○経済の沈滞期を打開する・経済を活性化する、という風潮が広がるときに考えておくべきこと。
この定義自体に違和感を感じはするが、敢えて便宜的に使うとして、日本が西欧諸国のような先進諸国の仲間入りをしたことの意味について、考えておくべきことがあると、いまだからこそ思うのである。出来るだけ簡潔に書き置く。
日本の近代化の歩みの思想的根拠は、西欧諸国がすでに帝国主義国家として、世界中に植民地という支配地をつくり、そこから一方的な富の搾取をし、搾取を土台にした経済的繁栄を我が物として憚らなかったことにある。開国以来の日本のお手本は、帝国主義的思想で富の独占を果たしてきた西欧諸国の発展?のあり方。遅れてきた帝国主義国家としての日本が、アジア・太平洋諸島を植民地化しようと真似たのも、その行為自体としては当然のことか、と思う。搾取され、弾圧される側の国、民衆のことを考えに入れない限りにおいては、である。
第二次大戦に至るまでの、そして、戦後の日本の復興に至るまでに、西欧諸国から受けた、数え切れないほどの不条理な問題のツケが、特に55年体制後の自民党政府の、アメリカさまさまの奴隷的服従の果てにまわってきたのだと考えればよい。自民党政権はダメだったのか?勿論である。そもそも日本に民主主義が字義どおりに根付いて来なかったことが、いまの不幸の根源だ。まっとうな政治家がいないとは思わないが、政治家の名に値しない人が、日本の政治を繰っているのも事実としてあるのではないか?いくら優れた分析をしたところで、予測不能なことが起こるのが、世界のありようだと考えれば、日本の政治家たちがまともにそれらに対処してきたとは決して思えない。それらの具体的な諸例を列挙するまでもないだろう。
ちょっと古いことを言えば、東側諸国がゴルバチョフの登場と、彼のペレストロイカの施策の実行によって、総崩れになって、それを資本主義の勝利だ、などと喧伝した低脳な西側諸国の政治家、御用学者たちが次に掲げたスローガンが、グローバリゼイション(globalization)。国境を越えた経済交流という幻想的な、現代的経済支配機構の再編である。さあ、またまた新たな富の独占支配が始まるというわけである。グローバリゼイションの変形としての、現在の日本の主な話題は、TPPへの参加を巡る議論。昨年の3・11以降、マスコミの表舞台からは影を潜めているけれど、これは進行が見えないだけで、その筋では着々と準備が進んでいると考えるべきだ。さて、僕らが考えるべきことは、そもそもグローバリゼイションという発想そのものが、新しいものなのか?ということ。グローバリゼイションなんて新しくもないし、経済思想的な斬新さもない。当然のことながら、既述した資本主義の一方的勝利なんていうのも愚昧なデマゴギーだ。
マルクスの思想は死んだ、と云うアホウもいるけれど、「共産党宣言」には、すでにグローバリゼイションの本質が、しっかりと書かれている。もっと正確に云うと、帝国主義的な資本の独占のありようを、深く洞察しているのである。「共産党宣言」からの引用。曰く、「自分の生産物の販路をたえず拡張する必要にうながされて、ブルジョワジーは全地球をかけまわる。彼らは、どこにでも腰をおとし、どこにでも住みつき、どこにでも結びつきをつくらねばならない。・・・昔の地方的、また国民的な自給自足や閉鎖に代わって、諸国民の全面的な交通、その普遍的依存関係が現れる。」凄いね、やはりマルクスという男は。スターリニズムの独善的な恐怖政治とマルクスの思想をごっちゃにさせているのが、新自由主義者という詐欺師たちだから、まあ、ここは冷静に現代の不況を近視眼的に視ない努力が必要だ。だって、いまの不況の乗り切り方を語る輩たちは、たとえて云うと、病んで、病因を除去しなければならない人間が、死を目前にしながら、もはや不必要な銭金にこだわっているかのような醜悪さがある。まあ、こういう精神性しか持ち合わせていない人間が多いから、この世界は生きづらいとも云えるが、マルクスの唱えた共産主義的な共同体意識を、ある程度は取り戻さないと未来に光は視えないだろうね。弱い者が切り捨てられることが経済効率を上げるというような浅薄な知恵では、未来を担っていく若き人が生きる夢を持てないから。マルクスに抵抗があるなら、マイケル・サンデルあたりから、公共哲学を学んでもよいのかも、と思う。ともあれ、現代は決して歴史の袋小路に追い込まれてはいない、と考え直すことが必要だ。僕はそう思っている。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
この定義自体に違和感を感じはするが、敢えて便宜的に使うとして、日本が西欧諸国のような先進諸国の仲間入りをしたことの意味について、考えておくべきことがあると、いまだからこそ思うのである。出来るだけ簡潔に書き置く。
日本の近代化の歩みの思想的根拠は、西欧諸国がすでに帝国主義国家として、世界中に植民地という支配地をつくり、そこから一方的な富の搾取をし、搾取を土台にした経済的繁栄を我が物として憚らなかったことにある。開国以来の日本のお手本は、帝国主義的思想で富の独占を果たしてきた西欧諸国の発展?のあり方。遅れてきた帝国主義国家としての日本が、アジア・太平洋諸島を植民地化しようと真似たのも、その行為自体としては当然のことか、と思う。搾取され、弾圧される側の国、民衆のことを考えに入れない限りにおいては、である。
第二次大戦に至るまでの、そして、戦後の日本の復興に至るまでに、西欧諸国から受けた、数え切れないほどの不条理な問題のツケが、特に55年体制後の自民党政府の、アメリカさまさまの奴隷的服従の果てにまわってきたのだと考えればよい。自民党政権はダメだったのか?勿論である。そもそも日本に民主主義が字義どおりに根付いて来なかったことが、いまの不幸の根源だ。まっとうな政治家がいないとは思わないが、政治家の名に値しない人が、日本の政治を繰っているのも事実としてあるのではないか?いくら優れた分析をしたところで、予測不能なことが起こるのが、世界のありようだと考えれば、日本の政治家たちがまともにそれらに対処してきたとは決して思えない。それらの具体的な諸例を列挙するまでもないだろう。
ちょっと古いことを言えば、東側諸国がゴルバチョフの登場と、彼のペレストロイカの施策の実行によって、総崩れになって、それを資本主義の勝利だ、などと喧伝した低脳な西側諸国の政治家、御用学者たちが次に掲げたスローガンが、グローバリゼイション(globalization)。国境を越えた経済交流という幻想的な、現代的経済支配機構の再編である。さあ、またまた新たな富の独占支配が始まるというわけである。グローバリゼイションの変形としての、現在の日本の主な話題は、TPPへの参加を巡る議論。昨年の3・11以降、マスコミの表舞台からは影を潜めているけれど、これは進行が見えないだけで、その筋では着々と準備が進んでいると考えるべきだ。さて、僕らが考えるべきことは、そもそもグローバリゼイションという発想そのものが、新しいものなのか?ということ。グローバリゼイションなんて新しくもないし、経済思想的な斬新さもない。当然のことながら、既述した資本主義の一方的勝利なんていうのも愚昧なデマゴギーだ。
マルクスの思想は死んだ、と云うアホウもいるけれど、「共産党宣言」には、すでにグローバリゼイションの本質が、しっかりと書かれている。もっと正確に云うと、帝国主義的な資本の独占のありようを、深く洞察しているのである。「共産党宣言」からの引用。曰く、「自分の生産物の販路をたえず拡張する必要にうながされて、ブルジョワジーは全地球をかけまわる。彼らは、どこにでも腰をおとし、どこにでも住みつき、どこにでも結びつきをつくらねばならない。・・・昔の地方的、また国民的な自給自足や閉鎖に代わって、諸国民の全面的な交通、その普遍的依存関係が現れる。」凄いね、やはりマルクスという男は。スターリニズムの独善的な恐怖政治とマルクスの思想をごっちゃにさせているのが、新自由主義者という詐欺師たちだから、まあ、ここは冷静に現代の不況を近視眼的に視ない努力が必要だ。だって、いまの不況の乗り切り方を語る輩たちは、たとえて云うと、病んで、病因を除去しなければならない人間が、死を目前にしながら、もはや不必要な銭金にこだわっているかのような醜悪さがある。まあ、こういう精神性しか持ち合わせていない人間が多いから、この世界は生きづらいとも云えるが、マルクスの唱えた共産主義的な共同体意識を、ある程度は取り戻さないと未来に光は視えないだろうね。弱い者が切り捨てられることが経済効率を上げるというような浅薄な知恵では、未来を担っていく若き人が生きる夢を持てないから。マルクスに抵抗があるなら、マイケル・サンデルあたりから、公共哲学を学んでもよいのかも、と思う。ともあれ、現代は決して歴史の袋小路に追い込まれてはいない、と考え直すことが必要だ。僕はそう思っている。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃