと書かれている。もっと正確に云うと、帝国主義的な資本の独占のありようを、深く洞察しているのである。「共産党宣言」からの引用。曰く、「自分の生産物の販路をたえず拡張する必要にうながされて、ブルジョワジーは全地球をかけまわる。彼らは、どこにでも腰をおとし、どこにでも住みつき、どこにでも結びつきをつくらねばならない。・・・昔の地方的、また国民的な自給自足や閉鎖に代わって、諸国民の全面的な交通、その普遍的依存関係が現れる。」凄いね、やはりマルクスという男は。スターリニズムの独善的な恐怖政治とマルクスの思想をごっちゃにさせているのが、新自由主義者という詐欺師たちだから、まあ、ここは冷静に現代の不況を近視眼的に視ない努力が必要だ。だって、いまの不況の乗り切り方を語る輩たちは、たとえて云うと、病んで、病因を除去しなければならない人間が、死を目前にしながら、もはや不必要な銭金にこだわっているかのような醜悪さがある。まあ、こういう精神性しか持ち合わせていない人間が多いから、この世界は生きづらいとも云えるが、マルクスの唱えた共産主義的な共同体意識を、ある程度は取り戻さないと未来に光は視えないだろうね。弱い者が切り捨てられることが経済効率を上げるというような浅薄な知恵では、未来を担っていく若き人が生きる夢を持てないから。マルクスに抵抗があるなら、マイケル・サンデルあたりから、公共哲学を学んでもよいのかも、と思う。ともあれ、現代は決して歴史の袋小路に追い込まれてはいない、と考え直すことが必要だ。僕はそう思っている。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃 

 

○おとなが幼稚化している可能性はないのだろうか?

2011-09-28 11:44:08 | 経済
○おとなが幼稚化している可能性はないのだろうか?

カウンセラーという仕事は、互いの信用があってはじめて成り立つものだ。僕のところのカウンセリングの予約は、HP上から電話予約というかたちでなされる。その際、こちらは、相手の携帯の電話番号を聞くにとどめる。その意味は、HP上の地図で迷った場合に、こちらから電話をして、案内するためのものだ。住所などは聞かない。無論、カウンセリング料は後払いである。しかし、この世の中、こんな類の仕事をしているところは殆どないだろう。たとえば、ネットで何かを注文するとする。昨今は殆どがクレジットカード決済。住所、電話番号、メルアド等々を書かなければ、当然のことながら、注文が確定しない。これは、当然のことのようだが、売り手にとっては、確実な情報を持ったうえでの取り引きなのである。さらに、クレジットカード決済であれば、先払いで料金が受け取れる。カード破綻している客であれば、当然売り手の方が取り引きを受け付けない。信用が根底にあるというのは、果たして、このような条件が整ってはじめて成立する仕事上の約束ごとである。

その意味では、僕のところのやり方は、一方的な、相手方を信じ切ることで成立している仕事の形態である。基本的にこれでよい、と思っている。が、ときおり、予約をしていながら、当日になっても何の連絡も寄こさずに来ない人がいる。いまもそうだった。こういう人に限って、予約日時については、自己都合ばかりを言うのである。それに無理に合わす。そうして、待ちぼうけと云うハメになることになれば、こちらとしては、相手の人格を疑わざるを得ないことになる。精神の病が深い本人の場合は、致し方なしと思うことにしているが、案外多いのは、本人からの予約ではなく、両親のいずれかからの電話での予約なのである。こういう非常識な人間を親に持つと、理不尽なことが幼い頃から起こっているのは想像に難くない。精神疾患の殆どは成育歴の中にその原因があるから、親自身に責任の大半があるのは必然とも云えるが、この種の人間にかぎって、露ほどにも自省の念がない。自省なき人格は、平気で約束を反故にするし、罪の意識すら感じることはない。当然のことだが、子どもは生まれ落ちる環境を選べない。だからこそ、この種の親のもとに生まれおちてしまったら、運が悪いというしかない。日常生活はなんとか送れていても(しかし、この種の親たちは、他者に迷惑をかけていることが多いだろうし、本人だけがそのことに無自覚なのだろう)、隠れ性格破綻者であるゆえに、自分の子どもをダメにし、結局は自分自身が不幸に陥るというハメになるのは目に見えている。断罪しているのではなく、経験論的に言えることなのである。ともかくいろいろな意味を込めて、困った人々なのである。特にオトナがオトナの精神を持ち得ていないというのは、まわりの人々、僕などは、一度きりの迷惑で済むはなしだが、家族、とくにその子どもに与える影響は甚大だ。

こういうことを書いた上で、思い起こせば、世の中の信用とは、その裏付けがあってこその信用なんだな、と思う。たとえば、学校へ子どもを入学させるとき、学費及び諸経費、さらにその前段階の受験料などは、すべて前払いだ。子どもがつまづいて、退学の憂き目にあっても、すでに支払った学費はかえっては来ない。塾や予備校や専門学校はどうだ?同じことだろう。ましてや、あらゆる商取引における信用とは、金銭の前払い、あるいは、それをきっちりと保障するシステムの中で成立している概念だろう。銀行のローン、さらに下って消費者金融等々も信用調査があり、担保主義の思想が根底にあっての商売ではないか。消費者金融の信用調査があたかも簡便であるかのように喧伝されているが、あれも銀行よりはマシにしろ、意外に厳しい審査基準があり、その上で貸し付ける額面は限定されたもので、さらに金利はバカ高いのである。

まあ、これだけのことをしなければ、世の中の経済の仕組みが成立しないし、また、人間社会の様々な決まり事も成立不能に陥るのである。近代社会がはじまって以来の金融の決まりごとだが、それは、人の信用度は、よほど親しくならない限り、あるいは、利害関係を抜きにしない限り、ある程度はマネー・ベースで図られるということは胸に刻んでおく必要があるだろう。

さて、ここまで書いて、思い出した。高額のカウンセリング料金を前払いさせるところもあるのだ。学校などと比較するとカウンセリングというものが、世の中の認知度において日本は低いにしても、こういうやり方も決して認められないことではない。

さあ、僕はどうするか?京都カウンセリングルーム・アラカルト京都カウンセリングルームの運営に関して、大幅な変更をするのか?しないね。これでいいと思う。幼稚化した予約者が、何の断りもなく無視したところで、それもまあ、この世の中の病巣の一つの現れと諒解して、今後も仕事を続けるしかなかろうね。誤解なく。私のところに来てくださる殆どの方々は、きちんとした方々である。たま~に、幼稚なおバカさんがいるということで。それでも、僕の方針は変えないということです。ちょっとグチッたね。すんません、みなさん。

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長野安晃

○日本の労働市場のあり方は間違っているね。

2011-09-20 13:37:47 | 経済
○日本の労働市場のあり方は間違っているね。

自殺大国日本の原因の多くを、精神疾患という結果論的な事象の責任に帰しているわけで、これは多分にこのような原因をつくった側の言い逃れである。無論、その責任は日本の経済のあり方をつくってきた企業と、企業の要請、僕たちがよく耳にするのは、法人税に対する特別待遇等々を、自民党政権が底支えしてきたことにある。しかし、このような経済政策の長い、長い歴史が、働く人々の意識そのものを、柔軟さという素因から限りなく離してきたのも動かせない事実。経済が右上がりに成長し、終身雇用制度も年功序列制度もあり、企業が労働者を定年退職まで丸抱え出来た時代はそれでもよかったのかも知れない。しかし、いよいよ世界同時不況の波に呑み込まれて、日本も身動きならない状況のもとで、ちょっとした企業の業績のブレで簡単に解雇される時代を迎えることになった。もともとアメリカ政府がよろしくない。金融市場主義とか、金融工学などというお題目を唱えて、世界経済に大いなる悪しき影響を及ぼしたからだ。アメリカは、21世紀に突入する少し前から、実業というものの大切さを殆ど忘れた国である。金融市場主義の思想は、金融工学という、要するにマネーゲームという、実体のまるでない経済の論理の構築にひた走った。国がらみで、金を動かしてその利ザヤで儲けるなんてことをやったら、その国の労働市場は実質的に崩壊するのは必然なのである。世界がアメリカの金融資本主義に巻き込まれた。その結果がいまの不況の元凶だと僕は思っている。実業の大切さを思い出したのか、アメリカはTPPなどと言い出して、日本政府もそれに巻き込まれようとしている。TPP反対至上主義者でないにしても、こういう動きには注意を傾けておく必要がある。みなさんも、TPPを大新聞のいい加減な解説だけを鵜呑みにして理解するのではなく、何冊も出ている新書くらいには目を通しておく必要ありか、と思う。日本の行く末がかかっている大問題だからである。

さて、日本の労働市場は間違っている、と書き始めたのだから、どこがおかしいのかを書かなければならないだろう。この問題に関しては、これからも書き続けていくつもりなので、今日はその根源的な問題について書く。社会経済的な話題にはとりわけ、時代背景によって、かつての良きものが、後年、悪しき原因になったりする。日本においては、職業のキャリアの意義を殆ど評価されないことが、限りなく働く者の自信を奪っている。キャリアの意義よりは、年齢的要素の方が重要視されるのが、日本の労働市場のあり方だからである。キャリアを積んだ経験者よりも、未経験の若さが評価される。若き人々はそれでよいではないか、と云うかも知れないが、こういうキャリア無視に近い評価は、いずれ自分の身にも降りかかってくるのである。ここは広い視野でものを視る必要があるのではなかろうか。経験知が無視される社会で、不況だからと云って、簡単にリストラされたら、その先はどうなる?リストラの憂き目に遭った人はお先真っ暗になる。自殺大国日本の多くの自殺者は、中高年のそれであり、この殺伐とした社会に未来を見出せず、昨今は若き人の自殺者が増えている。悪循環も甚だしき限りだ。

年功序列制度も終身雇用制度も、日本的大家族主義的会社組織の生み出したものだが、それならば、不況の中にあっても、それを貫き通さねばならないだろう。そのために<大きな政府>になろうと構わないのである。誤解なく。僕は単純にケインズ経済理論を復活させようなんて気持ちはさらさらない。<大きな政府>になってもよい、と云う意味は、年功序列制度や終身雇用制度を維持出来ないのであれば、せめて考え方として、労働者の職場異動を社会的価値観として、認知する必要がある。キャリアの大切さを再認識する必要があると言いたいのである。日本社会は、たとえ幸運にも転職できたにしても、転職する度に、待遇が悪くなるというのは、キャリアの意義を認識出来ない社会だからである。いっとき、アメリカの真似ごとのように、ヘッドハンティングが流行ったことがあったが、それすらも、実質的なリストラの言い訳に使われていたのが、この日本という国のバカさ加減である。これでは、まじめに働いている労働者はたまったものではないわけで、そろそろ、独立起業の可能性を考えた方がよい。長年、使われている感覚は、自立・独立する勇気や意思を萎えさせてしまうようで、こういう思想の変革さえ出来れば、世の中あまり怖いものはなくなってくる。経験上、そう言える。さあ、みなさん、多いに自己の可能性を広げようではありませんか。不況だから、そうする必要があるのです。自己閉塞してしまうような心的状況に陥ってはいけません。死にゆく人になってはいけません。

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